吉良頼康

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吉良頼康
Kira Yoriyasu.jpg
伝・吉良頼康像(九品仏浄真寺蔵)[注釈 1]
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 永禄4年12月5日1562年1月10日[1]
改名 頼貞(初名)→頼康
別名 蒔田殿、世田谷殿
戒名 勝光院脱山浄森大居士[1][2]
墓所 勝国寺[1]
官位 従四位下左衛門佐
主君 北条氏綱氏康
氏族 吉良氏
父母 父:吉良成高[1][注釈 2]
正室:北条氏綱娘
側室:大平出羽守娘・常盤、他
三子有り
養子:氏朝(堀越貞朝)堀越貞基次男)
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吉良 頼康(きら よりやす)は、戦国時代武将

生涯[編集]

武蔵吉良氏吉良成高の子として誕生した。当初は頼貞と名乗った。

武蔵国世田谷城[注釈 3]や同国久良岐郡蒔田城[注釈 4]に居を構えたことから、「世田谷御所」「蒔田御前」などと呼ばれた。

大永4年(1524年)正月に相模国北条氏綱上杉朝興江戸城を攻略すると、後北条氏に従った[3]天文2年(1533年)には氏綱による鶴岡八幡宮造営に参加し、材木を蒔田から海路で杉田へ送り、そこから延べ5万人の人足で八幡宮まで運んだ記録が残っている[注釈 5]。また、氏綱の娘を正室に迎えており、『快元僧都記』に天文8年6月7日1539年6月23日)に安産祈願を行った記録が残っていることから、この頃には既に婚姻をしていたと思われる。

天文15年(1541年)11月に従四位下左衛門佐に叙位・任官された[4]。天文17年(1548年)に北条氏康より一字拝領し、頼康に改名している。実子はいたようだが、永禄3年(1560年)12月に堀越氏から氏朝を養子に迎え、翌年2月には家督を継がせている。

永禄4年12月5日(1562年1月10日)に死去し、蒔田の勝国寺に葬られた[1]

北条氏との関係[編集]

頼康は北条氏に従ってはいたものの、足利将軍家御一家であり家格が高かったため、家臣ではなく食客として扱われた。北条氏からは諸役を免除され、吉良家独自の印判を用いることが認められていたこと、また氏康からの一字拝領も偏諱ではなく、下の一字が与えられていることからも、特別な待遇を与えられていたことがわかる[5]

ただし、北条氏の家格向上、勢力拡大に伴い、次第に状況が変わってくる。弘治年間頃より、北条氏康が直接吉良家の家臣に命令を下す事例が見られるようになり、次第に吉良家家臣団の解体が進む。さらに頼康の跡を次いだ氏朝の代には吉良家自体も北条家の家臣として取り込まれ、軍役などに応じるようになっていった[5]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ ただし、この肖像は頼康像ではなく、実は武田信玄像ではないかとする説が近年唱えられている(武田信玄#肖像画を参照)。
  2. ^ 成高を祖父とする説もある。
  3. ^ 現・東京都世田谷区
  4. ^ 現・神奈川県横浜市南区
  5. ^ 現在、蒔田は海岸線から2kmほど離れているが、当時は海に面しており直接船を出せた[3]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e 『新編武蔵風土記稿』久良岐郡蒔田村古跡館蹟の項.
  2. ^ 本稿のうち、特に注記の無い記載については、黒田(2007),53-54Pによる
  3. ^ a b 下山治久 2012, p. 107.
  4. ^ 下山治久 2012, p. 108.
  5. ^ a b 下山治久 2012, pp. 105-116.

参考文献[編集]

  • 「巻ノ79 久良岐郡ノ7 蒔田村」『大日本地誌大系』第8巻 新編武蔵風土記稿4、蘆田伊人編、雄山閣、1929年8月、105-106頁。NDLJP:1214848/59
  • 黒田基樹『北条早雲とその一族』新人物往来社、2007年。ISBN 9784404034588
  • 下山治久『横浜の戦国武士たち』有隣堂、2012年。ISBN 9784896602128