長尾顕長
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 弘治2年(1556年) |
死没 | 元和7年2月8日(1621年3月30日) |
改名 | 熊寿丸、顕長、憲長 |
別名 | 新五郎 |
戒名 | 徳聖院殿関英宗鉄大居士 |
官位 | 但馬守 |
主君 | 滝川一益、後北条氏、佐竹義宣 |
氏族 | 由良氏、長尾氏 |
父母 |
由良成繁、妙印尼 長尾当長 |
兄弟 |
由良国繁、渡瀬繁詮、顕長、 成田氏長正室、黒田直之室 |
妻 | 長尾当長娘 |
子 | 宣景、宣長 |
長尾 顕長(ながお あきなが)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。足利長尾氏当主。
幼名は熊寿丸[1]。通称は新五郎[2]。官職は但馬守[2]。晩年、祖父・長尾憲長と同じ憲長を称したと推測されている[3]。
生涯
[編集]永禄12年(1569年)7月、長尾当長が死去した後、その娘を娶り、長尾氏の家督を継いだ[1]。
天正10年(1582年)に長兄・由良国繁と共に織田信長の重臣・滝川一益に仕えた。同年、本能寺の変で信長が死去した後、滝川勢を追った北条氏が厩橋城に入る[4]。国繁と顕長が同城に招かれた際、佐竹氏攻撃のため、新田・館林両城の借り上げを強要され、両者は幽閉された[4]。北条方の攻撃により、天正12年(1584年)1月、両城は降伏した[4]。以後、後北条氏に従属した。館林城は北条方に没収され、顕長は足利に退去した[4]。
天正13年(1585年)、隣国の佐野氏当主佐野宗綱と抗争し、これを討ち取った。
天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原征伐では小田原城に籠もって戦ったため、北条氏滅亡後に所領を召し上げられた。顕長は、兄・国繁、母とともに常陸国牛久で5000石を与えられた[5]。
元和7年(1621年)2月8日、死去[6]。法名は徳聖院殿関英宗鉄大居士[2][6]。
嫡子・宣景は後に土井利勝に仕えて1200石を知行した[5]。
一字書出
[編集]関連項目
[編集]- 本作長義 - 長尾顕長が後北条家に臣従した際に贈られた備前長船派長義作の日本刀。同刀工の傑作として知られる。伝来経緯を記す62字に及ぶ長文の追刻銘(堀川国広による)がある。重要文化財。
- 山姥切国広 - 長尾顕長が刀匠・堀川国広に命じて作らせた本作長義の写し。本歌と写しが共に重要文化財[9]に指定されている唯一の事例となっている。
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ a b 近代足利市史 第一巻 1977, p. 300.
- ^ a b c 近代足利市史 第一巻 1977, p. 282.
- ^ 近代足利市史 第一巻 1977, p. 330.
- ^ a b c d 近代足利市史 第一巻 1977, p. 301.
- ^ a b 近代足利市史 第一巻 1977, p. 328.
- ^ a b 近代足利市史 第一巻 1977, p. 293.
- ^ a b c 近代足利市史 第一巻 1977, pp. 325–327.
- ^ 近代足利市史 第一巻 1977, p. 327.
- ^ “長尾家の宝刀「小豆長光」今どこに? 足利の長林寺に写真”. 産経新聞. (2017年3月14日) 2018年4月4日閲覧。