那須資晴
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| 時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
|---|---|
| 生誕 | 弘治3年(1557年) |
| 死没 | 慶長15年6月19日(1610年8月7日)[1] |
| 別名 | 太郎・弥太郎[2] |
| 戒名 | 有携院殿休山慶罷大禅定門[3] |
| 墓所 | 栃木県大田原市玄性寺 |
| 官位 | 従五位下・大膳大夫、修理大夫[2] |
| 氏族 | 那須氏 |
| 父母 | 父:那須資胤、母:蘆野資豊娘[2] |
| 兄弟 | 資晴、牧野顕高、正洞院(佐竹義宣正室) |
| 妻 | 正室:陽月貞春大姉[3](結城晴朝娘[2]) |
| 子 | 資景 |
那須 資晴(なす すけはる)は、下野国の戦国大名。那須氏21代当主。
生涯[編集]
弘治3年(1557年)、那須氏20代当主・那須資胤の子として誕生。天正6年(1578年)、小川台の戦いで父と共に出陣。天正11年(1583年)、父・資胤が死去。その直後、常陸国の佐竹義重が宇都宮国綱と共に攻め寄せるも撃退した[4]。
天正13年(1585年)には、塩谷義綱攻撃のため薄葉原に進出し、宇都宮氏・塩谷氏の軍を破っている。同年暮れには大関高増による千本資俊暗殺計画を了承して千本氏の勢力を解体した。その後、資晴は佐竹氏や結城氏、宇都宮氏と敵対しながらも後北条氏や伊達政宗などと手を結び、常に那須軍は寡兵ながらも奮戦した。豊臣秀吉の勢力が東に伸びてくると、これに敵対姿勢を見せる。
その結果、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかったため、改易となったが、重臣・大田原晴清の陳謝により、資晴の子・資景に5,000石の所領が与えられ[5]、家名存続は許された。一説には奥州における一揆勢力と那須氏再興の動きが連携することを恐れたからだとも言われている。
その後、秀吉より罪を許され、資晴自身にも5,000石が与えられて、文禄の役においても名護屋城を守備している。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは子・資景が東軍に属して加増を受けた。慶長7年(1602年)には資晴も徳川家康の御伽衆に抜粋され1,000石を加増されて、その所領は6,000石となった。慶長15年(1610年)、死去。
なお、子の資景は、資晴の遺領も合わせて石高が1万4,000石に達し、那須藩を立藩、養子・資弥の代に資晴の悲願であったと言われている旧領烏山城に復帰している。
脚注[編集]
出典[編集]
- 『寛政重修諸家譜』(七百三十五)
- 『那須譜見聞録』(三 所収 『那須系図』)
- 『那須記』(十一 烏山川原合戦事)
- 『那須家譜』