京都新城

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京都新城
京都府
別名 太閤御屋敷、太閤御所、太閤上京屋敷
新城、秀頼卿御城、京の城
北政所屋敷、高台院屋敷、三本木屋敷
城郭構造 平城
築城主 豊臣秀吉
築城年 慶長2年(1597年
主な改修者 京都町衆、北政所
主な城主 豊臣秀吉、豊臣秀頼、北政所、木下利房
廃城年 寛永4年(1627年
遺構 なし

京都新城(きょうとしんじょう)は、太閤豊臣秀吉関白豊臣秀次聚楽第を破却した後、豊臣関白家の正式な邸宅として京都御所(禁裏)東南に構えた豊臣秀頼のための城郭風邸宅である。ただしその後は豊臣家から関白に任命された者はなく、秀頼が短期間利用した後は、秀吉の正室である高台院(北政所)が隠居屋敷として用いたのみであった。

なお、「京都新城」は現代になってからの呼称であり、当初は太閤御屋敷[1]太閤御所[2]太閤上京屋敷[3]などと呼ばれており、やがて新城秀頼卿御城京の城と呼ばれた[4]。しかしかつての「聚楽(第)」のような名はこの新第には与えられなかった。

歴史[編集]

慶長2年(1597年)正月末から関東の諸大名を動員して、下京東部地域(現在の中京区内)に新しい城の普請が始められた。しかし4月には禁裏東南の地(現在の京都御苑南東部を含む広い区域[5])に場所を変更されている[4]

「秀頼の城」がどのよう構想されていたか不明な点も多いが、京都新城の規模からみて、また禁裏に接する地点に移されたことなどから、何なる宿館以上の意味が想定されていたかもしれない[6]江戸時代中期に森幸安が考証復元した地図「中むかし公家町之絵図」に描かれるところでは「たいこう」と書かれ[7]、この地は、遡れば平安時代、かの御堂関白藤原道長土御門第を構えた場所と考えられており、聚楽第をかつての大内裏跡に設けたように、秀吉が御堂関白に憧れてこの地を選んだという見方もある。

普請は5ヶ月ほどで完成し、9月には秀吉と秀頼が移徒わたまし。9月27日、秀頼はここから参内して元服し、初めて従四位下左近衛少将に叙任されている[4]。新城は秀頼が居住し、秀吉は完成した屋敷を数度訪れたが、いずれも滞在は短期であった。翌年8月18日に秀吉が木幡山伏見城で亡くなると、秀頼は家督を継いで、秀吉の遺命により大坂城に移った。

慶長4年(1599年)9月、大坂城西の丸を徳川家康の渡す準備として、北政所が大坂から新城に移居したので、以後、高台院屋敷と呼ばれた。

慶長5年(1600年)8月29日、関ヶ原の戦いを前に、「禁裏近所の故」つまり戦闘に新城が利用されるのを避ける目的で、城の防御施設が町人足役を動員して撤去された[2][8]。この時、南面御門、内堀、南城ノ堀・石垣などが取り除かれたが、当時の縄張り図はもちろん、発掘によっても関連遺構が一切発見されていないから、全体の構造の推測は困難である。城郭としては未完成だったと思われる[6]

関ヶ原戦以後、引き続き高台院が用いた[9][10]。この頃、敷地はさらに縮小されたと考えられ、『続本朝通鑑』には「初秀吉之館在京極朱雀、神君毀之、而移造二條城」とあり、慶長7年(1602年)に一部が取り壊されて二条城に運ばれたことを伺わせる。高台院屋敷の規模は、高台院没後すぐ頃に作成されたと考えられる『京都地図屏風』に、「政所様」「木下宮内」の記入があることにより分かる。この他、徳川和子の入内を描いた洛中洛外図には、高台院屋敷と推察される屋敷の一部が描かれている。

寛永元年(1623年)、高台院が没すると、屋敷には甥の木下利房が住んだ。寛永4年に後水尾天皇が譲位の意向を示すと、仙洞御所の敷地に選ばれて解体され、幕府が御所の建設を開始した。屋敷跡は仙洞御所の建設により完全に失われて全く残らないが、当時の文書により「寝殿」「南ノ書院」「白藤棚ノ西ノ殿」「北殿」があったことが分かり、また敷地東部には現在の仙洞御所の池の前身と思われる「アコセガ池」を中心に大きな庭園があったと推定されている。当時の常として御所建設に先立ち撤去された建物は市内の寺院や公家屋敷に移されたと思われるが、記録、伝承、地誌などには一切の記事が見られない。ただ、西本願寺飛雲閣黄鶴台から「寛永五年三月から寛永六年八月迄‥」という墨書が発見されたことから、これを飛雲閣移築の時期と考え、撤去時期が重なる高台院屋敷すなわち秀吉の京都新城の遺構だとする説が最近提出された[11]。これによって西本願寺に遺された複数の文献に現れる「飛雲閣は秀吉の遺構」あるいは「飛雲閣は徳川家の寄進」という記述に初めて一致したとする。また同じ西本願寺の国宝「唐門」や醍醐三宝院の国宝「唐門」ももともとは京都新城のために製作されたものではないかとする。

脚注[編集]

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  1. ^ 『舜旧記』『言経卿記』
  2. ^ a b 『義演准后日記』
  3. ^ a b 『言経卿記』。
  4. ^ a b c 横田 1993, p. 250.
  5. ^ 「北土御門通ヨリ南ヘ六町、東ハ京極ヨリ西ヘ三町」[3]
  6. ^ a b 横田 1993, p. 251.
  7. ^ 京都府立総合資料館 - むかし公家町之絵図(中井家文書)
  8. ^ 横田 1993, pp. 250-251.
  9. ^ 現在の仙洞御所大宮御所の敷地が高台院屋敷の跡地に当たる。
  10. ^ この高台院の住まいを「三本木屋敷」と呼んだとの説が見られるが、当地は当時の「三本木」から東へ300mずれており、疑問がある。この説を述べる文献にも論拠が見当たらない。
  11. ^ 加藤繁生『飛雲閣を探して』

参考文献[編集]

  • 横田冬彦、「城郭と権威」、朝尾直弘 [ほか]編 『岩波講座日本通史 第11巻 (近世 1)』 岩波書店、1993年、250-251頁。ISBN 4000105612 
    • 内藤昌油浅耕三「豊臣家京都新城ー武家地の建築 : 近世都市図屏風の建築的研究-洛中洛外図・その6-」『大会学術講演梗概集. 計画系』47(建築史・建築意匠)、一般社団法人日本建築学会、1972年、 1317-1318頁、 NAID 110003511908(PDF有料)
  • 加藤繁生「飛雲閣を探して(6)飛雲閣の生まれた場所(上)」『史迹と美術』第83巻第1号、史迹美術同攷会、2013年、 20-28頁、 NAID 40019573881加藤繁生「飛雲閣を探して(6)飛雲閣の生まれた場所(下)」『史迹と美術』第83巻第2号、史迹美術同攷会、2013年、 38-46頁、 NAID 40019603467