京都新城

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京都新城(きょうとしんじょう)は、太閤豊臣秀吉が2代関白豊臣秀次聚楽第を破却した後に、皇室に仕える豊臣関白家の正式な邸宅として京都御所南東に構えた城郭風邸宅である。京都新城の称は、現代になっての呼び方で、当時の文書には「太閤御屋敷」[1]、「太閤御所」[2]、「太閤上京屋敷」[3]などと記されており、かつての「聚楽(第)」のような名はなかったと考えられる。

概要[編集]

慶長2年(1597年)1月、現在の中京区内に着工されたが、4月末に敷地を変更。現在の京都御苑南東部を含む広い区域「北土御門通ヨリ南ヘ六町、東ハ京極ヨリ西ヘ三町」[4]に建設が進められ、8月には早や完成した[4]とみられる。秀吉は完成した屋敷を数度訪れたが、いずれも滞在は短期で、移居はしなかった。秀次の後の関白には誰も任命されることなく、翌年8月に秀吉が死去した。

慶長4年9月からは北政所が大坂から移居し、以後、高台院屋敷として用いられた。関ヶ原の戦い前には城門や塀が撤去され城域は縮小された。『続本朝通鑑』には「初秀吉之館在京極朱雀、神君毀之、而移造二條城」とあり、慶長7年には一部が取り壊されて二条城に運ばれたことを伺わせる。江戸時代初期の地図「中むかし公家町之絵図」に描かれるところでは現在の仙洞御所大宮御所の敷地が高台院屋敷の跡地に当たる。この地は遡れば平安時代、かの御堂関白藤原道長土御門第を構えた場所と考えられ、聚楽第をかつての大内裏跡に設けたように、秀吉が御堂関白に憧れてこの地を選んだという見方もある。

寛永元年(1623年)、北政所が没すると屋敷には甥の木下利房が住んだが、寛永4年に後水尾天皇が譲位の意向を示すと、仙洞御所の敷地に選ばれて、幕府が御所の建設を開始した。屋敷跡は仙洞御所の建設により完全に失われまったく残らないが、当時の文書により「寝殿」「南ノ書院」「白藤棚ノ西ノ殿」「北殿」があったことが分かり、また敷地東部には現在の仙洞御所の池の前身と思われる「アコセガ池」を中心に大きな庭園があったと推定されている。当時の常として御所建設に先立ち撤去された建物は市内の寺院や公家屋敷に移されたと思われるが、記録、伝承、地誌などには一切の記事が見られない。ただ、西本願寺飛雲閣黄鶴台から「寛永五年三月から寛永六年八月迄‥」という墨書が発見されたことから、これを飛雲閣移築の時期と考え、撤去時期が重なる高台院屋敷すなわち秀吉の京都新城の遺構だとする説が最近提出された[5]。これによって西本願寺に遺された複数の文献に現れる「飛雲閣は秀吉の遺構」あるいは「飛雲閣は徳川家の寄進」という記述に初めて一致したとする。また同じ西本願寺の国宝「唐門」や醍醐三宝院の国宝「唐門」ももともとは京都新城のために製作されたものではないかとする。

脚注[編集]

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  1. ^ 『舜旧記』『言経卿記』
  2. ^ 『義演准后日記』
  3. ^ 『言経卿記』
  4. ^ a b 『言経卿記』
  5. ^ 加藤繁生『飛雲閣を探して』

参考文献[編集]

  • 内藤昌・湯浅耕三 『豊臣家京都新城』  1972年度「日本建築学会学術講演梗概集」所収
  • 加藤繁生 『飛雲閣の生まれた場所』  「史迹と美術」831・832号所収 史迹美術同攷会 2013