椎津城

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椎津城
千葉県
椎津城 主郭内標柱
椎津城 主郭内標柱
別名 城山
城郭構造 平山城
築城主 椎津三郎(椎名胤仲)
築城年 元応元徳年間(1325年)頃
主な城主 真里谷氏里見氏北条氏
廃城年 天正18年(1590年
遺構 土塁、空堀
指定文化財

市原市指定文化財(史跡)

千葉県指定文化財(史跡)
位置 北緯35度28分19.06秒
東経140度2分8.71秒
地図
椎津城の位置(千葉県内)
椎津城
椎津城

椎津城(しいづじょう)は、千葉県市原市椎津にあった日本の城

概要[編集]

千葉県市原市の南の玄関口、姉崎の八坂神社の裏手の台地に広がる椎津城は、南北約400m、東西約180m、標高28mで同市内でも最大級規模の城郭である。[1]

椎津は豊かな穀倉地帯を臨み、武蔵下総から上総安房の房総に通じる房総往還道や久留里街道西往還、椎津湊を抑える水陸交通の要所であったため、この城をめぐる攻防戦が幾度となく繰り広げられた。

しかし、椎津城跡は宅地化がすすみ消滅の危機にあり、市当局による早急な史跡の整備が求められる。

市原市は、平成27年7月3日、市の指定文化財史跡に指定した。(城の主要部である「主郭」を中心とする約1万1千平方メートルを指定範囲としている)[2] その後、平成28年3月28日、椎津城跡主郭部北側 1,623.13 ㎡について追加指定を行い、さらに平成29年2月15日、県指定史跡へ昇格した。[3][4]

椎津城の支城としては、久保田城(袖ヶ浦市久保田字浜宿)、蔵波城(袖ヶ浦市蔵波)、神代城(市原市神代)、 海保城(市原市海保字公家台)、要害山城、(市原市畑木字要害台)、万台城(市原市内引田字木々野)などがある。[5]

構造[編集]

椎津城縄張図 (参考文献 平成28年2月 市原市重要遺跡確認調査資料)
西側より主郭西方腰曲輪を臨む
南側より主郭西方腰曲輪を臨む
西側より一の堀を臨む 左は主郭、右は二の郭
南側より主郭西方腰曲輪を臨む
一の堀から主郭の城塁を臨む
一の堀から西側を臨む
主郭南側登城口
主郭南側登城口
主郭内
主郭内案内板
主郭内案内板
主郭内南側より北側を臨む
主郭内土塁
主郭内案内地図
主郭内標柱
主郭内標柱解説
主郭北西角 物見台跡か
北側登城口から主郭内を臨む
主郭北側虎口
主郭北方腰曲輪より主郭の城塁を臨む
主郭北方腰曲輪より主郭の城塁を臨む
北側から主郭北方腰曲輪の登城口を臨む
北側から主郭東方腰曲輪の城塁を臨む
北側から主郭の城塁を臨む
東側より左手が主郭北方腰曲輪、右手が北側曲輪群
北側曲輪群から主郭北方腰曲輪を臨む
北側曲輪群から主郭北方腰曲輪を臨む

椎津城は海を前にした台地の北端部にあり、城山と呼ばれる丘が本丸で、土塁が残っており、昭和46年の発掘調査では最高所の基壇部は古墳を利用していることがわかっている[6]

本丸南側には二重の空堀を構える。1の堀は、昭和48年の発掘調査では幅14m、深さ4.5mの攻めにくく守りやすい薬研桝堀であることが判明している[7]

本丸の南側には二重の空堀を隔てて約600m2の平坦な二の丸に相当する「五霊台」のくびれた台地があり、南北に急崖を残している。

この台地の北、東側を流れる境川は堀の役目を果たす。

この境川沿いの現在の姉崎小学校には、江戸時代に鶴牧藩の鶴牧陣屋が置かれていた。

椎津城の東側の谷間を隔てた正坊山の台地には出城の役割を果たす外郭(正坊山城 椎津字鶴牧)があり、空堀、土塁が残る。

空堀で台地と区切られ、50aの西郭と30aの東郭から成り、西北には櫓台跡がある。[8]

城の南西部は要害台といわれる外郭が、舌状の台地にあり、急崖をなしている。

平成8年7月から10月及び平成9年1月の発掘調査では、五霊台の南端で現道と並行して東西に延びる堀が2本確認された。 断面は逆三角形で、上端幅約3.2~3.5m、深さ約2.3m、底面幅0.3mで底面に畝堀の障壁も確認されている。 これにより、五霊台の台地の狭くなる部分まで城域であることが確認された。[9] なお、五霊台南端には本城の守りとしての「小木戸」の地名を残す所がある。[10]

また、平成28年2月の発掘調査では、主郭部及び主郭東方腰曲輪は1.5m以上の盛土造成が行われていたことや、主郭部からは盛土内に多量の炭化物があることが確認された。 このことは、文献が示す天文21(1552)年の椎津合戦による落城と、永 禄3(1560)年の椎津大普請を思わせる大規模造成工事が行われたことの証拠となり得るものである。 また、主郭西方腰曲輪では、主郭南側の一ノ堀が、西側に向かって主郭部周りを遮断するように巡ることが確認された。[11]

沿革 築城[編集]

築城には下記の通り諸説ある。

  • 千葉氏の一族、椎名胤仲が1325年頃の元応から元徳年間に椎津に居して椎津三郎と称して居城し、「千葉大系図」[12][13][14]有木城 (蟻木城・市原市海人有木)、小野山城(同字小野山)、海保城(同市海保字公家台)、要害山城、(同市畑木字要害台)、万台城(同市内引田字木々野)、高坂城(同市高坂字要害)を勢力下に置いた。[15]
  • 建武2年1335年 三浦高継が椎津を所領し、応仁年間(1467-69)に三浦定勝が築城[16]

「三浦高継寄進状」(相模鶴岡八幡宮文書)[17]

「寄進 鶴岡八幡宮 上総国真野郡椎津郷内田地壱町事 右、且為天長地久、現世安穏、子孫繁昌、至于子々孫々、於此料田者、不可到其煩、仍寄進状如件、 建武二年十月廿三日 三浦介平高継」

いずれにしても、康正2年1456に甲斐武田氏の一族、武田信長(房総武田氏・真里谷氏の祖)が上総に上陸し、 木更津市の真里谷城に本拠を構えてから、上総一体に勢力を拡大し、椎津も武田氏の勢力下に入った。[19]

椎津城をめぐる攻防戦[編集]

永正16年1519年の戦い 小弓公方・足利義明 vs古河公方・足利高基[編集]

真里谷城主武田信保(法名恕鑑、実名は武田信清(真里谷信清)の説あり)は、古河公方足利政氏の二男 足利義明を招請し、永正14年1517年10月15日、国境を争っていた原胤隆小弓城(千葉市南生実町)を落とした。 その後、小弓城に入った足利義明は 小弓公方と称した。[20](快元僧都記)

永正16年1519年8月19日、足利義明の兄、古河公方・足利高基は、勢力を拡大して対立する小弓公方・足利義明の重要拠点である真里谷武田氏の椎津要害(椎津城)を自ら出馬して攻撃した。

この戦いには足利高基の命に応じた千葉勝胤原胤清高城胤吉、結城城・結城六郎(後の小山高朝)、常陸・羽生上総介、常陸・菅谷勝貞(小田政治の家臣)、古間木城主渡邉新兵衛尉宗隆及び長子宗重ら北総の諸将が参戦した。

「足利高基感状写」(喜連川家文書案三、常総文書一、小山文書、石塚文書、記録御用所本古文書十二、菅谷伝記)[21][22][23][24][25][26]


「足利高基感状写」(喜連川家文書案三)[27]

 「今度椎津被立御馬之砌、抽紛骨被走廻之条、感悦候、巨細園田信濃守、被仰含候、恐々不宣、 (永正十六年)八月廿六日 (足利)高基 建清首座」

「足利高基感状写」(石塚文書)[28]

 「去十九日、於椎津要害、抽紛骨走廻条、神妙也、弥可励戦功之条如件、   永正十六年九月三日 (足利)高基 渡辺新兵衛尉とのへ」

「足利高基感状写」(常総文書一)[29]

 「去十九日、於椎津要害、抽紛骨走廻之条、神妙至候、弥可励戦功候也、   (永正十六年)九月十日 (足利)高基  羽生上総介様」

「足利高基感状写」(記録御用所本古文書十二)[30]

 「今度令参陣、抽紛骨走廻、神妙候、為御感、改御書札被下之候、謹言、   永正十六年八月廿三日 (足利)高基 菅谷摂津守殿」

「足利高基書状」(小山文書)[31]

 「就総州動座、(結城)政朝所ヘ以使節被仰出候、然者、此度其方参陣可為忠信候、猶々可被存其旨候、巨細二階堂肥前守、可令対談候、謹言、   (永正十六年)九月十六日 (足利)高基  結城六郎(小山高朝)殿」

これに対し、足利義明は里見氏らの軍勢で反撃し、永正17年1520年6月18日、足利義明は、敵城近辺の田井・横山・小沢要害・根小屋を攻略して蕨城(四街道市和良比)に帰陣した 里見義通に対し、足利高基の重要拠点である関宿城(野田市)を攻撃するよう書状を出している。「道哲(足利義明)書状」(喜連川文書案三)[32]<ref千野原靖方『出典明記中世房総史年表』(岩田書院)</ref>

「道哲(足利義明)書状」(喜連川文書案三)[33]

「敵城近辺田井・横山・小沢要害・根小屋以下悉被打散、其地至于蕨(四街道市和良比)帰陣之由聞候、目出度簡要候、然者、此度関宿(野田市)江動被成之度候、被走廻候者、弥以可為戦功候、為其東祝被遣候、恐々謹言、

(永正十七年)六月十八日  道哲(足利義明)   里見上野入道(義通)殿」


この他、永正16年1519年8月に、足利高基党と父足利政氏党が椎津城で戦ったとする文献があるが、当時の勢力域を考えると、真里谷武田氏に擁立されて小弓城に入り下総に進出していた足利義明の重要拠点の椎津城を、対立する古河公方足利高基が攻撃したと考えるのが妥当であり、このころ足利義明が父政氏の正当な後継者としての立場を主張していたことから足利義明を政氏党として記されていると思われる。

「下総国旧事考 三本 巻五」[34]

「永正十六年八月 政氏黨與高基黨 戦于上総椎津 小田政治家臣菅谷勝貞有戦功 高基與書賞之 是月政氏與高基和成 政氏退老于久喜」


なお、足利高基が足利高氏と称していた時期に発給したと思われる、宛所を欠く椎津郷の安堵状が存在し、小弓公方成立以前、椎津が足利高基派に与していたことが伺える。(森田博三氏所蔵文書)

「足利高氏(高基)安堵状」(森田博三氏所蔵文書)[35]

「上総国椎津郷守護不入幷諸公事免除之事、乾亨院殿(足利成氏)任御判旨、不可有相違候、謹言、   (年未詳)五月六日  (花押)(足利高氏)」

天文3年1534年の戦い 武田信隆、信政 vs 足利義明、武田信応、里見義堯[編集]

天文元年1532年、武田信隆(真里谷信隆)が父武田信保(信清)の引退により5代目真里谷城主となった。しかし、武田信隆は庶子であったため、幼少だが嫡子で弟の 武田信応真里谷信応)が当主となるべきと信応を支持する一派から批判が上がり家督相続争いの様相をはらんでいた。[36]

武田信応の叔父武田信助は小弓公方足利義明を味方につけて武田信隆に対抗した。[37]

天文3年1534年5月10日、足利義明は、武田信応に上総が本意通りに叶ったら一庄与える約束をし、5月19日には武田信保(信清)、信応父子のいずれかが必ず参陣するよう命じて大概は味方に参じたことを伝えた。[38]


「道哲(足利義明)書状」(大藤文書)[39]

 「於上総、御本意之上、一庄可有御刷候、巨細二階堂中務太輔、堀江下総守可申遣候、謹言、  五月十日  道哲(足利義明)   武田大夫(信応)殿」

「道哲(足利義明)書状」(大藤文書)[40]

 「如度々被仰出、父子間一人急度令参陣候者、可為御悦喜候、此口之事者大概味方ニ参候、心安可存候、巨砕堀江下総守可申遣候、謹言、  五月十九日  道哲(足利義明)   武田大夫(信応)殿」


天文3年1534年5月20日、足利義明は武田信隆を排するため、兵をあげ上総に出陣した。(快元僧都記)[41][42]

「快元僧都記」[43]

「天文三年五月廿日 上総衆退治 義明御進発 十六日被出御馬由申間 於當社一經 自十八日至廿二日 結願畢」

このため、武田信隆は子の武田信政(真里谷信政)とともに真里谷城を出て椎津城に拠点を移して立て籠もった。「上総武田氏系図」[44][45][46][47][48]

「上總武田氏系図」其二[49]

「信隆 幼名八郎太郎。妾腹長男。信応後見の間、真里谷城に住す。信応長ずるに及び、椎津城主と成る。天文二十辛亥年八月二日卒。信隆院殿祥山全吉大居士」


天文3年1534年7月1日、武田信保(信清)が死去する。「上總武田氏系図」[50]


天文3年1534年、11月20日、武田信応は足利義明の援軍を受け、武田信隆の椎津城を包囲して攻防戦が繰り広げられた。この時、城兵百余人が討たれた。「快元僧都記」[51][52][53][54]

「快元僧都記」[55]

「天文三年十一月廿日。將亦上總眞里谷推垏(椎津)城相掛。自大弓被ㇾ出御馬。敵百餘人被打取之由註進云々。天下兵亂如ㇾ此。」

(天文3年11月20日。はたまた上総真里谷、椎津城、相掛くる。大弓より御馬出さる。敵百余人討ち取らるの由、注進云々。天下兵乱、此の如し)

なお、足利義明による椎津城攻撃は、後述の造海城、峰上城合戦の前年の天文5年1536年の11月20日とする文献があるが、出典は同じ快元僧都記であることから、同記のとおり、この椎津城の戦いは天文3年1534年にあったと思われる。[56][57]


武田信隆、信政父子は、椎津城を船で脱出し、武田信隆は武田政信のいる峰上城(富津市天羽中郷)、子の武田信政は造海城(つくろみ)(富津市竹岡字城山)に立て籠もり、足利義明に対抗した。[58][59][60]

武田信隆は、小田原の北条氏と手を握り、天文4年1535年、6月6日、北条氏康の要求を受け、里見軍の兵火により焼失した鎌倉の鶴岡八幡宮の造営費として、代物(品物)5万匹(500貫文)を献上している。 また、天文5年2月27日には、鎌倉鶴岡八幡宮造営の用材として上総峰上材木搬出のため、数千人の国郡人夫を招集し、同年3月11日、房州からの材木70余丁を鎌倉に届けている。「快元僧都記」[61][62]

「快元僧都記」[63]

「天文四年六月六日。自眞里谷参代物五萬匹。當社造營被寄進之由。神主小別當江切紙ㇾ之。」

「天文五年二月廿七日。以國郡人夫總州峯上材木爲ㇾ可ㇾ被ㇾ引。數千人被差越畢。以此次鳥居木可ㇾ被ㇾ出ㇾ山云々。」

「天文五年三月十一日。自房州材木七十餘丁被差越了。小田原ヘモ被申屆」

武田信隆の勢力は依然強く、小田原からは軍師、根来金石斎(大藤信基)が派遣され、逆に武田信応の真里谷城を攻め、信隆派は真里谷の要害山に新城(木更津市真里谷字天神台の天神台城か)を築いて信応の宗家と争った。「北条氏綱書状(東慶寺文書)」[64]

天文6年1537年5月16日、足利義明は武田信隆の立て籠もる峰上城を攻めた。5月18日には、足利義明方についた 里見義堯が造海城を攻めた。峰上城の武田信隆は支えきれず山づたいに城を脱出し造海城に入った。造海城は要害の地にあり攻防戦が続いたが城はなかなか落ちず、5月24日、北条氏綱が、鎌倉東慶寺住職である渭継尼(足利義明の妹・松岡殿)に根来金石斎赦免の仲介を求め、5月27日、和議が成立、武田信隆は降伏して城を出、北条氏綱を頼って鎌倉に逃れ横浜市の金沢に居した。「快元僧都記」[65]「東慶寺文書」[66] 「小弓御所様御討死軍物語」[67][68][69]

「快元僧都記」[70]

「天文六年五月十四日。上總依錯亂。新地所楯籠。眞里谷一族惣領可取除由依申上。大弓義明御進發。打過而十六日向峯上。被ㇾ寄御馬畢。 十八日。從東桂寺長老綠蔭軒重而被相立畢。房州味方之處。心替而成ㇾ敵。百首城以大弓様御威光。三ヶ國之兵可ㇾ責之由申。依ㇾ之三ヶ所城衆加ㇾ兵。共無相違御歸尤之由云云。(中略) 廿七日。上總嶺上。房州百首城兵。新地之者共。御免之由被仰出有御悅」

(天文6年5月14日。上総錯乱により、新地に楯籠る所の真里谷一族、惣領取り除くべき由申し上ぐるにより、大弓義明御進発。打ち過ぎて16日、峯上に向かう。御馬を寄せられ畢んぬ。 18日。房州味方(里見義堯)の処、心替りして敵と成る。百首城、大弓様御威光を以て三ヶ国(下総・上総・安房)の兵、之を責めるべき由申す。之に拠りて三ヶ所の城衆、兵を加う。共に相違なく御帰り、尤もの由云々。(中略) 27日。上総峯上、房州百首の城兵、新地の者共、御免の由、仰せ出られ、御悦有り)

この戦後、天文6年6月11日、武田信隆は、鶴岡八幡宮に物詣、刀1枚、銭二百疋寄進し、翌日江島神社に参向している。

「快元僧都記」[71]

「天文六年六月十一日戌午。眞里谷八郎太郎(武田信隆)物詣。鶴岡エ参着。刀一枚二百疋。余翌日江島参。當社神主方ニ一宿。」

なお、造海城は、別名百首城と呼ばれている。

「里見代々記」、「房總里見軍記」、「里見九代記」[72]などには、

里見側に「文武両道に優れた武将と聴いている、 今日のうちに、このあたりの景色を詠んだ和歌百首をくださればこの城を明け渡しましょう」と伝えると、 たちまち百首を揃えて届けたので感服し開城したと伝えている。[73][74]

「里を見よ はげしき春の山嵐 世をつくろみにさはらざりけり」

「討ちもせず 討たれもせざる たびびとの 百首の望みつらねまいらせ」

「つくろうみ 河瀬定めぬをりなれど 下れる水はいるる大海」

天文21年1552年の戦い (椎津合戦) 武田信政 vs 里見義堯、義弘[編集]

天文7年1538年10月7日、足利義明は武蔵へ進出しようと里見義堯を副将にして房総の諸将1万を率いて江戸川まで進出し、 2万の北条氏綱・氏康と対峙した。(第一次国府台合戦

「里見系図」、「房總里見軍記」などによると、この時、足利義明に従軍した義明の重臣の椎津城主、椎津隼人佐(正)らは、相模台城(松戸市岩瀬)から北条軍が江戸川を渡河するのを発見し、水際での迎撃を足利義明に進言したが受け入れられず、第一陣となって200騎を率い敵にあたったが、重傷を負い討死した。[75][76]  椎津隼人佐(正)は、「北条史料集」第二巻に「上総国市原郡椎津を本拠とした武士で相馬氏の一族という」と記されている。[77]

「里見系図」義堯[78]

 「時ニ天文七年十月四日、北條氏綱、其ノ子新九郎氏康親子、松田尾張守、(中略)ヲ先トシテ、武州豊島郡江戸ニ著城ス  生實義明ハ、子息御曹司、舎弟基頼ヲ大將ニテ、椎津城主椎津隼人、村上、堀江、鹿島郡司逸見山入道を率シ、三千餘人 里見義堯、義弘副將ニテ都合一萬餘人 下総國鵠ノ臺ニ出張シ、兩陣松戸、市川ヲ隔テ夜ヲ明カス  五日黎明ヨリ小田原ノ先陣七百餘騎、川端ニ臨ミ、卯ノ下刻一同ニ瞳ト川ヲ渡ス 椎津隼人佐、鹿島郡司、二百餘騎馳ケ合セ、兩方入リ亂レ戦フ處ニ、椎津、村上深手負ヒテ退ク(中略)天文廿一年壬子十一月四日、總州椎津ノ城ヲ圍ミ、城主眞里谷信政ヲ攻メ殺ス 是ハ去ル天文七年十月ニ椎津隼人佐、鵠ノ臺ニテ討死ノ後、義堯下知シテ彼ノ城ヲ眞里谷ニ授ク」

この戦いで足利義明、弟の基頼、子の義純ともに討死し、房総連合軍は敗北し、小弓公方は滅亡した。しかし、里見義堯軍は積極的に兵を動かさず、下総進出の障害である足利義明を見殺しにして安房に兵を引き上げた。 その後10月10日には、北条軍は里見軍を追って君津市の中島まで進出した。 この時、武田信隆、信政父子は相模金沢から中島の北条陣地に参陣すると、上総の諸将は北条氏綱、氏康の太刀影を恐れ、武田信隆に悉く膝を折り、信隆、信政親子は再び椎津城に入城した。「小弓御所様御討死軍物語」[79]


「小弓御所様御討死軍物語」[80]

「眞里谷八郎太郎信隆、一兩年は浪人して、氏綱を頼みて、武蔵の國の傍ら、金澤に在宿して年月を送りしが、此の時小船に乗り、五百餘町の海上を一時に渡海して、陣中へ馳せ参ず。 上總の國の諸侍この由を聞くよりも百騎二百騎引き連れて「我も我も」と氏綱の旗本へ時を移さず馳せ來る。然れば眞里谷三日も過ぎざるに五百騎になりにけり。 年月は信隆を嫉みつる弟の八郎四郎(信応)、その外親類、同苗、家の子に至るまで、氏綱と氏康の太刀影に恐れて、總領信隆に悉く膝を折る。」


その後、椎津城の背後固めのために、久保田城(袖ヶ浦市久保田字浜宿)、蔵波城(袖ヶ浦市蔵波)が築城された。[81]

天文10年2月、武田信隆、信政は北条氏の援軍を得て、佐貫城(富津市佐貫)の里見義盛を攻めこれを攻略した。[82]

天文12年1543年には、真里谷一族間の下剋上笹子城事件が起きたが、武田信隆が鎮圧した。「笹子落草子」、「中尾落草子」[83][84]

天文18年1549年4月7日、里見義堯は、里見義弘を総大将に、土岐為頼万喜城)、正木時茂(大多喜城)、酒井定長東金城)ら1万の兵をもって、

北条方の守将、間宮豊後守景頼、浦田助五郎ら3千の守る佐貫城(富津市佐貫)を三方から猛攻し、兵糧の尽きた間宮景頼、浦田助五郎は椎津城へ退却した。

里見義弘は北条軍が館山に来攻したとして、主力は館山へ退却、酒井定長が間宮景頼らを追撃したが、途中、武田方の武田右近信忠、石川左京重蔵らに反撃され、酒井定長は佐貫城に退却した。[85]


天文20年1551年8月2日、武田信隆が病死し(上總武田氏系図)[86]、 天文21年1552年、2月、里見義堯は、北条方の有吉城(千葉市有吉町)を攻めたが失敗。

これに対し、北条氏康は武田信政と万喜城(夷隅町万木)の土岐頼定(或いは其の子土岐為頼(萬喜弾正少弼)以下同じ。)を味方に引き入れようとした。武田信政は北条と結んだが、土岐頼定は拒絶して里見氏に注進したため、里見義堯、義弘父子は、機先を制して武田信政の椎津城攻略に向かった。「里見代々記、房総軍記」[87][88]

天文21年1552年、里見義堯は、土岐為頼正木時茂らを従え、北進、小糸川右岸を守る前衛の間宮景頼、浦田助五郎(蒲田五郎?)は 支えきれず久保田城まで後退したが、久保田城主武田信常の叱責を受け、今度は小櫃川まで戻り布陣した。

里見軍は夜に松明を左右に灯して陽動作戦をとり、中央突破で渡河したため、間宮景頼らは椎津城まで退却した。[89]

里見軍は、武田信常の守る久保田城を大軍で包囲したが、武田信常は城兵を叱咤激励して奮戦し3日間もちこたえた。

しかし、後詰がなく落城必至とみて武田信常は東門から椎津城に向けて脱出するが、笠上川ほとりで討死した。[90][91]

これより先、武田信政は小田原の北条氏に加勢を請い、武田四郎次郎、同丹波、西弾正敦忠ら3百の兵が椎津城に援軍に入城していた。「房總里見軍記」[92]

また、佐是城(市原市佐是字武城・内曲輪)の武田国信、笹子城(木更津市笹子)の武田信清ら一族も椎津城に参陣した。[93]「武田系譜」


天文21年1552年11月4日、里見義堯、義弘は、土岐頼定万喜城)、正木時茂大多喜城)を先方に2千の兵で椎津城に押し寄せた。

城の背後から迫った里見軍に対し、武田信政は城から5町ほど押し出して松山を小楯に取って1千の兵で里見軍を迎え撃った。「房總里見軍記」[94]

軍勢は、「房總里見誌」[95]では、里見軍3千、武田軍2千(うち北条援軍1千)、「房總軍記」[96]では、里見方は義堯・義弘軍1千8百の他に正木・萬喜軍、武田方は武田軍の他に北条援軍1千とある。 また、里見軍1万3千、武田軍8千との文献もある。[97]

両軍激戦で殺傷すこぶる多かった。武田軍は、武田四郎次郎、同丹波、同左近、信政の舎弟真里谷源三郎信俊、同右衛門佐(宇右衛門)、同左京家長、高山佐衛門、西川彦六、堀江藤左衛門、富田佐平治(岡田佐平太)、大沢甚平、畑右近(左近)、西弾正敦忠、山口新太郎、原田惣蔵時秀らを討ち取られ大敗し、武田信政は城に火を放ち、嫡男信重、三男信光らと城中で自刃した。「房総里見軍記」、「房総軍記」[98][99]

「上總武田氏系図」 其三[100]  「信政 椎津城主。天文廿一年十一月四日自害。」


この椎津合戦では武田方は多数が討死し、激戦であったことが次の軍記から伺える。

「椎津方の手負死人千四百餘人とかや」(房總軍記)[101]

「此の合戦、今朝辰の下刻より始まり夜の五ツ迄、息も繼がせず攻めかけ、城兵二千餘にて籠りしが何なく亡されて、今は人有りとも見えざりけり。(中略)此の軍に城方一千三百人死人有りとぞ聞えし」(房總里見誌)[102]

「此の合戦千三百人の死人なり。手負い未だ死に切らざる者夥し。」(里見代々記)[103]

「總じて手負、死人千人と云ふ程の大合戦なり。味方にも手負、死人敵の三ケ一もあるべし」(里見九代記)[104]


武田一族は、この戦いに駆けつけ、笹子城の武田信清らを除き、ほとんど戦死した。 里見義堯親子は、椎津城に兵をとどめて義堯は久留里城に、義弘は佐貫城に帰城した。この戦で上総の国はほとんど里見義堯の手中に入った。「房総軍記」[105]

その後、真里谷城の宗家(武田信高)は里見方に帰属したが、庁南城(長南町字中城)の武田吉信(庁南武田氏)は北条氏と通じており、 天文22年1553年3月、東金城主酒井胤治が庁南城を攻めたが抵抗が激しく城は落ちなかった。[106]

椎津城には、守将木曾左馬介が置かれた。「市原郡誌」[107]


この椎津合戦の激戦の様子は、「房総里見軍記」(巻の15 総州椎津合戦の事 幷に落城の事)、「房総軍記」(椎津合戦の事)のほか、「房總里見誌」(上總國椎津城合戰之事)、「里見九代記」(椎津合戦の事)、「里見代々記」にも取り上げられている。[108]


(椎津合戦)

「房總軍記」巻の三 椎津合戰の事[109]

生實御所義明公滅び給ひて後、里見左馬頭義弘は義明公の婿なりければ生實の領地皆里見へ付いたり。義弘の母は萬喜の養娘にして、萬喜の爲にも外孫なりければ、國中の親族の交り淺からず。然れども、上總の大名多く小田原に心を通ずる者あり。既に天文二十一年の秋の頃、小田原の北條氏康籌(はかりごと)を廻し、萬喜彈正、椎津の信政へ使者を遣して言ひけるは、「兩候の武勇かねてより慕へる處なり。今速に里見を離れ、此方の旗本に参ずるに於ては、里見を滅さんこと掌を轉すより易し。さすれば、生實の領地を分割して、半を兩候へ進じ、半を氏康領せんこと、これ生涯の大幸なるべし」と、懇に言ひ送る。然れども、萬喜は承引せず。眞里谷信政は首肯いて小田原内通の由、聞えけり。里見左馬頭義弘これを聞いて、「藩籬の中に敵を受けては、他國を征せんこと思ひも寄らず。自國の殃(わざはひ)是より大なるはなし。急ぎ征伐せずんばあるべからず」と、同じき十一月四日、椎津に押し寄せ、鬨の聲を上げたり。信政も鬨を合せ、兩方喚き叫んで入り違へ、駈け合せ、算を亂して戰ひしが、其の日の中に信政自害せり。椎津城へは、この時小田原より千餘騎を加勢す。里見方は入道義堯、同左馬頭義弘親子の勢千八百餘騎に、正木あり、萬喜あり。里見勝軍の芝居を履んで、首撿見を記せしが、討ち取る首は、武田四郎次郎、同丹波、同左近、眞里谷源三郎、同字右衞門佐、同左京、高山左衞門、西川彦六なり。正木の手に討ち取る首、堀江藤左衞門、富田佐平治、大澤甚平、畑右近なり。萬喜の手に、西彈正、山口新太郎、原田惣藏討死なり。椎津方の手負死人千四百餘人とかや。里見凱歌を祝して歸陣せらる。「是より下總大半旗本に屬し、威勢なほも盛なり」とぞ聞こえし。


「房總里見軍記」 巻の十五 總州椎津合戦の事。幷に落城の事[110]

時に去んぬる鴻の臺の合戦に。御所右兵衛督義明公父子、打負け滅亡し給ひしにつき、里見家にも大きに戦ひ負け、人數そこばく失ひければ、此の虚に乗じ北條父子、「義明公御知行を我がものにせん」とすれども、上總に萬喜少弼、正木大膳、眞里谷三河等ありて、里見家へ附属せしかば、北條父子大きに怒り、「然らば一まづ手立を以て取るべし」と、「先ず萬喜、正木、眞里谷三人は、いづれも名高き武士にて、當時房總の勇傑なり。何卒この三人の内、一人は味方になすべし」と、我が旗本に親しみ深き者やあるかと尋ねらるに、山角佐右衛門佐が組の騎士に、西彈正敦忠といふもの、椎津の眞里谷三河信政に親しみ深き旨言上しければ、氏綱父子斜ならず喜び、卽ち呼び出して、委細にいひ含められ、御書を添へて賜はりければ、彈正敦忠かしこまりて館を退き、その支度して御書を首に掛け、やがて總州の椎津へ到り、眞里谷三河信政に對面し、やゝ中絶えたる儀を悲しみ、再び契りを約して申しけるは、「扨も去んぬる天文七年神無月、鴻の臺にて、生實御前義明公、我が主北條殿の爲に討死し給ふ。然るに彼の知行ども圖らず里見家にて押領せらるゝは、偏に御邊等の軍忠なり。是によつて、主人氏康父子、貴殿を所望すること頻りなり。其のたよりを得ずして居らるゝ所に、其斷金の交りあるを聞し召し、欺くは御使として参り候」と、口上申入れし後、「此の度氏綱に味方せば、義明公の知行里見家へ附いたる所を取り戻し。過半は貴殿に遺し、北條家子々孫々に至るまで如才あるべからざる趣なり」とて、首に掛けたる書を渡しければ、信政披見し、忙然たる風情なりけるが、暫く思ひ廻し、威儀を繕ひて弾正に向ひ、「いかにも眞里谷信政、氏綱卿よりの御招ぎ畏り奉る。我元より里見家の譜代といふにあらず。又、旗下と定まりしにもあらず。たゞ義明公に從ひし迄なり。宜しく御請け賴み存ずる」と答えければ、西大きに喜び、「早速の領承かたじけなし」と、暇を乞ひて立歸りけり。是より信政は、社家公(義明の事なり)御跡を小田原へ附けんと別心の色を現し、萬喜少弼、正木大膳の計らひを取り崩しければ、兩人大きに驚き、此の事を久留里の里見入道父子へ告げ知らす。兩卿承りて憤りを發し、「今、信政を捨て置かば、先年の負戦に味方は後れの折からなり。盛衰も計り難く、上總は悉く小田原方とならん。急ぎ駈け向つて、椎津城を踏み潰し、味方に勢を加へん」とて、房州の諸士を集められ、既に天文八年(廿一年の誤り)十一月四日、萬喜少弼、正木大膳を兩先手の大將と定め、里見入道、同じく嫡子の左馬頭義弘、家の議定兩備への陣を張つて、各々旗本千餘騎を從へ、處々押への勢を殘して押し出さる。椎津の城主眞里谷三河信政は、此の出陣を聞くと齊しく小田原へ加勢を乞はれけり。北條氏綱父子これを聞き、「尤もなり」とて、則ち武田四郎次郎、同じく丹波、西彈正に三百餘騎を差し添へ、加勢ありければ、三河大きに悦び、「里見父子を討つて房總を治めんこと、此の期なり」と、矢の根を磨き、弦を鳴して待ちかけたり。さしも暖國たる總州も、既に冬の半ばなれば、四日の辰の刻より、ちら/\と雪の降り出せしが、戦國の習ひにて、明日まで待つべき日はなくして、先手の正木、萬喜の三ツ引桐の紋の旗早くも向ふの山に飜る。眞里谷も北條よりの加勢、武田、西、舎弟眞里谷源三郎、同じく字右衞門、同じく左京家長、堀江藤左衞門、西川彦六、岡田左平太、大澤甚平、畑左近、山口新太郎、原田惣藏、小室小(喜)太郎、宇田十(重)平治等を初め、其の勢都合一千餘騎にて、城外五町程も押し出し、松山を小楯に取つて、甲の星を輝し、旗馬印を押し立て、射手三十人ゑらみ出し、押し來る敵を目當に、差しつめ、射出したり。正木大膳、萬喜少弼これを見て、同じく輕卒五十人をば繰り出し、相並んで切つて放ち、暫く矢軍を結んだり。正木大膳、配采を打振りて、「いつまで矢軍をせんや。いざ面々、鑓を入れよ」と下知の下より、藤縄目の具足に、唐人笠の甲を着し、竹に長短冊の着物したるが、「房州の住人錦織八郎左衞門行次」と名乗り、鑓を提げ馳せ出でたり。眞里谷方よりも、黑糸おどしの鎧に同じ毛の甲を猪首に着なし、鹿毛なる馬に打乗り、十文字の鑓を持ち、「原田惣藏時秀」と名乗つて、互いに鑓を組み合せ戦うたり。又、敵方より眞里谷源三郎、同苗字右衞門、士卒を進め押し掛ければ、正木大膳同じく士卒を繰り出し、駈け合せて挑み合ふ。岡田左平太、大澤甚平、山口新太郎ら、字右衞門を助けて正木を追ひ立てんとすれども、萬喜少弼手勢を魚鱗に備へて、大波の打ち寄るが如く、味方を助けて眞里谷勢を追ひ立てんとす。是を見て、椎津の勢より、堀江藤左衞門、畑左近、高山左衞門、西川孫六進み來れば、義弘卿の旗本より、房州濱荻の城代角田丹波一明(かずあきら)むら/\と押し出し、身命を惜しまず、馳せ廻り/\相戰ふ。名にし負ふ椎津武勇の眞里谷信政の兄弟、殊に小田原の加勢も加わりたり。此方は猛勇無双の萬喜、正木を先手として近來無類の名大將里見父子、双方すき間もなく、士卒を勵まし下知すれば、兩家の將卒、命を塵芥よりも輕んじて、相互に顔を見知りし事なれば、「引くな、引かじ」と聲を掛け合ひ、戰ひけるゆゑ、死骸は早くも山の如く、さしもの廣場に充ち滿ちたり。既に城方の先手、原田、岡田、大澤、山口は追ひ立てらる。眞里谷源三郎、同字右衞門、同左京、踏み止り/\、味方を勵まし、勇を奮うて戰へば、是を救はんと、後陣に控へし北條の加勢武田四郎次郎、同丹波、同左近ら備えを繰り出したり。 大將眞里谷三河信政、「すはや加勢の衆かゝるぞや。彼を討たしては、たとへ我々勝ちたりとも申譯なし。いざや旗本を以て横矢を入れん」、と、急太鼓を打つて大山の崩るゝ如くに揉み付くれば、「先に追ひ立てられし耻辱を雪がん」と鬨を發して、原田、岡田、大山、山口、どつと進んで突いて入る。流石の萬喜、正木、角田の兵士もあしらひかね、少し危く見えしかば、里見入道、同じく左馬頭義弘卿、「時分はよきぞ。旗本を以て揉み潰せ」と下知し給えば、采配の下より、多賀藏人、正木左近太夫、山田三郎、岡本平太、本田藤助、大島右京、板倉大炊、上野八九郎、武田八郎左衛門、伊藤粂藏、伊達小助、大和田源右衛門、代田孫左衛門、諏訪伊勢衛門、粕谷藤五郎等、日頃房總に聞ゆる勇士ども、得物々々を提げて、喚き叫んで駈け入りたり。兩大將も采配を納め、自ら太刀を拔きそばめて進み給えば、各々鑓を揃へて、鯨波の聲を上げ、揉み立て/\働きけり。今は何か支ふべき。椎津勢二三度四五度駈け合せしが、どつと崩れて四方に割れ、既に危く見えたりし處に、後陣に控へし小田原の加勢西彈正敦忠、手勢二百餘人を鶴翼に備え、戌亥の方より、眞里谷勢を助けて喚き叫んで進み來り、萬喜少弼が手へ打つて入れば、是に氣を得て原田惣藏、眞里谷源三郎、同字右衞門、同左京、岡田左平太、大澤甚平、山口新太郎、堀江藤右(左)衞門、畑左近、高山左衛門、西川彦六ら取つて返す。大將眞里谷信政頻りに下知して、「山口、岡田、眞里谷を討たすな。返せ/\」と、自ら馬を引き返し、士卒に持たせし大長刀を請取りて、雷光の如く閃かせ、正木が從卒二人を左右に薙ぎ伏せ、猶も進み働けば、岡戸十平、室崎越中等を初めとして、八方に分れし者ども、取つて返す。中にも、武田四郎次郎、同丹波、同左近は、聞こゆる剛勇の者共なれば、手勢僅に討ちなされしが、少しも恐れず。討つては進み、薙ぎては通り、此所に現れ、彼所に隱れ、千辛萬苦して戰ふにぞ、椎津勢再び色を取り直さんと見えたりけり。正木、萬喜、角田、山田等は、軍功の者共なれば、「こゝぞ軍の分れ目なる」と、獅子奮迅に相働けば、里見入道これを見て、「すはや軍には勝つたるぞ。此所をぬかすな、進め/\」と聲涸るる程に下知し給えば、さなくも勇む里見勢、甲を傾け鍔を割り、勇みに勇んで戰うたり。斯して西彈正は萬喜の備へに突いて入り、八ヶ度程も駈ける合ひしが、關八州に其の名知られし萬喜少弼の事なれば、遂に彈正敦忠も生年三十三歳にて、萬喜の從兵深瀨五郎左衛門に討たれけり。山口新太郎、原田惣藏大きに怒り、深瀨を目がけて討つて來るを、くる/\と押つ取りまき、山口原田も同じく萬喜の手に討たれけり。堀江藤左衞門、岡田左平太、大澤甚平、畑左近は、正木大膳と喰ひ付き、追ひつ追はれつ、九ヶ度も戰ひしが、堀田、岡田、大澤、畑等は、悉く大膳が手勢の中に討死せり。是によつて眞里谷信政が旗本、東西に𢌕き、南北に駈け立てられ、散々になりければ、舎弟眞里谷源三郎信俊、兄の信政が馬の口を取り諫めけるは、「はや味方の者共、さんざんに駈け立てられ、其の上討死と相見えて候。御運も是限りのやうに覺え候。いでや城中へ引つ返し、御腹召され候べし。こゝは大將の死地にあらず。某しんがりして敵を喰ひ止申すべし。早とく/\」と申しければ、信政これを聞いて、「もつともなり。亡父信隆の遺言今思ひ當り候。やがて黄泉にて再會せん」と、馬を椎津の方へ引き返す。信政其の日の出立(いでたち)には、金小寶(きんこざね)の鎧に、頭形(づなり)の甲を戴き、南蠻ぐさりの小手脛當、紅梅月毛の馬に厚房かけて、あつぱれ大將と見えければ、「我討ち取らん」と、勝ち誇りたる里見勢、追ひ慕ふ事急なりけり。眞里谷源三郎、同字右衞門、同左京、名を高らかに呼ばはり/\、必死を極め、朱に染みたる太刀振り翳し、暫し支へて戰うたり。其の内に、八方より數千の里見勢押つ取り卷き、字右衞門を印(伊)藤粂藏が討ち取れば、左京をば大和田源右衞門組み敷いて首を取る。源三郎は聞ゆる剛力にて、殊に死は極めたり。弟兩人を目前に討たれ、「今は舎兄も城中に入りたり」と思ひければ、四邊に響く大聲にて、「椎津代々の城主眞里谷信政が弟、同苗源三郎信俊、只今討死仕る。勇士ら是を手本に致されよ」と、鎧の上帯切りほどいて寄手の中に投げ出し、馬上にて腹掻き切り、敵を睨んで死したりけり。爰に、北條よりの加勢武田四郎次郎、同丹波、同左近、入道殿の旗下へ切つて入り、存分に働いて討死す。斯くて眞里谷信政は舎弟信俊忠死の中に十町程も盛り返し、ほつと一息つぐ處へ、片脇なる森の下より、角田一明五十餘人を、前後左右に並べ、辻風の發する如く、嚴しく追ひかければ、「今は是限り」と、信政が馬を返さんとせし處へ、高山左衛門、西川彦六、馬の口を城の方へ押しやりて踏み留まり、精力あらん限り戰ひしが、終に角田の手にて討死せり。この隙に信政やう/\椎津城に入り、四方の門を固めたりしに、里見の軍勢はや堀ぎはまで押し付けて、鬨をどつと揚げければ、城將眞里谷信政は最後の酒宴を催して、城の四方に燒草を多く積み積ね、やがて盃を納めて、心靜に腹を切つたり。家臣小室喜太郎は、四方の燒草に火を放ち、妻子を害し、宇田重平次と刺し違へて伏しければ、猛火忽ち四方に廻りて、只一片の煙となり、灰燼のみぞ殘りける。里見入道父子勝鬨あげ、勇ましく歸陣せられけり。


「里見代々記」 第五代 義堯公[111]

三浦殿三代にて、此の時滅亡し、上總も少々北條家に属しけり。然るに、上總の椎津の城主眞里谷信政、小田原方となりて十年餘、一味同心したりけるが、天文廿一年壬子の秋、「里見家を亡さん」とて小田原と謀を示し合せけり。又、小田原より萬喜が方へ言ひ送りけるは、「足下にも味方へ與力せらるれば足下と眞里谷へ三浦の持て添への知行を半分参らすべし。半分をば小田原へ取るべし」と言へり。萬喜心に思ひけるは、「義弘公は我が娘の養育せし君なれば、實の孫にはあらねども、外孫に隱れなし。且、義弘公は三浦社家の聟なり。一度孫と結び大將と仰ぎたる甲斐もなし。いかでか小田原に組すべき。思ひも寄らぬ事かな」とて承引せず。正木と示し合はせ、「信政めを打殺し、三浦殿の知行を奪ひ返し、里見に付き候はんものを」とて、急ぎ館へ申し上ぐ。萬喜正木一門なり。大將出陣まし/\、入道殿御後見にて、同じき年の十一月四日、椎津の城を押つ取り卷き、鬨の聲をぞ揚げたりける。かねてより用心の爲に小田原より軍兵多く附け置たり。信政恃み强く思ひて、「駈けよ、引けよ」と下知をなし、朝の四つより夜の五時まて息をもつかず戰ひたり。里見方へは房州勢も駈けつけて新手を入替/\攻め立つれば、城方も爰を先途と防ぎ戰ふ。正木か手にて堀江、新藤、富田、大津、杉岡、西畑など討死す。萬喜が手にて西野、山口、原田、金澤討たれけり。されども里見方には新手の房州勢虎豹獅象の狂ふが如く、命を限りに、死人の上を飛び越え跳ね越え切り立つれば、城方に打物の巧者名人と沙汰しける侍共、第一には武田左近、同四郎次郎、同丹波、第二には眞里谷源三郎、同右衞門丞、同左京、高山左門、西川彦六など云ふ兵共、命を惜まず働きけるが、次第に戰ひ疲れて枕を並べて討たれけり。信政は、「賴み切つたる者共は討れぬ。今は是まで」とや思ひけん。己と城に火を掛けて腹掻き切つて死したりけり。此の合戦一千三百人の死人なり。手負未だ死に切らざる者夥し。これより以後、永禄七年に至るまで十二年が間、上總路に事故なく、剰へ、下總も大半は里見方に属しけり。これ偏に正木萬喜が勲功なり。然らば、此の度と二度治まるなれば「最早気遣ひなし」とて、諸人悦び合へりけり。


「里見九代記」 第五 軍の卷 椎津合戦の事 [112]

天文廿一年の秋、椎津の信政と萬喜少弼を小田原方となして、社家様(義明公)の御知行を過半は兩人へ渡し、小田原へ殘る所を取らんとしたりけり。然れども、義弘公は社家様の御跡は里見殿へ付きたりしに、眞里谷信政、小田原へ心を寄せ内通などもありける間、同十一月四日、椎津へ押寄せ合戰ありて、其の日の内に寄手打勝ち、信政は腹切りけり。敵へは小田原より加勢あり。味方は例の萬喜、正木。大將は父子共に出陣なり。討ち取る所の敵は、武田四郎次郎、同丹波、同左近、眞里谷源三郎、同字右衞門之助、同左京、高山左衞門、西川彦六。正木の手にて堀江藤左衞門、富田佐平次、大澤甚平、畑右近。萬喜の手には西彈正、山口新太郎、原田惣藏なり。總じて手負、死人千人と云ふ程の大合戦なり。味方にも手負、死人敵の三ケ一もあるべし。


「房總里見誌」上總國椎津城合戰之事[113]

斯くて、小弓御所滅亡して、下總の小弓領皆北條の有と成り、上總も半は北條の領地となり、里見家甚だ威を失ひ、無念の月日を送られけり。北條氏綱は、天文十年の夏頃より、違例逐レ日不レ快。遂に七月十九日小田原城にて卒去。嗣子新九郎氏康家督を繼いて、左京大夫に任ず。氏康父祖に劣らず、武力逞しければ、武相上越上總も自然と北條へ阿(おもね)り屬する色見えけり。中にも椎津城主眞里谷信政と云ふ者、豫て小田原へ心を通じ、折々萬喜少弼を語らひ、「小田原勢を攻め入らせ、椎津萬喜が裏切りして里見を滅させん」と巧みけるこそ無道なれ。 萬喜思慮を廻らし、上べは眞里谷と一味の體にて既に謀を語り、椎津より小田原へ内通しければ、氏康息氏政に軍將五頭下總に押出し、「先ず椎津と萬喜とへ軍賞の約諾有らん」とて、「今度一味同心の褒美に小弓殿の知行半分宛て行はん。出精有るべし」と、則ち證文を出しけり。椎津は件の證文を萬喜へ送りけり。萬喜は智將正直の性質なれば、思慮すらく、「義弘は孫、義堯は聟也、子也。其の上、義弘は小弓殿の聟なれば、君臣の禮いかでか報せざらん。信政吾を一味と心得て密事を明す。これ幸ひの謀なり」とて、敵に組する返答して、 例の評議一々正木・安西に語りければ、兩大將へも申通し、用意尤も細にして、所々に手分要害の地利を構へ、斯くて「敵の勢微なるを討つ事故實なれば、先ず信政居所を打破らん」とて、天文二十一年壬子の十一月四日、椎津の城に押寄せ給ふ。大將は義弘、今年廿三歳也先陣は正木大膳大夫・土岐少弼、後陣は池和田・安西・房州勢を引率し、其の勢三千餘騎、椎津の城を取り卷き、鬨を噇(どつ)と上げたりけり。此の時、椎津に小田原より警固用心の爲とて勢千人ばかり置きけるが、「斯く寄する可し」とは、夢にも知らず。案に相違の事なれば、大きに周章し、防戰の教令も定まらず。備も立たず。無二無三に防矢を放し、或いは打出しけれど、元より合戰に馴れたる里見勢、物の数ともせず。城中より打出づるものは射伏せ討ち取り、散々に攻め付けければ、防ぎ飽(あぐ)んで見えにけり。寄手は競ひ掛けて、「唯一時に攻め取らん」と、總軍鶴翼になりて押寄する。城方に名を得たる侍には、第一武田左近、同四郎次郎、同丹波、二陣に眞里谷源三郎、同字右衞門尉、同左京、高山左門、西川彦六、究竟の勇士の揉みに揉んで防戰しけるが、枕を並べて討たれけり。北條方の付人志水主水丞、從兵百騎ばかり何れも名譽の者なりしが俄の事にて軍令も無かりければ、はか〴〵しき手柄もなく、皆討死しけり。此の合戦、今朝辰の下刻より始まり夜の五ツ迄、息も繼がせず攻めかけ、城兵二千餘にて籠りしが何なく亡されて、今は人有りとも見えざりけり。此の時、萬喜の手にて西野、山口、原田、金澤を討ち取りけり。信政今は詮方なく、おのれと城に火を掛け、腹掻き切つて死したり。此の軍に城方一千三百人死人有りとぞ聞えし。斯くて、殘兵小田原へ迯げ歸りければ、里見方勝鬨三度行ひ、悦び勇み退陣ありけり。是より以後、上總の一國は云ふに及ばず、下總までも里見の下知に屬しけり。是は去る十九年以前、小弓殿沒落の刻、取られし所領までも二度御手に入る。「目出度き御武運なり」と、四民一統に喜悦す。「是全く萬喜・正木の武功智略の爲なり」と、君も賞勲まし/\けり。

永禄7年 1564年の戦い 里見軍・木曾左馬介 vs 北条氏政[編集]

里見義堯は、越後の上杉謙信の関東侵攻に呼応して、里見義弘を総大将に岩槻城主太田資正2千の軍を含め8千の兵(1万2千の説もある)を派遣し、 永禄7年1564年1月7日、再び江戸川国府台で北条氏康北条氏政父子の軍勢2万と対戦した。(第二次国府台合戦

里見義弘は緒戦の勝利に油断したところを奇襲され敗北し、安房に退却した。

これを追った北条氏政軍は椎津城を攻め、守将木曾左馬介を敗退させた。「市原郡誌」[114]

里見義弘は、この退却の際に太田資正(三樂齋)と共に一時椎津城に入城している。

「南総酒井傳記」卷の三 高府臺合戰、生實城沒落の事。[115]

「(略)此の際に、太田美濃守を同道して椎津の城に入らせられ、暫く息繼居たりける所に、又もや北條左衞門、松田左馬介、軍勢を備へ駈け來りしかば、「すはや大軍」と見る所に、はや日も暮に及びければ、「長追ひ無用」と、遂に軍勢を引き返す。」

この時、里見側の多賀高明の池和田城(市原市池和田字城廻)、や秋元義久の小糸城(君津市西粟倉)も落城している。[116]

北条氏は、椎津城に白幡六郎を置いて守らせた。「市原郡誌」[117]


天正18年 1590年の戦い 北条軍・白幡六郎 vs 豊臣軍 浅野長政[編集]

天正18年1590年豊臣秀吉による北条氏の小田原征伐の際、千葉氏を始め、関東の諸将は小田原に参陣していたが、 秀吉は、空城同然の房総の各城を浅野長政に攻略させた。

この時、椎津城も落城し、城を守っていた北条の家臣、白幡六郎は敗走し、城から3キロ北東の市原市白塚まで逃げたが、そこで討死にした。[118]

その遺体を埋葬した塩煮塚は正人塚が転化したものだが、内房線の鉄道敷設で消滅した。[119]


『市原郡誌』(椎津城址) 抜粋[120]

「(略)信政も今は是までとや思いけん己と城に火をかけて腹攪切りて死にたりける(中略)従是以後永禄七年に至るまで十二年が間上総路に事故なく剰へ下総も大半は里見方にぞくしけり云々 後木曾左馬介に守らしむ、永禄7年北條氏の収る所となり白幡六郎に守らしむ、天正18年里見氏又攻め白幡六郎は戦死し乗馬と共に千種村に其墳墓を存す、再びその城地は里見氏に帰すが後豊臣氏が取る所となり城陥る (中略) 里見記に天文七年里見義堯鴻の臺の戦に敗るの後上総の所領多く北條に帰す、二十一年里見義弘、眞里谷信政平かならず遂に兵を発して椎津城を攻めて之を抜く信政自殺して城陥る、 義弘兵を留めてかへる酒井家記を按ずるに曰く、永禄七年里見義弘國府臺に敗るるや武州岩槻城主太田美濃守三樂齊とともに椎津城に入ると當時眞里谷氏猶ほ里見に属し後畔くものか。」

『市原郡誌』(白幡六郎墳) 抜粋[121]

「上総國誌稿に載する古墳の一たり、千種村大字白塚字鹽煮塚に在り(上総町村誌伝)、凡高一丈五尺周圍三十二間其頂老松あり、天正十八年庚寅六郎椎津城に居守す、豊臣及び里見氏の兵來り攻む六郎城出でて此に死す、 之を葬りし所となす。按ずるに六郎は椎津城主白幡集人正の子なり、此時隼人正北條氏に従いて小田原城にありき。」


なお、小田原征伐の際、豊臣軍別動隊が房総に侵攻した時に、椎津城や隣接する久保田(窪田)城にも下記の文書のとおり、城番が在城していたことがわかる。

「房總軍記 巻の七」[122]

(小田原城落城の事)

「(略)其の外、關八州に立籠る城々は、大胡、小幡、伊勢崎、新田、倉賀野、那和、前橋、安中、小泉、箕輪、木部、臼井、免取、飯野、立林、佐野、足利、壬生、皆川、藤岡、加沼、小山、榎木、深谷、忍、川越、松山、木栖、菖蒲、岩付、羽丹生、江戸、津久居、八王寺、甘縄、新居、三崎、高野臺、鳥手、關宿、小金、布川、米本、助崎、安孫子、印西、臼井、椎津、窪田、萬喜、長南、池和田、大須賀、東金、八幡山、東野、山室、岩崎、守山、古河、土氣、成戸、小久保、土浦、相馬、木溜、江戸崎、栗橋、筧水、此の外の城々數を知らず。

(中略)其の外、佐野、足利、津久井、關宿、相馬、東金を初めとし、關八州の城々、或いは攻め落とされ、又は降人となりしかば、氏政舎弟北條美濃守氏親も、韮山の城を開け渡し、徳川家康へ降人となつて出でられけり。よって今は小田原一城を、諸國の軍勢取り囲んで、攻め動すこと夥し。」


天正18年1590年5月10日までには、浅野長吉(長政)以下の豊臣軍別動隊2万は、土気城、東金城を攻略し、同月20日までには下総・上総の諸城を制圧して安房の国境まで進軍している。[123][124]


「羽柴秀吉朱印状写」(難波創業録)[125] 

「一昨日十日書状今十二日巳刻到来候、下總國之内とけ(土気・千葉市)、東金(東金市)両城請取旨。得其心候事、(以下略) (天正十八年)五月十二日  朱印  浅野彈正(長吉)少弼とのへ 木村(一)常陸介とのへ」

天正18年1590年5月12日、羽柴秀吉が浅野長吉(長政)、木村常陸介に、10日の書状で酒井氏の上総国土気城(千葉市緑区)・同国東金城(東金市)を受け取ったとの報告を了承した旨伝えている。


「羽柴秀吉朱印状」(浅野家文書)[126]

「急度被仰遣候、鉢形城(寄居町)越後宰相(上杉景勝)中将、加賀宰相(前田利家)両人可取巻由、被仰出候、然(者)、此方より相越候人数、其取巻刻ハ、両人之人数(与)一ツ二成、陣取以下堅申付上ニおゐて、此方より被遣候人数、又ハ佐竹(義宣)・結城(晴朝)、其外八ケ國之内諸侍、御太刀をおさめ候者共召連、何之城成とも、不相渡所於有之(者)執巻、いつれの道にも可討果儀、切々被仰遣候処ニ、こや/\(小屋/\)のはしろ(端城)共、二萬餘りの人数にて請取候事、不能分別候事、(中略)鉢形の城可取巻儀、可有之候哉、景勝・利家ニ可入合申候由こそ、堅被仰出候ニ、安房國境目常陸國境目迄、彼おとり人数を召連相越、持かね候城を請取候儀、天下之手柄にハ成申間敷候哉、城相渡者有之ハ、鉢形城を取巻候上にて、それ/\ニ上使ニ 二百三百充相そへ、人数を遣、うけ取候てこそ可然候か、敵有之所ハ差置、二万計の人数を召連あるき候事、御分別無之候事、(以下略) (天正十八年)五月廿日(朱印、印未詳) 浅野彈正(長吉)少弼とのへ 木村(一)常陸介とのへ 」

天正18年1590年5月20日、羽柴秀吉が浅野長吉(長政)、木村常陸介に、前田利家上杉景勝らと合流し、武蔵鉢形城の攻略を進めるべきところ、安房、常陸の国境まで2万の軍勢を小城端城を落とすのにいたずらに費やしているが、天下の手柄にはならない。開城申し出た場合は、鉢形城など敵が在城しているところは包囲して、上使に2、300の軍勢を添えて派遣し、城を請け取れば済むと分別の無さを譴責している。

この後、直ちに浅野長政等の軍勢は房総から引き上げ、武蔵国岩付城、鉢形城に転戦している。「浅野家文書」[127]


天正18年7月11日に小田原城の北条氏政が降伏、切腹し、北条氏が滅亡した後、豊臣秀吉の命により関八州に国替えとなった徳川家康は、本多忠勝等の軍を房総諸城の仕置・受取のために差し向け、再び房総の諸城は悉く城を開き落城した。「房総治乱記、房総軍記」

「房總治亂記」[128]

「同年(天正十八年)七月十一日、小田原の北條氏政・氏直、秀吉のために滅亡し、東八州を家康公に授けらる。仍りて御仕置の爲に、本多中務大輔忠勝、平岩主計頭親吉、鳥居彦右衞門尉元忠等數萬を差し向けらる。(中略)さる程に、三大將列を調へて下總に到りぬと云ふ程こそあれ、「吾先に」と城を出で、散々に落ち行きけり。佐倉、東金、土氣、土浦、相馬、鹿島、八幡、千葉、生實、國府臺、根古屋、萬喜、小濱、勝浦、矢竹、高野、廳南、廳北、伊南、伊北、鶴城、龜城、一宮、久留里以下四十八ヶ所城、皆明城となりて、城主は所々に逃走す。三將是に居て國中を巡見す。土民是を「家康公の御威光には、一日の中に五十の城落さる」と云ふ。」

「房總軍記」巻の七 房總諸城隋つて退くの事[129]

「既に小田原城滅亡して、東八ヵ國は秀吉公より家康に賜はり、政法を執り行はせ給ふに依りて、「譜代の家臣本多中務大輔忠勝、平岩主水正親吉、鳥居彦右衞門尉元忠等、数萬の衆を率ゐて發向す」と聞えければ、(中略)斯くて家康の三將、其の勢五萬餘騎を率ゐて、下總に着陣す。(中略)今は敵すべくもあらざれば、皆拔け/\になつて、「我先に」と城を開き、或は山林に隱れ、跡暗まして落ち退く。佐貫、東金、土氣、土浦、相馬、鹿島、千葉、佐倉、國府臺、廳南、廳北、鶴城、龜城、一宮、久留里、萬喜、長南以下四十八箇所、皆同時に離散して落城にぞ及びける。世の人これを以呂波城と云ふとかや。」

補足 天文21年 椎津合戦後の北条氏と里見氏の椎津城争奪戦[編集]

天文21年1552年の「椎津合戦」で、里見氏が椎津城を落として以降、『市原郡誌』によると上述のように、椎津城には里見方の木曾左馬介が置かれ、後の第二次国府台合戦後には北条方の白幡六郎が置かれ、 天正18年1590年の小田原征伐による落城を迎えたことになっている。[130] しかし、以下の史料から、天文21年(1552年)の「椎津合戦」後、北条氏と下総方面に進出する里見氏との間で何度も椎津城の争奪戦が繰り返されたことが確認できる。[131]


(天文21年(1552年)「椎津合戦」以降の北条氏と里見氏の椎津城争奪)


  • 永禄3年1560年10月14日、北条氏が当地域を本貫地とする村上氏に対して「椎津大普請」を命じる(北条家朱印状写 下総旧事 五648)。[132][133][134][135]

このことから、この頃椎津城は里見氏から再び北条氏の勢力下に移っていた。

「北条家朱印状写」(下総旧事 印旛郡米本村 加茂文左衛門所蔵文書)[136]

「不入被仰定在所之事、泉之郷(市原市以下同じ)、島之(島野)郷、町田郷、津比地(甘五里)郷、引田、麻井(浅井小向)郷、梶路(神代)郷、風戸郷、以上八ヶ郷 右八ヶ所、任所望、不入相定候、但椎津大普請矢格馬者、如定毎年可被申付候、其外随時御用之儀者、以印判可被仰付候、為無印判郡代・触口申付儀、不可有承引旨、被仰出候也、仍如件

庚申(永禄三年)十月十四日 大草左近(康盛)太夫(奉)  村上民部(綱清)大輔殿」

北条氏政が村上綱清に、望みに任せて上総国泉之郷他、同国八ケ郷の知行を守護不入とし、椎津城の大普請役「矢格馬」を賦課する。奉者は大草康盛


  • 永禄7年1564年1月7日、第二次国府台合戦)で里見義弘が敗北し安房に退却後、これを追った北条氏政 方の相模の諸将及び千葉氏、原氏の軍勢は、同年2月以降、椎津城、榎本城(長柄町)、利根里城(舎人城・長南町)、池和田城(市原市)(若しくは和田城(周東城・君津市))、小糸城(秋元城・君津市)などの諸城を攻めこれを落とした(北條五代記、國府臺戦記、慶増文書、河田伸夫所蔵文書、那須文書、江馬文書)[137]

このことから、椎津城は再び里見氏のものとなっていたが、また北条氏が奪還したことがわかる。

「北條五代記」[138]「北條五代記抄」[139](下總高野臺の合戦の事)

 「(略)頃は永禄七年甲子正月八日申の刻に至りて、氏政軍兵近々と押し寄せ鯨波の聲どっと揚ぐ。(中略)敵方討死の衆には、正木弾正左衛門父子、(中略)、多賀越後らを初め、五千餘騎討ち取られたり。

上總の國 志ゐつ(椎津)、ゑのもと(榎ノ本)、とねり(舎人)、わた(池和田若しくは和田)、此の外城々、この勢ひに皆悉く城を開き落ち行きぬ。」


「足利義氏書状」(栃木県立博物館所蔵 那須文書)[140]

 「重而懇言上、喜入候、然者、如前々可励忠儀之段、感悦之至候、仍池和田(市原市)其外三ケ城落着、如被思召候、管要可心易候、巨細瑞雲院、可被申遺候、謹言、 (永禄七年)二月十八日  (足利)義氏   那須(資胤)修理大夫殿」


「北条氏康・氏政連署書状写」(大阪狭山市教育委員会所蔵江馬文書)[141]

「八日一戦勝利注進之間、則従仕場遺之、今度□前代未聞之儀候、最前敵退由申来ヲ勝利存、先衆車次々之瀬ヲ取越候、敵者大勝里見義広(弘)為始安房・上総・岩付勢、鴻台(市川市)拾五町之内備相手候、此有無不知遠山(綱景)以下、聊爾ニ鴻台上候処ニ、敵一銘押掛候間、於坂半分崩、丹波守父子(遠山綱景、隼人佑)・富永(康景)其外雑兵五十被討候、能時分ニ(北条)氏政籏本備寄候間、則押返、敵共討捕候、切所候故、(北条)氏康籏本者不知彼是非候、既先勢如此仕様、相続行兼術無了簡候処、跡者召集鍛直、無二一戦令落着、従鴻台三里下へ打廻候、敵も添而備寄候間、及酉刻遂一戦、則伐勝候、正木弾正・次男里見民部・同兵部少輔・荒(薦)野神五郎・加藤・長南、多賀蔵人を為始弐千余人討取候、太田美濃(資正)も深手負下総筋へ逃延候、此衆太田下総・常岡・半屋を為始悉討取候、雖義広(弘)討死候由候、其頸未見来候、椎津・村上両城自落之由申来候、源蔵(北条氏照)・左太父子(北条綱成・康成)・左馬介(松田憲秀)乍常兼粉骨候、新太郎(北条氏邦)事、能時分従川越走着走廻候、此度之軍始中終両籏本を以切留候、此上者向小田喜(大多喜町)・左貫(富津市)可相動之条、先今度者可治馬覚悟候、謹言、(永禄七年)正月八日  (北条)氏政 氏康 幻庵(北条宗哲)  松田(盛秀)尾張守殿 石堂(巻)(家貞)下野守殿」


  • 永禄9年1566年3月、北条氏打倒を目指して関東に出陣した上杉謙信と里見義堯・義弘らの軍勢が北条方の原胤貞臼井城を攻めるなど、里見軍は下総まで侵攻していたが、
  • 永禄12年1569年2月28日、里見義弘軍が松戸・市川に進軍後、退却の途上、臼井筋之郷村に放火し、椎津城に帰陣した。「千葉胤富書状」(豊前氏古文書抄 間宮文書)[142][143][144]

この記述から、この頃、再び椎津城は里見氏に奪取され下総進出の前線拠点となっていたことがわかる。

「千葉胤富書状写」(間宮家文書 松戸市立博物館所蔵)[145]

「敵(里見氏)松戸・市川迄相散、去(廿六日)引退、臼井(佐倉市)筋之郷村令放火、昨日(廿八日)至于椎津退散候、此趣小田原以飛脚申届候、自其も書状被指副尤候、将亦常陸無替子細候、昨日も(小田)氏治書状被差越候、然者、薩多陣(静岡市)之様体、近日之儀如何無御心元計候、併敵近日労無極之由本懐候、恐々謹言、 (永禄十二年)二月廿九日 (千葉)胤富 豊前山城守(氏景)殿」

 北条方の千葉胤富が豊前山城守に、里見勢が下総国松戸から市川迄荒らし、26日に原氏の臼井方面の郷村に放火して椎津城に退散したことは小田原城に報告した。常陸方面の状況はかわらず、昨日は小田氏治から書状がきた 等と伝える。


  • 元亀元年1570年6月2日の北条方の千葉胤富から一族の井田胤徳に対して宛てた書状では、敵の里見氏が上総下総西筋に侵攻し、窪田山(袖ヶ浦市)、生実(千葉市)近辺の両所に地形を見立てて城普請を推し進めている、築城を阻止するため北条氏政に使者を立てて加勢を要請するとともに、井田、原、牛尾氏に出陣を命じている。「千葉胤富書状」(井田家文書)

 椎津城付近の久保田(窪田)城が里見方に押さえられていることから、この書状からもこの時期、椎津城は里見方に属していたことがわかる。

「千葉胤富書状」(井田家文書)[146]

「今度房衆(里見氏)窪田山(袖ヶ浦市)地利ニ取立□□□当国西筋悉可懸手扱ニ候間、地利不出来以前、雖可及一行候、遅々之内漸一両日之間ニ、可出来之由候間、不及是非候、然処ニ又生実(千葉市)近辺ニ敵地形見掛候間、窪田普請出来候者、翌日普請可打立事候、至于其儀者、一ヶ所さへ当国手詰ニ候、况両城成就候ハヽ、西筋者無論、過半敵可入手事眼前候之間、普請未熟之刻、即乗向可付是非候、(北条)氏政へも加勢之儀、所望候、原十郎(胤栄)昨日以牛尾(胤仲)如申上候、両地出来候者、何事も不可有所詮候、急速之行ニ極之由候、此時候間、人衆召連、来五日当地近辺ヘ必着陳尤候、在例式之様者、是以不可然候、為其急度被仰出候、謹言、  (元亀元年)六月二日 (千葉)胤富  井田平三郎(胤徳)殿」


  • 天正4年1576年、再び北条氏が上総に侵攻し土気城酒井康治を屈伏させ、椎津城の近くに有木城 (蟻木城・市原市海士有木)を築城して配下の椎津氏を置き、下総・相模の兵を入れて守備した。[147]これに対し、
  • 天正5年1577年2月26日、里見義弘は有木城を攻略するために、上杉謙信の関東出陣を懇願した。(「里見義弘書状 吉川金蔵氏所蔵文書」、「里見義弘書状 柿崎家文書」)

このことから、この前後には椎津城は再び北条氏の手に渡っていた。[148]

「里見義弘書状 吉川金蔵氏所蔵文書」 [149][150]

其以後者、往還不自由故、遥々絶音問候、仍旧冬(北条) 氏政当国東西ヘ相揺、其上号有木(市原市)地取立、椎津為物主下総惣番手加、相州衆相抱候、両酒井(酒井康治・酒井政辰)も去年氏政一味候、然而 (上杉) 謙信去冬御越山相待候処、越中筋御隙故、無其儀候、当春有御越山、氏政被相押候者、両酒井并有木之地押詰、達本意度候、将亦加賀・越中・能登迄御本意之由、其聞得候、一身之太慶此事候、急速有御越山、当年中厩橋(群馬県前橋市)御在陣候付而者、上・野(上野・下野)之間、悉相調可申候間、武・相之間迄も、可有御調儀候、何篇御越山火急相極候、委旨可有彼口舌候条、令省略候、恐々謹言、 (天正五年) 二月廿六日 (里見) 義弘(花押) 直江 (景綱) 大和守殿


「里見義弘書状 柿崎家文書」 [151][152]

其以来者路次不合期之間、絶書音候、仍去年(北条) 氏政当国へ調儀、 其上号有木(市原市)地取立、椎津為物主下総惣番手加、相州衆相抱候、両酒井(酒井康治・酒井政辰)事、氏政ニ悃望、然而 (上杉) 謙信去冬御越山相待候処、越中筋御隙故、無其儀候、当春有御越山、氏政被相押付而者、両酒井并有木之地押詰、達本意度候、将又加賀・越中・能登迄御本意之由、其聞得候、拙夫太慶此事候、急速有御越山、当年中厩橋(群馬県前橋市)御在陣候者、野・上(下野・上野)之間、悉相随可申候間、来秋武相(武蔵・相模) 之迄も可有御調義候、火急御越山相窮候、雖委可申通路大切之間令省略候、恐々謹言、 (天正五年) 二月廿六日 (里見) 義弘(花押) 柿崎 (景家) 和泉守殿


  • 天正期の椎津城やその前面の久保田城は、北条氏にとって里見支配領域との境目を押さえた重要な城であったため、

北条氏は、ここに原氏や高城氏、酒井氏といった有力武将たちに交代で城番を命じている。[153]

  • 天正4年1576年頃の12月11日、椎津城の前面にある久保田(窪田)城においては、北条家臣の松田憲秀が下総の原邦長、邦房に、久保田城の番として原氏が2500人出すことについて

1000人しか出せないとの人員の赦免要請は認められないので、毎度通りに2500人出すようにと書状を出している。[154]

「松田憲秀書状」(松田仙三氏所蔵原文書)[155] 「急度申候、其地窪田(袖ヶ浦市)御当番、定御番普請貳千五百人ニ候処、此内千人御披露之上、被成間敷之由候歟、御大途(北条氏)御赦免之儀、努無之候、如毎度、貳千五百人可有御勤候、為其一翰申入候、恐々謹言、  (年未詳)極月(十二月)十一日 松尾(松田)憲秀   原大(邦長)原太炊(邦房) 御陣所」


  • 天正5年1577年6月5日、北条氏政が土気城主の酒井伯耆守康治に、椎津の城番は高城(胤辰)であったが、高城は大手(出陣)に回すので、椎津へは東金(酒井政辰)と相談して

酒井氏の人数を早く入れるよう、書状を送っている。「北条氏政書状」(『三浦文書』 千葉市立郷土博物館所蔵)[156]

「北条氏政書状」(三浦文書 千葉市立郷土博物館所蔵)[157][158]

「雖顕先書、猶遣飛脚候、椎津地之当番、高城(胤辰)ニ候ヘ共、高城大手へ参陣之間、人衆可引由申付候、彼地ヘ相当程、東金(酒井政辰)相談、自両所、早々人衆を籠置肝要候、恐々謹言、 (天正五年)六月五日 (北条)氏政 酒井(康治)伯耆守殿」

その後、天正5年1577年、北条氏政と里見義弘の間で和睦し同盟が結ばれ(房相一和[159] 、豊臣秀吉の小田原征伐が動き出すまで、両者の間では直接大きな戦は起きなかった。

その他[編集]

五霊台から戦国時代の五輪塔が出土し、畑の隅に祀られている。[160]

本丸北側中断の断崖下に城の歴史を物語る「暦応3年1340年12月」と刻まれた板碑があったが、所在がわからなくなっている。[161]

椎津では、8月15日のお盆の夕方に「からだみ」といって空棺桶を担ぐ葬式行事が行われている。椎津城が落城した際、城主椎津小太郎義昌を偲んで仮の葬式を営んだのが始まりとも、城主を逃がすため、にせの葬式で敵を欺いたとのだとも伝えられている。(県指定無形民俗文化財 平成13年3月30日指定)[162][163]

椎津城跡はこれだけの歴史と規模を備えた史跡であるが、宅地化がすすみ消滅の危機にあり、市当局による早急な史跡の整備が求められる。

外部リンク[編集]


参考文献[編集]

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  3. ^ 平成27年度第2回市原市文化財審議会
  4. ^ 千葉県HP
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  6. ^ 『日本城郭体系6(千葉・神奈川)』(新人物往来社)P183
  7. ^ 『日本城郭体系6(千葉・神奈川)』(新人物往来社)P183
  8. ^ 『日本城郭体系6(千葉・神奈川)』(新人物往来社)p185
  9. ^ (財)市原市文化財センター『市原市五霊台発掘調査報告書』(1998)p81~84
  10. ^ 『日本城郭体系6(千葉・神奈川)』(新人物往来社)P183
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