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前田玄以

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前田 玄以
前田玄以像(蟠桃院蔵)
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文8年(1539年
死没 慶長7年5月20日1602年7月9日
改名 基勝、玄以(法名)
別名 孫十郎(通称)、半夢斎、徳善院(号)
戒名 徳善院殿天涼以公大居士
墓所 京都府京都市右京区花園妙心寺
官位 民部卿法印
主君 織田信長信忠信雄豊臣秀吉秀頼
丹波亀山藩
氏族 前田氏
父母 前田基光:不詳
正室村井貞勝の娘
秀以三条西実条正室、長松院、石川忠総継室、一瀬仁左衛門室、正勝茂勝稲葉貞通継々室
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『常にこそ曇りもいとへ今宵そとおもうは月の光なりけり』(月岡芳年『月百姿』)前田玄以

前田 玄以(まえだ げんい)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての僧侶武将大名豊臣政権五奉行の一人。

生涯

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天文8年(1539年)、美濃国に生まれた。『寛政重修諸家譜』によると前田氏は、加賀藩主前田氏と同じく菅原氏の一族として収録されているが、藤原利仁の末裔にして斎藤氏支流の季基が美濃国安八郡前田に住んで、前田氏を称したと伝わり、加賀前田家とは別流であるともされる。

若い頃は美濃の僧で、禅僧あるいは比叡山の僧とも伝えられている(『藩翰譜』)[1]。また尾張小松原寺の住職であったともされる(『武功雑記』)[注釈 1]

後に織田信長に招聘されて臣下に加わり、信長の命令でその嫡男・織田信忠付の家臣となった[2][注釈 2]

天正10年(1582年)6月、本能寺の変に際しては、信忠と共に二条新御所にあったが、信忠の命で逃れ、嫡男の三法師を美濃国岐阜城から尾張国清洲城に移した[3]

天正11年(1583年)、信長の次男の信雄に仕え、信雄から京都所司代に任じられた[4]

天正12年(1584年)、羽柴秀吉の勢力が京都に伸張すると、秀吉の家臣として仕えるようになった。

文禄4年(1595年)、秀吉より5万石を与えられて、丹波亀山城主となった。

豊臣政権においては京都所司代として朝廷との交渉役を務め、天正16年(1588年)の後陽成天皇聚楽第行幸では奉行として活躍している。また寺社の管理や洛中洛外の民政も任され、キリシタンを弾圧したが、後年にはキリスト教に理解を示し融和政策も採っている。慶長3年(1598年)、秀吉の命令で豊臣政権下の五奉行の一人に任じられた。

蒲生氏郷が病の際に、秀吉は9名の番医による輪番診療を命じた。この仕組みの運営は玄以邸で出されている。玄以が検使として立ち合っており、診療経過は逐一、秀吉に報告された[5]

秀吉没後は豊臣政権下の内部抗争の沈静化に尽力し、徳川家康会津征伐に反対した。

慶長5年(1600年)、石田三成が大坂で挙兵した際は、三成の挙兵に関わらなかった、とする説があるが[6]、全く三成に協力しなかったというわけではなく、家康弾劾状の副状の責任者となっている[7]。ただし、豊臣秀頼がいる大坂城の留守を預かった増田長盛と同じ立場であったが、長盛のように大坂城内にありながら徳川方に内通しているようなことはなく、長束正家のように石田・毛利方として軍事行動をすることもなく、秀頼の警護を大義として、豊臣家として中立の立場でいたとされる[7]。これらの行動が評価されたらしく、関ヶ原の戦いの後の10月16日、丹波亀山5万石の本領を安堵され、初代藩主となった。

慶長7年(1602年)5月20日、死去した。

長男の秀以は前年に早世していたため、三男(次男という説もある)の茂勝が跡を継いだ。

人物・逸話

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織田信長・豊臣秀吉配下の中では、ある程度ではあるが、京都の公家・諸寺社との繋がりを持つ数少ない人物と見なされ、このような要素にも所司代起用の理由があった[8]

かつて僧侶だった関係から当初キリシタンには弾圧を行っていたが、後年には理解を示し、秀吉がバテレン追放令を出した後の文禄2年(1593年)、秘密裏に京都でキリシタンを保護している。またポルトガルのインド総督ともキリシタン関係で交渉したことがあったとされる。ちなみに息子2人はキリシタンになっている。また僧侶出身のため、仏僧の不行状を目撃することが多かったらしく、彼らを強く非難している(『フロイス日本史』第69章)。

系譜

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脚注

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注釈

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  1. ^ いつごろ小松寺の住職になったかは明らかでない。一説に織豊期に住職を務めた中でも没年不詳である第6世慶意が玄以ではないかという。先代の5世住職・及慶は、少なくとも天正12年(1584年小牧・長久手の戦いで小松寺が戦焼失した際には在職の身であり、当時「大檀那」であった玄以の助力を得て寺の再建に尽力している。もし慶意が玄以であるとしたら、住職就任はこれ以降のこととなる。
  2. ^ 信長公記』における初出は天正7年(1579年)である。

出典

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  1. ^ 遠藤 2013, pp. 58–59.
  2. ^ 遠藤 2013, p. 58.
  3. ^ 高柳光寿『戦国戦記 本能寺の変・山崎の戦』春秋社、1958年。 
  4. ^ 遠藤 2013, p. 56.
  5. ^ 宮本義己「豊臣政権の医療体制―施薬院全宗の医学行跡を中心として―」『帝京史学』2号、1986年。 
  6. ^ 桑田忠親『太閤家臣団』(新人物往来社、1971年)
  7. ^ a b 宮本義己「生に固執した男たち」(『歴史群像シリーズ〔戦国〕セレクション 決戦 関ヶ原』2000年)
  8. ^ 遠藤 2013, p. 66.

参考文献

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  • 水野録治郎「前田玄以と小松寺」『郷土文化』8巻3号、名古屋郷土文化会、1953年。 
  • 遠藤珠紀 著「消えた前田玄以」、山本博文; 堀新; 曽根勇二 編『偽りの秀吉像を打ち壊す』柏書房、2013年。 
  • 矢部健太郎 著「前田玄以の呼称と血判起請文―「民部卿法印」から「徳善院僧正」へ―」、山本博文; 堀新; 曽根勇二 編『豊臣政権の正体』柏書房、2014年。 
  • 桑田忠親『太閤家臣団』(新人物往来社、1971年)
  • 宮本義己「豊臣政権の医療体制―施薬院全宗の医学行跡を中心として―」『帝京史学』2号、1986年
  • 宮本義己「生に固執した男たち」(『歴史群像シリーズ〔戦国〕セレクション 決戦 関ヶ原』2000年)