妙心寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
妙心寺
Myoshinji-temple.jpg
手前左側から三門・仏殿・法堂・大方丈
所在地 京都府京都市右京区花園妙心寺町64
位置 北緯35度1分23.39秒 東経135度43分12.67秒 / 北緯35.0231639度 東経135.7201861度 / 35.0231639; 135.7201861座標: 北緯35度1分23.39秒 東経135度43分12.67秒 / 北緯35.0231639度 東経135.7201861度 / 35.0231639; 135.7201861
山号 正法山
宗派 臨済宗妙心寺派
寺格 大本山
本尊 釈迦如来
創建年 暦応5年/康永元年(1342年
開基 花園法皇
関山慧玄(開山)
正式名 正法山 妙心禅寺
文化財 梵鐘、大燈国師墨蹟(国宝)
仏殿、法堂、三門他(重要文化財)
方丈庭園(国の史跡・名勝)
地図
妙心寺の位置(京都市内)
妙心寺
テンプレートを表示

妙心寺(みょうしんじ)は、京都市右京区花園にある臨済宗妙心寺派大本山の寺院。山号を正法山と称する。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は花園天皇。開山(初代住職)は関山慧玄(無相大師)。寺紋は花園紋妙心寺八つ藤)。

日本にある臨済宗寺院約6,000か寺のうち、約3,500か寺を妙心寺派で占める。近世に再建された三門、仏殿、法堂(はっとう)などの中心伽藍の周囲には多くの塔頭が建ち並び、一大寺院群を形成している。平安京範囲内で北西の12町を占め自然も多いため、京都市民からは西の御所と呼ばれ親しまれている。


歴史[編集]

法堂、座禅が行われている

京都の禅寺は、五山十刹(ござんじっさつ)に代表される、室町幕府の庇護と統制下にあった一派と、それとは一線を画す在野の寺院とがあった。前者を「禅林」または「叢林(そうりん)」、後者を「林下(りんか)」といった。妙心寺は、大徳寺とともに、修行を重んじる厳しい禅風を特色とする「林下」の代表的寺院である。

平安京の北西部を占める風光明媚な妙心寺の地には、花園上皇の花園御所(離宮萩原殿)があった。花園上皇は、建武2年(1335年落飾して法皇となり、花園御所(離宮萩原殿)を禅寺に改めることを発願した。法皇の禅の上での師は大徳寺開山の宗峰妙超(大燈国師)であった。宗峰は建武4年(1337年)12月没するが、臨終間近の宗峰に花園法皇が「師の亡き後、自分は誰に法を問えばよいか」と尋ねたところ、宗峰は高弟の関山慧玄を推挙した。その頃、美濃岐阜県)の伊深(美濃加茂市伊深町)で修行に明け暮れていた関山は、都に戻ることを渋っていたが、師僧・宗峰の遺命と花園法皇の院宣があっては辞去するわけにはいかず、暦応5年/康永元年(1342年)、妙心寺の開山となった。なお、「正法山妙心寺」の山号寺号は宗峰が命名したもので、釈尊が嗣法の弟子・摩訶迦葉(まかかしょう)に向かって述べた「正法眼蔵涅槃妙心」(「最高の悟り」というほどの意味)という句から取ったものである。[1]

関山慧玄の禅風は厳格で、その生活は質素をきわめたという。関山には他の高僧のような「語録」はなく、生前に描かれた肖像もなく、遺筆も弟子の授翁宗弼に書き与えた印可状(師匠の法を受け継いだ証明書)の他、ほとんど残されていない。[2]

妙心寺では開山関山慧玄以降、二祖授翁宗弼、三祖無因宗因、四祖日峰宗舜、五祖義天玄承、六祖雪江宗深までを「六祖」と呼んで尊崇している。なお、この初祖〜六祖は法系を指すものであって、妙心寺の住持として何世目であるかを指すものではない。住持の世代としては日峰宗舜、義天玄承、雪江宗深がそれぞれ七世、八世、九世にあたる。[3]

妙心寺 6世住持の拙堂宗朴(せつどうそうぼく)は、足利氏に反旗をひるがえした大内義弘と関係が深かったため、将軍足利義満の怒りを買った。応永6年(1399年)、義満は妙心寺の寺領を没収して青蓮院の義円(後の足利義教)に与え、拙堂宗朴は大内義弘に連座して青蓮院に幽閉の身となった。義円は没収した寺領をさらに南禅寺廷用宗器に与え、廷用は寺号を「龍雲寺」と改めた。こうして妙心寺は一時中絶することとなった。妙心寺が復活するのは永享4年(1432年)のことである。同年、廷用は微笑塔(開山関山慧玄の塔所)の敷地をその頃南禅寺にいた根外宗利に与えた。関山慧玄の流れを汲んでいた根外は、犬山瑞泉寺から日峰宗舜を迎えて妙心寺を復興させた。このため日峰は妙心寺中興の祖とされている。[4]

妙心寺は応仁の乱1467年 - 1477年)で伽藍を焼失したが六祖雪江宗深の尽力により復興する。雪江宗深は住持の期間を3年と定め、その4人の法嗣、景川宗隆悟渓宗頓特芳禅傑および東陽英朝は師亡き後交代で妙心寺の住持を務めてそれぞれ妙心寺四派の龍泉派、東海派、霊雲派及び聖澤派の祖となった。各々の派は現在まで続いており、妙心寺派の寺院は全て四派のいずれかに属している。永正6年(1509年)、後柏原天皇から紫衣勅許の綸旨を得る。この勅許状には大徳寺と位が等しい旨が記されており、これをもって妙心寺は大徳寺から独立したとみなされている。[5]12月には悟渓宗頓に帰依していた利貞尼が仁和寺領の土地を購入して妙心寺に寄進し、境内が拡張された。利貞尼は関白一条兼良女、美濃加納城斎藤利国の室である。永禄年間希菴玄密により、住持の期間が3年から1年に改められる。天正6年(1578年)には南化玄興快川紹喜虎哉宗乙ら三十六師連名で妙心寺壁書(規則)を定めた。

その後の妙心寺は戦国武将などの有力者の援護を得て、近世には大いに栄えた。[6]江戸時代に隠元隆琦が訪日すると、龍渓性潜らが臨済宗の正統を継ぐ師の到来として妙心寺へ迎えようとしたが、当時の重鎮愚堂東寔によってその案は峻拒された。明治4年(1871年)に管長職を設け、名古屋徳源寺の鰲巓道契が妙心寺派初代管長となっている。

伽藍[編集]

仏殿、法堂(奥)

以上の建造物はすべて国の重要文化財

塔頭寺院[編集]

春光院
桂春院
隣華院

妙心寺の塔頭は40数箇院に及ぶ。妙心寺の塔頭や末寺は龍泉派、東海派、霊雲派、聖沢派の 4系統に分かれており、これを「四派」と呼ぶ。この四派は妙心寺六祖雪江宗深の法嗣である景川宗隆(龍泉派)、悟渓宗頓(東海派)、特芳禅傑(霊雲派)、東陽英朝(聖沢派)の 4名を派祖とする。そして、これら 4名にゆかりの塔頭、すなわち龍泉庵東海庵、霊雲院、聖沢院を四本庵と称する。[9]

また、「歴史」の節で述べた六祖ゆかりの塔頭を「六祖道場」と称する。授翁宗弼の塔所である天授院、無因宗因が開いた退蔵院、日峰宗舜が開いた養源院、雪江宗深が開いた衡梅院などがこれにあたる。玉鳳院は開山塔所ならびに花園法皇塔所として別格の存在であり、塔頭でなく諸堂伽藍として扱われる場合もある。[10]

塔頭の数については、資料により小差がある。妙心寺の公式サイトは塔頭を46か院とするが、荻須純道編著『妙心寺』(1977年刊)は、同年現在の塔頭は47か院、うち山内塔頭37か院とする。2009年に東京国立博物館等で開催された特別展「妙心寺」の図録には塔頭として48か院を挙げている。以下の一覧には、特別展「妙心寺」の図録にある48か院を列挙する。

山内塔頭[編集]

境外塔頭[編集]

  • 慧照院(右京区花園坤南町)- 元和9年(1623年)、開基松平忠昌が妙心寺103世瑞雲宗呈を開祖として創建。
  • 龍華院(右京区花園坤南町)- 明暦2年(1656年)、開基は毛利秀就正室喜佐姫、妙心寺223世竺印祖門を開祖として創建。
  • 春浦院(右京区花園坤南町) – 妙心寺319世空山宗空が開祖と伝わる。室町時代絵巻物で重要文化財の「福富草紙(ふくとみぞうし)」(土佐派の絵師・土佐行広周辺の作)を所蔵
  • 金台寺(北区等持院西町)- 元は池上寺と称していたが慶長13年に妙心寺131世輝岳宗暾が国泰寺と改称して開祖となった。その後、名称が鳳台院、金台寺と変わっている。
  • 仙寿院(右京区竜安寺衣笠下町) - 承応元年(1652年)、後水尾帝が帰依していた妙心寺196世禿翁妙宏を開祖として創建された。
  • 多福院(右京区竜安寺衣笠下町)- 文明14年(1482年)に鉄川宗煕を開祖として創建された。
  • 龍安寺(右京区竜安寺御陵ノ下町)- 宝徳2年(1450年)、細川勝元が義天玄詔を開祖として創建。細川政元が特芳禅傑を中興開祖長享2年(1488年)に再建した。特別名勝の石庭で有名。
  • 霊光院(右京区竜安寺御陵ノ下町)- 天正10年(1582年)、開祖は妙心寺第44世月航宗津。織田信長の妹であるお犬の方の廟所がある。
  • 大珠院(右京区竜安寺御陵ノ下町)- 明応2年(1493年)に妙心寺22世興宗宗松を開祖として創建。石川光吉が慶長5年(1600年)に中興した。
  • 西源院(右京区竜安寺御陵ノ下町)- 延徳元年(1489年)に開基細川政元が妙心寺12世特芳禅傑を開祖として創建される。その後一時荒廃したが、その法嗣の大休宗休により中興される。明治に至り東皐院を併合した。

文化財[編集]

梵鐘
大方丈
三門
大燈国師墨蹟 関山字号
大燈国師墨蹟 与関山慧玄印可状

国宝[編集]

重要文化財[編集]

建造物[編集]

美術工芸品[編集]

  • 絹本著色花園天皇像 後花園帝の賛あり
  • 絹本著色虚堂和尚像・絹本著色大応国師像・絹本著色大燈国師像(元徳2年の自賛あり)
  • 絹本著色十六羅漢像 16幅
  • 絹本著色六代祖師像 6幅
  • 絹本墨画普賢菩薩像
  • 紙本著色三酸及寒山拾得図(六曲屏風)・紙本著色琴棋書画図(六曲屏風)・紙本著色花卉図(六曲屏風)(以上海北友松筆)・紙本著色呂望及商山四皓図(六曲屏風)・紙本著色厳子陵及虎渓三笑図(二曲屏風)
  • 紙本著色竜虎図 六曲屏風
  • 紙本墨画達磨・豊干布袋
  • 紙本墨画瀟湘八景図 六曲屏風
  • 倶利迦羅竜守刀 中身銘尚宗 豊臣棄丸所用
  • 小形武具 甲 2領、冑 1頭、鞍 1脊 豊臣棄丸所用
  • 関山慧玄墨蹟 授宗弼証状 延文元年仲春日
  • 花園天皇宸翰消息(三月廿二日)
  • 花園天皇宸翰書状(貞和3年七月廿九日 )
  • 花園天皇宸翰置文(貞和3年七月廿二日 関山上人宛 )
  • 後奈良天皇宸翰徽号勅書(弘治3年三月十二日)
  • 後奈良天皇宸翰置文(弘治3年八月九日 妙心寺方丈宛 )
  • 後西天皇宸翰徽号勅書(万治元年十二月十二日)
  • 東山天皇宸翰徽号勅書(宝永3年八月十二日)
  • 桃園天皇宸翰光徳勝妙国師号勅書(宝暦6年十月十二日)
  • 光格天皇宸翰徽号勅書(文化2年三月十二日)
  • 孝明天皇宸翰徽号勅書(安政2年三月十二日)

焼失した文化財[編集]

史跡[編集]

  • 妙心寺境内 – 周辺の塔頭の敷地も含めた約19.5ヘクタールが指定範囲となっている。

史跡・名勝[編集]

  • 妙心寺庭園 – 上記の「妙心寺境内」とは別個に、国の史跡及び名勝に指定されている。指定範囲は前庭、大方丈庭園、小方丈庭園の3か所。「前庭」とは、勅使門と山門(三門)の間にある放生池や、中心伽藍周辺の松の植栽を指す。[12]

年中行事[編集]

アクセス等[編集]

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 荻須純道編著『妙心寺』、pp.33, 34, 37
  2. ^ 荻須純道編著『妙心寺』、p.40
  3. ^ 荻須純道編著『妙心寺』、pp.51, 52
  4. ^ 荻須純道編著『妙心寺』、pp.45, 46
  5. ^ 妙心寺 六百五十年の歩み
  6. ^ 荻須純道編著『妙心寺』、pp.55 – 57
  7. ^ 妙心寺 浴室
  8. ^ 妙心寺の浴室は「明智風呂」
  9. ^ 荻須純道編著『妙心寺』、pp.52, 175 – 176
  10. ^ 荻須純道編著『妙心寺』、pp.178 – 179, 188
  11. ^ 正則娘が水無瀬兼俊
  12. ^ 『図説日本の史跡8 近世近代2』、同朋舎出版1991年、p.139

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]