石田重家
| 時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
|---|---|
| 生誕 | 生年不詳 |
| 死没 | 貞享3年閏3月8日(1686年4月30日)[1] |
| 改名 | 重家→宗享(法名) |
| 別名 | 通称:隼人正 |
| 諡号 | 済院宗享大禅師 |
| 戒名 | 宗享 |
| 墓所 | 妙心寺寿聖院 |
| 官位 | 隼人正 |
| 主君 | 豊臣秀頼 |
| 氏族 | 石田氏 |
| 父母 | 父:石田三成、母:皎月院 |
| 兄弟 |
重家、重成、深長坊清幽、宗信、 荘厳院(津軽信枚室)、女(山田隼人正室)、 女(岡重政室) |
| 妻 | 不明 |
| 子 | 直重 |
石田 重家(いしだ しげいえ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての人物。石田三成の嫡男。関ヶ原の戦いの後に出家し、臨済宗の僧としての名は済院宗享。
略歴[編集]
天正11年(1583年)または天正15年(1587年)、石田三成の嫡男として誕生したとされる[要出典]。これに対して、谷徹也は『兼見卿記』天正14年2月5日条に石田佐吉(三成)の女房が3月に出産予定であるため、安産祈願の依頼を受けた記事があるのに注目し、天正14年(1586年)に誕生した可能性が高いとする[2]。
父・三成が加藤清正ら七将に襲撃されて引退を余儀なくされた後に、父に代わって大坂城の豊臣秀頼の下に出仕し、徳川家康からも可愛がられたともいう(『看羊録』)[3]。
慶長5年(1600年)、重家は父から大谷吉継とともに上杉討伐に出陣する徳川家康の下へ参陣するように命じられるが、関ヶ原の戦いが勃発したため、豊臣家に対する人質として大坂城に留め置かれた。
しかし、関ヶ原における西軍大敗の知らせが届くと、京都妙心寺の塔頭寿聖院に入って、住職の伯蒲慧稜(伯蒲恵稜とも)によって剃髪して仏門に入れられた。伯蒲は法号として宗享の名を彼に与える。済院は字[4]。
伯蒲は、京都所司代奥平信昌を通じて助命を嘆願し、家康は本多正信と協議して、重家がまだ10代前半と若かったことからこれを許した。元和9年(1623年)、宗享は仏戒を修めて、雲屋祖泰(雲屋宗春)より寿聖院を三世として受け継ぐが、そもそも寿聖院は三成が実父正継のために伯蒲を招いて開基した寺である[5]。
また、後に春日局の側近として大奥で仕えることになる祖心尼に禅を教授したとも言われている。
貞享3年(1686年)閏3月8日に死去[1]。享年104ともいうが、生年には前述の他にも異説が多くあり、正確な年齢は不明。
異説[編集]
異説としては大坂城より脱して(妙心寺ではなく)高野山に奔ったというものがいくつかあり、『豊内記』では高野山に逃れた後に殺されたとしている[6]。また別に、晩年の重家は仏門から還俗して和泉国岸和田藩の藩主・岡部宣勝の庇護を受けながら、岸和田で死去したという説もある[1]。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 渡邊世祐、国立国会図書館デジタルコレクション 「その子孫」 『稿本石田三成』 雄山閣、1929年。
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