等持院

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等持院
Toji-in Temple Japanese garden140512NI2.JPG
方丈と庭園
所在地 京都府京都市北区等持院北町63
位置 北緯35度1分53.58秒 東経135度43分24.49秒 / 北緯35.0315500度 東経135.7234694度 / 35.0315500; 135.7234694座標: 北緯35度1分53.58秒 東経135度43分24.49秒 / 北緯35.0315500度 東経135.7234694度 / 35.0315500; 135.7234694
山号 萬年山
宗派 臨済宗天龍寺派
本尊 釈迦牟尼仏
創建年 暦応2年(1341年
開山 夢窓疎石
開基 足利尊氏
文化財 紙本淡彩等持寺絵図(重要文化財
公式HP https://toujiin.jp/
法人番号 3130005001119 ウィキデータを編集
等持院の位置(京都市内)
等持院
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尊氏の墓

等持院(とうじいん)は、京都市北区にある臨済宗天龍寺派の寺院。山号は萬年山。足利氏菩提寺であり、足利尊氏の墓所としても知られる。

歴史[編集]

尊氏は暦応4年(1341年)に現在の京都市中京区柳馬場御池付近に等持寺を建立し、その2年後の康永2年(1343年)、現在の京都市北区等持院北町に夢窓疎石を開山として別院北等持寺を建立したとされている。ところが、柳馬場にあったとされる等持寺建立に関する異説として暦応元年(1338年)頃に尊氏の弟である足利直義古先印元を開山として建立したとする説が出されている[1]。これは、南北朝時代公家の日記である『師守記』(暦応2年9月1日条)には武衛(左兵衛督=足利直義)が三条坊門殿の等持院で父足利貞氏追善の法華八講を主催したことが記されていることによる。ここに登場する等持院は後の等持寺のことで、その隣地には直義の三条坊門殿があり、等持院も元は直義が一門のために建てた持仏堂であったと推定する考えである。康永元年(1342年)頃に等持院が諸山に叙せられた際に寺号を等持寺と定めたという。また、当院はそもそも仁和寺の一院であったが、暦応4年(1341年)に等持寺の別院となったともいう。

法勝寺の恵鎮(円観)が等持寺にて足利直義に『太平記』を見せられたという逸話(『難太平記』)も、当時の等持寺が直義ゆかりの寺院であったことを示すものとされている。なお、後に直義は観応の擾乱によって滅亡し、三条坊門殿は尊氏の嫡男足利義詮の邸宅になり、等持寺も義詮が管理するところとなった。直義建立説によれば、一連の戦乱で等持寺も大きな被害を受けたために尊氏は同寺を足利氏の菩提寺に相応しいものに大改築を行っているが、その際に寺伝を改竄して開山を夢窓疎石とするとともに、等持寺建立における直義と古先印元の事績を抹殺したとしている[2]

延文3年(1358年)に尊氏が亡くなり、別院北等持寺に葬られると北等持寺は尊氏の墓所となり、尊氏の戒名をとって名称を「等持院」と改称し、足利将軍家菩提寺となった。

その後、長禄年間(1457年 - 1460年)に焼けたが、応仁の乱で柳馬場の本寺・等持寺が焼失したため、別院・等持院は本寺の等持寺を吸収合併した。しかし、室町幕府の衰退に伴って次第に衰微していった。

慶長11年(1606年)、豊臣秀頼により片桐且元を奉行として再興される。

江戸幕府により寺領326石が安堵される。

文化5年(1808年)、火災によって多くの建物を焼失するが、文政年間(1818年 - 1831年)に復興する。しかし、明治時代になると多くの塔頭が廃止された。

1921年大正10年)、マキノ省三が等持院塔頭跡地に牧野教育映画製作所と映画撮影所を設けた。撮影所は1933年昭和8年)まで存続した。

作家の水上勉相国寺瑞春院を13歳で脱走後、17歳まで小坊主として当院に寄宿していた。その当時の住職は栂道節で、京都商業学校(現・京都学園高等学校)野球部にいた沢村栄治を東京巨人軍(現・読売ジャイアンツ)専務取締役市岡忠男に紹介している。

当院の南東にはかつての鎮守社である六請神社がある。

境内[編集]

庭園と清漣亭
  • 方丈(本堂) - 元和2年(1616年)に福島正則妙心寺塔頭海福院に建立したものを、文政元年(1818年)に当院に移築した。襖絵は狩野興以の作。明治維新や映画撮影で一部破損する。
  • 方丈南庭
  • 勅使門
  • 霊光殿 - 方丈の西側に建つ。本尊の利運地蔵尊の他、足利歴代の将軍、徳川家康の木像がある。
  • 庫裏
  • 書院
  • 茶室「清漣亭」 - 足利義政好みの茶室。江戸時代初期に再建されたが元は康正3年(1457年)に義政が建てたものである。
  • 等持院形石灯籠
  • 十三重塔 - 室町幕府将軍十五代の供養塔。
  • 東庭園 - 心字池を中心とする庭園。夢窓疎石作と伝えられる。東庭園・西庭園は本来は衣笠山借景としていたが、立命館大学衣笠キャンパスの拡充により校舎に眺めを遮られたため、現在では樹木を高く伸ばして校舎を隠している。
  • 西庭園 - 方丈北庭。芙蓉池を中心とする庭園。
  • 足利尊氏の墓 - 宝篋印塔。
  • 山門
  • 鐘楼
  • マキノ省三
  • 総門

足利歴代将軍木像[編集]

霊光殿
足利義昭像

霊光殿に安置されている足利歴代将軍木像は、以下のとおりである。歴代数は等持院独自のもので一般的な歴代数とは異なる。また足利義量(一般的には第5代将軍)、足利義栄(同、第14代将軍)の木像はない。

家康像は、家康が42歳の時に厄落としのためにわざわざ作らせ、自らの祈祷所である石清水八幡宮豊蔵坊に置かれていたものであるが、廃仏毀釈によって豊蔵坊が廃止されたために当院に移されたもの。家康は足利歴代将軍ではないが、吉良氏今川氏をはじめとする足利氏一族を高家として取り立てた他、足利尊氏の三男である室町幕府初代鎌倉公方足利基氏の子孫に下野国喜連川藩5,000石を与え、1万石に満たない少禄ながら10万石格の大名(喜連川家)に取り立てるなど、足利将軍家ゆかりの者を重んじたことによる。

幕末文久3年(1863年)2月22日、上記の足利尊氏・義詮・義満三代の木像の首が鴨川の河原にさらされる事件が発生する(足利三代木像梟首事件)。これは将軍(幕府)への批判ととらえられ、京都守護職松平容保会津藩主)は厳重な捜査を命じ、同年8月に犯人は処刑された。

文化財[編集]

重要文化財[編集]

  • 紙本淡彩等持寺絵図

京都市指定有形文化財[編集]

  • 方丈障壁画(狩野興以筆) 32面(絵画) - 江戸時代。1984年(昭和59年)6月1日指定[3]
  • 絹本著色豊臣秀吉像(慶長4年8月三章令彰の賛がある) 1幅(絵画) - 桃山時代1995年平成7年)3月30日指定[3]

京都市指定名勝[編集]

  • 等持院の庭園 - 2016年(平成28年)3月31日指定[4]

京都市登録有形文化財[編集]

  • 方丈障壁画(狩野興以筆) 34面3隻(絵画) - 江戸時代。1984年(昭和59年)6月1日登録[3]

出典[編集]

  1. ^ 今枝愛眞「足利直義の等持寺創設」(『中世禅宗史の研究』(東京大学出版会、1970年))。
  2. ^ 細川武稔 「足利氏の邸宅と菩提寺 -等持寺・相国寺を中心に-」『京都の寺社と室町幕府』(吉川弘文館)2010年(原論文は『史学雑誌』第107編12号、1998年)ISBN 978-4642028875 、12-19p
  3. ^ a b c 京都市指定・登録文化財-美術工芸品-北区(京都市ホームページ)。
  4. ^ 平成28年3月31日京都市インターネット版公報より京都市教育委員会告示第8号 (PDF) (リンクは京都市ホームページ)。

関連項目[編集]