池田長吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
 
池田長吉
時代 安土桃山時代 - 江戸時代
生誕 元亀元年(1570年
死没 慶長19年9月24日1614年10月27日
改名 藤三郎(幼名)
羽柴藤三郎→羽柴長吉→池田長吉
別名 通称:備中守、池田備中守
戒名 隣松院殿茂林宗綱大居士
墓所 東禅寺東京都港区高輪)
官位 従五位下備中
幕府 江戸幕府
主君 豊臣秀吉徳川家康秀忠
因幡鳥取藩
氏族 池田氏羽柴氏
父母 父:池田恒興、母:善応院(荒尾善次の娘)
義父:豊臣秀吉
兄弟 元助輝政長吉長政、安養院(森長可室、後に中村一氏室)、若御前豊臣秀次正室)、天球院(山崎家盛正室、後に離縁)、慶雲院(浅野幸長正室)、女(織田勝長正室)[1]
義姉:七条織田信時の娘、飯尾敏成正室、後に下間頼龍正室)
正室:伊木忠次の娘
側室:濱島氏
長幸森寺長貞長政長頼長賢
養子:池田長政の娘、山崎家治正室)
特記
事項
豊臣秀吉の猶子(養子)

池田 長吉(いけだ ながよし)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名池田恒興の三男。長吉流池田家初代当主で、因幡鳥取藩初代藩主。

略歴[編集]

元亀元年(1570年)、尾張国犬山城で生まれた[2][3]。生母は恒興の正室・善応院。

天正9年(1581年)、12歳の時に羽柴秀吉猶子(養子)となり、羽柴姓を許されて、羽柴藤三郎を称する[4]。この時、澤潟(おもだか)の紋付を授かった[3]

天正12年(1584年)、長久手の戦いに参陣。勝利の暁には秀吉より稲葉郡を恩賞として与えるとの約束されていた[5]が、4月9日に池田勢は大敗して、父・恒興と長兄・元助、義弟・森長可が戦死し、この時に長吉も傷を負った[2]。28日、池田家の跡は次兄の輝政が継いだ[6]

天正13年(1585年)、従五位下備中に叙任され、1万石を知行される[2]

天正14年(1586年)の京都方広寺の大仏殿工事を分担[7]。天正15年(1587年)の九州の役や、天正18年(1590年)の小田原の役に従軍。

文禄元年(1592年)の文禄の役では、肥前名護屋城に秀吉の旗本衆の1つとして400人を率いて在陣し、途中より朝鮮渡海の舟奉行を務めて、その功で名馬・大般若を賜る[2]

文禄3年(1594年)、大仏の造営奉行を務めて、伏見城の普請も分担。

慶長5年(1600年)時点で2万2,000石を知行。

同年7月、徳川家康会津征伐に兄・輝政と共に参陣。石田三成の挙兵により関ヶ原の役が始まると、小山評定で兄の部隊の一部として先手衆に加えられた。8月22日、23日、東軍諸将と美濃岐阜城攻めに参加。新加納川を渡って城兵と戦い、飯沼長資[8]を自ら討ち取った。15日の本戦の後、27日に近江水口岡山城攻めを命じられると、長束正家長束直吉兄弟を9月30日に助命すると欺いて開城させて誘い出し、10月3日に切腹させるという戦功を挙げ、褒美として正家の財貨は悉く長吉に与えられた。

戦後に徳川家康にそれらを賞されて、11月、因幡国で4郡・6万石と鳥取城を与えられ、鳥取藩に加増移封された。この時に池田姓に復している。

慶長8年(1603年)、伏見城の再建普請に参加。慶長11年(1606年)、江戸城の石垣普請を分担。その功で備前三郎國宗の脇差しを賜った。

慶長19年(1614年)9月24日(または14日)に死去した。享年45。

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 丸島和洋「織田信房」「大竜寺麟岳」 柴辻俊六・平山優・黒田基樹・丸島和洋編『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年, p.195。
  2. ^ a b c d 堀田 1923, p.428
  3. ^ a b 蔵知矩 1934, p.25
  4. ^ 阿部 1990, p.76
  5. ^ 宮本義己 『春日の局と乳母の歴史』 (Kindle版) 学研〈歴史群像デジタルアーカイブス<徳川家と江戸時代>〉、2015年 ASIN B00TZP5FL0
  6. ^ 蔵知矩 1934, p.6
  7. ^ 高柳 & 松平 1981, p.28
  8. ^ 小勘平。織田秀信の家臣飯沼長実の子。

参考文献[編集]

外部リンク[編集]