松平忠昭 (藤井松平家)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
 
松平忠昭
時代 江戸時代前期
生誕 正保元年(1644年
死没 天和3年閏5月4日1683年6月28日
改名 千太郎(幼名)、忠昭
戒名 勇哲存秀晋光院
墓所 京都府京都市左京区の光明寺
官位 従五位下玄蕃頭伊賀守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家綱綱吉
丹波亀山藩
氏族 藤井松平家
父母 松平忠晴、大野木氏
兄弟 忠俊忠昭忠周、女子
松平忠国娘栄昌院、柘植氏
広橋兼廉室、忠隆
忠周
テンプレートを表示

松平 忠昭(まつだいら ただあき)は、丹波国亀山藩主。官位従五位下玄蕃頭伊賀守。伊賀守流藤井松平家2代、同家の亀山藩主としても2代目となる。

略歴[編集]

初代藩主・松平忠晴の次男として誕生した。幼名は千太郎。

正保2年12月(1646年)、嫡出の兄忠俊が早世するが、忠昭は幼少のため、藤井松平宗家から従兄の忠栄が嫡子として迎えられた。しかし寛文6年(1666年)、忠栄は廃嫡され、忠昭が嫡子となって徳川家綱に初御目見した。寛文7年(1667年)、父の隠居により忠昭が家督を相続した。

男子が全て夭逝していたため、父の遺命に従って異母弟の忠周を嗣子とする。天和3年(1683年)に没した。法号は勇哲存秀晋光院。墓所は京都府京都市左京区の光明寺。

死の半年ほど前に男子が出生した。後の忠隆である。忠昭の死後、家督を巡って家臣間の権力抗争が生じたが、結局は父・忠晴の遺命どおりの家督相続となった。

系譜[編集]