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小早川秀秋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
小早川 秀秋 
絹本着色小早川秀秋像(高台寺蔵)
時代 安土桃山時代
生誕 天正10年(1582年)
死没 慶長7年10月18日(1602年12月1日)
改名 木下金吾(幼名)→羽柴秀俊→小早川秀秋→秀詮
別名 金吾中納言[注釈 1]、筑前中納言、岡山中納言(通称)
戒名 瑞雲院秀巌日詮
墓所 岡山県岡山市の瑞雲寺
京都府京都市の瑞雲院
官位 従三位・左衛門督、参議、権中納言
主君 羽柴秀吉(豊臣秀吉)→豊臣秀頼→徳川家康
藩 備前国岡山藩藩主
氏族 木下氏→羽柴氏(豊臣氏)→小早川氏
父母 父:木下家定、母:雲照院
養父:豊臣秀吉、小早川隆景
兄弟 木下勝俊、木下利房、木下延俊、
木下俊定、秀秋、木下俊忠、
木下秀規、周南紹叔
妻 正室:古満姫(毛利輝元養女)
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小早川 秀秋(こばやかわ ひであき)は、安土桃山時代の武将・大名。丹波国亀山城城主、筑前国名島城城主を経て、備前国岡山城城主。

豊臣秀吉の正室・高台院の甥。小早川隆景の養子となった[1]。関ヶ原の戦いで東軍に寝返り、東軍勝利の契機をつくった。戦後、秀詮(ひであき)と改名した。

生涯

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豊臣家の公達

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天正10年(1582年)、木下家定(高台院の兄)の五男として生まれる[2][注釈 2]。母は杉原家次の娘[5]。『藩翰譜』などは幼名を辰之助とするが、同時代史料では確認できない[6]。黒田基樹は、天正13年(1585年)のものと推定される羽柴秀吉書状において、当時4歳の秀秋が「きん五」(金五、金吾)と書かれていることから、これを幼名としている[6]。この「金吾」は、元服した後もそのまま仮名として用いられた[7][注釈 3]。

天正12年(1584年)、叔父である羽柴秀吉の猶子となり[1]、同13年(1585年)には秀吉の養子になる[9]。幼少より、長浜城で高台院に育てられた[9]。

天正16年(1588年)4月14日、従五位下・侍従に叙任した[10]。また、秀吉の後継者候補として元服し、秀俊と名乗った[11][12]。そして、豊臣秀勝の領地であった丹波国亀山城10万石を与えられた。

同月、後陽成天皇の聚楽第行幸では、内大臣・織田信雄以下6大名が連署した起請文の宛所が金吾殿(秀俊)とされた。またこの際、秀吉の代理で天皇への誓いを受け取っている[13]。

天正19年(1591年)10月1日、正四位下・参議に叙任した[14]。同年より、豊臣姓が確認されるようになる[15]。

文禄元年(1592年)1月29日、従三位・権中納言兼左衛門督に叙任した[14]。このため、「丹波中納言」と呼ばれた。

秀俊は諸大名からは関白・豊臣秀次に次ぐ、豊臣家の継承権保持者ともみられていた[16]。

筑前小早川家の養子相続・筑前国主として

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小早川隆景

文禄2年(1593年)8月、秀吉に実子・豊臣秀頼が生まれたことにより、秀吉幕下の黒田孝高から小早川隆景に「秀俊を毛利輝元の養子に貰い受けてはどうか」との話が持ちかけられる[17]。これを聞いた隆景は、弟・穂井田元清の嫡男である毛利秀元を毛利家の跡継ぎとして秀吉に紹介した上で、秀俊を自身の小早川家の養子に貰い受けたいと申し出て認められた、と『黒田家譜』には記されている[17]。ただし、秀頼が誕生する前の4月に、毛利秀元は毛利家世嗣として秀吉から偏諱を受けており、この逸話はそれと矛盾している。

他方、『陰徳太平記』には違った経緯が記されている[18]。秀吉は輝元に実子がなかったことから、秀俊を輝元の養子として毛利氏に送り込もうとした[18]。だが、隆景は秀吉の意向を知ると、秀俊の胡乱さから養子に迎え入れれば毛利氏が滅亡すると考え、秀吉には秀元が輝元の養子とすでに決まっていると伝えた[18]。だが、これが秀吉の機嫌を損ねたため、隆景は毛利氏にとって禍根になると考え、秀俊を自身の養子にすることにしたという[19]。

文禄3年(1594年)7月頃、秀俊は秀吉の命により、隆景と養子縁組させられた[14]。また、隆景の官位は秀俊との養子縁組を契機に中納言にまで上昇し、結果として小早川家の家格も上昇することになる[13][20]。

文禄4年(1595年)正月、秀次の名護屋城在陣が計画されると、秀俊も朝鮮への出陣が予定され、毛利輝元を大将とする軍勢に組み込まれた[21]。この文禄の役が秀俊の初陣となるはずであったが、結局出陣することはなかった[21]。

7月、秀次の切腹事件が発生すると、秀俊はこれに連座して、羽柴家の一門として領していた丹波亀山領10万石を改易された[22]。

9月、秀俊は隆景と共に筑前国に下向し、名島城に入った[23]。

12月頃、隆景が主な家臣を連れて、備後国三原へ隠居した[23]。秀俊は小早川領30万7千石を相続する形で、筑前国主となった。小早川氏の家督相続にあたって、付家老の山口宗永が隆景直臣の鵜飼元辰らから引き継ぎを受け、検地を実施して領内石高が定められた。

筑前東部の5万石については隆景の隠居領であり、隆景の家臣が残っていたが、慶長2年(1597年)6月の隆景没後に、小早川家でも外様衆の村上氏・日野氏・草刈氏・清水氏が秀俊に仕官した[24]。

慶長の役

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小早川秀秋の浮世絵

慶長2年(1597年)2月21日、秀吉より発せられた軍令により、秀俊の朝鮮半島渡海が決定した[25]。秀俊は全軍の総大将として、一万の兵と共に釜山浦にて在陣する任が与えられた[25]。

5月22日、秀俊は朝鮮に渡海すべく、大坂を出発し、領国に下向した[26]。

6月12日、養父の小早川隆景が三原で没し、その家臣らは秀俊に付属することになった[26]。なお、秀俊はこの日以降、7月23日までに名を秀秋へ改名している[27][28]。

6月29日、秀秋は名護屋から朝鮮に向けて出陣し、7月17日に釜山に上陸した[29]。秀秋にとって、この慶長の役が初陣であった[29]。

秀秋は同年12月23日から翌慶長3年(1598年)1月4日にかけて行われた蔚山城の戦いに参加したとする史料もあるが、これは寛文12年(1672年)成立の『朝鮮物語』を典拠としており、「黒田家文書」[注釈 4]をはじめ、この戦いに関する一次史料群に秀秋の参加を裏付けるものは確認されない。

秀秋は慶長2年12月以前より、秀吉からの帰国要請を再三受けており、慶長3年(1598年)1月29日[30]にようやく帰国の途についた。秀秋帰国後も、小早川勢は500人ほどの残留部隊が寺沢広高の指揮下で釜山の守備に就いたが、広高らも5月中には帰国している。

4月20日、山口宗永が約700人規模の4部隊を、日野景幸・清水景治・仁保民部少輔(仁保広慰か)・村上景親ら指揮のもと順次交替で西生浦に駐屯させ、指示に従わない者が出た場合は毛利吉成と相談のうえで成敗しても構わないとする命令を出している[31]。

越前転封と筑前復帰

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慶長3年4月頃[23]、秀吉の命により、秀秋は越前国北ノ庄12万石への減封となった[32][33]。これにより、筑前国の旧小早川領は太閤蔵入地となり、はじめ石田三成が単独で、のちに浅野長政も代官になっている[33]。この国内召還と転封は蔚山城の戦いにおける秀秋の軽率な行動が原因とされることが多いが、前項で述べた通り、秀秋の帰国日程は蔚山城の戦い以前にすでに決定されており、また蔚山城の戦いへの秀秋の参加を裏付ける史料も存在しないため、実際には無関係であると考えられる[28]。

この転封の際の大幅な減封により、秀秋家中は多くの家臣を解雇することとなり、長く付家老として秀秋を補佐してきた宗永もこの時、秀吉直臣の加賀大聖寺城主となって秀秋の元を離れている。隆景以来の旧小早川家家臣の高尾又兵衛や神保源右衛門らは、代官として派遣されてきた三成の家臣として吸収された[24]。秀秋からの筑前没収は、朝鮮出兵の長期化の中での日本国内の兵站補給拠点である博多を含めた筑前の直轄支配の一環とも考えられる[34]。

慶長3年(1598年)8月18日、秀吉が死去[33]すると、その秀吉の遺命をもとに、慶長4年(1599年)2月5日付で徳川家康ら五大老連署の知行宛行状が発行され、秀秋は筑前・筑後に復領、所領高も59万石と大幅に増加した[35]。秀秋の旧領には秀吉の親戚筋である青木重吉が入封しており、重篤になった秀吉が死後の秀頼体制を支えるために一門といえる両名の取り立てを行ったと考えられている[35]。この時に博多の町衆の意向を受けて、秀秋は山口宗永によって否定されていた博多への「守護不入」復活を約束している[34]。

関ヶ原の戦い

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松尾山にある関ヶ原の戦いの小早川秀秋陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町)

秀秋は当初、慶長5年(1600年)7月18日から8月1日にかけて行われた伏見城の戦いでは、7月21日頃から西軍として参戦していた[36]。その後、秀秋は伊勢方面攻略軍に加わらず、京都や近江に在陣し、一人戦線を離れていた[37]。

9月14日、東西両軍決戦の前日に当たるこの日、秀秋は突如として、8,000[38]とも、1万5,000[39]ともされる軍勢を率い、美濃関ヶ原の南西にある松尾山城の伊藤盛正を追い出して入城し、山に布陣した[40]。

9月15日午前8時頃、関ヶ原の戦いが始まると、秀秋は東西両軍が激突するなか、松尾山から傍観していた[41]。秀秋は本戦の開始前より、家康に西軍を離反することを、浅野長政を通じて伝えていたとされ、東軍から奥平貞治や大久保猪之助が目付として派遣されている。家康はたびたび使者を送ったにもかかわらず、傍観し続ける秀秋に苛立っていた[42]といい、秀秋の陣へ鉄砲を撃ちかけたとされる[43]。これにより、秀秋は西軍を裏切ることを決意したという[43]。なお、開戦時刻や秀秋の参戦した時刻、「問い鉄砲」の真偽に関しては諸説ある[注釈 5]。

正午頃、秀秋は松尾山を下り、西軍の大谷吉継の陣へ攻めかかった[47]。この際、小早川勢で一手の大将を務めていた松野重元は、秀秋の離反に納得出来なかったため、無断で撤退している。

だが、吉継は秀秋の裏切りに対して備えていた部隊で迎撃し、更に前線から引き返した平塚為広・戸田勝成と合力して、兵力で圧倒する小早川勢を2、3回と繰り返し山へ押し戻したという[47][48]。秀秋はこれを見て激怒し、自ら指揮を取って本隊を進めさせ、大谷勢と激戦に及んだ[49]。その激戦ぶりは、東軍から目付として派遣されていた奥平貞治が重傷を負った(後に死亡)ことからもうかがえる。

しかし、秀秋の離反から連鎖的に生じた脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保らの離反を受け、大谷勢は潰滅し、吉継・為広・勝成の諸将は討死した[49]。これにより、大勢が決し、石田勢や宇喜多勢も潰滅して、西軍は崩壊した[49]。石田三成は大坂城を目指し、伊吹山山中へ逃亡した[49]。

この秀秋の離反については、当初から付家老の稲葉正成・平岡頼勝とその頼勝の縁戚関係である東軍の黒田長政が中心となって調略が行われていた[24]。頼勝は自らの正室とその母、弟を庇護していた黒田家との繋がりが深かったと見られている[注釈 6]。黒田家は前当主の孝高が毛利家取次を務めており、家老の井上之房の弟(川村越前)が秀秋の家臣になるなど、毛利一族とは昵懇の間柄だった。

また、黒田長政と浅野幸長の連名による「我々は北政所(高台院)様のために動いている」と書かれた連書状が現存している。白川亨・三池純正らの、「高台院は西軍を支持していた」という異なる説やその他傍証もあり、この書状の内容について研究が待たれている(内容では、北政所のために東軍につけとは直接言ってはいない)。ともあれ、秀秋に対する長政ら東軍側からの勧誘は、8月28日以前より行われていたことが判明している[50]。

一方で、三成や吉継ら西軍首脳も秀秋の行動に不審を感じていたらしく、豊臣秀頼が成人するまでの間の関白職と、上方2か国の加増を約束して秀秋を慰留したとする史料もある。ただし、その史料は正徳3年(1713年)成立の『関原軍記大成』に収録されている書状で原本は確認されておらず、また文体に不審な点があることから偽文書の可能性がある[51]。松尾山は12日の時点で「中国勢を置く」との増田長盛宛の石田三成の書状が確認されており、秀秋がそれまで陣取りしていた大垣城主の伊藤盛正を追い出して着陣している。関ヶ原決戦が計画的なものでなく、突発的なものであったとする説では、三成は秀秋が松尾山城に陣取ったことで、最後尾の大谷勢の陣が脅かされて背後に脅威を得、急遽大垣城を出ざるを得なかったとする。事実、大谷勢の陣は松尾山城に向かって構築されていたことが確認されている。

この「関ヶ原の戦い」で西軍方を裏切った行為について、当時の秀秋への世評は芳しいものではなく、豊臣家の養子として出世したにもかかわらずに裏切り、西軍を瓦解させた事は卑怯な行為として世間の嘲笑を受けた[52][注釈 7]。

岡山藩主として

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岡山城

9月17日、秀秋は石田三成の居城・佐和山城の攻撃に参加し、18日に城を陥落させた[54]。ただし、秀秋が佐和山城攻めに参加したかどうかは、定かではないとする見方もある[54]。

9月18日付の福島正則・黒田長政宛て徳川家康書状によると、秀秋は宇喜多秀家の領国接収のため、備前に向かうよう命じられている[55]。これは、宇喜多氏の領国を秀家に与えることを念頭に置いた派兵であった可能性がある[55]。

10月半ば、秀秋は備前の岡山城を接収したとみられる[55]。このとき、備前に残っていた宇喜多氏の家臣による抵抗はなく、秀秋は無事に岡山城を開城させている[55]。

秀秋は戦後の論功行賞において、備前・美作・備中東半にまたがる、播磨の飛び地数郡以外の旧宇喜多秀家領の岡山55万石に加増・移封された[56][注釈 8]。秀秋は家臣の知行割り当て、寺社寄進領の安堵といった施策を行う一方で、伊岐遠江守真利・林長吉ら側近勢力の拡充を図っている。

慶長6年(1601年)8月頃[23]、秀秋は重臣の杉原紀伊守を誅伐した[57]。相前後して、家老を長年勤めた稲葉正成と対立して、美濃に追放して蟄居させた。このことが原因で、松野重元・蟹江彦左衛門・滝川出雲・斎藤権之助・天野民部・佐々路兵庫ら従来の重臣層のほとんどが小早川家を見限って出奔している[58]。出奔した者については史料によって差異があり、また平岡頼勝は最後まで忠節を貫いて、小早川家中に残ったとする史料もある[58]。

この背景には、旧来の家臣団層と新たに台頭してきた側近層との対立が背景にあると考えられる[59]。他方、秀秋が関ヶ原における「裏切り」を負い目に感じており、その「裏切り」を迫った重臣層を排斥し、罪を贖おうとした可能性もある[60]。

いずれにせよ、秀秋は藩政を自らの手で運営し、専制体制を固めることとなった[61]。秀秋は自らの思い通りに藩政の改革を行うことが出来るようになり、藩内では給地や蔵入地、検地、軍事編成、法制などにおいて様々な刷新策が行われている[62]。

晩年

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大谷吉継の祟りに怯える秀秋
「魁題百撰相 金吾中納言秀秋」月岡芳年画、慶応4年(1868年)

慶長6年閏11月、秀秋は上京し、同月から慶長7年(1602年)正月までの間に、名を秀詮へと改めている[63][23]。

8月12日、秀詮は領国に下向する意思を示し、10月7日には下向したようである[64]。

10月15日、秀詮は鷹狩りを行い、日暮れに岡山城に帰城すると気分が悪くなり、そのまま臥せった[61][65]。

10月18日寅の刻(午前4時頃)[65]、秀詮は岡山城で死去した[66][注釈 9]。享年21[68]。

秀詮の早世に関しては、関ヶ原における裏切りで戦死した大谷吉継の祟りによって、狂気に陥ったものとする逸話が『関原軍記大成』に記されている[61]。このほか、『備前軍記』においても、「狂気の末に横死した」と記されている[61]。

だが、実際に残されている秀詮の病歴[注釈 10]からは、酒色(アルコール依存症)による内臓疾患が死因として最有力となっている[注釈 10][注釈 11]。曲直瀬玄朔が記した『医学天正記』には、慶長6年7月に酒疸による黄疸の症状が激しくなり、治療をしたことが記されている。『黄疸』の項目には、大量の飲酒による黄疸、みぞおちあたりのしこり、飲食ができず喉が渇く云々とある。『黄疸』のほか、『内傷付飲食(飲食の不摂生による内臓の疾患)』『消渇(糖尿病)』の項目に名前が上がり、食欲不振、酒を飲むと吐く、尿が赤くて舌が黒いなどと書かれている[注釈 10]。

なお、秀詮死没3日前の10月15日、実兄で岡山藩に寄寓していた木下俊定も死去している。

没後

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秀詮の死後、小早川家は無嗣によって絶家となり、秀詮に与えられていた備前・美作の二国などの領地も幕府に収公された[69][70]。これは、徳川政権初の無嗣改易であった。

小早川家の旧臣たちは関ヶ原での裏切りを責められたため、仕官先がなかったなどといわれることがある。だが実際には、下方氏や岡田氏、川野氏、川口氏、岩田氏、龍野氏などが旧領に残り、新たに岡山藩主となった池田氏に仕官している[71]。また、 加賀藩や和歌山藩、土佐藩など他藩に仕官した者もいる[69][72]。

このほか、先の騒動で出奔した者の中では、松野重元が柳河藩主の田中吉政に仕え、松延城を与えられている[71]。また、稲葉正成や平岡頼勝のように幕府に召し出され、大名となった者もいる[73]。両者はそれぞれ、美濃に十七条藩と徳野藩を立藩している[73]。

かくして、小早川家臣団が様々な選択を取ったことで、その家中は解体されるに至った[69]。

人物・評価・逸話

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伝・小早川秀秋所用の猩々緋羅紗地違い鎌模様陣羽織(重要文化財、東京国立博物館所蔵)
  • 秀秋の死後、彼と親交の深かった近衛信尹が記した追悼文[67]によると、少年時代は蹴鞠や舞など芸の道に才を見せ、貧者に施しをするなど優れた少年であったが、やがて酒の味を覚えると友人達と飲み明かす日々を送るようになり、秀秋の保護者的立場にあった高台院(北政所)を悩ませるようになったという。このため、秀秋は肝硬変を患っていたとの説もある[74]。
  • 秀秋はその高台院から500両にもおよぶ莫大な借金をしているが、それ以外にも客人への借金申し込みもしており[75]、生活は奢侈なものであったようである。
  • 秀秋は常楽会の場において乱暴を企てるなど[76]、素行に問題があったようである。
  • 東京国立博物館には秀秋所用と伝わる「猩々緋羅紗地違い鎌模様陣羽織」(しょうじょうひ らしゃじ ちがいがま もよう じんばおり)が所蔵されている。鮮やかな猩々緋地の羅紗の陣羽織で、背中いっぱいに「違い鎌」紋様を、敵をなぎ倒す尚武的意義と諏訪明神の神体として置布刺繍で貼付けてある。大胆な意匠が印象的な逸品で、当時の武将の戦陣装束をよく今に伝えている。
  • 正室である長寿院(古満姫)は毛利輝元の養女であり、文禄3年(1594年)に秀秋の小早川家への養子入りにともなって結婚したものであるが、この結婚は毛利家にとって気苦労の多いものだったらしい。秀吉の死で情勢が変化したことにより、慶長4年(1598年)9月頃に秀秋と別の女性の間に子供が生まれ、これに家康が介入し、江戸下向を勧めたことを契機として、同年中に離縁がまとまり実家に帰ったようである(9月13日付輝元書状)[注釈 12]。だが、光成準治はこの輝元書状に記されている「中納言殿」は秀秋ではなく徳川秀忠とし、秀秋と別の女性の間に子供ができたために長寿院と離縁した話は史料の誤解釈によるものであり、秀秋には実子がいなかったとする見解を示している[78]。
  • 光成準治は、秀秋の関ヶ原における西軍からの離反について、東軍である旗幟を明確にする前に西軍に攻めかかったため、秀秋の行動が当時の人々から「裏切り」とみなされ、批判を浴びるようになったと評する[79]。また、秀秋は東軍に勝利をもたらしたことで、徳川家康から最大限に評価された一方、その代償として汚名を浴びることになったとする[79]。ただし、関ヶ原の戦いが突発的なものであり、東西諸将の予想とは異なる時期で行われたとされることから、秀秋の意図した戦略ではなかった可能性も指摘する[80]。
  • 関ヶ原の戦い後、三成が大津城で晒されている時、そばを通りかかった秀秋は三成から「亡き太閤を裏切って恥ずかしくないのか」と罵られ、顔を赤くして去ったと伝わる[81]。

系譜

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1879年(明治12年)、秀秋で断絶した系譜の後継として、毛利宗家の公爵毛利元徳の三男・三郎を当主とした小早川家が再興されている[83]。 この三郎は早世して子がいなかったため、その弟の四郎が養子となって継承し、華族に列して男爵の爵位を授けられた[83]。その後、四郎の養子として、毛利元昭の次男・元治が継承。元マツダ社モータースポーツ部門技術者・マツダRX-7開発主査でモータージャーナリストの小早川隆治はその息子である[84]。

主な家臣

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登場する作品

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小説
  • 冲方丁「真紅の米」(『決戦!関ヶ原』収録、講談社、2014年 / 講談社文庫、2017年)
映画
テレビドラマ
漫画
アニメ
ゲーム
楽曲

脚注

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注釈

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  1. ↑ 「金吾」は官職の左衛門督の唐名「執金吾」が由来。
  2. ↑ 秀秋の没年齢および生年については諸説あり、近年は天正10年(1582年)生まれとする説が有力となっている[3]。黒田基樹は、文禄4年(1595年)の時点で14歳だったとする小早川隆景家臣・鵜飼元辰の記述(「村山文書」)から天正10年生まれであるとし[4]、光成準治も天正10年生まれ説が自然であるとする[5]。
  3. ↑ 「金吾」が幼名であり元服後の仮名であるとする黒田の説は、光成準治も支持している[8]。
  4. ↑ 「黒田家文書」所収の慶長三年正月朔日付早川長政竹中隆重連署陣触写は蔚山城の戦いの陣立書であるが、そこに秀秋の名前はない。
  5. ↑ 藤本正行は当時の信用出来る史料で威嚇射撃は裏付けることはできないとして、家康は小早川軍に鉄砲を撃ち込ませてはいないとする[44]。現代の実地調査では、地理的条件や当時使用されていた銃の銃声の大きさや、現場は合戦中であり騒々しいことから推測すると、秀秋の本陣まで銃声は聞こえなかった、もしくは家康からの銃撃であるとは識別出来なかった可能性が高いことも指摘されている[45]。また、近年では一次史料(「慶長5年9月17日付松平家乗宛石川康通・彦坂元正連署書状」など)より、関ヶ原本戦開始は午前10時ごろで、秀秋の離反も開戦直後であった(傍観の事実も家康による催促の事実もない)とする見方も浮上している[46](詳細は関ヶ原の戦い#一次史料による合戦当日の記録参照のこと)。
  6. ↑ 平岡頼勝の正室の母である妙寿尼は黒田孝高(如水)の正室櫛橋光の姉であり、夫の上月景貞が天正6年( 1578年)に戦死した後、2人の遺児と共に黒田家に庇護されていた。このうち男子は黒田性を与えられ黒田家臣となり、女子は頼勝に嫁ぎその正室となった。
  7. ↑ 『中臣祐範記』では「上方衆が(それまで)勝利を得ていたのに、小早川秀秋が裏切って後ろから1万5000余にて切りかかったため、どうにもならず(上方衆が)敗北した。……秀秋が「太閤秀吉」の御養子として出頭之仁であるにもかかわらず、今回のことの次第(裏切り)は武勇のうえとは言え、比興之所行であると世間之嘲嘍を受けた」としている。このように、秀秋が秀吉の恩を忘れて裏切り、豊臣公儀方の軍勢を敗北に追いやったことが卑怯であると世間から嘲笑されたと辛辣な書き方されていることから、同時代人にも秀秋の裏切りが卑怯と受け取られていたことがわかる[53]。
  8. ↑ 秀詮はこの国替えの際、前領地の筑前より年貢を持ち去っている。
  9. ↑ 聖護院道澄の残した記録[67]によると、上方から帰国の途上で行った鷹狩の最中に体調を崩し、その3日後に死去したと記されている。
  10. 1 2 3 曲直瀬玄朔著『醫學天正記』(医学天正記)には18-19歳(数え歳)の秀秋(原文は「備前中納言秀秋公、年十八 九歳」)診察時の情報が載っており、乾上に「内傷附飲食 十三」には「酒渇嘔吐、胸中煩悶全不食、尿赤舌黒乾、脉細數(以下、薬の処方の説明なので略)」、乾下に「黄疸 三十六」には「酒疸一身黄、心下堅滿、而痛不飲食渇甚(薬説明、中略)○黄色少減、心中悸動心遠、脉遅用(薬説明、略)」とある。
    (近藤瓶城 編『史籍集覧 第二十六冊』近藤出版部、1902年、p.442・461。)
    このように食事がとれないような体調不良が何度かあり、酒を飲むと吐く・尿が赤くて舌が黒い・脈が細かい(内傷)、全身黄色い・心臓の下が硬く腫れ痛い(黄疸)などと身体の異常が記載されており、その原因は曲直瀬も"酒疸"(=アルコール性肝硬変)と指摘し、当時の名医にも酒が原因と認識されていた。
  11. ↑ BS-TBS『にっぽん!歴史鑑定』(2015年7月13日放送)より。番組内で出演した若林利光(医師・若林医院院長)の研究にもよる。
  12. ↑ 秀秋生前の慶長7年(1602年)8月、長寿院は興正寺18世・准尊に再嫁している[77]。

出典

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  1. 1 2 斎木 & 岩沢 1968, p. 253.
  2. ↑ 黒田 2017, pp. 14–15; 光成 2019, pp. 177–181.
  3. ↑ 黒田 2017, p. 15.
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  51. ↑ 渡邊大門「関ヶ原合戦における小早川秀秋の動向」『政治経済史学』599.600号、2016年。
  52. ↑ 「中臣祐範記」9月15日条
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  72. ↑ 近世武家の世界・コラム
  73. 1 2 光成 2019, pp. 293–294.
  74. ↑ “小早川秀秋、関ヶ原の寝返り決断遅れは肝疾患のせい?”. yomiDr. 2016年6月27日. 2017年9月24日時点のオリジナルよりアーカイブ. 2016年6月27日閲覧.
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  76. ↑ 大日本古文書家わけ第11(小早川家文書之1)514号文書
  77. ↑ 西尾和美 著「第4章 豊臣政権と毛利輝元養女の婚姻」、川岡勉; 古賀信幸 編『西国の権力と戦乱』清文堂出版〈日本中世の西国社会1〉、2010年。
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  81. ↑ “【戦国こぼれ話】関ヶ原合戦後、無念の最期を迎えた石田三成の気骨あふれる魂の言葉とは(渡邊大門)”. エキスパート. Yahoo!ニュース (2021年10月18日). 2024年5月9日閲覧。
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  83. 1 2 太田 1934, p. 2357.
  84. ↑ 断絶した小早川を毛利が再興、末裔はル・マンで優勝 - 週刊朝日 2014年10月31日号掲載

参考文献

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関連史料

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  • 『小早川家文書』
  • 『木下家譜』
  • 『寛政重修諸家譜』
  • 『岡山市史』
  • “『史籍集覧 第二十六冊』”. 国立国会図書館. 2020年12月20日閲覧。(p.425-530に『醫學天正記』収録)

関連項目

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外部リンク

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