平岡頼勝
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平岡石見(関ヶ原合戦図屏風) | |
| 時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
| 生誕 | 永禄3年(1560年) |
| 死没 | 慶長12年2月24日(1607年3月21日) |
| 別名 | 藤蔵(通称)、重定、石見守 |
| 戒名 | 高善院殿心月宗安大居士 |
| 墓所 | 岐阜県可児市下恵土の禅台寺 |
| 幕府 | 江戸幕府 |
| 主君 | 豊臣秀吉→小早川秀秋→徳川家康→秀忠 |
| 藩 | 備前岡山藩家老→美濃徳野藩主 |
| 氏族 | 平岡氏 |
| 父母 | 父:平岡頼俊 |
| 兄弟 | 頼勝、資重 |
| 妻 | 正室:上月景貞の娘(黒田如水の姪) |
| 子 | 頼資 |
平岡 頼勝(ひらおか よりかつ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。美濃徳野藩初代藩主。
生涯[編集]
永禄3年(1560年)、平岡頼俊の子として誕生した。はじめ諸国を流浪する浪人であったが、豊臣秀吉に才能を認められ、その家臣となった。
秀吉の甥・小早川秀秋が小早川家の養子として入った時、稲葉正成と共に秀秋付の家老となった。また、正室の従兄弟である黒田長政とは懇意であり、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて長政と通じ、正成と共に主君・秀秋に東軍に寝返ることを勧めた。戦後は秀秋とは別に備前児島郡2万石を与えられ家老に任じられた。秀秋の乱心に家臣の多くが出奔する中で、最後まで秀秋に忠義を尽くした。秀秋死後は浪人を経て徳川家康に仕え、美濃徳野に1万石の所領を与えられた。
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