佐和山城

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佐和山城
滋賀県
彦根城より佐和山を望む
彦根城より佐和山を望む
城郭構造 連郭式山城
天守構造 五層(三層説あり。非現存)
築城主 伝・佐保氏
築城年 鎌倉時代
主な改修者 石田三成
主な城主 佐保氏、小川氏磯野氏
丹羽氏石田氏井伊氏
廃城年 慶長11年(1606年
遺構 石垣土塁曲輪、ほか
指定文化財 なし
位置 北緯35度16分46.2秒
東経136度16分8.13秒
佐和山城図

佐和山城(さわやま じょう)は、日本中世中期から近世初期にかけて、近江国坂田郡(現・滋賀県彦根市)の佐和山に存在した日本の城山城)である。現・佐和山城址。 坂田郡および直近の犬上郡のみならず、織豊政権下において機内と東国を結ぶ要衝として、軍事的にも政治的にも、重要な拠点であり[1]16世紀の末には織田信長の配下の丹羽長秀豊臣秀吉の奉行石田三成が居城とし、関ヶ原の合戦後は井伊家が一時的に入城したことでも知られる[2]

歴史[編集]

佐々木・六角・浅井・織田の時代[編集]

佐和山城の歴史は、鎌倉時代、近江守護職佐々木荘地頭であった佐々木定綱の六男・佐保時綱が築いたが始まりとされ、建久年間(1190- 1198年)の文書にその名が見える。

六角政頼久頼高頼氏綱定頼の代の期間、六角氏が犬上郡を支配し、応仁の乱の後、家臣の小川左近大夫・小川伯耆守を城主として置いた。

しかし戦国時代が後期に入ると、北近江における六角氏勢力は衰退し、それにともなっては新興勢力である浅井氏が伸張した。佐和山城もその支配に入って、城は磯野員吉に引き渡され、小谷城の支城の1つとなった。

元亀年間には時の城主・磯野員昌織田信長らと8ヶ月におよぶ戦闘を繰り広げた。しかし、1571年(元亀2年)2月に員昌は降伏し、代わって織田氏家臣の丹羽長秀が入城。浅井氏旧領と朝倉氏の旧領南部、すなわち、北近江六郡と若狭国の支配拠点とした。

羽柴・豊臣の時代[編集]

天正10年(1582年)6月の本能寺の変の後に行われた清洲会議では、明智光秀討伐に功があった堀秀政に与えられ、秀政は翌年に入城した。これ以降は事実上、豊臣政権下の城となってゆく。堀秀政の留守中は弟の多賀秀種が城代を務めた。天正13年(1585年)には、転封となった堀家に替わって堀尾吉晴が入城。さらに、天正18年(1590年)には五奉行の一人である石田三成が入城したとされるが[3]、三成の佐和山領有が文献上でみえるのは文禄4年からである。 三成は、当時荒廃していたという佐和山城に大改修を行って山頂に五層(三層説あり)の天守が高くそびえたつほどの近世城郭を築き、当時の落首に「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」[4]と言わしめた。ただし、三成は奉行の任を全うするために伏見城に滞在することが多く、実際に城を任されていたのは父の正継であった。城内の作りは極めて質素で、城の居間なども大抵は板張りで、壁はあら壁のままであった。庭園の樹木もありきたりで、手水鉢も粗末な石で、城内の様子を見た当時の人々もすこぶる案外に感じたと記されている(『甲子夜話』)[5]

三成は関ヶ原の戦いに万が一敗北した場合を考え、佐和山城での再戦を意図していたとされる。

佐和山城の戦い[編集]

慶長5年(1600年9月15日関ヶ原の戦いで三成を破った徳川家康は、小早川秀秋軍を先鋒として佐和山城を猛攻撃した。城の兵力の大半は関ヶ原の戦いに出陣しており、守備兵力は2800人であった。城主不在にもかかわらず城兵は健闘し、敵を寄せ付けなかったが、やがて城内で長谷川守知など一部の兵が裏切り、敵を手引きしたため、同月18日、奮戦空しく落城し、父・正継正澄皎月院(三成の妻)など一族は皆、戦死あるいは自害して果てた。

家康に従軍した板坂卜斎は陥落した佐和山城に金銀が少しもなく、三成は殆んど蓄えを持っていなかったと記している(『慶長年中卜斎記』)[6]

徳川時代、そして、廃城[編集]

石田氏滅亡の後、徳川四天王の一人である井伊直政がこの地に封ぜられ、入城した。井伊家が、このまま佐和山城を利用すると、領民は井伊家が石田家を継承したような錯覚を抱き、領民達の前領主への思慕を断ち切ることができないことから、新たに彦根城築城を計画した[7]。しかし、直政は築城に着手できないまま、慶長7年(1602年)に死去。計画は嫡子直継が引き継ぐこととなり、大津城・佐和山城・小谷城観音寺城などの築材を利用しつつ、天下普請によって彦根城を完成させている。佐和山城は慶長11年(1606年)、完成した彦根城天守に直継が移ったことにともない、廃城となった。なお、彦根城の城下町までを含めた全体の完成は元和8年(1622年)のことである。

佐和山城の建造物は彦根城へ移築されたもののほかは徹底的に城割されたため、城址には何も残っていない[8][9][10]。しかしそれでも、石垣の一部土塁曲輪その他施設が一部に現存しており[要出典]、また、ときとして新たに遺構が発見される。

構造[編集]

ギャラリー[編集]

その他[編集]

  • 佐和山藩豊臣政権が近江国に立てた一で、佐和山城を藩庁とし、石田三成を藩主とする。徳川政権下で井伊氏に引き継がれたのち、彦根藩の立藩に替えて廃された。
  • 佐和山遊園 :一個人によって石田三成のテーマパークが構想され、1970年代半ばより建設され続けているが、事実上、廃園状態となっている。
  • 佐和山一夜城復元プロジェクト :彦根城築城400年祭のイベントとして、2007年平成19年)9月1日から16日までの期間限定で開催された。
  • 佐和山城跡は、西側山麓にある龍潭寺(彦根市古沢町1104)が所有しているが、好意により無料での入山が許可されており、境内に登山口がある。
  • 現在数ヶ所で発掘調査が行われている。

脚注[編集]

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  1. ^ 渡辺世祐「佐和山城に就いて」(『歴史地理』近江号)
  2. ^ 林 昭男 編著「佐和山城跡 個人住宅建設工事に伴う埋蔵文化財発掘調査事業」『彦根市埋蔵文化財調査報告書44』(彦根市教育委員会、2009年)
  3. ^ 岩沢愿彦「「石田三成の近江佐和山領有」(高柳光寿博士頌寿記念会編『戦乱と人物』吉川弘文館、1968年)
  4. ^ 今井林太郎『石田三成』( 吉川弘文館〈人物叢書 新装版〉、1988年)92頁
  5. ^ 今井林太郎『石田三成』( 吉川弘文館〈人物叢書 新装版〉、1988年)213頁
  6. ^ 今井林太郎『石田三成』( 吉川弘文館〈人物叢書 新装版〉、1988年)204頁
  7. ^ 三池純正『義に生きたもう一人の武将 石田三成』(宮帯出版社、2009年)267-268頁
  8. ^ 三池純正『義に生きたもう一人の武将 石田三成』(宮帯出版社、2009年)30-32頁
  9. ^ 三成の佐和山城、徹底破壊 政権交代を見せしめ
  10. ^ 痕跡一掃、居城「見せしめ」破壊…発掘で裏付け

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]