徳川四天王

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徳川四天王(とくがわしてんのう)は、安土桃山時代から江戸時代初期に、徳川家康の側近として仕えて江戸幕府の樹立に功績を立てた酒井忠次本多忠勝榊原康政井伊直政の4人の武将を顕彰した呼称。仏教四天王に準えている。類似の概念として更に12人を加えた徳川十六神将がある。

本多忠勝・榊原康政・井伊直政の3人は1590年徳川氏関東移封から1600年関ヶ原の戦いまでの時代に徳川氏の家政と関ヶ原の戦いに関わる大名工作・戦後処理に中心となって活躍して幕府の基礎固めに功績があり、特に彼らを指して徳川三人衆もしくは徳川三傑と呼ぶ場合もある。「徳川四天王」の名称はいつから使われたかは定まらない。例えば歴史学者の中村達夫は、「徳川四天王」の名称の使用開始年代は不明とし、「徳川三傑」については『榊原家譜』を出典として1586年9月に使われ始めたとしている。中村によれば、1586年9月に徳川家康の名代として上洛した三名を上方の武将たちが「徳川三傑」と言い出したのが始まりだという。[1]その後、本多・榊原・井伊の三名は翌月、徳川家康上洛に随行して何れも叙位され、これに酒井を加えた四名の「徳川四天王」の名が巷間もてはやされるようになったと上越市文化財審議委員の村山和夫は考えている。[2] 四天王はその後、1589年の家康関東移封時に家康配下の大名としていずれも万石以上となり、徳川家の重臣としての地位を確立する。既に徳川家臣団中、当主一門を除いては最高の官位・官職にあった井伊は家中最高の12万石を与えられて高崎藩を立藩、榊原は関東総奉行兼勘定方支配(後の関東郡代勘定奉行)に任じられて館林藩10万石を立藩、本多は年寄(後の老中)に任ぜられて大多喜藩10万石を立藩した。酒井忠次は1588年に既に隠居しており、後継の酒井家次が下総臼井藩を立藩したが、わずか3万7000石という低い待遇を与えられ、他の四天王とは明確に格差が開いていた。これについて国学院大教授の根岸茂夫は、酒井は元々三河譜代筆頭であったが、家康の関東転封時の家臣団統制強化策の一環として、新参の武将を抜擢する方針があり、新しく台頭してきた本多・榊原・井伊の三名が家中で重きをなし、旧支配地の三河では東三河衆の旗頭として古い権力を持っていた酒井は、以前の松平信康自刃事件の責任を取らされて低い禄高に甘んじたとしている。[3]

該当者[ソースを編集]

筆頭は酒井忠次といわれている(最古参の譜代筆頭・最年長者であり、石川数正と並んで三河国統一時代から五か国領有時代まで仕えたため)。又、一部の学者は本多忠勝または井伊直政が筆頭であると唱えている[要出典]

参考文献[ソースを編集]

  • 『歴史群像シリーズ』22号・「徳川四天王」、1991年
  • 『江戸幕府の功労者たちはどんな人生を送ったのか? 徳川四天王』(英和出版社、2014年)

関連作品[ソースを編集]

小説
  • ^ 中村達夫「知勇兼備の戦国武将の典型 井伊直政」『歴史群像シリーズ』22号・徳川四天王、1991年、125頁。
  • ^ 村山和夫「無を貫いた不退転の猛将 榊原康政」『歴史群像シリーズ』22号・徳川四天王、1991年、111頁。ただし、村山当該論文では「徳川四天王」の命名開始としておらず、あくまで四名が有名になったことのみを述べている。
  • ^ 根岸「三河軍団の最高軍事司令官 酒井忠次」『歴史群像シリーズ』22号・徳川四天王、1991年、97-99頁。