石田正澄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jump to navigation Jump to search
 
石田正澄
時代 安土桃山時代
生誕 生年不詳
死没 慶長5年9月18日1600年10月24日
改名 弥三 / 弥三郎(幼名)、正澄→豊臣正澄
別名 重成、一氏[1]通称:木工頭
墓所 大徳寺三玄院(京都府京都市北区)
官位 従五位下木工頭
主君 豊臣秀吉秀頼
氏族 石田氏
父母 父:石田正継、母:瑞岳院
兄弟 弥治郎[2]正澄三成、女(福原長堯室)
龍珠院
朝成、主水正

石田 正澄(いしだ まさずみ)は、安土桃山時代武将大名豊臣氏の家臣。別名に重成、一氏[1]通称は木工頭。石田正継の子で、石田三成は実弟。

参議院議員石田昌宏は正澄の子孫を称するが、系譜は不明。

生涯[編集]

石田正継の長男として誕生、織田信長の家臣だった羽柴秀吉中国征伐を命じられた頃(天正5年前後)に、弟の三成と共に秀吉に仕官した。

天正11年(1583年)、近江国高島郡での代官に任じられた。河内国の蔵入地の代官としても名前が見える[3]。秀吉から北近江に1万5,000石の知行を与えられた。

天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いで、近江長浜へ奉行として派遣され、鋤・鍬を尾張犬山へ輸送する町衆を監視した[3]。天正17年(1589年)、検地奉行として美濃国検地に携わる[3]

文禄の役1592年 - 1596年)では、いち早く九州に下向し、名護屋城に秀吉のための茶室を建設した。戦役中は物資を朝鮮半島に輸送する任務で活躍し、三成・大谷吉継増田長盛ら奉行衆の報告を秀吉に取り次ぐ役目にもあたった。

文禄2年(1593年)9月3日、従五位下・木工頭に叙位任官され、豊臣姓を下賜された。同年ないし文禄3年(1594年)にの代官(堺政所/堺奉行)に就任[3]し、慶長4年までその任にあった。

文禄4年(1595年)、秀次事件の後、訴訟を受理する十人衆が新設されると名を連ねる[3]。同じ頃の7月、河内郡に1万石を加増され、これにより併せて2万5,000石となった。

慶長の役(1597年-1598年)では、秀吉の奏者として伏見城に残り、木下吉隆と共に多数の書状を残している。また大村由己藤原惺窩猪苗代兼如西笑承兌などの一流の知識人と交流を持ったとされる。[4]

慶長3年(1598年)の醍醐の花見では、秀吉の側室・松丸殿に随行した。

慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いでは三成の西軍に与し、父の正継と共に佐和山城を守備した。愛知川に関を設けて畿内西国の領主の家康方への参戦を阻止し、諸軍勢を西軍にまわらせるなどの働きをした。しかし、関ヶ原で西軍が敗れた後に小早川秀秋らの軍に佐和山城を攻められる。正澄は大手門を守備し、幾度となく敵を退けたが最期は父や長男・朝成と共に自害した。『慶長年中卜斎記』には「石田木工(正澄)天守にて焼死」と記されている[3]。三玄院過去帳には、同年12月2日には次男・主水正[5]も殺されたとあり、あるいは自刃したと思われる。

諸説あるが、豊臣秀吉の側近だった宮部継潤の子・宮部豊景関ヶ原合戦後の佐和山城(石田三成の居城)攻めに参加し、石田正澄を討ち取た、後に杵築城主となった能見松平家に仕えた豊景ゆかりの品として代々豊後杵築宮部家に伝えられており現在、正澄の兜(と伝えられる)は杵築城で展示している。

生前に帰依していた春屋宗園により、石田正澄と三成の位牌と供養塔大徳寺の三玄院に建立されている。

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ a b 高柳 & 松平 1981, p.33
  2. ^ 元亀3年2月15日卒。
  3. ^ a b c d e f g 水野伍貴「石田正澄と石田三成」、『歴史読本』56巻12号、2011年
  4. ^ 水野伍貴によると、正澄と三成は協力関係であったが、父正継とは違い、正澄が三成の代行的役割を担ったことはなく、豊臣政権において能吏の一人として独自の活躍をしていたとする[3]
  5. ^ 慶長4年より秀頼に近侍。

参考文献[編集]