戸田勝成
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戸田重政(関ヶ原合戦図屏風) | |
| 時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
| 生誕 | 生年不詳 |
| 死没 | 慶長5年9月15日(1600年10月21日) |
| 別名 | 重政、勝重、通称:半右衛門、戸田武蔵守、羽柴武蔵守 |
| 主君 | 丹羽長秀→長重→豊臣秀吉 |
| 氏族 | 戸田氏(非三河系) |
| 兄弟 | 勝隆、勝成 |
| 子 | 重典 |
戸田 勝成(とだ かつしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。通称は半右衛門、武蔵守で、戸田武蔵守の称でも知られる。諱は重政(しげまさ)、勝重(かつしげ)ともいう。
生涯[編集]
はじめ丹羽長秀に仕えた。天正10年(1582年)、長秀配下で山崎の戦いに参加[4]。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いの後、長秀に従って越前国に侵攻。4月21日、長束正家や村上義明(忠勝)、桑山重晴らと柴田勝家勢を撃破して北ノ庄城に退かせた[5]。長秀が越前国に移封されると、同国吉田郡松岡城2万5,000石に封じられた[4]。天正12年(1584年)の長久手の戦いの陣立書では、青山宗勝・勝成・太田一吉・大島雲八らが丹羽勢の先手を構成し、勝成は1,000名を率いた[6]。
天正13年(1585年)、長重の代になって丹羽家に内紛があり、家臣の大量離脱が起きたのを機に豊臣秀吉の家臣となったとされる[7][9]。このとき、富山の役の前に、丹羽家臣・成田道徳が佐々成政と共謀したと密告したのは勝成と長束正家であったと『丹羽家譜』『越登加三州志』は伝えている[10]。
秀吉の家臣として、越前国足羽郡安居城主に封ぜられた[11][7]。
天正15年(1587年)、九州の役に従軍。天正18年(1590年)の小田原の役では秀吉本陣の脇備えとして、300騎を率いた[12]。文禄元年(1592年)の文禄の役でも肥前名護屋城に駐屯し、秀吉本陣の前備衆で、同じく300名を率いた[13]。
文禄3年(1594年)、伏見城の普請を分担[7]。この当時、知行は1万石[7]。 慶長3年(1598年)8月の秀吉の死により、金子5枚を受領。慶長4年(1599年)に1万石を加増され、併せて2万石を領した[7]。(ただし廃絶録では1万石のまま[14]。)
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにおいては石田三成に共鳴して西軍に与した。初め北国口を守備していたが、東軍が迫ると大谷吉継の配下の北国衆の1つとして美濃方面へと移動した[7]。
本戦においても平塚為広らと共に大谷隊に付属し、松尾山に陣から小早川秀秋が離反して攻撃してきたのを一時押し返すなど奮戦したが、同じ北国衆の脇坂安治・朽木元綱・赤座直保・小川祐忠の4隊が寝返って側面から攻撃してきたために、挟撃を受けて壊滅した。混乱の中で、勝成は織田有楽斎の長男・織田長孝隊に捕捉されて(あるいは石田本陣に向かおうとして織田長孝隊の前を横切って[15])戦闘となり、長孝の槍を頭部に受けて討たれた。これが長孝ではなく津田信成であったとする異説もある[16]。『武家事紀』では、勝成と長孝が槍合わせをしている隙に、長孝家臣・矢田太兵衛が勝成の左の鐙を外して馬から引きずり落として組み伏せ、別の長孝家臣・山崎源太郎が勝成の首を掻き切るところに、信成家臣・玉木五右衛門が割って入って首を奪おうとしたので、2人は喧嘩になって相打ちになった。勝成の首は長孝家臣の下士が運んで家康のもとで首実検となった[15]としている。なお、有楽・信成は共に勝成の友人であった。三年前の慶長2年4月22日に3人は家康邸で一座を共にしている[17]。『武功雑記』によれば、勝成は東軍の諸大名にも親交のある者が多く、その死を聞いて皆涙したという[17]。
関ヶ原では、嫡男・内記(一説に重典)も同じく討死している[17]ので、廃絶となった。
巷談[編集]
関ヶ原の戦いで織田長孝(とその父の織田長益(有楽斎))は勝成を討ち取る功を挙げた。徳川家康の前での論功行賞の際、長孝が勝成を討ち取った際に使用した槍が披露されたが、家康家臣が誤って槍を取り落とし、家康は指を負傷した。家康は「この槍は尋常の槍ではない。作は村正であるか。」と聞き、有楽は「村正」の作であると答えた。退出した有楽は、近習から徳川家と村正の因縁を聞き、「内府(家康)の御味方である自分が村正を使うべきではない」と槍を微塵に砕いた[18]。この話は、妖刀などと呼ばれ、徳川家に災いを成すと巷談で語られる村正伝説の数あるうちのひとつとなっている。
脚注[編集]
- ^ 司馬遼太郎 『街道をゆく 人名・地名録』 朝日新聞社、1989年。ISBN 4022559322。
- ^ “大日本史料”. 大日本史料総合データーベース. 東京大学史料編纂所. 2018年11月11日閲覧。
- ^ 紀行文集『街道をゆく』で司馬遼太郎は勝隆は「美濃戸田氏の支流ではないか」と推測している[1]。『丹羽歴代年譜附録』の家臣伝では(「生国未考」としながらも)「戸田武蔵守藤原勝成」としており、藤姓とされている[2]。
- ^ a b 大日本史料11編19冊207頁。
- ^ 大日本史料11編4冊203頁。
- ^ 大日本史料11編8冊249頁。
- ^ a b c d e f 高柳 & 松平 1981, p. 163.
- ^ 近藤安太郎 『系図研究の基礎知識 第2巻』 近藤出版社、1989年。
- ^ 一方で、兄・勝隆同様に秀吉古参の直臣で、その家人であったという異説もある[8]。
- ^ 大日本史料11編19冊218-219頁。
- ^ 桑田 1971, p. 116.
- ^ 東京帝国大学文学部史料編纂所編、国立国会図書館デジタルコレクション 「豊臣秀吉小田原陣陣立」 『大日本古文書. 家わけ 三ノ一(伊達家文書之一)』 東京帝国大学、1908年、623頁。
- ^ 吉村茂三郎、国立国会図書館デジタルコレクション 「松浦古事記」、吉村茂三郎編 『松浦叢書 郷土史料』第1巻 吉村茂三郎、1934年、127頁。
- ^ 近藤瓶城編、国立国会図書館デジタルコレクション 「纂録五十四・廃絶録」 『史籍集覧. 第11冊』 1926、1926年、9頁。
- ^ a b 山鹿素行、国立国会図書館デジタルコレクション 「第二十四続集」 『武家事紀. 中巻』 山鹿素行先生全集刊行会〈山鹿素行先生全集〉、1915年、242頁。
- ^ 功を奪われたことにより、津田信成と織田長孝の関係は悪化した、とされる。
- ^ a b c 高柳 & 松平 1981, p. 164.
- ^ 改正三河後風土記(『改正三河後風土記 下』 - 国立国会図書館、1699p)
参考文献[編集]
- 桑田忠親 『太閤家臣団』 新人物往来社、1971年、116-177頁。ASIN B000J9GTRU
- 高柳光寿; 松平年一 『戦国人名辞典』 吉川弘文館、1981年、163-164頁。