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朝日姫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
あさひひめ
朝日姫 / 旭姫
朝日姫像(南明院蔵)
生誕 天文12年(1543年
死没 天正18年1月14日1590年2月18日
墓地 南明院(東福寺塔頭、京都府京都市東山区本町十五丁目)
泰雲山瑞龍寺静岡県静岡市葵区井宮町
別名 朝日/旭、駿河御前、南明院
配偶者 佐治日向守または副田甚兵衛吉成
徳川家康
父:竹阿弥、母:仲(大政所
家族 兄弟姉妹:豊臣秀吉朝日姫、ほか
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朝日姫(あさひひめ)、または旭姫は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。豊臣秀吉の妹で[注 1]、晩年には兄・秀吉の政略によって徳川家康正室[1]継室)となった。名は(あさひ)といわれる。家康との結婚後は駿河御前(するがごぜん)[3]と呼ばれ、死後は法名の南明院(なんめいいん)でも呼ばれる。

生涯

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天文12年(1543年)、竹阿弥と、なか(大政所)の娘として誕生[4]。ただし、兄弟の中で一番年上とされる姉のとも(日秀尼)ゆかりの瑞龍寺に伝わる『瑞龍寺差出』[5]には、ともの父親は天文12年正月に没したと記されている。朝日の生年と『瑞龍寺差出』の両方が正しいとした場合、朝日はともの父親にとって遺腹の子であったことになり、兄弟全員が同父母であったことになる(ただし、『瑞龍寺差出』には父親の俗名に関しては記載されていないため、秀長や朝日が木下弥右衛門の実子である可能性があると同時に、ともや秀吉が竹阿弥の実子である可能性も否定できない)[6]

当初は尾張国の農民に嫁いだ。織田信長に仕えた秀吉が出世するとともに、この夫も武士に取り立てられ、佐治日向守を名乗ったとされる[7]。ただし、最初の夫は佐治日向守ではなく別の織田家臣・副田甚兵衛吉成であったという話もある[4][8]。天正14年以前のことについては相互に矛盾するさまざまな伝承が存在してはっきりしない[8]

一方、徳川家康は天正7年(1579年)に正室・築山殿を失って以来、側室を多数娶っていたが、正室は置いていなかった[4][注 2]小牧・長久手の戦い(天正12年)の和睦の後、秀吉は家康の次男の於義丸(結城秀康)を自分の養子としていたが、家康を自陣営に取り込みたいと考えていた秀吉は、家康を自身の妹婿とすることで形式的な従属関係を強めようとした[4]

天正14年(1586年)、秀吉は政略結婚のために妹を強制的に夫と離縁させ、夫には500石を捨扶持として与えた[8]。この時に佐治日向守は自殺した[1]とも、剃髪して隠居したとも云うが、これも定かではない[8][4]。また、近年では本能寺の変の頃には既に離縁しており、政略結婚のために強制的に離縁された訳ではないとする説も出されている[10]。この問題を論じた黒田基樹は副田吉成が本能寺の変の直後の失態(一揆に城を奪われる)によって秀吉の怒りを買って妻(朝日姫)と離縁させられたとする『武家事紀』の記述を妥当とする一方、政略結婚のために強制的に離縁を命じられたとする記事の初出と思われる天野信景の『塩尻』の記述(同書では秀吉から離縁の代償に5万石を提示された副田が「武門の本意にあらず」と出家・隠棲したとする)に関しても『武家事紀』における副田の事績が賤ヶ岳の戦いを最後に消えていることなどを考えると何らかの事実を含む可能性があるとしている[11]。なお、福田千鶴は佐治日向守について、浅井長政の三女で秀吉の義妹であるが秀吉の意向で佐治一成と離縁させられた話と混同されて生み出された架空の人物ではないかとしている[12]

秀吉は、同年2月22日、織田信雄の家臣で、陪臣にあたる滝川雄利(羽柴下総守)・土方雄久を使者として三河吉田に派遣し、酒井忠次を介して、徳川家康を懐柔するための縁組を持ちかけた。家康はこれを了承し、榊原康政が代理として上洛して結納を取り交わした。ただし、柴裕之は家康側から講和の条件として秀吉側との婚姻を求めたとし[13]、黒田基樹も同年5月24日付の秀吉朱印状に縁組は家康の希望と述べていることから、家康が講和後に豊臣政権内で自己の立場を有利にするために縁談を持ちかけた可能性が高いとしている[14]

朝日姫は4月に大坂城を出て聚楽第に入り、5月には浅野長政富田知信津田四郎左衛門滝川儀太夫等を従えた150名余の花嫁行列を組んで京を出発した。途中、信雄の家臣・織田長益と滝川雄利がさらに加わって、11日、三河西野に達し、14日に浜松に至って、家康の正室(継室)として徳川家に嫁いだ[15]。この時、家康45歳、朝日姫44歳だった。朝日姫は駿河府中(駿府)に居を構え、「駿河御前」と呼ばれた。

しかし、家康は婚儀が済んでも上洛しなかったため、秀吉は母のなか(大政所)を、駿河御前を訪ねるという形でさらに人質として岡崎へ送り込み、これを受けた家康は上洛して秀吉との和議が成立した。

その後、駿河御前は天正16年(1588年)に母・大政所の病気の見舞いを理由に上洛したが、しばらくして快方に向かったので、9月9日、駿河に帰国した。次の上洛時期は不明であるが、聚楽第に住んでいる。駿河御前は天正17年(1589年)11月には病気に罹っており[10]、天正18年(1590年)1月14日、48歳で死去した[1]

この頃、家康は小田原征伐への出征準備中であり、喪を秘して東福寺[1]京都府京都市東山区本町十五丁目)に葬った。駿河御前の晩年は病気がちで臨済宗に帰依した。法名は南明院殿光室宗王大禅尼(南明院殿光室総旭大姉)[注 3]

東福寺塔頭南明院があるが、これは家康が駿河御前の菩提を弔うために後に建立したものである。南明院は臨済宗においての徳川将軍家菩提寺となり、同院に肖像画も所蔵されている。

瑞龍寺静岡市葵区井宮町)にある朝日姫の墓(2022年3月撮影)。

また、駿府の泰雲山瑞龍寺静岡県静岡市葵区井宮町)にも分骨された墓があるが、墓の建立は秀吉によるという説と家康によるという説がある[16][17]曹洞宗の同寺での法名は瑞龍寺殿光室総旭大禅定尼。

関連作品

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ドラマ

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脚注

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注釈

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  1. 異父妹説と[1]同父妹説がある[2]
  2. 近年は、西郷局が正室であったとする説がある[9]
  3. 野史』では、南明院光室総旭[1]

出典

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  1. 1 2 3 4 5 6 飯田, p. 5.
  2. 小和田 1985, p. 67.
  3. 渡辺 1919, p. 286.
  4. 1 2 3 4 5 杉山ほか 2007, p. 50.
  5. 『大日本史料』第十二編之五、P18.
  6. 柴裕之「総論 羽柴(豊臣)秀長の研究」『豊臣秀長』戎光祥出版〈シリーズ・織豊大名の研究 14〉、2024年11月、11-12頁。ISBN 978-4-86403-547-7
  7. 渡辺 1919, p. 283.
  8. 1 2 3 4 渡辺 1919, p. 285.
  9. 黒田 2023, pp. 36–37.
  10. 1 2 黒田 2023, pp. 40–41.
  11. 黒田 2025, pp. 52–62.
  12. 福田千鶴『江の生涯 徳川将軍家御台所の役割』中央公論新社中公新書〉、2010年、67-72頁。ISBN 978-4-12-102080-2
  13. 柴裕之『徳川家康 境界の領主から天下人へ』平凡社〈中世から近世へ〉、2017年6月、150頁。ISBN 978-4-582-47731-3
  14. 黒田 2025, pp. 63–64.
  15. 渡辺 1919, pp. 285–286.
  16. 旭姫ってどんな人? 築山殿亡き後の家康正室 兄秀吉により前夫と強制離縁、豊臣と徳川の架け橋に”. 静岡新聞. 2023年9月3日閲覧。
  17. ~令和4年度第3回静岡市文化財保護審議会を開催~静岡市指定有形文化財の指定について答申を受けました。”. 静岡市. 2023年9月3日閲覧。

参考文献

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外部リンク

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