朝日姫

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朝日姫像(南明院蔵)

朝日姫 / 旭姫(あさひひめ、天文12年(1543年) - 天正18年1月14日1590年2月18日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。豊臣秀吉の異父妹[1]徳川家康正室継室)。名は旭、末津[要出典]ともいわれる。家康との結婚後は駿河御前[2][3]と呼ばれ、死後は法名の南明院でも呼ばれる。

生涯[編集]

天文12年(1543年)、父・竹阿弥、母・なか(大政所)の娘として誕生し、尾張国の農民に嫁いだ。織田信長に仕えた秀吉の出世とともに、この夫も武士に取り立てられ、佐治日向守を名乗った。

最初の夫であった佐治日向守の死後に織田家臣だった副田甚兵衛吉成に嫁いだという話もあるが、佐治日向守は離婚まで死んでいなかったとする話もあり、相互に矛盾するさまざまな伝承が存在して、天正14年以前のことについてははっきりしない[4]

天正14年(1586年)、秀吉は妹を強制的に夫と離縁させた[6]。2月22日、織田信雄の家臣で、陪臣にあたる羽柴下総守土方雄久を使者として三河吉田に派遣し、酒井忠次を介して、徳川家康を懐柔するための縁組を持ちかけた。家康はこれを了承し、榊原康政が代理として上洛して結納を取り交わした。

朝日姫は4月に大坂城を出て聚楽第に入り、5月に浅野長政富田知信津田四郎左衛門滝川儀太夫等を従えて150名余の花嫁行列は京を出発し、途中、信雄の家臣織田長益・羽柴下総守がさらに加わって、11日、三河西野に達し、14日に浜松に至って、家康の正室(継室)として徳川家に嫁いだ[7]。この時、家康45歳、朝日姫44歳だった。朝日姫は駿河府中(駿府)に居を構えたため駿河御前と以後呼ばれた。

家康は婚儀が済んでも上洛しなかったので、大政所が岡崎の駿河御前を訪ねるという形でさらに人質となり、家康は上洛して秀吉との和議が成立した。

その後、天正16年(1588年)に母・大政所の病気の見舞いを理由に上洛したが、しばらくして快方に向かったので、9月9日、駿河に帰国した。次の上洛時期は不明であるが、聚楽第に住んでおり、天正18年(1590年)の正月に病気になって14日に死去した。

この頃、家康は小田原征伐への出征準備中であり、喪を秘して京都府京都市の東福寺に葬った。駿河御前の晩年は病気がちで臨済宗に帰依しており、法名は南明院殿光室宗王大禅尼。東福寺塔頭に南明院があるが、これは家康が駿河御前の菩提を弔うために後に建立したものである。臨済宗においての徳川将軍家の菩提寺となっていて、同院に肖像画も所蔵されている。

また、家康は駿河の泰雲山瑞龍寺にも墓を作っており、秀吉も小田原征伐に向かう途中にこの寺を参詣して冥福を祈り、追福するための供養塔が建てられ、寺領を寄進した。曹洞宗の同寺での法名は瑞龍寺殿光室総旭大禅定尼。

関連作品[編集]

ドラマ

脚注[編集]

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  1. ^ 小和田哲男は同父妹と主張している。
  2. ^ 渡辺 1919, p.286
  3. ^ 『ビジュアル日本史ヒロイン1000人』126頁
  4. ^ 渡辺 1919, pp.283, 285
  5. ^ 渡辺 1919, p.285
  6. ^ この時に日向守は自殺したとも剃髪して隠居したとも云うが、これも定かではない[5]
  7. ^ 渡辺 1919, pp.285-286

参考文献[編集]