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岡部長盛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
岡部 長盛
岡部長盛肖像(泉光寺所蔵)
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄11年(1568年
死没 寛永9年11月2日1632年12月13日
改名 半弥(幼名)、長盛
別名 弥次郎(通称
墓所 岐阜県揖斐郡揖斐川町瑞岩寺の瑞厳寺
官位 従五位下内膳正
幕府 江戸幕府
主君 徳川家康秀忠家光
下総山崎藩主、丹波亀山藩主、丹波福知山藩主、美濃大垣藩
氏族 岡部氏藤原南家
父母 岡部正綱三浦範時
兄弟 長盛昌綱
松平清宗徳川家康養女洞仙院
高源院宣勝与賢長政佳深定直織田信則正室、吉、寺沢堅高正室、
大久保教勝正室ら
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岡部 長盛(おかべ ながもり)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将大名下総国山崎藩主、丹波国亀山藩主、丹波福知山藩主、美濃国大垣藩初代藩主。岸和田藩岡部家初代。武勇に優れ、「岡部の黒鬼」と称された。

生涯

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岡部正綱の長男。天正11年(1583年)、父の死により家督を継いだ。なお、長盛以前に「康綱」(あるいは「忠綱」)と称される人物が岡部家の当主だったとも言われており、これが長盛のことなのかそれとも長盛の兄にあたる人物なのか正綱の嫡子なのか[注釈 1]については意見が分かれている。

翌天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い、天正13年(1585年)の鳥居元忠を大将とする信濃国上田城攻めでの真田昌幸との対戦などに参戦した。天正18年(1590年)、徳川家康が関東に移封されたとき、それまでの戦功を賞されて下総山崎1万2000石を与えられた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、下野国黒羽城の守備につき、上杉景勝の南下に備えた。

慶長14年(1609年)、丹波亀山3万2000石に加増移封された(後に2000石加増を受けて合計4万石)。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で功績を挙げ、元和7年(1621年)に同国福知山5万石に加増移封された。寛永元年(1624年)、美濃大垣5万石へ移封される。

また、亀山での城郭の拡張・治水事業、福知山での行儀三十一カ条の制定、大垣の町割の再編など各地で領内経営にも尽くす。

寛永9年(1632年)11月2日、65歳で死去した。家督は長男の宣勝が継いだ。

系譜

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脚注

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注釈

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  1. ^ 前田利久は、『仏眼禅師語録』天正13年11月8日条に記された岡部正綱の三回忌の記事に施主が康綱と確認できる文言があること、長盛以前の当主関係文書の原本が岸和田藩主家(元の大垣藩主家)には全く伝わらないこと、そもそも長綱が通字である「綱」を称していないことを指摘して、正綱と長盛の親子関係に疑問を呈し、康綱死後にその名跡を継いだ可能性を指摘している[1]

出典

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  1. ^ 前田利久 著「今川家旧臣の再仕官」、静岡地域史研究会 編『戦国期静岡の研究』清文堂出版、2001年。 /所収:黒田基樹 編『今川氏真』戎光祥出版〈中世関東武士の研究 第三五巻〉、2023年9月、345-348・357頁。ISBN 978-4-86403-485-2