朽木昌綱

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朽木 昌綱
Kutsuki Masatsuna.jpg
朽木昌綱像(愛泉家三君画像)
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 寛延3年1月27日1750年3月5日
死没 享和2年4月17日1802年5月18日
改名 斧次郎(幼名)、昌綱、竜橋(法号)
別名 左門(通称)、桜田彩雲堂
戒名 不見院殿相外真了宗非大居士
墓所 東京都港区高輪泉岳寺
官位 従五位下、隠岐守、近江
幕府 江戸幕府
丹波国福知山藩
氏族 朽木氏
父母 父:朽木綱貞、養父:朽木舖綱
兄弟 昌綱栄綱
正室:松平宗衍の娘・幾万姫(蓮池院)
継室:本多助盈の娘、継室:伊東長詮の娘
唯之助、綱方米倉昌寿、福寿太郎、
養子:倫綱

朽木 昌綱(くつき まさつな)は、丹波福知山藩の第8代藩主。福知山藩朽木家9代。蘭学によるヨーロッパ地誌・世界地理の研究者[1]貨幣研究家。


生涯[編集]

寛延3年(1750年)1月27日、第6代藩主朽木綱貞の長男として江戸で生まれ、そこで育った。安永5年(1776年)11月22日、朽木舖綱の養子となる。安永6年(1777年)3月19日、将軍徳川家治に拝謁する。安永9年(1780年)12月18日、従五位下隠岐守に叙任する。天明7年(1787年)11月22日、舖綱の死去により家督を継ぐ。

13歳頃から和漢の古銭収集が趣味で、特にこのことから「古銭家の王者」と称された。古銭収集の趣味は、昌綱が少年時代を過ごした宝暦年間の頃には、大阪・江戸でも流行していた。彼はヨーロッパ諸国の貨幣をも収集した。また20歳の頃には世界地理の研究をも志す。安永元年(1772年)23歳の頃、蘭学前野良沢に入門する。同門に杉田玄白中川淳庵桂川甫周らがおり、後に大槻玄沢司馬江漢らが入門してくる。その中でオランダ語による地理書の研究が始まった。昌綱はオランダ商館長(カピタン)のイサーク・ティチングとも交友あり、洋書やヨーロッパの銭貨の入手でも援助してもらう。オランダ語は文通できるくらいに上達した。安永9年(1780年)頃からオランダ通詞の荒井庄十郎を助手にし、世界地理研究をした。38歳で藩主となった年に『西洋銭譜』を刊行[2]。これは、17~18世紀のヨーロッパの貨幣を、克明な図入りで紹介するという、当時としては画期的なものであった。

著作も多く、『蘭学階梯』の序文や『泰西輿地図説』、『和漢古今泉貨鑑』、『新撰銭譜撰』12巻、『良貨分量考』など、多くの貴重な著作を残した。また蘭学研究に熱心であり、前述の通り前野良沢に弟子入りし、大槻玄沢ら蘭学者や、オランダ商館長と交友を持った。義兄であり茶人大名だった松江藩松平不昧[3]茶道の弟子にもなり、文人大名仲間だった姫路藩酒井忠以の弟の画家酒井抱一などとも交流があるなど、いわゆる文人大名としても名を馳せた。しかし、政治家としては二流だったといわれる。一説には進み過ぎた才能ゆえに公儀が避けたともいわれる。

寛政12年(1800年)閏4月9日、家督を養子の倫綱に譲って隠居する。剃髪して、近江入道と称した。江戸に戻り、享和2年(1802年)4月17日に死去した。享年53。


彼の収集した古銭はのちに、藩財政の危機および洋式軍備の必要のため、50丁のゲッペル銃と交換で海外に流出してしまった。現在その一部が大英博物館に収蔵されている。主に日本の古銭だが、中国やベトナム、朝鮮の貨幣も混ざっている。


著書[編集]

  • 『新撰銭譜撰』全12巻 - 昌綱の初の古銭目録。
  • 『西洋銭譜』 - 西欧諸外国の貨幣に関する著書。1787年(天明7年)刊行
  • 『泰西輿地図説』 - 西洋地誌概説書。1789年(寛政元年)刊行
  • 『和漢古今泉貨鑑』 - 古銭目録。刊行当時、人気作となった。1798年(寛政10年)刊行

脚注[編集]

  1. ^ 岡田俊裕 2011年 166ページ
  2. ^ 岡田俊裕 2011年 167ページ
  3. ^ 不昧も古銭収集の趣味があったことが確認されている。

参考文献[編集]

関連項目[編集]