松平定綱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
松平定綱
松平定綱像(長寿院蔵)
時代 江戸時代前期
生誕 文禄元年1月25日1592年3月8日
死没 慶安4年12月25日1652年2月4日
改名 亀松(幼名)→荒川定綱→松平定綱
別名 通称:三郎四郎
諡号 鎮国公
神号 鎮国大明神
戒名 大鏡院殿前四品玄蓮社定誉一法大居士
墓所 三重県桑名市東方の照源寺
官位 従四位下越中守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家康秀忠家光家綱
下総山川藩主→常陸下妻藩主→遠江掛川藩主→山城淀藩主→美濃大垣藩主→伊勢桑名藩
氏族 久松松平家→荒川氏→久松松平家
父母 父:松平定勝、母:たつ(奥平信昌養女)
兄弟 松尾君定吉定行定綱阿姫定実紀為君定房、菊君、定政、鶴君、玉君
正室:浅野長政娘・智相院
曜安院
定次定良、鶴姫、松平定経正室、
酒井忠正正室
テンプレートを表示

松平 定綱(まつだいら さだつな)は、江戸時代前期の大名下総山川藩常陸下妻藩遠江掛川藩山城淀藩美濃大垣藩伊勢桑名藩の各藩主。定綱系久松松平家初代。官位従四位下越中守徳川家康の甥に当たる。

生涯[編集]

松平定勝の三男として誕生した。母は奥平信昌の養女(奥平貞友の次女)・たつ。

慶長元年(1596年)、荒川弘綱荒川義広子、3千石)の養子となり家督を継いだが、慶長4年(1599年)家康の命により荒川姓から松平姓に復した。

慶長7年(1602年)、初めて家康に拝謁し、2代将軍・秀忠に仕えるよう命ぜられた。慶長9年(1604年)、下総国山川領のうち5千石を賜わった。慶長12年(1607年)、従五位下・越中守に叙任。慶長14年(1609年)、計1万5千石に加増され大名となった。大坂の陣では書院番頭として出陣し、その功により元和2年(1616年)、常陸国下妻藩2万石に加増転封された。元和4年(1618年)に遠江国掛川藩3万石に転じ、さらに元和9年(1623年)には山城国淀藩に移され3万5千石を賜う。淀では淀城の修復を行うよう命じられた。寛永10年(1633年)に美濃国大垣藩6万石へ転じ、同地に菩提寺の徳秀寺を建立した。翌年、従四位下に昇進。さらに寛永12年(1635年)、5万石の加増を受けて、伊勢国桑名藩に入る。

慶安4年(1651年)、江戸で卒去した。享年60歳。江戸深川霊巌寺で火葬され、遺骨は桑名照源寺へ送られ同地に埋葬された。寛政9年(1797年)に鎮国大明神の神号を追祠される。正室は浅野長政の娘で、寛永10年(1633年)に卒去しており、智相院殿光誉馨安樹清大姉の戒名を贈られ霊巌寺に葬られた。

定綱は同時代の文化人として知られた木下勝俊小堀政一林羅山らと交流があり、定綱自作の詩歌が彼ら文化人の作品と共に『政餘雕玉』に掲載されている。

系譜[編集]

父母

正室

側室

  • 曜安院 - 浅井氏の娘

子女

参考文献[編集]

  • 渡辺憲司『近世大名文芸圏研究』(八木書店)

脚注[編集]

  1. ^ 奥平貞友の次女
  2. ^ 定綱の子女の中で定綱の血筋を現在にまで伝えているのは女系の鶴姫の血筋のみであり、前橋藩酒井氏丸亀藩京極氏横須賀藩西尾氏などにも繋がる。

関連項目[編集]

松平定綱の墓(照源寺)