長久保城
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長久保城 (静岡県) | |
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別名 | 長窪城 |
城郭構造 | 山城 |
築城主 | 長久保氏? |
築城年 | 不明 |
主な城主 | 長久保氏?、清水政勝?、中村一氏 |
廃城年 | 1600年(慶長5年) |
遺構 | 曲輪(一部)、土塁、空堀 |
指定文化財 | なし |
位置 |
北緯35度08分51.8秒 東経138度53分23.4秒 |
地図 |
長久保城(ながくぼじょう)は、静岡県駿東郡長泉町下長窪にあった日本の城。
概要[編集]
築城時期や築城者は不明であるが、大友親頼の三男親政が、1439年(永享11年)の足利持氏滅亡(永享の乱)により今川氏に仕え、駿河国駿東郡長久保を領していたため一説には長久保氏の築城とも言われる。
愛鷹山の尾根の末端を利用した平山城で、南に黄瀬川、西にその支流の桃沢川、東に同じく支流の梅ノ木沢川と、三方を川に囲まれた自然地形を活用した縄張りであった。
戦国時代には今川氏、後北条氏、武田氏との間で争奪戦が繰り広げられた。1582年(天正10年)の武田氏滅亡後は徳川家康の持城となった。1590年(天正18年)の小田原征伐では、箱根越えに際し徳川家康が着陣し、後から入城した豊臣秀吉とともに、山中城や韮山城などの城攻めの軍議を行ったとされる。関東に家康が移封されると中村一氏の持城となったが、1600年(慶長5年)に移封され長久保城は廃城となった。
現在、本丸跡と二の丸跡は城山の削土や土地改良、道路建設で消滅。八幡曲輪と南曲輪の跡地に建つ城山神社境内に土塁、北小学校の周辺に三の丸と空堀の遺構が残り、解説盤がある。また、八幡曲輪・二の丸と三の丸を隔てる空堀を拡幅して作った国道246号裾野バイパス沿いに城址跡の石碑が建立されている[1]。
脚注[編集]
- ^ 『長泉町史蹟一覧表』長泉町HP
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- ながいずみクチコミガイド Vol.10 ~今は無き長久保城の話 - ながいずみ観光交流協会