陸奥国

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陸奥国
地図 令制国 陸奥国.svg
-陸奥国
-東山道
別称 奥州(おうしゅう)
陸州(りくしゅう、ろくしゅう)
所属 東山道
相当領域 青森県岩手県宮城県福島県秋田県北東部
諸元
国力 大国
距離 遠国
35郡193郷
国内主要施設
陸奥国府 1.宮城県仙台市郡山官衙遺跡
2.宮城県多賀城市多賀城跡
陸奥国分寺 宮城県仙台市陸奥国分寺跡
陸奥国分尼寺 宮城県仙台市(陸奥国分尼寺跡
一宮 鹽竈神社(宮城県塩竈市
都々古別神社福島県東白川郡棚倉町内に2社)
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陸奥国(むつのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。

明治維新後、出羽国とともに分割された後の陸奥国については、陸奥国 (1869-)を参照。

概要[編集]

当初は「道奥」(みちのおく)と呼ばれ、平安時代まで「陸奥」(みちのく)とも呼ばれた。その後は「陸奥」(むつ)と呼ばれた。

畿内から見て山道(のちの東山道)と海道(のちの東海道)の奥に位置し、中央政権に新規に服従した地域を同国に含めていったため、時期によって範囲は変遷する。

明治元年12月7日西暦1869年1月19日)に5国に分割され、その1つとして、青森県と岩手県二戸郡にかけての地域に新たに「陸奥国」(りくおうのくに・むつのくに)が置かれた。

「陸奥」の名称と由来[編集]

古事記』には「道奥」とあり、『日本書紀』は「陸奥」が多いが古い時代に「道奥」もみられ、ともに「道奥」を「みちのおく」と訓じる。『和名抄』は「陸奥」を「みちのおく」とする。「道」は古い時代には「国」と同義に使われており、「道奥」の語源は「都からみて遠い奥」にある国の意である。「道」を「陸」にかえた積極的理由はわからないが、常陸国の場合と同じく、「陸道」の意であてたものであろう。平安時代の和歌で「陸奥」は「みちのく」として詠まれていた。「みちのく」は「みちのおく」が訛って縮まったものである。

「みちのく」が「むつ」に変わった事情には、江戸時代から二説ある。一つは陸が六の大字として用いられることをふまえて、陸を六と書き、それに訓読みをあてて「むつ」にしたというもので、本居宣長が『古事記伝』で唱えた[1]。陸州は古代・中世によく使われた略し方で、「六奥国」「六奥守」「六国」という書き方も平安時代にはあった[2]。もう一つは「みちのく」が「みちのくに」になり、「むつのくに」に転訛したという説で、保田光則新撰陸奥風土記』にある[3]。「みちのくに」は『伊勢物語』などに見える。

沿革[編集]

「道奥国」設置と当時の領域[編集]

7世紀末から712年までの陸奥国

初め道奥みちのおく)といい、『常陸国風土記』には孝徳天皇在位の末年(654年)に、足柄峠の東方に常陸国を始め8国を置いたとの記述があり、この8国の中に道奥が含まれると解されている。現在の東北地方のうち徐々に律令国家日本に編入された地域、すなわち宮城県松島以南までの広大な領域を暫定的に含む辺境の大国であった。

常陸国から分離される形で成立し、以後、平安時代まで陸奥(みちのく)と呼ばれた。7世紀の設置時の範囲は、およそ現在の宮城県の中南部、山形県の内陸部、福島県のほぼ全域に相当し、内陸盆地のみならず、阿武隈高地以東に位置する太平洋沿岸である福島県浜通り(旧磐前県)や宮城県沿岸部も含まれていた。

6世紀の陸奥の国造は、道奥菊多(のちの菊多郡に相当)、石城(磐城郡)、染羽(締葉郡)、浮田(宇多郡)、思(日理の誤り)、白河(白河郡)石背(磐瀬郡)、阿尺(安積郡)、信夫(信夫郡)、伊久(伊具郡)の10国造である(「国造本紀」)。孝徳朝の後半に第二次の使者が派遣されて、国造制が制へと変わり、道奥国(みちのおくくに)が設けられた。

律令制下の陸奥国[編集]

718年から数年間の陸奥国

和銅5年(712年)に、最上川流域の最上郡(最上地方および村山地方)と置賜郡(置賜地方)を越後国から分割されて新たに成立した出羽国(現在の庄内地方)に譲ったため、陸奥国は上述の宮城県域と福島県域のみになった。

養老2年(718年)に、陸奥国は、陸奥国・石城国石背国の三つに分割された。この分割により、阿武隈川下流の北岸から宮城県中部まで(伊具郡刈田郡岩沼以北)の狭い範囲だけが陸奥国となった。阿武隈川下流の南岸以南の太平洋沿岸(菊多から亘理まで)は石城国伊達郡以南の阿武隈川流域盆地群(現在の福島県中通り)と会津盆地群で石背国とした。石城国は、分立する際に常陸国から菊多郡を編入した。

しかし、養老4年(720年)年以降神亀元年(724年)以前のいつかの時点で、これら3国は陸奥国に再編入された。菊多郡はそのまま陸奥に属した。

蝦夷(えみし)の領域に接する陸奥国には、陸奥・出羽両国を統括する陸奥按察使が置かれた。陸奥国府には鎮守府が置かれ、他国から送られた鎮兵の統括を任務とし、鎮守将軍(後に鎮守府将軍)が両国を軍事的に統括した。大同3年(808年)以前には、陸奥・出羽按察使、鎮守将軍とも、陸奥守が兼任することが多かった。延暦21年(802年)に胆沢城が造営されると、鎮守府はここに移された。この後鎮官[4]が国司と別に任じられるようになり、胆沢城の城司に鎮官を充てた。国府多賀城は胆沢城鎮守府を後方から守る役割になった。[5]

陸奥国は、蝦夷との戦争をへてしだいに領域を北に拡大し、最終的に突出して面積の大きな国になった。版図の拡大には城柵を設置する政策がとられた。689年(持統3年)に優嗜曇評の柵(のち出羽国置賜郡)、724年(神亀元)に多賀城(宮城県多賀城市)、737年(天平9年)に玉造柵(宮城県大崎市富沢遺跡か)、同年新田柵(宮城県大崎市大嶺八幡遺跡)、同年牡鹿柵(宮城県東松島市赤井遺跡か)、同年色麻柵、759年(天平宝字3年)に桃生城(宮城県石巻市)、767年(神護景雲元)に伊治城(宮城県栗原市)、780年(宝亀11年)に覚(上幣と下魚)城(未造営か)、804年(延暦23年)に中山柵(小田郡)、802年(延暦21年)に胆沢城(岩手県奥州市)、803年(延暦22年)に志波城(岩手県盛岡市)、812年(弘仁3年)に徳丹城(岩手県矢巾町)、遺跡として7世紀中頃の郡山遺跡(宮城県仙台市)、8世紀前半の城生柵遺跡(宮城県加美町)の15柵がつくられた。

和名類聚抄による田の面積は、5万1440町3反99歩。延喜式による租稲(の税収)は158万2715束。都への貢進物は昆布・縒昆布・策昆布・細昆布・広昆布、薬草として甘草秦膠大黄石斛人参附子猪脂、筆、零羊の角。交易雑物には鹿の革、独犴(ラッコまたは犬)の皮、砂金、昆布・策昆布・細昆布があった。また、特産物の金、名馬、毛皮、羽根は都の貴族に珍重された。

延喜式での租稲配分
名目 支出(束)
正税 60万3000
公廨 80万3715
うち国司 (64万1200)
うち鎮官 (16万2515)
国分寺 4万0000
文殊会 2000
救急料 12万0000
塩竃神 1万0000
学生料 4000
158万2715

平安時代[編集]

陸奥国南西部(後の岩代国)の会津地方では、807年(大同2年)年創建の伝承を持つ恵日寺が強大な勢力を持ち、11世紀から12世紀に最盛期を迎えて陸奥国から北陸地方北部まで影響力を持った。

平安時代後期になって中央からの統制が弛緩すると、俘囚の長安倍氏が陸奥の北部(現在の岩手県青森県)、奥六郡から下北半島、さらに十三湊[6]からの大陸交易に至る多大な権益に力を持つようになった。安倍氏は国司に従わず、前九年の役で戦って滅亡した。このとき出羽国から参戦した清原氏が陸奥・出羽両国で勢威を持ったが、後三年の役で滅亡した。これに代わって平泉を本拠地とする奥州藤原氏が陸奥・出羽の支配者になった。彼らはいずれも陸奥・出羽の地元で力を伸ばした一族で、都から派遣された国司が統治するという律令制の大原則を侵食し、奥州藤原氏にいたって自治的領域を築くようになった。奥州藤原氏の勢力圏は陸奥国全域におよび、現在の福島県中通りでは、信夫佐藤氏信夫郡(現在の福島市)を本拠地として宮城県南西部、山形県南部、中通り中部、後に恵日寺衰退後の会津を支配した。中通り南部は、前九年の役に従軍した後に石川郡に定住した清和源氏石川氏が統治した。又、浜通り南部は桓武平氏岩城氏が統治していた。しかし、信夫佐藤氏、石川氏、岩城氏のいずれも、平泉藤原氏に服属していた。

奥州藤原氏は後の陸中国域(岩手県)にあたる平泉を本拠に、平氏政権のもとでも半独立の状態を維持した。しかし1189年源頼朝の攻撃を受けて滅亡した。

なお、平安時代の陸奥国および出羽国は、北東北領域で境界不明瞭なことが多く、平安末期には、奥州藤原氏の勢力範囲の秋田県領域(仙北三郡など)も陸奥国と見なされていたようである(→出羽国)。

鎌倉時代[編集]

1142年 康治二年 藤原師綱 本朝世紀

1142年 康治二年 藤原基成 本朝世紀

1149年 久安五年 藤原兼忠 兵範記

1153年 仁平三年 藤原隆親 兵範記

1157年 保元二年 円 信説 兵範記

1157年 保元二年 藤原雅隆 兵範記

1158年 保元三年 源 国雅 兵範記

1162年 長寛元年 藤原長光 長寛勘文

1168年 仁安三年 藤原成房 兵範記

1176年 安元二年 藤原範季

1180年 治承四年 藤原実雅 玉葉

1181年 養和元年 藤原秀衡 玉葉

1184年 元暦元年 藤原宗長

1185年 文治元年 藤原盛実 吉記

1185年 文治元年 源 兼忠 吾妻鏡

1185年 文治元年 源 雅頼 吾妻鏡

1192年 建久三年 藤原朝房 吾妻鏡

1192年 建久三年 源 師信 吾妻鏡

1205年 元久二年 藤原懐信 明月記

1207年 承元元年 中原師公 明月記

1216年 健保四年 大江広元 尊卑分脈

1217年 健保五年 平(北条)義時 吾妻鏡

1224年 元仁元年 足利義氏 大日本史国郡司表

1230年 寛喜二年 三善長衡 鎌倉遺文

1231年 寛喜三年 藤原頼経 明月記

1238年 歴仁元年 (欠姓)宗基 玉蘂

1248年 宝治二年 橘 (欠名) 鎌倉遺文

1250年 建長二年 平(北条)重時 鎌倉年代記

1256年 康元元年 平(北条)政村 鎌倉年代記

1264年 文永元年 平(大仏)宣時 鎌倉遺文

1267年 文永四年 平(北条)時茂 鎌倉年代記

1271年 文永八年 平(北条)時村 鎌倉年代記

1282年 弘安五年 藤原(安達)泰盛 勘仲記

1287年 弘安七年 平(北条)業時 鎌倉年代記

1289年 正応二年 平(大仏)宣時 鎌倉年代記

1301年 正安三年 平(大仏)宗宣 鎌倉年代記

1312年 正和元年 平(大仏)維貞 鎌倉年代記

1331年 元弘元年 平(大仏)貞直 花園天皇宸記

1332年 元弘三年 源(北畠)顕家 公卿補任

南北朝・室町時代[編集]

後醍醐天皇建武の新政期には一時期親王任国とされ、義良親王が陸奥太守として赴任した。南北朝の争乱期においては、多賀城は南朝と北朝の係争地として北畠顕信吉良貞家畠山国氏らが争った。南朝勢力の駆逐後奥州管領が4人並立する事態となるが、斯波氏がこの争いに勝利して大崎地方に勢力を扶植し大崎氏を名乗るようになる。その後鎌倉公方足利氏満の支配下となるが、子の足利満兼の代となると篠川御所稲村御所を設置するも伊達政宗の反乱を招く。また、奥州の在地領主が幕府と直接主従関係を結び、京都扶持衆と呼ばれる関係を築いた。

鎌倉公方と室町幕府の関係悪化によって、幕府は奥州探題を置いた。当初、大崎氏が奥州探題を世襲していたが、南北朝の争乱以降在地領主の権限が強く、その権威は名目的なもので、権威が及ぶ範囲も限られていた。戦国時代になると陸奥国南部(現在の福島県北部)の伊達氏が台頭し、伊達稙宗が陸奥国守護を任ぜられ、大崎氏が伊達氏の勢力下に組み込まれるに至って、奥州探題の地位も伊達氏に奪われた。

又、松島から気仙郡にかけての三陸沿岸は、石巻を本拠地とする葛西氏が統治していた。しかし、天正時代の奥州仕置きにより、葛西氏は領土を没収され、旧葛西氏領は伊達氏の領土に編入された。

江戸時代[編集]

代表的な藩として、弘前藩盛岡藩仙台藩中村藩磐城平藩二本松藩白河藩米沢藩会津藩など。これらのうち、高地以東(北上高地以東、阿武隈高地以東)の太平洋沿岸のみを領した藩は、中村藩と磐城平藩のみである。内陸盆地のみの藩は、会津藩、米沢藩、白河藩や二本松藩などである。

明治期の陸奥国[編集]

1869年以降の陸奥国(りくおう)

1869年1月19日明治元年12月7日)、戊辰戦争に敗けた奥羽越列藩同盟に対する処分が行われた。同日、陸奥国と出羽国は分割され、陸奥国(むつ)は、陸奥国(りくおう)・陸中国(りくちゅう)・陸前国(りくぜん)・岩代国磐城国の5国に分割された。陸奥国(りくおう)は、現在の青森県岩手県西北の二戸郡を加えた範囲となり、結果的に初期の陸奥国(みちのく)から300kmも離れた土地を指すことになった。

陸奥国(りくおう)の領域にあった藩は下記のとおりである。

明治政府の地方支配体制は、その後の廃藩置県鎮台などによって実現されたため、明治元年の陸奥国分割は、政治的にも地域圏・文化圏成立にもほとんど意味を成さなかった。ただし、分割後の国名は、鉄道の駅名や陸前高田市などの地名に利用されている。また、陸奥・陸中・陸前の三国を総称した「三陸」の呼称は三陸海岸を始め現在も定着している。

国内の施設[編集]

国府[編集]

  1. 郡山官衙遺跡宮城県仙台市太白区位置) - 国の史跡(史跡「仙台郡山官衙遺跡群 郡山官衙遺跡 郡山廃寺跡」のうち)。神亀元年(724年)以前。
  2. 多賀城(宮城県多賀城市位置) - 国の特別史跡。神亀元年(724年)から10世紀
  3. 多賀国府(宮城県仙台市北東部と推定) - 10世紀以降。

当初の国府郡山遺跡と推定されており、名取郡にあったとされる。神亀元年(724年)に宮城郡多賀(現在の宮城県多賀城市)に多賀城が建設されると同時に国府もここに移された。遺跡調査からこの国府が10世紀に廃絶したことがわかっているが、文献史料からはその後も多賀国府が鎌倉時代、南北朝時代に存在したことがわかっている。場所はやや西の岩切駅(現在の仙台市北東部)付近に移ったと推測されている[7]

過去には、多賀城・多賀国府が岩切や利府にあったとする説もあり、多賀城の位置が定まったのは明治に入ってからである[8]。その後も、歌枕の「武隈の松」から武隈(現在の宮城県岩沼市)に国府が一時期あったとする説や、現在の福島県に国府が置かれた時期もあったとする推定もなされたが[9]、いずれも発掘調査の進展により否定されている。

陸奥府中[編集]

旧称 現称 現在地
北宮 北宮神社 位置
東宮 東宮神社 位置
西宮 冠川神社 位置
南宮 南宮神社 位置

郡山遺跡の時代の陸奥国府の「府中」の範囲は不明だが、多賀城や多賀国府の時代の「府中」の範囲はおおよそ分かっている[10]。すなわち、府中の東西南北の境界には、東宮(とうぐう)・西宮(さいぐう)・南宮(なんぐう)・北宮(ほくぐう)と呼ばれる神社が祀られており、これら4社が囲むエリアの内外に国府、国府の役人やその家族および家来や商人などが住む町、寺院・神社、街道・河川(河川港)・国府津(海港)などが集中し、陸奥国の政治・経済の中心地として室町時代まで続いた[10][11]

現在、東宮は七ヶ浜町に東宮神社として残り、南宮も多賀城市に南宮神社として残る[10]。北宮は北宮神社(きたみや)として利府町の春日神社の境内社として残る[10]。西宮は江戸時代に冠川明神と呼ばれ、明治期に鹽竈神社の別宮に合祀されて志波彦神社となったが、分霊が冠川神社として元の所在地にある八坂神社に境内社として戻った[10]。4社いずれも鹽竈神社の境外末社となっている。

国分寺・国分尼寺[編集]

陸奥国分寺(宮城県仙台市)

神社[編集]

延喜式内社

延喜式神名帳には、大社15座15社・小社85座85社の計100座100社が記載されている(「陸奥国の式内社一覧」参照)。大社15社は以下に示すもので、全て名神大社である。

総社一宮以下

『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧[12]

なお、他に陸奥国一宮を称する神社として石都々古和気神社(福島県石川郡石川町)があり、上記2社と同じくこちらも全国一の宮会に加盟している。

安国寺利生塔[編集]

利生塔は未詳。

地域[編集]

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太平記』に「奥州五十四郡あたかも日本半國に及べり」といわれ、以来陸奥国といえば54郡といわれるが、実際には陸奥国の郡数は時代によって変動しており一定ではない。この54という郡数は平安末期から中世初頭にかけての状態を反映したものである。

人口[編集]

  • 1721年(享保6年) - 196万2836人
  • 1750年(寛延3年) - 183万6134人
  • 1756年(宝暦6年) - 180万6192人
  • 1786年(天明6年) - 156万3719人
  • 1792年(寛政4年) - 156万8218人
  • 1798年(寛政10年)- 158万9108人
  • 1804年(文化元年)- 160万2948人
  • 1822年(文政5年) - 165万0629人
  • 1828年(文政11年)- 168万0102人
  • 1834年(天保5年) - 169万0509人
  • 1840年(天保11年)- 150万6193人
  • 1846年(弘化3年) - 160万7881人
  • 1872年(明治5年) - 229万4915人(旧陸奥国5国合計)
※分国後の明治5年、陸奥国の人口は人口47万3244人であった。

内閣統計局・編、速水融・復刻版監修解題、『国勢調査以前日本人口統計集成』巻1(1992年)及び別巻1(1993年)、東洋書林。

脚注[編集]

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  1. ^ 本居宣長『古事記伝』20巻(筑摩書房『本居宣長全集』第10巻449-450頁)。
  2. ^ 高橋富雄『蝦夷』190頁。
  3. ^ 保田光則『新撰陸奥風土記』歴史図書社、1頁。
  4. ^ (ちんかん)鎮守府の鎮守将軍・副将軍・軍監・軍曹などの官職
  5. ^ 今泉隆雄「律令国と蝦夷」55ページ(渡辺信夫・今泉隆雄・大石直正・難波信雄『宮城県の歴史』山川出版社 1999年3月)
  6. ^ 12世紀にはすでに遺構が存在することが国立歴史民俗博物館などの調査によって知られている。
  7. ^ 『みちのくの都 多賀城・松島』、『中世陸奥国府の研究』所収の諸論文による。
  8. ^ 豊田武・編『東北の歴史』上巻91頁(工藤雅樹・執筆「多賀城」)。
  9. ^ 大塚徳郎「古代および中世の宮城県」、『宮城県の地理と歴史』第2巻71頁。
  10. ^ a b c d e 『仙台市史 通史編2 古代中世』(仙台市史編さん委員会 2000年) P.237-P.244
  11. ^ 『せんだい 歴史の窓』(菅野正道 著、河北新報出版センター、2011年10月30日 ISBN 978-4-87341-262-7) P.75-77
  12. ^ 『中世諸国一宮制の基礎的研究』 中世諸国一宮制研究会編、岩田書院、2000年、pp. 306-310。
  13. ^ 田舎郡から北部を分割して江流間郡(江留末郡)・有間郡(馬郡)・奧法郡(沖穂郡)とし、この3郡を「外3郡」、田舎郡・鼻和郡・平賀郡を「内3郡」とし合わせて「津軽6郡」とする説があるが、これは『東日流外三郡誌』の説で現代の創作であり史実ではない。

参考文献[編集]

  • 大塚徳郎「古代および中世の宮城県」、東北大学教育教養学部歴史研究室地域社会研究会『宮城県の地理と歴史』第2巻、東北大学教育教養学部歴史研究室地域社会研究会、1956年。
  • 入間田宣夫・大石直正・編『みちのくの都 多賀城・松島』、平凡社、1992年。
  • 入間田宣夫・大石直正等『中世陸奥国府の研究』、ヨークベニマル、1994年。
  • 高橋富雄『蝦夷』、吉川弘文館、1963年。
  • 豊田武『東北の歴史』上巻第4版、吉川弘文館、1973年。
  • 本居宣長古事記伝』。大野晋・編『本居宣長全集』第10巻(古事記伝にあてるのは9から11巻)、筑摩書房、1968年。
  • 保田光則新撰陸奥風土記万延元年(1860年)。歴史図書社、1980年(1913年の刊本の復刻版)。

関連項目[編集]