コンテンツにスキップ

熊谷元直

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
熊谷 元直
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 弘治元年(1555年
死没 慶長10年7月2日1605年8月16日
改名 熊谷元貞[1]→元直[1]
別名 通称:二郎三郎[1]
法名:聴玄庵蓮西[1]
霊名 メルキオル
墓所 慰霊碑(山口県萩市堀内 萩キリシタン殉教者記念公園
官位 伊豆守[1]豊前守[1]従五位下[1]
主君 毛利輝元秀就
長州藩
氏族 桓武平氏直方流熊谷氏[2]
父母 父:熊谷高直[1]、母:備後国人・安田某の娘[1]
兄弟 妙永[1]、珠光[1]元直景真[1]
佐波隆秀の娘[1]
熊ちよ(棚守某室)[1]、お才(天野元信室)[1]直貞[1]次郎兵衛尉[1]、おちやん(杉重政室)[1]、女(井原元直室)[1]、妙金[1]猪助[1]
テンプレートを表示
福者 メルキオール 熊谷豊前守元直
殉教者
崇敬する教派 カトリック教会
列福日 2008年11月24日
列福場所 日本の旗 日本
長崎県長崎市
列福決定者 ベネディクト16世
記念日 7月1日
テンプレートを表示
熊谷 元直
教会 カトリック教会(キリシタン)
洗礼名 メルキオル
受洗日 1586年
テンプレートを表示

熊谷 元直(くまがい もとなお)は、戦国時代から江戸時代初期の武将毛利氏の家臣。安芸熊谷氏当主。熊谷信直の孫で[1]熊谷高直の子[1]。妻は佐波隆秀の娘[1]。男子に直貞次郎兵衛尉猪助[1]。女子に天野元信妻など[1]。初名は元貞[1]通称は二郎三郎[1]受領名は伊豆守[1]、豊前守[1]。法名は聴玄庵蓮西[1]洗礼名はメルキオル。

生涯

[編集]

弘治元年(1555年)、毛利氏家臣の熊谷高直の子として誕生。この頃の安芸熊谷氏は、祖父・信直の代に娘を吉川元春毛利元就の次子)に嫁がせ、16000石の所領を持つなど、毛利氏の縁戚として重用されていた。

天正7年(1579年)、父・高直が死去すると、祖父・信直の補佐を受け家督を継承する。主君の毛利輝元に従い、豊臣秀吉四国攻め九州征伐小田原征伐文禄の役などに従軍し活躍した。慶長元年(1596年)、豊臣姓を下賜された[3]

一方で、天正15年(1587年)3月中旬、黒田孝高の勧めでペドロ・ゴメス神父から洗礼を受けキリシタンとなり、洗礼名メルシオルを授かった。この時同じく黒田孝高の勧めにより、毛利家中でも多くの者が受洗している[4]

当初はキリスト教に熱心ではなかったものの、文禄5年(1596年)に秀吉の伏見城普請を任ぜられて上方に滞在中、神父たちに会って信仰を強め、「自分は今後は、一度受け入れた信仰にふさわしい生活をしようと望んでいる」と述べた[5]

その後、豊臣秀吉棄教令や輝元からの棄教の命を拒絶し、毛利領のキリスト教信者の庇護者となった。元々元直は家中での権勢を背景に独断専行の傾向があったため、合わせて輝元の強い不興を買った。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて毛利氏は西軍についたため、安芸国をはじめとする所領を減封されることになり、元直も伝来の所領と三入高松城を失い、ともに周防長門に移り、8000石を領した。

慶長9年(1604年)、輝元は新たな毛利氏の本城を萩城と定め、重臣である元直と益田元祥にその築城を命じた。その際に益田元祥の家臣が元直の一族である天野元信配下の者から築城の材料(五郎太石)を盗む事件が発生し、その責任をめぐって両者は対立したため築城作業は遅延する(五郎太石事件)。この事件に加えて以前から元直が様々な不正を行っていたことを理由として元直や天野元信らの粛清を決定した輝元は、慶長10年(1605年)に13ヶ条に渡る元直の罪状書[6]や6ヶ条の天野元信の罪状書[7]を記している。また、粛清後の同年7月8日には佐波広忠井原元以榎本元吉佐世元嘉を通じて、7ヶ条に渡る元直の非行を上申した目安状を提出している[8]

同年7月2日に毛利輝元は熊谷元直夫妻や天野元信だけでなく、元直に与する有力者であった三輪元祐中原善兵衛尉佐波善内らの居所に討手を派遣した。元直夫妻に対する討手を務めた宍戸元富綿貫九郎右衛門が元直に対して切腹命令を伝えたが、キリシタンであった元直は切腹命令を拒否し、妻や次男・次郎兵衛尉三男・猪助[要出典]らと共に殺害された[9]。さらに、天野元信、三輪元祐、中原善兵衛尉、佐波善内らもそれぞれの居所で討手により殺害されている[9]。また、これと前後して、毛利領内のキリスト教関係者の多くが処刑された。

熊谷元直の一族とその与党の有力者は誅殺されたが、元直の従弟の熊谷元実、元直の甥の熊谷元吉牧野二郎右衛門尉天野元重天野元因湯二郎右衛門尉らは縁故の関係や罪状が軽い者であったことを考慮して死一等を減じて7月13日に追放処分となった[10]。一方で、元直の叔父の熊谷就真とその子の熊谷元辰や天野元信の兄の天野元嘉はそれぞれ元直や天野元信に与しなかったため、連座を免れて役目を安堵されている[10]。また、元直の嫡男・直貞の子である熊谷元貞が母方のおじにあたる毛利秀元に庇護されて粛清の連座を逃れており、後に大坂の陣で戦功を挙げて、3000石の寄組として熊谷氏を再興している。

粛清が行われた翌日の7月3日に輝元は伏見福原広俊に粛清が完了したことを報じ、7月13日には福原広俊に対して処刑者の罪状とその最後の様子や追放者の事を伝え、万が一幕府から事々しい沙汰があれば本多正純に事の真相を説明して諒解を取り付けるよう命じている[10]

同年12月14日、毛利氏家臣団や有力寺社の総勢820名が毛利氏への忠誠や様々な取り決めを記した起請文に連署して輝元に提出しているが、その冒頭で元直・次郎兵衛尉父子や天野元信らの誅殺を、天文19年(1550年)7月に毛利元就によって断行された安芸井上氏粛清になぞらえて、元直らが輝元の意思を軽んじて大小の事にほしいままに振る舞ったためで粛清は尤もなことであるため、一同は少しも別心を抱かないことを誓約している[11]。このような動きにより、元直らの粛清は毛利家中の綱紀粛正と団結に多大な効果をあげることとなった[12]

死後

[編集]

後世、元直はキリスト教信者の働きかけにより殉教者として扱われ、キリシタンの禁教が解除された明治時代には教会に墓所が設けられた。

また、2007年3月4日には、ローマ教皇庁17世紀前半に江戸幕府の迫害を受けて殉教した、元直を含む日本人カトリック信徒188人に対して福者の敬称を与えられることとなり、同年6月にローマ教皇ベネディクト16世によって正式承認された(ペトロ岐部と187殉教者)。

系譜

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 238.
  2. ^ 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 235.
  3. ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』近代文芸社、2000年、40頁。 
  4. ^ 小川國治「熊谷豊前守元直―メルシオル熊谷元直の殉教―」『キリシタン大名 布教・政策・信仰の実相』宮帯出版社、2017年。 
  5. ^ 松田毅一 訳『十六・七世紀イエズス会日本報告書』(1987-1998年)同朋舎。 
  6. ^ 『毛利家文書』第1279号、毛利輝元自筆熊谷元直罪状書。
  7. ^ 『毛利家文書』第1280号、毛利輝元自筆天野元信罪状書。
  8. ^ 毛利輝元卿伝 1982, p. 657.
  9. ^ a b 毛利輝元卿伝 1982, pp. 658–659.
  10. ^ a b c d e 毛利輝元卿伝 1982, p. 659.
  11. ^ 毛利輝元卿伝 1982, pp. 659–660.
  12. ^ 毛利輝元卿伝 1982, p. 660.

参考文献

[編集]
  • 防長新聞社山口支社編、三坂圭治監修『近世防長諸家系図綜覧』防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060 国立国会図書館デジタルコレクション
  • H.チースリク『熊谷豊前守元直―あるキリシタン武士の生涯と殉教―』キリシタン文化研究会、1979年。
  • 三卿伝編纂所編、渡辺世祐監修、野村晋域著『毛利輝元卿伝』マツノ書店、1982年1月。全国書誌番号:82051060 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 小川國治「熊谷豊前守元直―メルシオル熊谷元直の殉教―」『キリシタン大名 布教・政策・信仰の実相』宮帯出版社、2017年、504‐522頁。ISBN 9784801600188

関連項目

[編集]
先代
熊谷高直
安芸熊谷氏歴代当主
1579年 - 1605年
次代
熊谷元貞