葛西城

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葛西城
東京都
葛西城址公園(2015年11月)
葛西城址公園(2015年11月)
城郭構造 平城
天守構造 なし
築城主 葛西氏
築城年 鎌倉時代、不明
主な城主 葛西氏扇谷上杉氏足利氏遠山綱景後北条氏
廃城年 天正18年(1590年
遺構 陶磁器、漆器、人骨など
指定文化財 葛西城址公園


葛西城(かさいじょう)は、現在の東京都葛飾区青戸にあった日本の城である。


歴史・沿革[編集]

築城者、築城年代は不明だが、桓武平氏の流れをくむ葛西氏鎌倉期に城館として築いたとされる。中川の蛇行部を天然の堀として背後に持つ平城で、戦国期には下総国への重要な進出拠点として、扇谷上杉氏後北条氏の支配下に置かれた。

特に国府台合戦時には後北条氏側の最前線として重用され、中川太日川を挟んで国府台城に陣取る小弓公方足利義明里見氏らと激戦を繰り広げた。2度の国府台の戦いで先鋒を務め、2度目の戦いで戦死した遠山綱景は葛西城の城主であった。また、後北条氏によって擁立された古河公方足利義氏の元服式が行われたのも葛西城であった。

天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際に戸田忠次らによって攻められ落城。廃城となるが、徳川家康が江戸に入府後は城跡に「青戸御殿(葛西御殿とも)」と呼ばれる陣屋が建てられ、3代家光の頃まで鷹狩の宿舎として利用されたが、明暦3年(1657年)頃、明暦の大火で焼失した江戸城再建の資材のために破却されたという。

発掘調査と現在の景観[編集]

御殿山公園(2015年11月)

中心部を南北に環七通りが横切っており、わずかに東西に分断されて残った城郭跡がそれぞれ「御殿山公園」、「葛西城址公園」となっているが目にする事の出来る遺構は無い。昭和47年(1972年)に道路建設に伴う発掘調査が行われ、戦国期の陶磁器漆器人骨など様々な遺物が発掘された。また、中世末期から近世初頭の多数のスッポン遺体が出土しており、近世に西日本から新たにもたらされた食文化と考えられている[1]

城跡の保存よりも開発を優先させた為、道路建設のため城跡は一部は破壊され、道路下に埋め戻された。

脚注[編集]

  1. ^ 樋泉岳二「漁撈活動の変遷」西本豊弘編『人と動物の日本史1 動物の考古学』(吉川弘文館、2008年)、p.143

関連項目[編集]