葛西城

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葛西城
東京都
葛西城址公園(2015年11月)
葛西城址公園(2015年11月)
城郭構造 平城
天守構造 なし
築城主 葛西氏
築城年 鎌倉時代
主な城主 葛西氏扇谷上杉氏足利氏遠山綱景後北条氏
廃城年 天正18年(1590年
遺構 なし
指定文化財 葛西城址公園
位置 北緯35度45分19.6秒
東経139度51分17.9秒
地図
葛西城の位置(東京都内)
葛西城
葛西城

葛西城(かさいじょう)は、現在の東京都葛飾区青戸にあった日本の城である[注釈 1]

歴史・沿革[編集]

鎌倉時代桓武平氏の流れをくむ葛西氏が城館として築いたという伝承もあるが、その詳細は不明である。確実なところでは、関東地方における享徳の乱において旧利根川筋をはさんで西側に上杉幕府方、東側に古河公方の勢力が対峙する情勢のなか、15世紀中葉に関東管領家の上杉方の城として築城されたと考えられる[2]。青戸は当時にあっては上杉方の最前線で、最初の葛西城主は武蔵国守護代大石氏の一族大石石見守であり、江戸城を居城とする扇谷上杉家の家宰、太田道灌と連携して古河公方足利成氏の動きを牽制していた[2]寛正2年(1461年)に足利成氏が葛西城を攻撃したという記録が残っている[2]。寛正3年(1462年)から文明10年(1485年)にかけての一時期、上杉方の武将千葉実胤が入城したといわれるが、その後、再び大石氏が葛西城に入った[2]

葛西城は、中川の蛇行部を天然の堀として背後に持つ平城で、戦国期には下総国への重要な進出拠点として、扇谷上杉氏後北条氏の支配下に置かれた。

特に国府台合戦時には後北条氏側の最前線として重用され、中川太日川を挟んで国府台城に陣取る小弓公方足利義明里見氏らと激戦を繰り広げた。2度の国府台の戦いで先鋒を務め、2度目の戦いで戦死した遠山綱景は葛西城の城主であった。また、後北条氏によって擁立された古河公方足利義氏の元服式が行われたのも葛西城であった。

天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際に戸田忠次らによって攻められ落城。廃城となるが、徳川家康が江戸に入府後は城跡に「青戸御殿(葛西御殿とも)」と呼ばれる陣屋が建てられ、3代家光の頃まで鷹狩の宿舎として利用されたが、明暦3年(1657年)頃、明暦の大火で焼失した江戸城再建の資材のために破却されたという。

発掘調査と現在の景観[編集]

御殿山公園(2015年11月)

中心部を南北に環七通りが横切っており、わずかに東西に分断されて残った城郭跡がそれぞれ「御殿山公園」、「葛西城址公園」となっているが目にすることのできる遺構はない。昭和47年(1972年)に道路建設に伴う発掘調査が行われ、戦国期の陶磁器漆器人骨など様々な遺物が発掘された。また、中世末期から近世初頭の多数のスッポン遺体が出土しており、近世に西日本から新たにもたらされた食文化と考えられている[3]

城跡の保存よりも開発を優先させた為、道路建設のため城跡は一部は破壊され、道路下に埋め戻された。

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 東京の下町地域には、江戸をはじめとして、青戸、奥戸(葛飾区)、亀戸江東区)、今戸台東区)、花川戸(台東区)など「戸」のつく地名が河川に沿って比較的密に分布しているが、これらは、いずれも「津」(すなわち港)の転訛と考えられており、中世以降、海と内陸をむすぶ交通の要衝であったと考えられる。下町が「かつて海だった」とか「葦しか生えていない寒村であった」という話は、多分に江戸幕府の偉業を称える政治的な意図から発せられ、流布されたものである[1]

出典[編集]

参考文献[編集]

  • 谷口榮『東京下町に眠る戦国の城・葛西城』新泉社〈シリーズ「遺跡を学ぶ」057〉、2009年4月。ISBN 978-4-7877-0937-0
  • 樋泉岳二「漁撈活動の変遷」『人と動物の日本史1 動物の考古学』西本豊弘編、吉川弘文館、2008年11月。ISBN 978-4-6420-6275-6

関連項目[編集]

外部リンク[編集]