忍城の戦い
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忍城の戦い | |
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忍城(模擬御三階櫓) | |
戦争:小田原征伐 | |
年月日:天正18年(1590年)6月16日 - 7月16日 | |
場所:武蔵国 忍城(後の埼玉県行田市) | |
結果:後北条氏の降伏により開城 | |
交戦勢力 | |
攻城側 : 豊臣軍 ![]() |
篭城側 : 成田軍 ![]() |
指導者・指揮官 | |
石田三成 ![]() 大谷吉継 ![]() 長束正家 ![]() 真田昌幸 ![]() 真田信繁 ![]() 直江兼続 ![]() 佐竹義宣 ![]() 宇都宮国綱 ![]() 北条氏勝 ![]() 多賀谷重経 浅野長政 ![]() 鈴木重朝 ![]() 水谷勝俊 |
成田泰季[1]![]() 成田長親 ![]() 甲斐姫 正木利英 酒巻靱負 柴崎敦英 本庄泰展 今村佐渡守 島田出羽守 別府顕清 善照寺向用斎 豊島頼重[2] |
戦力 | |
2〜5万 | 2000〜2100 |
損害 | |
死傷者2000以上 | 少人数 |
忍城の戦い(おしじょうのたたかい)は、成田氏の本拠である武蔵国の忍城(後の埼玉県行田市)を巡って発生した戦いである。
この城を巡っては、忍氏との文明年間(1469年から1487年。または延徳元年(1489年))の戦い、古河公方・足利政氏との享禄年間頃(1531年以前)の戦い、関東地方において勢力を拡大しつつあった後北条氏と関東管領・上杉氏との対立抗争に伴い発生した天文22年(1553年)と永禄2年(1559年)の戦い、豊臣秀吉の小田原征伐に伴い発生した天正18年(1590年)の戦いなど、数度にわたって攻城戦が繰り広げられたが[3]、本項目では、天正18年(1590年)6月16日から7月16日にかけて行われた戦いについて詳述する。
忍城の水攻めは備中高松城の戦い、太田城の戦いととも日本三大水攻めのひとつに数えられる。
経緯[編集]
成田氏代々の居城であった忍城はその周囲に元荒川・星川が流れていて自然の堀をなし、関東七名城の一つに数えられていた[4]。豊臣秀吉は四国征伐や九州征伐で長宗我部氏や島津氏を配下とすると、天下統一に向け今度は関東平野に広大な領土を獲得していた後北条氏に目を付けた。秀吉は徳川家康を介して上洛を促すが北条氏政は拒否し、小田原攻めが決定した。この報を聞いて成田氏当主・成田氏長と成田泰親は小田原城に籠城していたため、忍城には成田泰季と成田長親、甲斐姫らが籠城することになった。
水攻め前[編集]
豊臣軍は館林城・忍城を攻略するために、6月5日頃に石田三成・大谷吉継・長束正家を派遣した[5]。6月4日に三成は館林から忍へ移動し[6]、城の大宮口に本営を設け攻撃をしたが、城の守りが固く容易に陥らなかった[4]。当初は6月8日頃に前田利家・上杉景勝・真田昌幸ら北国勢と、浅野長政や木村重茲・徳川勢の浅野隊が合流し、彼ら主導で忍城攻撃が行われたが、忍城は沼や河川を堀として効果的に利用した堅城であり、豊臣軍は攻めあぐねた。6月12日に秀吉から石田三成に水攻めをするように指示があり、翌13日、北国勢と浅野隊は離脱し鉢形城攻めに向かった。石田は浅野長政と木村重茲両名に、忍城攻撃の指図を仰いでいる。
鉢形城は6月14日に降伏開城し、浅野長政と真田昌幸は忍城包囲軍に戻った。
6月17日に三成は丸墓山古墳に陣を構え、大谷吉継・長束正家・直江兼続・佐竹義宣・宇都宮国綱など配下の軍勢により忍城を包囲した
水攻め[編集]
豊臣方の石田三成は、城攻めが上手くいかないので、近くの小山に登り地形を鳥瞰して研究し、備中高松城の戦いに倣って水攻めにしようと考え付いた、と『関八州古戦録』や『成田記』には記されている[7]。実際には三成が水攻めに批判的で、もっと積極的な攻撃が必要とする書状を6月12日に送ったのに対し、秀吉が改めて、三成に水攻めの注意点を事細かに指示した書状を送っている[8]。これらの同時代史料から見る限り、水攻めを主導したのは秀吉であって、三成ではない[9]。すなわち、秀吉は完全なる殲滅戦を意図しておらず[10]、終始水攻めを命じ、三成はそれを実行していたに過ぎない[11]。さらに、6月13日に三成が浅野長政と木村重茲に出した書状を見ると、三成は具体的な戦術については、浅野の指示をたびたび仰いでいるという事実が確認される[12]。具体的な方策として、三成は城を中心に南方に半円形の堤防を築くことにした。近辺の農民などに昼は米一升に永楽銭六十文、夜は米一升に永楽銭百文を与え昼夜を問わず工事を行い、4~5日という短期間で堤防を築いた[13]。全長28キロメートル[14]にもなる石田堤と呼ばれる堤防を築き、利根川の水を利用した水攻めが始まった。ところが予想に反して本丸が沈まず、まるで浮いているかの様に見えたことから忍の浮き城と呼ばれた。
6月18日、降り続いた豪雨の影響で本丸まで水没しそうになったが、これを防ぐ為に下忍口守備の本庄泰展は配下の脇本利助、坂本兵衛らを堤防破壊に向かわせた。2人は夜半に城を抜け出し、堤防を2箇所破壊、これにより大雨で溜まりに溜まった水が溢れ出し、豊臣軍約270人が死亡、これにより水の抜けた忍城周辺は泥沼の様になり、馬の蹄さえ立たない状況になった。
援軍の到着と総攻撃[編集]
7月はじめには浅野長政らが、7月6日頃には上杉景勝・前田利家らが攻城軍に加わったが、それでも忍城は落城しなかった[15]。なお攻城戦終盤や戦後処理では石田三成ではなく、浅野長政が主導的な役割を果たしていくことになる[11]。
開城[編集]
7月5日、小田原城が降伏・開城し後北条氏は滅亡、他の北条方の支城もことごとく落とされ、未落城の城は忍城のみとなっていた。成田氏長が秀吉の求めに応じて城兵に降伏をすすめたので、遂に7月16日、忍城は開城した[13]。この戦いは軍記物では三成の築城が強調され、「石田堤」の呼称とともに攻防戦の「歴史像」を形成していったと言えると評価されている[11]。
その後[編集]
- 成田長親
- 成田泰季の急死により総大将となった長親であったが、小田原征伐後は氏長とともに会津の蒲生氏郷のもとに一時身を寄せたのち、下野国烏山へと移り住むが氏長と不和になり出奔。出家して「自永斎」と称し、晩年は尾張国に住んだ。
- 甲斐姫
- 甲斐姫は自ら鎧を纏い戦ったと言われている。忍城開城の後は豊臣秀吉の側室となったが、秀吉の死後の詳細な動向は不明である。
- 成田氏長
- 小田原城に入って篭城した成田氏長だが、金900両と唐の頭18頭を要求され、更には領地没収の憂き目に会った。その後は蒲生氏郷に預けられたが、後に徳川家康により烏山藩を任せられた。しかしこの藩は内紛により孫の代で断絶した。
- 石田三成
- 石田三成はこの城攻めに失敗したことにより戦下手の烙印を押され、評判を大きく落とすこととなった。しかし失敗の原因は現地の地形を知らない秀吉の命令にあり[要文献特定詳細情報]、この戦いに参加した豊臣方の大名の大半は関ヶ原の戦いでも西軍に応じている。三成は秀吉死後も五奉行の一人として権勢を振るい徳川家康と対立、関ヶ原の戦いで敗れ斬首された。
- 酒巻靱負
- 靱負(ゆきえ)は官職名。この戦いの後、現在の埼玉県羽生市上手子林(かみてこばやし)に土着したとされる。子孫は現存しており、酒巻家に伝わる『酒巻家系図』には靱負とその弟の系譜が掲載されている。しかし『酒巻家系図』にも正確な諱は残っておらず、詮稠・靱負・靱負之助・靱負允など様々な名が伝わっている[16]。
- 柴崎敦英
- 忍城開城後は土着したと伝わり、現在も子孫は行田市に居住している[16]。
- 正木利英
- 忍城開城後は妻子を会津へ向かわせ、自らは出家して行田の地に残り、高源寺を開基したが、その翌年に没した。
逸話[編集]
2012年、映画・『のぼうの城』公開に際して成田長親の子孫と、映画中での長親役・野村萬斎、石田三成役・上地雄輔が長親の菩提寺・大光院に集結し成田長親公四百回忌特別法要が執り行われた[17]。
関連作品[編集]
脚注[編集]
- ^ 攻城戦中に病没
- ^ 豊島信満の父
- ^ 戦国合戦史研究会編 『戦国合戦大事典第2巻 栃木県 群馬県 埼玉県 千葉県 東京都 神奈川県 山梨県』新人物往来社、1989年、142-148頁。ISBN 4-404-01642-5。
- ^ a b 今井, p. 33.
- ^ 相田二郎 『小田原合戦 - 豊臣秀吉の天下統一と北条氏五代の滅亡-』名著出版、1976年。
- ^ 中野, p. 110.
- ^ 中井, p. 20.
- ^ 中井, p. 22-23.
- ^ 中井, p. 23.
- ^ 中野, p. 111.
- ^ a b c 鈴木 2014.
- ^ 中野, p. 112-113.
- ^ a b 今井, p. 34.
- ^ 太田 2009, p. 80.
- ^ 太田 2009, p. 82.
- ^ a b 『行田市譚』
- ^ “成田長親を演じた野村萬斎が、長親の子孫と400年の時を超えて名古屋で対面!”. ニュースウォーカー (2012年10月18日). 2015年3月7日閲覧。
参考文献[編集]
- 今井林太郎 『石田三成』(新装版)吉川弘文館〈人物叢書〉、1988年 (原著1961年)。
- 中井俊一郎 著「武蔵・忍-三成苦悩の水攻め-」、オンライン三成会 編 『三成伝説 現代に残る石田三成の足跡』サンライズ出版、2009年。ISBN 978-4883254002。
- 太田浩司 『近江が生んだ知将 石田三成』サンライズ出版、2009年。ISBN 4-883-25282-5。
- 中野等 『石田三成伝』吉川弘文館、2017年。
- 鈴木紀三雄「「忍城水攻め」歴史像の形成」『地方史研究』64巻5号、2014年。