新田金山城
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新田金山城 (群馬県) | |
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新田金山城(月ノ池と大手虎口) | |
別名 | 金山城、太田金山城 |
城郭構造 | 連郭式山城 |
天守構造 | なし |
築城主 | 岩松家純 |
築城年 | 1469年(文明元年) |
主な改修者 | 後北条氏 |
主な城主 |
岩松氏、由良氏、高山定重、 宇津木氏久 |
廃城年 | 1590年(天正18年) |
遺構 | 石垣、土塁、堀、馬出し、井戸 |
指定文化財 | 国の史跡 |
位置 |
北緯36度19分4.0秒 東経139度22分38.9秒座標: 北緯36度19分4.0秒 東経139度22分38.9秒 |
地図 |
新田金山城(にったかなやまじょう)は、群馬県太田市のほぼ中央にそびえる標高235.8メートルの独立峰、全山アカマツに覆われた金山に築かれた日本の城(山城)である。別名「金山城」、「太田金山城」。
立地・遺構[編集]
金山 (群馬県)の頂上にある山城であり、現在は、本丸跡とされている地点に新田神社がある。背後の斜面には石垣の一部が遺存しており、往時のようすを現在に伝える。関東平野を一望に収めることができ、西方は一段低くなっており「日ノ池」「月ノ池」がある。西南には二の丸跡、三の丸跡と呼ばれる曲輪が残り、これら曲輪につながる尾根群には堀切が設けられている。 また南曲輪には中島飛行機の創設者である中島知久平の胸像が建てられている。
「戦国時代の関東の山城には本格的な石垣普請の城はない」という従来の定説が発掘調査で覆されたほど、多くの石垣が多用されている。
石垣[編集]
新田金山城の史跡環境整備事業に伴い、平成4年より発掘調査を開始し、石垣を多用した山城の姿が解明しつつある[1]。 大手虎口[2]の土塁石垣において、石垣を改修した痕跡が認められ、計5回の改修が行われていることが判明した[1]。 また、「アゴ止め石」を採用した箇所が、大手虎口を含めて広範囲に広がっていることも分かった。「アゴ止め石」は、石垣基底部(最下部)の石を、石垣の面より10cm~20cm前に出して据え置く技法であり、石垣が沈み込んで、前へ傾くのを防ぐためのものと考えられている[1]。
歴史・沿革[編集]
室町時代以前[編集]
- 1336年(建武3年)に佐野義綱が新田庄の新田城を攻め落としたという記録がある。この新田城が新田義貞によって金山に建築されていたのではという説があるが、最近行われている発掘調査ではその時代の遺構や遺物は検出されていない。ただし城郭遺構の保護との兼ね合いのために万全な調査ができていないという一面もある。
室町時代・安土桃山時代[編集]
- 1469年(文明元年) 新田一族であった岩松家純によって築城される。以降、1528年(享禄元年)に由良成繁・国繁親子、1584年(天正12年)には北条氏と主は変わったが、上杉謙信や武田勝頼の攻撃を退ける[3][4]など、関東七名城の一つとされる。
- 1590年(天正18年) 豊臣秀吉の小田原征伐の際攻撃を受けて落城、こののち廃城となった。
近現代[編集]
- 1934年(昭和9年)12月28日に「金山城跡」(かなやまじょうあと)として国の史跡に指定された。現在は、いくつかの遺構をもとに、公園として整備されている。藤岡市にある平井金山城と区別して太田金山城とも。
- 2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(17番)に選定された。
- 2009年(平成21年)5月30日、史跡金山城跡ガイダンス施設・太田市金山地域交流センターが開館。
現地情報[編集]
所在地[編集]
- 群馬県太田市金山町40-98・長手町・東金井町
交通アクセス[編集]
- 東武伊勢崎線太田駅北口から史跡金山城跡ガイダンス施設まで徒歩約50分 約2.8Km (タクシー約7分)
脚注[編集]
- ^ a b c 宮田毅「太田金山城における石垣の改修」『中世城郭研究』第17号、2003年、 302-305頁、2020年3月12日閲覧。 - 第19回 全国城郭研究者セミナー(2002年開催)報告の要旨。
- ^ 大手虎口は、本丸跡の約80m南西において、山頂から南西へ延びる谷に立地している(金澤誠「太田金山城の虎口周辺の通路形態について」第17号、2003年、2020年3月12日閲覧。 - 第19回 全国城郭研究者セミナー(2002年開催)報告の要旨。
- ^ “金山城略年表”. 太田市役所. 2020年6月2日閲覧。
- ^ 中井均『カラー図解 城の攻め方・つくり方』かみゆ歴史編集部、宝島社、2017年6月27日。ISBN 978-4-8002-6974-4。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
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