福岡城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
logo
福岡城
福岡県
南ニノ丸多聞櫓
南ニノ丸多聞櫓
別名 舞鶴城、石城
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 不明
築城主 黒田長政
築城年 1601年
主な改修者 黒田長溥
主な城主 黒田氏
廃城年 1871年
遺構 櫓4棟・門3棟、石垣、堀
指定文化財 国の重要文化財(多聞櫓・二の丸南隅櫓)
国の史跡
福岡県文化財(潮見櫓・大手門・
祈念櫓・母里太兵衛邸長屋門)
福岡市文化財(名島門)
再建造物 二の丸北隅櫓、大手門
位置 北緯33度35分3.77秒
東経130度22分59.17秒
座標: 北緯33度35分3.77秒 東経130度22分59.17秒
福岡城跡の航空写真
国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成

福岡城(ふくおかじょう)は、現在の福岡県福岡市中央区に築かれた江戸時代日本の城。別名、舞鶴城石城。国の史跡に指定されている。江戸時代初頭、関ヶ原の戦いで功績のあった外様大名黒田長政が、博多を望む警固村福崎の丘陵地に築いた。それ以降は明治まで福岡藩黒田氏の居城となった。築城の際に、福崎を黒田家ゆかりの地である備前国福岡(現在の岡山県瀬戸内市長船町福岡)の地名にちなみ「福岡」と改めた。[1][2]

概要[編集]

福崎丘陵に築かれた平山城。普請奉行は野口佐助一成である[3]。城地とされた福崎丘陵(那珂郡警固村福崎)は、博多と那珂川を挟んだ西側に位置する。

現在、城跡には現存櫓や移築された櫓や城門、復元された櫓や城門が点在し、南二の丸多聞櫓とそれに続く南二の丸南隅櫓は国の重要文化財に、伝潮見櫓・大手門(下の橋大手門・渦見門)・移築復元の祈念櫓・母里太兵衛邸長屋門が福岡県指定文化財に、名島門が福岡市文化財にそれぞれ指定されている。また、南二の丸多聞櫓に続く北隅櫓が復元されている。なお、平和台球場跡から出土した国史跡鴻臚館跡がある三の丸跡は二重史跡である。

歴史・沿革[編集]

安土桃山時代・江戸時代[編集]

福岡城曲輪分界図
寛永ごろまでの福岡・博多(推定)

慶長5年(1600年) - 黒田孝高・長政父子は関ヶ原の戦いの功績により豊前国中津16万石から、筑前一国52万3千石で筑前名島に入封した。筑前の旧領主小早川秀秋の居城であった名島城[4]に入城した。便宜上から名島城を廃し、福崎丘陵を新城地に選定した。慶長6年(1601年)には築城が開始され、7年後の慶長12年(1607年)に竣工した。

江戸期には歴代の藩主により二の丸御殿や西の丸御殿の増築など数度の改修が行われたが、特に幕末嘉永万延年間に、11代藩主、黒田長溥により大改修が行われた。

近現代[編集]

  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県により旧下屋敷に福岡県庁が置かれる。
  • 明治6年(1873年) - 廃城令発布により存城処分となり、第6軍官に属する。その後多くの建造物が解体もしくは移築された。
  • 明治35年(1902年) - 床下にあった火薬爆発し鉄物櫓が焼失する。
  • 大正9年(1920年) - 祈念櫓が北九州市八幡東区の大正寺に観音堂として移築された。昭和58年(1983年)には再び元の地に移築された。
  • 昭和27年(1952年)に潮見櫓、昭和31年(1961年)に大手門・旧母里太兵衛邸長屋門、昭和32年(1957年)に祈念櫓がそれぞれ福岡県文化財に指定された。
  • 昭和32年(1957年8月29日 - 城跡が国の史跡に指定された。
  • 昭和46年(1971年) - 多聞櫓・二の丸南隅櫓が国の重要文化財に指定された[5]
  • 昭和62年(1987年) - 三の丸、平和台球場一帯から平安時代の外交施設である鴻臚館の遺構が発見された。
  • 平成12年(2000年) - 不審火により下の橋大手門の一部を焼失する。修復工事がおこなわれ、平成20年(2008年)11月1日に一般公開された。
  • 平成18年(2006年4月6日 - 日本100名城(85番)に選定された。
  • 平成25年(2013年)- 福岡市の「福岡城セントラルパーク構想」に基づき城内建造物復元や緑地の整備がスタート。
  • 平成26年(2014年)- 廃校となった舞鶴中学校跡地に、福岡城の整備復元を目指す展示拠点施設「三の丸スクエア」が福岡市により開設された。


構造[編集]

梯郭式の平山城で、本丸の南西に南丸(南二の丸)、北東隅に同じような規模で東二の丸、この2つを結ぶようにして囲む二の丸、二の丸の西から北東に三の丸が囲む配置であった。建物は47基の櫓や10棟の城門を配し、縄張りの範囲は約24万平方メートルにおよぶ[6]。東側に那珂川をもって堀とし高石垣を南北に長く築き、また西側は干潟の「草ヶ江」を大きな池沼堀として活用した。この大堀は現在、大濠公園として整備されている。城下町は城の北側(博多湾側)に東西に長く開かれた。

論争[編集]

天守台礎石

天守の存否[編集]

大天守台は東西約25メートル、南北約22メートルの大きさで、東側に中天守台と小天守台が連なる[1]。天守台周辺の発掘調査では瓦片の出土があり、天守台に建物があったことは確実視されているが[1]、天守が存在したという事実は確認されていない[7]

従来の通説では、正保3年(1646年)に作成された福岡城を描いた最古の絵図『福博惣絵図』には天守は描かれていないため、幕府への遠慮から天守は造築されなかったとされている。

近年になって、当時豊前国小倉藩主であった細川忠興が、彼の三男で次期藩主の忠利へ宛てた元和6年(1620年)3月16日付の手紙に「黒田長政が幕府に配慮し天守を取り壊すと語った」[8]と天守の存在を窺わせる記述が発見されたことによって、天守があった可能性が示されている。天守の解体を語ったとされるこの当時は、徳川氏の大坂城普請に諸大名が築城に駆り出されたことから、天守を解体し築城資材として投入することによって幕府の信任を得ようとしたと言う説も上がっている。

福岡城や鴻臚館の整備・活用を趣旨とするNPO法人「鴻臚館・福岡城跡歴史・観光・市民の会」では、石垣や礎石から割り出した5重天守の想像図面を製作し、本格的木造建築による再建にむけて運動を展開。将来的に、天守をはじめ鴻臚館を含めた福岡城全体や大濠公園の一体的な整備を構想している。ただし福岡市側は歴史資料が不足しているため天守の復元は困難との見解を福岡市議会にて示している。ただし九州大学大学院の服部英雄教授(日本中世史)は天守閣について「強風を受けやすい立地条件で、存在したとは考えにくい」と気象や建築学からの考証に基づいた説を主張している[9]

下之橋御門の復元方法への疑義[編集]

不審火によって焼損し、2008年に復元された下之橋御門について、九州大学大学院の服部英雄教授は、渡櫓の中央に仕切が作られた構造について、「門の中は敵襲に備える兵士が動きやすい必要がある。復元された構造は、史実と異なるのではないか」との説を示している[9]

城跡内にある施設[編集]

三の丸西の御殿のあった城内には、地下鉄空港線から国体道路に抜ける自動車道路が通り、一部が住宅私有地となっている。三の丸北側から東側にかけての範囲は公営競技場、裁判所、市立美術館が設置されている。

福岡市は2013年、福岡城および周辺をセントラルパークのように大規模な公園とする計画を発表し、20年から30年の長期計画で福岡城の復元整備などを行っていく予定。2014年、旧舞鶴中学校の建物を利用して、公園計画を展示する施設「福岡城・鴻臚館案内処・三の丸スクエア」をオープンさせた。

舞鶴公園[編集]

本丸跡二の丸跡などは舞鶴公園となっており、平和台陸上競技場などのスポーツ施設がある。かつては西鉄ライオンズ福岡ダイエーホークスの本拠地であった平和台野球場もあった。また、筆頭家老屋敷跡には福岡高等裁判所などの公共施設、その他の施設等が建築された。

大濠公園[編集]

現城跡の西の丸、草ヶ江の大濠跡など西側は現在、大濠公園となっており、福岡市美術館、日本庭園、大濠公園能楽堂などの文化公共施設が建てられた。かつては花見櫓などがあった場所である。大濠公園は市民の憩いの場所となっているが、城址の東側の舞鶴公園と西側の大濠公園の丁度中央を南北に遮断する道路、個人所有の住宅地(城内住宅)、公立中学校や病院、その他の施設等が建築された。舞鶴公園と同様、福岡市の長期計画、「福岡城セントラルパーク構想」の実現に向けて、学校の移転や土地取得などが行われている。

参考文献[編集]

  • 『新修福岡市史 特別編 福岡城―築城から現代まで―』 福岡市史編集委員会、2013年ISBN 978-4-907395-07-0

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ a b c 中井均・三浦正幸監修、学習研究社編『よみがえる日本の城 小倉城』学習研究社、2005年、ISBN 4-05-603942-9
  2. ^ 平井聖監修『城』(8〈九州・沖縄、火燃ゆる強者どもの城〉)毎日新聞社、1996年、ISBN 4-620-60518-2
  3. ^ 後に江戸城大坂城の築城にも加わった。
  4. ^ 名島城は立花鑑載が築き、小早川隆景が拡張したものである。
  5. ^ 重要文化財指定名称は「福岡城南丸多聞櫓 1棟」で、南隅櫓も含めて1棟の建造物として指定されている。
  6. ^ 加藤理文・菅井靖雄ら7名執筆、学習研究社編『【決定版】図説 よみがえる名城 漆黒の要塞 豊臣の城』学習研究社、2008年、ISBN 978-4-05-605146-9
  7. ^ 中城正尭・福代徹執筆、(財)日本城郭協会監修、学習研究社編『日本100名城 公式ガイドブック』学習研究社、2007年、ISBN 978-4-05-604638-0
  8. ^ 元和6年(1620年)3月16日付細川忠利宛て細川忠興書状の原文(抜粋)「ふく岡の天主、又家迄もくづし申し候。御代には城も入り申さず候。城をとられ申し候はば、御かげを以て取り返し申す可くと存じ、右の如く申し付け候よし、申し上げらると承り候」
  9. ^ a b 「福岡城」の成り立ち学ぶ 市民団体企画 服部九大教授が解説西日本新聞[リンク切れ]

外部リンク[編集]