高知城

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高知城
高知県
天守と御殿(共に重要文化財)
天守と御殿(共に重要文化財)
別名 鷹城
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 独立式望楼型 4重6階(1601年築・1747年再)現存
築城主 山内一豊
築城年 1603年慶長3年)
主な改修者 山内豊敷
主な城主 山内氏
廃城年 1871年明治4年)
遺構 現存天守・御殿・櫓・門
石垣、堀
指定文化財 国の重要文化財(天守など15棟)
国の史跡
位置 北緯33度33分38.53秒
東経133度31分53.54秒
代表紋章:丸に細三つ柏・土佐柏

高知城(こうちじょう)は、高知県高知市土佐国土佐郡高知)にあった。別名鷹城(たかじょう)。

江戸時代土佐藩藩庁が置かれた。江戸時代に建造された天守や本丸御殿、追手門等が現存し、城跡は国の史跡に指定されている。日本100名城に選定されている。

概要[編集]

高知市のある高知平野のほぼ中心に位置する大高坂山(標高44.4m)上に築かれた、梯郭式平山城。山の南を流れる鏡川、北の江の口川をそれぞれ外堀として利用している。

戦国時代以前には大高坂山城(おおたかさかやまじょう/おおたかさやま-)[1]または大高坂城と呼ばれる城が築かれていた。現在見られる城は、江戸時代初期に、土佐藩初代藩主・山内一豊によって着工され、2代忠義の時代に完成し、土佐藩庁が置かれた。4層6階の天守は、一豊の前任地であった掛川城の天守を模したといわれている。一豊により河中山城(こうちやまじょう)と名付けられたが、高智山城と名を変えたのち、現在の城名となった。

高知城は本丸の建物が完全に残る唯一の城として知られている。明治6年(1873年)に発布された廃城令や、第二次大戦による空襲を逃れ、天守・御殿・追手門など15棟の建造物が現存し、国の重要文化財に指定されている。現在これらは高知県の所有物となっている。また、この15棟の現存建造物に加えて、土佐山内家宝物資料館に丑寅櫓の一部であると伝わる部材が収蔵されている。

城全域は高知公園として開放されており、本丸御殿・天守は懐徳館という資料館として利用されている。城の周辺には、高知市役所、高知県庁、地方裁判所、地方検察庁などの行政機関や司法機関が立ち並び高知県の行政の中心地となっている(県庁舎のみ実質的には公園内にある)。

また、城内には山内一豊と妻・千代(見性院)、板垣退助の銅像が立つ。

歴史・沿革[編集]

南北朝時代[編集]

大高坂山には、高知城の前身として大高坂山城(または大高坂城)があったとされる。付近の豪族・大高坂氏によって築かれたとされるが、定かではない。記録上では、大高坂松王丸が居城したことが知られている。松王丸は南朝方に付き、延元3年(1338年)には後醍醐天皇の第7子・満良親王を迎えている。しかし興国2年(1341年)、松王丸は北朝方の細川禅定佐伯経定と戦って敗北、大高坂山城は落城した。その後文献に名がなく、廃城となったと考えられる。

安土桃山時代[編集]

天正15年(1587年)、長宗我部元親は、豊臣秀吉九州征伐従軍から帰国後、大高坂山に再び城を築いた。ただし、天正13年(1585年)には元親が既に大高坂を本拠にしていたとする説もある[2]

天正19年(1591年)、水はけが悪かったため元親は3年で大高坂山城を捨て、桂浜に近い浦戸に浦戸城を築いた。ただし、元親が大高坂山城を捨てたとする見解は山内氏支配下の江戸時代の二次史料で初めて登場したものであること、浦戸城の規模の小ささや浦戸移転後も大高坂周辺の整備が進められていた形跡があることから、浦戸城は朝鮮出兵に対応した一時的な拠点に過ぎず、大高坂山城の整備も引き続き行われていたとする説もある[2]

江戸時代[編集]

高知城絵図

慶長6年(1601年)、関ヶ原の戦いにおいて元親の子・盛親は西軍に与して改易された。代わって、山内一豊掛川城から転入し、土佐国一国24万2千石を与えられ、浦戸城に入った。

慶長6年(1601年)8月、浦戸は城下町を開くには狭いため、一豊は百々綱家を総奉行に任じ、翌月より浦戸湾に面した地の利がある大高坂山に本丸の造営と、城下町の整備のために鏡川江の口川など川の治水工事に着手した。当時、周辺は湿原が広がるデルタ地帯であった。

慶長8年(1603年)、本丸と二の丸が完成。一豊は9月26日旧暦8月21日)に入城した。この際に、真如寺の僧・在川(ざいせん)により、河中山城(こうちやまじょう)と改名された。

慶長15年(1610年)、度重なる水害を被り、2代忠義河中の名を忌み嫌い、竹林寺の僧・空鏡(くうきょう)によって高智山城と改名した。この時より、後に城の名は省略されて高知城と呼ばれるようになり、都市名も高知と呼称されるようになった。

慶長16年(1611年)、三の丸が竣工し、ここに高知城の縄張りが完成した。

享保12年(1727年)、高知城下は大火にみまわれ、城は追手門以外の殆どが焼失した。現在見られる建造物の大半は、こののちに再建されたものである。

  • 享保14年(1729年):8代豊敷は、深尾帯刀(ふかお たてわき)を普請奉行に任じ、城の再建に着手。
  • 寛延2年(1749年):天守ほか櫓・門などが完成。天守は小振りとなったが外観は焼失前の姿が復興された。
  • 宝暦3年(1753年):再建完了。

近現代[編集]

天守古写真

遺構[編集]

天守

南北に千鳥破風、東西には唐破風をつけた安土桃山時代の様式である。最上階の高欄は、徳川家康の許可を得て造ったものといわれている。創建時のものは享保12年(1727年)に焼失し、延享4年(1747年)に焼失以前のものを忠実に再建されたものといわれており、高欄を設けるなどのやや古風な形式(復古型)をとっている。

独立式望楼型4重6階、1重目の屋根を腰庇として3重6階と数えられることもある。天守台がなく本丸上に、直に礎石を敷き御殿に隣接して建てられており、このような本丸を最後の防衛拠点とする構えは慶長期の城にみられるものであるという[3]

平面寸法は、初層と2層を総二階造りで8間×6間、3層と4層を4間四方とし、5層と最上層は3間四方である。高さは18.5m。国の重要文化財に指定されている。

本丸御殿

天守に隣接して造られている。築城された当初、二の丸御殿ができるまで、山内一豊見性院が暮していた。

追手門

門の入り口は枡形の巨大な石垣で囲まれていて、敵を3方から攻撃できるようになっている。

鉄門跡

かつては二階建ての門があり、鉄板を打ち付けた扉があった。門を入ると枡形になっていて、詰門へと続いている。

詰門

本丸と二の丸の間にかけられた櫓門で、敵がまっすぐに通り抜けられないようになっている。

文化財[編集]

重要文化財[編集]

重要文化財指定は以下の15棟。

  • 天守
  • 懐徳館
  • 納戸蔵
  • 黒鉄門
  • 西多聞
  • 東多聞
  • 詰門
  • 廊下門
  • 追手門
  • 天守東南矢狭間塀
  • 天守西北矢狭間塀
  • 黒鉄門西北矢狭間塀
  • 黒鉄門東南矢狭間塀
  • 追手門西南矢狭間塀
  • 追手門東北矢狭間塀

史跡[編集]

高知城跡
1959年(昭和34年)6月18日指定。

作品[編集]

テレビ番組
映画作品

現地情報[編集]

所在地
  • 高知県高知市丸ノ内1丁目2-1

交通アクセス[編集]

他、付近に多数所在

開館時間・料金[編集]

二の丸以下は終日立ち入り可能。
懐徳館(本丸御殿・天守)開館時間
  • 通常:9時 - 17時(入場は16時30分まで)
  • 休館日:12月26日~12月31日
料金
  • 18歳以上:400円、18歳未満:無料
  • 団体(20名以上):320円
利用情報
  • 日本100名城スタンプラリー スタンプ設置場所
    • 本丸御殿入口
周辺

城内には関連する人物の銅像がある。

脚注[編集]

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  1. ^ 大高坂を「おおたかさ」と読むか「おおたかさか」と読むかには議論がある。なお、対になる市内の地名・小高坂は「こだかさ」と読む。
  2. ^ a b 目良裕昭「戦国末~豊臣期土佐国における城下町の形成と展開」(市村高男 編『中世土佐の世界と一条氏』(高志書院、2010年) ISBN 978-4-86215-080-6
  3. ^ 三浦正幸監修『図解 天守のすべて』学習研究社 2007年

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 『定本 日本城郭事典』 西ヶ谷恭弘、秋田書店2000年ISBN 4-253-00375-3
  • 『高知城 重要文化財』 現地配布パンフレット

外部リンク[編集]