百々綱家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
 
百々綱家
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 天文17年(1548年
死没 慶長14年12月22日1610年1月16日[1]
改名 百々綱家 → 百々安行
別名 通称:越前守、法号:安信
戒名 高岳院覚爺安信
官位 従五位下越前守
主君 織田信長豊臣秀吉織田秀信 → 浪人 → 山内一豊
土佐藩
氏族 百々氏京極氏
父母 京極秀綱
兄弟 綱家盛家(安行)
遠藤喜右衛門直継の女
女(百々忠安室)、女(福岡図書室)、女(大塚吉之丞室)、女(渡辺八左衛門室)
婿養子:忠安 [2]

百々 綱家(どど つないえ) は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将は後に安行(やすゆき)と改名した。通称は越前守。

略歴[編集]

天文17年(1548年)に誕生[4]。綱家は、京極秀綱(上総介)の子[3]で、秀綱の代に近江国犬上郡百々村に居を構えて百々氏を称した[5]

初め織田信長に仕える[6][5]中山道北国街道の分岐点の摺針峠の関所を護る[要出典]

天正10年(1582年)、本能寺の変において信長が横死すると羽柴秀吉に属し、山崎の戦いに従軍した功で、秀吉より近江国内6,000石の知行を与えられ、直轄領5,000石の代官とされた[3][6][5]

この頃、従五位下越前守に叙任された[3]

天正年間の終わり頃、秀吉によって木造長政と共に[5]信長の嫡孫・織田秀信(三法師)の家老に配された[3][6][5]

文禄元年(1592年)9月、豊臣秀勝の死去に際して秀信はその遺領を継承して美濃岐阜城主となった。『百々家系図』によると、文禄の役における6月の増援6万の内で、秀信の名代として兵8,000を率いて朝鮮へ渡海したとある[5]。朝鮮で大塚丹後守某と知り合いになって、帰国後、その次男を養嗣子忠安[2]として迎えた。

慶長3年(1598年)、秀吉の死に際して、遺物金五枚と500石を与えられた[3][5]

慶長5年(1600年)、関ヶ原の役に際して、石田三成は家臣の川瀬左馬助を秀信のもとに派遣して西軍に勧誘した。これに対して秀信の寵臣入江右近、伊達平左衛門、高橋一徳斎が賛同したので、秀信もその意見を容れ、綱家、木造長政、飯沼長実(十左衛門)らその他の家臣の反対を押し切って、西軍に与した[5]。両家老はこれに不満で、西軍であるが東軍に内通していた前田玄以[7]に秀信が翻意して東軍に与するように説得を依頼したが、秀信はすでに招かれて佐和山城(三成の居城)に入っており、聞き入れなかった[5]。そこで飯沼は「佐和山に行った以上、そのまま東軍に与するのは難しいので、三成を岐阜城に誘き寄せて刺殺し、天下に潔白を示しましょう」と両家老に提案したが、秀信が許可しなかった[5]

8月22日、東軍諸大名が木曽川を渡り、福島正則竹鼻池田輝政新加納に進んで、岐阜城に迫ってきた。城側の手勢は2千ほどで、河畔・平野部で戦って兵700を失い[5]、岐阜城に撤退した。翌日黎明、正則、細川忠興加藤嘉明らが城下に迫り、城側は苦戦。何度か押し返したが、綱家はこの戦闘で弾を腿に受けて負傷した[8]。東軍は城壁を越えて内城に迫り、正則は七間櫓を、京極高政[9]は荒神洞[10]を占拠し、輝政は城内に放火した。本丸以外は敵の手に落ちた状態で、兵糧も乏しいということで、両家老は東軍の澤井左衛門と森勘解由[11]を介して和議を乞うた。東軍諸将は秀信を憐れんでこれを許可するが、秀信は自害したいと言って両家老が諫止する。正則と輝政が秀信を説得し、秀信は剃髪して高野山に蟄居することになって、戦後、徳川家康によって一命を許された[8]

綱家は正則と輝政に感謝して城を出て、妻子を連れて京都で蟄居した。関ヶ原の戦いが終わった後は西軍方の重臣という立場で浪人となった。

同年11月、前田玄以およびその家臣松田勝右衛門政行の元を転々とした後、関ヶ原の戦功により土佐一国を与えられた山内一豊に仕える[8]。采邑7,000石を与えられ、綱家は安行と改名した[8]

土佐藩では当初、長宗我部氏が作った浦戸城を主城としていたが、山険しい荒波の当たる場所に建てられていたので、一豊は高知山に新たな城を築いたが、高知城の縄張りを行ったのは綱家である[8]

慶長6年(1601年)には江戸城の石垣修復にも山内氏の配下として参画している[要出典]

慶長14年(1609年)、家康の命で天下普請とされた篠山城の石垣普請の参加を命じられ、丹波に赴くが病に倒れる。京に移送されて静養したが、その地で亡くなった。享年62[8]。戒名は高岳院覚爺安信。

南筆山公園の麓に百々一族子孫の墓地があり、綱家の墓も同所に存在する。現在、高知市に越前町という町名が残り、同所に「百々越前屋敷跡」の標柱がある。高知市洞ケ島町の薫的神社の境内に、「高知城建設百々越前子孫 百々勘左衛門夫婦墓」という墓石があるなど、子孫は代々山内氏に仕えた。なお、幕末の土佐藩参政吉田東洋の父・光四郎正清は、百々家から吉田家へ養子入りしている。  

人物[編集]

  • 高知城の築城普請に苦労していた土佐藩山内一豊の請願により、家康から百々に対する赦免状が出され、6000石の築城総奉行[12]として乞われて土佐山内氏に仕えた[要出典]
  • 綱家は築城の、特に石垣普請の名手として知られており、同郷の近江坂本の石工集団「穴太衆」の技術力を駆使して、低湿地で難工事であった高知城の築城および城下の町割りの全てを任された[要出典]
  • 江戸時代末期に岡田文圓が表した「新撰美濃誌」には、「岐阜中納言秀信の家臣百々越前守、ここに居りしゆえ、名字を百々と称しけるとぞ」と書かれている。
  • また昨今の「地名事典」の中には、岐阜市の最高峰の「百々ヶ峰の名は、越前守の居城があったから」と書いているものがある[要出典]
  • また「岐阜城落城後の越前守は行方不明」と書いている人物事典もあるが、「築城の名手」として高知城・江戸城・篠山城の築城に関与している。安土城には百々橋なる橋があったことから、本能寺の変の前に安土城の築城にも関わっていたとする説がある[要出典]

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 寺石正路『土佐名家系譜』(高知県教育会、1942年)
  2. ^ a b 実は森忠政の家臣・大塚丹後守某の子。後に直安と改名。妻は綱家の女。出雲と号す。
  3. ^ a b c d e f 高柳 & 松平 1981, p. 165
  4. ^ 享年62[3]より逆算。
  5. ^ a b c d e f g h i j k 国書刊行会 1915, p. 407
  6. ^ a b c 阿部 1990, p. 547
  7. ^ 本能寺の変の際に、三法師を守護して、岐阜城から清洲城に避難させた。
  8. ^ a b c d e f 国書刊行会 1915, p. 408
  9. ^ 京極高次の子。
  10. ^ 柴田勝家の旧屋敷。
  11. ^ 苅安賀城主。毛利高政の義父。福島隊の一員として後の戦いで戦死した。
  12. ^ 「御城築記」

参考文献[編集]