木曾衆
木曾衆(きそしゅう、木曽衆)は、元は木曾氏の一族や家臣であったが、木曾氏が改易された後に徳川家康が率いる東軍に加わり関ヶ原の戦いの前哨戦の東濃の戦いを勝利に導いたため知行所を与えられた山村氏・千村氏・馬場氏・原氏・三尾氏のこと。
馬場氏は江戸幕府の旗本として版籍奉還に至ったが、山村氏・千村氏・原氏・三尾氏は、後に徳川家康によって尾張藩の附属に移された。
経緯
[編集]慶長5年(1600年) 徳川家康は木曾義利を不行状の理由により改易し、その領地1万石を没収した。
そのため木曾氏の一族・家臣達は所領を失ってしまったが、同年に家康が会津征伐を行う際に下野国の小山に山村良勝、千村良重、馬場昌次を召し出し、木曾氏の旧領地を与えることを示したうえで、西軍に就いた木曽の太閤蔵入地の代官で、尾張犬山城主も兼務していた石川貞清から木曽谷を奪還するように命じた。
馬場昌次は、山村・千村と共に豊臣方の石川貞清の支配する木曽路の制圧のため出発する時に病となったため同行できず、嫡男の利重とともに下野の小山に留まり、木曽への軍用にあたった。
山村良勝と千村良重は、下野国小山で東軍に加わり中山道を先導する時には、数十人に過ぎなかったので、木曾氏が改易された後に甲斐と信濃に潜んでいた木曾氏の遺臣に檄を飛ばして東軍に加わるよう呼びかけた。
塩尻で松本城主石川康長の許にあった山村良勝の弟の山村八郎左衛門が加わり、甲斐の浅野長政の許にいた良勝の弟の山村清兵衛が馳せつけた。
8月12日に、木曽の太閤蔵入地の代官で、尾張犬山城主も兼務していた石川貞清の家臣となって、贅川の砦の中に居た千村次郎右衛門・原圖畫助政重・三尾将監長次が内応してきたので、良勝・良重の軍勢は、ほとんど抵抗を受けることなしに贅川の砦を突破し、中山道を通って西へ向けて進軍し、山村良勝は妻籠城に入って城を修築した。
やがて馬場昌次に山村良勝と千村良勝から木曾谷を制圧したことが伝わり、その詳細を家康に報告したところ賞されて物を賜った。
馬場昌次は、病が回復した後に徳川秀忠軍が中山道を関ヶ原に向けて進軍すると小笠原信之とともに妻籠城を守備し、昌次が秀忠に謁見したのは、この妻籠城においてである。
其の後、他の木曾衆、遠山友政、遠山利景、小里光親らと共に豊臣方の大名が占拠していた美濃国苗木城を攻めて城代の関盛祥を追い出し・岩村城を攻めて城代の田丸中務を降伏させた。(東濃の戦い)。
その時、山村良勝・千村良重・馬場昌次に、家康の意を受けた大久保長安から軍令状が届き、美濃へ進んで西軍が籠る城の攻略を命じられ、遠山友政・遠山利景らに加勢して苗木城や岩村城を西軍からの奪還に協力した(東濃の戦い)。
家康は、関ヶ原の戦いで勝利した2週間後の10月2日に、山村良勝の父の山村良候(道祐)を木曾代官に任命した。
家康は、木曾衆に木曽谷を知行所として与えようとしたが、山村良候(道祐)が、「木曽谷には幹線である中山道が通り、良質な木材の産地でもあるから、私共が領すべきではない」と上申した。
山村良侯の廉直な志に感動した家康は、木曾衆に6,200石を加増した上で、
慶長6年(1601年)2月3日、木曽谷の代わりとして美濃国内に知行所を与えた。そのため木曾衆の知行地の合計は、16,200石8斗3升となった。
木曾衆が徳川家康から与えられた時点の石高
[編集]- 山村甚兵衛良勝 4,600石
- 山村道祐良候(良勝の父) 1,300石
- 山村清兵衛道休(良勝の弟) 700石
- 山村八郎左衛門一成(良勝の弟) 500石
- 千村平右衛門良重 4,600石
- 千村藤右衛門政利(良重の弟) 300石
- 千村助右衛門重次(良重の従弟) 700石
- 千村次郎衛門重照(良重のはとこ)600石
- 原圖畫助政重 800石
- 三尾将監長次 500石
- 馬場半左衛門昌次 1,600石
合計 16,200石余
- 恵那郡
- 落合村 480石4斗1升
- 中津川村 1,334石6斗3升
- 駒場村 772石
- 手金野村 446石5斗4升
- 千旦林村 552石6斗2升
- 茄子川村 1,368石6斗
- 正家村 873石2斗7升
- 土岐郡
- 釜戸村 973石2斗
- 日吉村 1,472石8斗5升
- 大湫村 109石8斗2升
- 半原村 181石
- 寺河戸村 50石2斗
- 可児郡
- 御嵩上之郷 2,411石3斗
- 久々利村 1,720石9斗3升
- 羽崎村 1,349石8斗4升
- 比衣村 469石1斗
- 大森村 848石7斗8升
- 伊岐津志村 786石1斗8升
合計 18ヶ村 16.201石2斗7升
美濃国恵那郡における知行所
[編集]- 落合村 480石4斗1升(山村甚兵衛 240石2斗5合・千村平右衛門 240石2斗5合)
- 中津川村 1,334石6斗3升(山村甚兵衛 1,334石6斗3升)
- 駒場村 772石(千村平右衛門 772石)
- 手金野村 446石5斗4升(山村甚兵衛 446石5斗4升)
- 千旦林村 552石6斗2升
- 本郷(山村甚兵衛 100石・千村平右衛門 100石・山村八郎左衛門 300石)
- 辻原(山村甚兵衛 26石3斗1升・千村平右衛門 26石3斗1升)
- 茄子川村 1,368石6升(釜戸馬場氏 275石[1]・山村甚兵衛 350石・千村平右衛門 125石・原圖畫助十郎兵衛 156石6斗・千村助右衛門 145石・山村清兵衛一学 130石・千村次郎右衛門 119石・三尾将監左京 86石)
- 正家村 873石2斗7升(山村甚兵衛 200石・千村平右衛門 400石・三尾将監左京 300石)
美濃国土岐郡における知行所
[編集]- 釜戸村 973石2斗(釜戸馬場氏 973石2斗→1,018石[2]→1,032石4斗6升9合[3])
- 日吉村 1,472石8升5斗
- 深沢 (山村甚兵衛 101石2斗2升1合・千村平右衛門 150石)
- 田髙戸(山村甚兵衛 9石5斗・千村平右衛門 9石5斗)
- 志月 (山村甚兵衛 4石・千村平右衛門 4石)
- 本郷 (山村甚兵衛 735石1斗9升)
- 平岩 (山村八郎左衛門 85石→68石7斗1升7合)
- 北野 (山村清兵衛一学 70石→56石6斗2合)
- 宿 (千村藤右衛門又八郎 133石)
- 宿洞 (原藤兵衛 123石5斗[4]・原圖畫助十郎兵衛 5石)
- 松野 (千村藤右衛門又八郎 8石2斗4升1合→6石6斗6升2合)
- 南垣外(千村助右衛門 385石→311石2斗9升9合)
- 大湫村 109石8斗2升(山村甚兵衛 54石9斗1升・千村平右衛門 54石9斗1升)
- 半原村 181石(千村次郎右衛門 111石)
- 寺河戸村
- 一日市場 50石2斗(山村甚兵衛 25石1斗・千村平右衛門 25石1斗)
美濃国可児郡における知行所
[編集]- 御嵩上之郷 2,411石3升
- 小和沢(千村平右衛門 56石)
- 宿 (千村平右衛門 222石)
- 中切 (千村平右衛門 491石5斗4升)
- 綱木 (千村平右衛門 65石4斗1升2合)
- 大久後(山村甚兵衛 50石)
- 谷 (山村甚兵衛 100石)
- 美佐野(山村甚兵衛 200石)
- 井尻 (山村甚兵衛 435石1斗6升5合)
- 津橋 (山村清兵衛一学 250石)
- 前沢 (原圖畫助十郎兵衛 120石6斗1升8合)
- 小原 (千村藤右衛門又八郎 126石7斗5升9合)
- 樋ヶ洞(千村藤右衛門又八郎 26石)
- 西洞 (原藤兵衛 43石[4])
- 林垣外(原藤兵衛 34石[4])
- 謡坂 (千村九右衛門 110石[5])
- 次月 (原圖畫助十郎兵衛 51石)
- 久々利村 1,720石9斗3升
- 久々利(山村甚兵衛 400石・千村平右衛門 400石)
- 丸山 (三尾将監左京 114石)
- 我田 (千村九右衛門 90石[5]・千村藤右衛門又八郎 6石)
- 佐渡 (山村清兵衛一学 200石)
- 酒井 (千村助右衛門 60石)
- 原見 (千村助右衛門 110石)
- 平芝 (山村八郎左衛門 14石2斗6升9合)
- 柿下 (釜戸馬場氏 232石9斗5升8合)
- 羽崎村 1,349石8斗4升
- 羽崎 (山村甚兵衛 874石4斗)
- 二野 (原圖畫助十郎兵衛 460石6斗2升5合)
- 小名田村 72石(釜戸馬場氏 72石)
- 比衣村 469石1斗(千村平右衛門 469石1斗)
- 大森村 848石7斗8升(千村平右衛門 848石7斗8升)
- 伊岐津志村 786石1斗8升 (山村甚兵衛 200石・千村平右衛門 150石・山村清兵衛一学 50石・千村次郎右衛門 300石・山村八郎左衛門 100石)
大坂の陣
[編集]慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、千村重次、千村重親(重照の子)、千村政利、千村重秀、馬場昌次・利重の父子、山村三親、山村一成、三尾重安、原于祭(原政重の子)、原貞武の11名は、中山道の妻籠関所を守り、山村良勝・良安の父子は同心と共に贄川番所を守った。千村良重は知久則直や宮崎安重と共に信濃伊那郡の浪合関所を守った。
しかし徳川方の本多正純・安藤直次・成瀬正成から山村良勝・千村重長(良重の子)に大坂へ参陣するように奉書が届いたため、二条城に赴き家康と秀忠に謁見し陣中を勤めた[6]。
元和元年(1615年)の大坂夏の陣には、山村良勝・良安父子、千村良重・重長父子、山村三親、千村重親、三尾重安、原于祭、山村一成、千村政利、千村重秀、原貞武に、先鋒は馬場昌次、しんがりは千村重次が勤め木曾衆が揃って従軍した。
山村父子・千村父子と共に二条城で家康に謁見し、次いで伏見桃山城で秀忠に拝謁した。その時に秀忠より上意があり、美濃衆の組頭であった[7]岩村藩主の松平乗寿と共に河内国の枚方口を守るように命じられた。
しかし木曾衆一同は先陣で徳川家への忠節を尽くしたい願い出たことから、家康と秀忠は、それを許し、尾張藩主の徳川義直に属して天王寺口へ回り義直の先鋒を勤めた。 ₥ 5月7日に大坂城が落城し、8日には城の検分を行い、9日には京都で家康と秀忠との謁見を済ませ帰陣した[6]。
山村氏
[編集]山村氏を参照。
千村氏
[編集]千村氏を参照。
馬場氏
[編集]原氏
[編集]原氏 (木曾氏)を参照。
三尾氏
[編集](系譜) 長春―長次―重安―安信―安固―安寛―忠兵衛―惣右衛門―松治―銀次郎―
木曾氏の支族である。
木曾義仲の七代孫の家村の四男の家光は、木曾の贄川郷[8]に住み贄川を姓とした。
永禄11年(1568年)、贄川家光から十三代孫の長春は、木曾の三尾郷[9]に住み、三尾長春に改名して初代となった。
天正2年(1574年)、武田信玄の命により木曽義昌が阿寺城を攻めた時に、義昌に率いられて戦った三尾長春は討死した。この三尾長春の子が三尾将監長次である。
天正18年(1590年)、三尾将監長次は、木曽の太閤蔵入地の代官で、尾張犬山城主も兼務していた西軍の石川貞清の家臣として千村次郎右衛門・原図書助ともに贅川の砦の中に居たが、8月12日に東軍として攻めてきた山村良勝と千村良重に内応して贄川の砦を明け渡して東軍に加わった。
このことにより、山村良勝と千村良重が関ヶ原の戦いの前哨戦である東濃の戦いにおいて勝利することができたきっかけとなったため、その功により、可児郡久々利村の丸山114石、恵那郡茄子川村86石、恵那郡正家村300石の計500石を賜った。
慶長19年(1614年)三尾将監長次は大坂冬の陣の際には妻籠城を守り、元和元年(1615年)の大坂夏の陣では、嫡男の重安・山村氏・千村氏などの木曾衆とともに河内の枚方に陣した。
元和3年(1617年)尾張藩の給人とされ、中寄合の下並寄合の上座に配され、可児郡久々利村に屋敷を与えられ、可児郡錦織村にあった尾張藩の錦織役所で材木御用等の職務を、他の久々利九人衆とともに、月交代で務めた。
三尾安信(惣右衛門)は、久々利村から名古屋城下へ移り、天和2年(1682年)、尾張藩へ隠居を願い出て、嫡子の三尾安固(治郎左衛門)へ家督を相続したところ、尾張藩が定めた減禄制の適用により正家村から150石分を召し上げられたため、三尾氏は350石となった。
久々利九人衆
[編集]その他の7家は、元和3年(1617年)尾張藩の給人となり、将軍から与えられた知行所の朱印状を持つ藩士となった。
中寄合の下並寄合の上座に配され、美濃国可児郡久々利村に屋敷を与えられ、美濃国内の尾張藩領の数ヶ村を知行地として、可児郡錦織村にあった材木御用などを月交代で務めた。
寛永2年(1625年)9月に尾張藩主の徳川義直が、鷹狩にて久々利村を訪れた時に、山村甚兵衛家と千村平右衛門家の両家から200石ずつを割いて千村九右衛門(千村助右衛門の子)と原藤兵衛(原図書助の子)の両人に与えた。
そのことにより、山村清兵衛家、山村八郎左衛門家、千村助右衛門家、千村次郎衛門家、千村藤右衛門家、千村九右衛門家、原十郎兵衛家、原新五兵衛家、三尾惣右衛門家の9家となり、「久々利九人衆」と呼ばれた。
寛永2年(1625年)の久々利九人衆の石高
[編集]- 山村清兵衛三得 700石
- 山村八郎左衛門一成 500石
- 千村助右衛門 700石
- 千村次郎衛門重照 600石
- 千村藤右衛門 300石
- 千村九右衛門重秀 200石
- 原図書助 800石
- 原藤兵衛貞武 200石
- 三尾将監長次 500石
合計 4,500石余
尾張藩の世禄制廃止と久々利九人衆
[編集]しかし附家老で大名格である、犬山城の成瀬家=3万5千石、今尾陣屋の竹腰家=2万石、石河陣屋の石河家=2万石、三河寺部陣屋の渡辺家=1万石、大高城主の志水家=1万石)と、特別待遇の山村甚兵衛家、千村平右衛門家の両氏は除かれ、久々利九人衆を含む尾張藩士は相続の度ごとに減禄されることとなった[10]。
尾張藩の世禄制は、138年後の寛政11年(1794年)に復活した。
久々利九人衆の抵抗
[編集]寛文5年(1665年)3月、幕府は島原の乱以後、キリシタン禁制を厳重にし宗門改めを始めた。
尾張藩領でも、寺社奉行から各家臣に対し「今度宗門改めに付 頭(組頭)有之者ハ其頭ヘ 支配人有之者ハ其支配人ヘ宗門手形を差出す様」にと御触が廻った。
尾張藩は、久々利九人衆に対して山村甚兵衛家、千村平右衛門家に対して手形差出すようにとの指示を出した。
尾張藩によって美濃国可児郡久々利村に屋敷を与えられていた久々利九人衆は、尾張藩に以下の内容を陳情した[11]。
親、祖父の頃より、この両家の組下に仰付けられたことは聞いた事がない、今度手形を両家に差出すにおいては 山村甚兵衛、千村平右衛門の組下となることであって迷惑である。私共(九人衆)の親、祖父が権現様(家康)への忠義によって取立てられた者であるから、今度の手形は 直接寺社奉行へ提出をお願いしたい、もしそれが叶わない場合は 名古屋城中にて何れの組下 或ハ御支配へなりと 所属を変えていただきたい、ただ甚兵衛、平右衛門両人宛に手形を差出す事ハ 御免願いたい
九人衆一同が相談するに「当時こそ先祖の武をまのあたり聞き知る人も多くいて、家々の規模も立つが年月が過ぎるにつれて、千石に足らぬ悲しさで両家(山村甚兵衛家と千村平右衛門家)の支配のようになってしまう恐れは多分にある。そうなっては両家に知行を減少される事もあるかもしれない、それでは先祖の名を汚し、家の名折れである。
そこで尾張(名古屋)へ出て勤めようではないか、その勤めの功、不功によって領知が増減するかもしれないが、それは仕方がない、もし加増すれば家の大きな幸いだし、尾張藩領の御蔵入(蔵入地)となれば一統の並とみられるし、その上次男、庶子が勤める願いを出すにも名古屋にいてこそうまくいくというものであろう。こうなれば家内繁昌の基ともなる」と一決して、寛文7年(1667年)春、ひそかに尾張藩へ内達した。
これについて、山村甚兵衛留帳には「九人衆は両所(山村甚兵衛家と千村平右衛門家)ヘ手形差出候ハバ 組之者の様に有之云々」と言っているが、彼等は組下ではないが「前々より支配人にハ相究候処に左無之様に申立候」と言っている。
このことにより山村甚兵衛・千村平右衛門の両家と不和となった久々利九人衆は、寛文7年(1667年)、久々利村の在所屋敷を残して、名古屋城下へ転住し、尾張藩の普請組寄合となった。
名古屋移転後の久々利九人衆
[編集]名古屋移転の翌年の寛文8年(1668年)千村九右衛門正古が隠居を願い出たところ、尾張藩ではこれを新規召抱同様と見なして、「無勤功の輩は減ずる」の例を適用して、高200石の内、150石のみ悴の小十郎正任に与えた。
隠居仰付けられた千村九右衛門は「御朱印地で減ぜられるべきものでないのに」と嘆き、我らばかり一族の中で減ぜられては面目がないと言って、父子共に退去してしまった。
その翌年尾張藩は、同族の千村助右衛門重佐に命じて政秀寺に父子共にいるのを尋ね出し御預けとなり、知行屋敷共に召上げられてしまった(後に復活し100石を給せらた)。
第二は、寛文8年(1668年)5月24日、千村次郎右衛門宅へ山村清兵衛が来て、話すうちに争いとなり、千村次郎右衛門が山村清兵衛を切り伏せ、千村次郎右衛門自身は自害した。
これによって両人が居た屋敷・知行・久々利に残っていた在所屋敷等は召上げられた。
この両人争いの原因については記録が無いから分からないが、察するに名古屋移転が彼らが初めに考えたことと相違した尾張藩の待遇であったからではなかろうか。これについて「岐蘇古今沿革志」は次のように記している。
寛文八年 九人衆の内二家(清兵衛、次郎右衛門)断絶 慶長五年 八月朔日 東照公[12]御朱印 木曽諸奉公人[13]中へ被下たり 此御朱印 先年 平右衛門様へ 被遣之戻り不申 久々里に有之候 右之御朱印有之に付(九人衆は)尾州にて千石以上 中寄合之格式 木曾[14]久々里[15]御出勤の節は 被罷出御両所様[16]の次に 並居殿様[17]より御言葉も有之由 御暇も万事 御両所様に 相つづ出申候 其上知行所に引籠られ 無役勤は無之 御子息達 善悪の訳 無之手足さへ付き候へば 御両所様へ御頼み 家督譲り まことに天下無双の楽人にて候処 人男は又十分は 欠く申ごとく 大分の御知行 先祖の餘慶 自然の冥加も限りあり 誠は天之通也と申如し 尾州御老中 成瀬主計殿と 申御出頭有之候 山村清兵衛殿 千村道止老へ 至極御懇意ニ付 右の御朱印 被懸御目候処 とかく尾州へ出勤候ハバ 外□且は立身も可被成と 色々だまされ 不残罷出 夫より段々不仕合つづき 数年 我ままも不相成 山村清兵衛殿 千村二郎右衛門殿 喧嘩以来 只今九人衆うろたへ申候 -以下略- 右両人の喧嘩は 寛文八年 五月二四日にて 両家断絶という。
以上の二事件で分かるように、名古屋へ出た九人衆は子孫繁栄とはいかなかったようである。
これに対して本家格の山村甚兵衛家や千村平右衛門家は勝手に行ったことだからと見放していたかというと、そうではなく、それなりに一族として手を尽くしている。
次にその例として、山村甚兵衛家八代目の(良啓(たかひら)の口上覚を、中津川日記(山村家日記)から略記すると、以下の様に記されている。
同名清兵衛儀の先祖は 久々利九人之内にて、私先祖と同様 木曾に於て忠功の者に御座いますが、今の清兵衛の祖父の代に 同格の千村次郎右衛門と喧嘩仕り 両家とも断絶しました。次郎右衛門は手出しをした方であるが、其後御願して仕合能く知行を下され 現に寄合役を勤めて居ります。当清兵衛は別紙の通り(書付なし)未だ御扶持米(何程か不明)で相勤めて罷居りますが、出来得れば先祖の勤功を以て 減知の内 只今頂戴して居ります 御扶持給高程知行に 御振替候様に 私から御願申呉れとの事で 御座居ます 六ケ敷い事とは存じますが 別紙認□を御目にかけますから 御内覧成し下さいます様、御願申上げます
山村清兵衛家と千村次郎右衛門家は両家断絶後、年月不明であるけれども両家とも復活したが、千村次郎右衛門方は先に手出ししたにかかわらず知行を貰っている(旧知の内100石)が、清兵衛方は切米取の身分であるから、これを知行に振替える。即ち家格を元の知行取の身分にして戴きたいと願ったもので、たとえ禄高は少くても元の知行取となって由緒ある家柄の回復をと、本家格の甚兵衛良啓より御伺を出したものである。
脚注
[編集]- ^ 明暦3年(1657年)11月25日、茄子川馬場氏に分知された。
- ^ 元禄以後
- ^ 寛政以後
- ^ a b c 寛永2年(1625年)9月に尾張藩主の徳川義直の命により千村平右衛門家から宛がわれた。
- ^ a b 寛永2年(1625年)9月に尾張藩主の徳川義直の命により山村甚兵衛家から宛がわれた。
- ^ a b 千村氏並九人記の中の先祖書
- ^ 当時の木曽谷は美濃国恵那郡の一部と認識されていた。
- ^ 現在の長野県塩尻市贄川
- ^ 現在の長野県木曽郡木曽町三岳
- ^ 林菫一『尾張藩の給知制』(一条社、1957年)
- ^ (千村家伝集・寛文五年三月一三日)
- ^ 家康
- ^ 木曾衆を指す
- ^ 山村甚兵衛
- ^ 平右衛門
- ^ 甚兵衛・平右衛門
- ^ 尾張徳川家
参考文献
[編集]- 『図説・木曽の歴史 (長野県の歴史シリーズ ; 19)』 59~60P
- 『木曽福島町史 上巻』 第四章 豊臣時代 第四節 関ヶ原の前戦(山村氏木曾攻略) p178~p184 木曽福島町史編纂委員会 1954年
- 『木曽福島町史 上巻』 第四章 豊臣時代 第六節 山村氏木曾代官となる p186~p190 木曽福島町史編纂委員会 1982年
- 『木曽福島町史 上巻』 第五章 江戸時代 第一節 山村氏 p191~p280 木曽福島町史編纂委員会 1982年
- 『西筑摩郡誌』 後篇 木曾人物史 p574~ p582 長野県西筑摩郡役所 1915年
- 『大桑村の歴史と民話』 第四章 尾張藩領下の民治と村人の生活 第一節 木曽、尾張藩領となる p105~p108 志波英夫 1978年
- 『南木曽町史 通史編』 第四章 近世の村と産業 第一節 領地の変遷 二 徳川家康領木曽と代官 p173~p182、 三 尾張藩領木曽と山村氏 p182~p186 南木曽町誌編さん委員会 1982年
- 『山口村誌 上巻』(自然環境・原始古代・中世・近世)第四章 近世 第一節 関ヶ原の戦いと木曽 p393~p405 山口村誌編纂委員会 1995年
- 『山口村誌 上巻』(自然環境・原始古代・中世・近世)第四章 近世 第二節 尾張藩の成立と木曽 p406~p433 山口村誌編纂委員会 1995年
- 『恵那郡史』 第七篇 江戶時代(近世「領主時代」)第二十八章 諸藩分治 其三 国外藩 【尾張附属】 p242~p244 恵那郡教育会 1926年
- 『中津川市史 上巻』 第五編 中世 第四章 安土桃山時代 四 木曾衆中津川を知行 p659~p663 中津川市 1968年
- 『中津川市史 中巻Ⅰ』 第五編 近世(一) 第一章 支配体制と村のしくみ 第一節 関ヶ原戦後の領主 p1 ~ p20 中津川市 1988年
- 『中津川市史 中巻Ⅰ』 第五編 近世(一) 第一章 支配体制と村のしくみ 第二節 領地所属の変遷 p24 ~p40 中津川市 1988年
- 『中津川市史 中巻Ⅰ』 第五編 近世(一) 第一章 支配体制と村のしくみ 第六節 地方支配 六 山村家の地方支配 p152 ~p167 中津川市 1988年
- 『恵那市史 通史編 第2巻』 第二章 諸領主の成立と系譜 第二節 正家村と木曽衆 p97~p117 恵那市史編纂委員会 1989年
- 『瑞浪市史 歴史編』 第六編 近世 第一章 村々と支配 第一節 郷土と支配者 二 市内の支配体制 p500~p525 瑞浪市 昭和49年(1974年)
- 『土岐市史 2 (江戸時代~幕末)』第十三編 近世封建社会 第三章 江戸時代の領主 ■木曾衆・■福島の山村氏・■久々利の千村氏・■木曾衆の領地と格式・■木曾衆馬場氏 p35~p39 土岐市史編纂委員会 1971年
- 『御嵩町史 通史編上』 5 第一章 近世の御嵩 第一節 御嵩町域内の領有 木曽旧臣 p264~p267 1992年
- 『可児町史 史料編』 第二部 近世 一 支配 三七 千村家関係 千村家先祖書 p41~p51 可児町 1978年
- 『可児町史 史料編』 第二部 近世 一 支配 三八 千村・山村両家並九人衆高等覚書 p51~p60 可児町 1978年
- 『可児市史 第2巻 (通史編 古代・中世・近世)』 第三章 千村氏と山村氏 p219~p303 2010年
- 『久々利村史』 第一章 沿革 第六節 千村氏 p7~p27 昭和10年
- 『八百津町 通史編』 第六章 近世社会 第一節 領主 千村・山村氏 p147~p153 八百津町史編纂委員会 1976年
- 『美濃古戦記史考』 : 六古記原文とその注釈 五、木曾衆由緒留記 p179~p203 渡辺俊典 瑞浪市郷土史研究会 1969年
- 『寛政重修諸家譜 第2 新訂』 巻第百十六 木曾・馬場 二篇 p392~p397 堀田正敦 等 続群書類従完成会 1964年
- 『寛政重修諸家譜 第2 新訂』 卷第百十七 千村 四篇 p398~p403 堀田正敦 等 続群書類従完成会 1964年
- 『寛政重修諸家譜 第10 新訂』 卷第六百二十七 山村 三篇 p312~p316 堀田正敦 等 続群書類従完成会 1965年