擬洋風建築

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開智学校の車寄せと塔屋

擬洋風建築(ぎようふうけんちく)とは、明治時代初期の日本において、主に近世以来の技術を身につけた大工棟梁によって設計・施工された建築である。西洋建築に由来する形を持ちながら、洋風、和風、時には中国風の要素が混合され、ある種の熱を帯びたような建築群が日本各地に建てられた。明治の開始と共に生まれた擬洋風建築は、明治10年前後にピークを迎え、明治20年以降に消えており、その時期は文明開化と重なっている。[1][2]

概要[編集]

錦絵に描かれた築地ホテル館
山形県に造られた擬洋風の官庁街(高橋由一筆)

明治維新以降、ホテル・洋式工場・小学校・役所・病院など新しい機能を持った施設が、はじめは大都市にやがて全国に求められるようになっていく[3]。西洋的な機能を持ち堅牢性を求められたこれらの施設は、洋式建築として建てられる必要があった[3]。迎賓館や造幣局など主要な施設はお雇い外国人の手によって設計・監理された[4][5]が、その他の官庁舎や地方の施設は地域の大工の手にゆだねられた。

しかし、木造建築の伝統に育まれた日本の大工にとって、石に由来する洋式建築は未知の存在である。建築様式はおろかその用途すら分からない状況の中で、伝統技術を身につけた大工たちは、伝統の側から洋式建築を解釈し、見よう見まねで洋式建築を建設する。錦絵や建物の見聞を通じて得た情報をもとに建てられた擬洋風建築は、その時たまたま出会った建物をベースに自由な折衷や創造が加わり、塔屋や車寄せなど大まかな形は共通しながらも一つ一つの建物で異なるデザインが生まれた。[3][6][7]

横浜の洋式建築を参考に東京で生まれた擬洋風建築は、多数の錦絵に描かれ民衆の反響を呼ぶ[8]。一方、山梨や山形といった旧政治体制の影響力が強い地域では、土木県令と呼ばれる敏腕指導者が政府によって送り込まれ、殖産興業政策と平行して擬洋風建築による官庁街が新たに建設された[9]。また、廃仏毀釈によって解体された寺の跡地には小学校が建てられている[9]。擬洋風建築は、文明開化のシンボルであると共に支配体制の移行を象徴するモニュメントでもあった[7][9]

歴史[編集]

横浜の和洋折衷建築[編集]

開国にともない設置された外国人居留地には、洋式建築が立ち並んでいた。いずれの居留地も周囲にベランダを回したコロニアルスタイルで占められていたが、横浜だけは社寺風の屋根を載せたフランス海軍病院(1865年)やフランス軍駐屯所(1864年頃)など、和洋折衷の建物が建てられていた。こうした傾向は、同じくフランスの影響下にあった1860年代のベトナムにおいても見られることから、フランス側のオリエンタリズムへの応答だとみられている。[10]

だが、1866年の豚屋火事によってこれらの建物は焼失し、居留地の都市的整備の進展や外国人建築家の登場によって、本格的な様式をまとった西洋建築に取って代わられていった。1867年に開港した神戸では当初から本格的な洋式建築が建てられ、横浜と同時に開港した函館も開拓使がアメリカ系の技術を採用したことで洋風化傾向が強まっていく。しかし、横浜だけは木骨石造に代わる簡便な耐火被覆としてなまこ壁が残り、イギリス仮公使館(1867年)などに用いられた。[10]

清水喜助の建築[編集]

開港と同時に横浜に店を開いた大工・初代清水喜助の跡を継ぎ、幕府公認の4人の請負人の一人に選ばれた2代目清水喜助は、横浜の居留地でアメリカ人建築技師リチャード・ブリジェンスのもと、イギリス仮公使館の施工を受け持つ。洋式建築の経験を積んだ清水喜助は、東京に築地ホテル館(1868年)と海運橋三井組(1872年)の2大洋風建築を建てた。[8]

築地ホテル館は、旧幕府時代に計画された外国人向けホテルで基本設計をブリジェンスが担当した。全面になまこ壁を張り巡らし、中央に逓減を持たせた三重の塔を据えている。塔屋には華頭窓があけられ、軒先には風鐸をつるし、石造アーチの表門には木鼻がとりついている。なまこ壁はブリジェンスの基本設計にあったものだが、細部の和風意匠は清水喜助による。[11][8]

海運橋三井組は、三井組が新たに創設した銀行のための建物である。木骨石造にベランダのついた洋風2階建ての軀体に、複雑に折り重ねられた屋根が乗っている。屋根には唐破風千鳥破風を取り付け、方形・八角形の塔を重ねている。さらにその両側には小塔まで置かれている。初期の案では普通の屋根のオーソドックスな洋風建築だったが、三井組の希望でこのような無国籍なデザインになった。[11][8]

擬洋風建築の始点となったこの二つの建物は、たちまち東京の新名所となり、多数の錦絵に描かれ日本中に広まった[8]。地方から見物に来た人々の中には、柏手を打ったり賽銭を上げる人もいたという[8]。清水喜助はさらに、第一国立銀行に強制的に譲渡させられた海運橋三井組の代わりとなる駿河町三井組(1874年)も建設した[11]。海運橋三井組と違い端正な洋風建築だが、屋上にはが鎮座しており、こちらも錦絵の題材になっている[11]

林忠恕の木造官庁建築[編集]

横浜由来の洋風建築を持ち出した大工には、清水喜助のほかに林忠恕がいた。鍛冶、木挽きを経て大工に転身した林忠恕は、横浜でブリジェンスに師事しイギリス仮公使館の工事に参加している。その後、お雇い外国人のトーマス・ウォートルスが率いる大蔵省営繕寮に雇われ、日本人技術者の筆頭となる。ウォートルスが煉瓦や石の本格的な建築を手がける一方、林忠恕は大蔵省(1874年)、内務省(1874年)、神戸東税関役所(1873年)、駅逓寮(1874年)、大審院(1877年)といった木造官庁舎を手がけている。[12]

建物の内容を見ると、ブリジェンスや清水喜助のような木骨石造ではなく、普通の壁には漆喰を塗りアーチやコーナーストーンにのみ石を貼る木骨石造の省略形となっている。建物の姿も、日本屋根が乗ったり塔が付いたりせず単調な四角形の内に納まり、唯一ペディメントと列柱のついた大ぶりな車寄せが張り出している。こうした構成にはパラディアニズムを好んだウォートルスの影響が見られる。擬洋風の建築表現としてはおとなしいが、中央官庁の建築ということで地方への影響力は強く、車寄せだけを強調したパラディアニズム崩しの構成は地方官庁の定型として広まっていった。[12]

木造漆喰の小学校[編集]

学制発布を境に、小学校だけでなく郡役所、県庁、警察署といった地方の公共建築も洋風化を求められるようになる。各地の棟梁は東京、横浜、長崎などで擬洋風やベランダコロニアルの洋式建築を見聞し、国許に小学校や役所を建てた。木骨石造系の擬洋風から一歩進んだこれら木造漆喰仕上げの擬洋風は、中部地方の長野、山梨、静岡の三県で最もよく盛り上がった。[13]

中でも特に盛り上がったのは山梨で、県令藤村紫朗のもと藤村式建築と呼ばれる一連の擬洋風建築が建てられた[13]。藤村紫朗は山梨赴任前に、小学校発祥の地である京都を経て、大阪で擬洋風の小学校建設を推進した人物で、琢美学校(1874年)と梁木学校(1874年)を皮切りに多数の擬洋風建築を建設している[13]。立方体の主体部に太鼓楼を載せた形式を持つ小学校は他の地域ではあまり見られないが、琢美学校とほぼ同時期に大阪の東大組第十九区小学校(1973年)や滋賀県長浜の開知学校(1874年)が建てられていることから、この形式の発信源は大阪にあるとみられる[14]

山梨に続いて、静岡には見付学校(1875年)や坊中学校(1875年)、西之島学校(1875年)が、長野には中込学校(1875年)や開智学校(1876年)が建てられた。開智学校は設計に当たって東京や山梨の擬洋風が参考にされており、後を追って造られた諏訪盆地の高島学校(1879年)、山一つこえた格致学校(1878年)、隣村の山辺学校(1885年)などに影響を与えている。このように先進地に建てられた小学校は周囲の地域に影響を与え、木造漆喰系の擬洋風は全国に広まった。[13]

下見板の擬洋風[編集]

漆喰系の擬洋風がピークを迎える頃、下見板にペンキを塗って仕上げる擬洋風が登場し、擬洋風の晩期に広まった。下見板系の擬洋風は山形と東京から始まるが、質と量から影響力は山形の方が大きいと考えられる。[15]

山形では朝暘学校(1876年)を皮切りに、県庁舎(1877年)、師範学校(1878年)、済生館(1879年)といった大作や、郡部に西田川郡役所(1881年)、鶴岡警察署(1884年)などが建てられた。建設ラッシュは1876年から1881年まで5年間続き、造られた建物は主なものだけでも28件におよぶ。札幌と鶴岡の間で技術交流があった山形では、開拓使から下見板の洋風建築が伝わりこうした擬洋風建築が建てられた。建設を主導した県令三島通庸は、転任先においても福島の伊達郡役所(1883年)や南会津郡役所(1885年)、栃木の県庁舎など下見板の擬洋風建築を立て続けた。[15]

東京では、工部省(1874年)が下見板の擬洋風の第一号だがそのしばらく後続がなく、1877年(明治10年)になってから学習院(1877年)、駒場農学校(1877年)、一ツ橋講堂(1877年)、元老院(1878年)などが建てられた。これらは大蔵省営繕寮によるもので、木骨石造系を建てていた中央官庁の技術陣は明治10年に入ると下見板系に転じている。[15]

伝統の木造技法でたやすく作ることができ日本の風雪にも強い下見板の擬洋風は、明治10年代を通じて東北三県と東京に根付いた後、明治20年代に入って日本列島全域に広まったと考えられている。写真館や医院など全国に残る下見板の簡便な西洋館は、この下見板の擬洋風の末裔にあたる。[15]

擬洋風の終焉[編集]

オリジナリティの高い建築が作られていた擬洋風建築であるが、明治10年代後半になるとどこか似通った形をとるようになってくる。塔屋が設けられなくなり、寄棟造二階建の棟の中央に三角ペディメントを戴く二層車寄せを設ける形式が一般化していく。本庄警察署(1883年)、氷上郡各町村組合立高等小学校(1884年)、宇和島警察署(1884年)など、地域的な偏りがなく同時期にこうした形式の建築が建てられた。情報不足故に多様性を生んでいた擬洋風のデザインは、時間の経過と共に情報が増加し定型化されていく。[16]

また、官庁舎の建築形式が標準設計化していったことも、定型化を促す要因となった。1877年から1881年の間、府県庁舎建設費が国費支弁になり、新築に際して国の審査が厳しく行われるようになった。結果として内務省庁舎の形式がほとんど唯一の選択肢となり、形式が平準化していく。1881年7月に工費が地方負担に変更されるが、この頃になると官庁舎の設計に建築家が関与するようになり、擬洋風の時代は終焉に向かっていた。[16]

小学校建築も、1877年前後から各県において学校建築法が制定され、学校建築に計画概念が導入されはじめる。1890年には小学校設備準則、1895年には学校建築図説明及設計大要が制定され、それまで各府県において指導されていた学校建築が政府によって一元的に指導されるようになった。その結果、小学校の平面は片廊下の棟を数棟並べた形式に収斂していく。また、和風校舎と比べ工費や修繕費が高く付くことから擬洋風校舎の建設が避けられるようになる。こうして、日本の小学校建築からデザイン意識そのものが急速に失われていった。[16]

さらに、1887年(明治20年)頃から擬洋風建築には種々の改造が施されるようになる。南方起源で日本の気候に合わないベランダは建具をはめられ室内化し、軒が浅いために剥離しやすい漆喰壁は下見板で覆われた。擬洋風の最大の特徴である塔屋や車寄せも、より本格的な西洋建築に近づけるため撤去あるいは改変されていった。[16]

評価[編集]

擬洋風建築は当時、「西洋造」や「洋風家造」、「西洋型家屋ニ模」したもの、「洋風模造」などと呼ばれていた。同時代から「模造」だと認識されていたが、これは本来石造・煉瓦造で造られるべきものを木造で代用したもの、つまり様式上の模造ではなく構造上の模造として認識されていた。[17]

明治10年代後半以降、工部大学校を卒業した日本人建築家たちが活動を開始すると、西洋建築を直写した建築が建てられた。諸外国との不平等条約を解消したい明治政府にとって、近代化とは性急な西洋化に他ならなかった。こうした趨勢の中、明治初期の擬洋風建築は様式的正確さを欠いた恥ずかしいものとして断罪される。批判の中で擬洋風建築はまとまりのあるものとして認識されるようになり、模造の対象も構造から様式に読み替えられた。[17]

大正期になると、明治期の洋風建築を再評価する動きが活発に見られるようになる。建築家たちが自己の表現を強く意識しはじめたこの時期、擬洋風建築も独創性の発露として高く評価された。[17]

戦後、擬洋風建築には「見よう見まね」という評価が決まり文句のように結びつけられるようになる。1950年代後半から始まる明治建築の本格的な研究においても、コロニアルスタイルの稚拙な模倣として位置づけられていた。1960年代から擬洋風建築が文化財指定されるようになるが、様式よりも近代化に貢献する文化的意義がその評価の中心に据えられていた。[17]

1970年代になると、西洋の模倣にとどまらない独創性に富んだ建築という積極的な評価が復活する。これ以降の専門家たちは「擬洋風」の語が、ニセモノとしてのニュアンスを感じさせることを嫌い、別の語に置き換える提案をしている。[17]

言葉の由来[編集]

黒田朋信が、1915年の写真集『東京百建築』において内務省庁舎に「擬様式」という様式名を与えており、これが様式としての擬洋風建築を指した最初の使用例である。[17]

その後、大正期以降の明治洋風建築の再評価において基礎的な資料収集を行った堀越三郎が、「洋風模倣建築六十年記」(『建築と社会』1930年6月)や「明治時計台記(Ⅶ)」(『日本建築史』1931年5月)の中で、建築家の設計した建築と対比する語として「擬洋風」という語を用いている。[17]

この言葉は、戦後にも継承される。関野克によって執筆された、初の日本近代建築の通史「明治、大正、昭和の建築」(『世界美術全集』第25巻、1951年)や、阿部公正の「明治の建築」(『明治文化史』第8巻、1956年)で、林忠恕に代表される日本人技師の手になる建築を「擬洋風建築」と呼んでいる。[17]

現存建築一覧[編集]

2003年の時点で現存する主要な擬洋風建築の一覧。[18]

名称 所在地 建築年 設計者 文化財指定
旧樺戸集治監 北海道樺戸郡月形町 1887 市町村指定文化財
旧函館博物館一号 北海道函館市青柳町 1888 開拓使函館支庁 都道府県指定文化財
豊平館 北海道札幌市中央区(移築) 1880 開拓使工業局 国の重要文化財
旧金森洋物店 北海道函館市末広町 1880 池田栄七、直二 都道府県指定文化財
旧函館博物館二号 北海道函館市青柳町 1884 函館県 都道府県指定文化財
上川郡農作試験所事務棟 北海道旭川市神居 1886 市町村指定文化財
旧函館検疫所隔離室 北海道函館市昭和(移築)[19] 1886 内務省
北海道集治監釧路分監本監 北海道上川郡標茶町 1886 市町村指定文化財
旧檜山・爾志両郡役所 北海道江差町中歌町 1887 都道府県指定文化財
旧赤心社事務所 北海道浦河郡浦河町(移築)[20] 1888
旧牧病院 北海道岩見沢市志文町(移築[要出典] 1891
旧旭川偕行社 北海道旭川市四区 1902 陸軍臨時建築部 国の重要文化財
旧八戸小学校講堂 青森県八戸市八幡 1881 関野太治郎 都道府県指定文化財
旧宮本呉服店 青森県弘前市百石町 1883 市町村指定文化財
旧第五十九銀行本店本館 青森県弘前市元長町(移築) 1904 堀江佐吉 国の重要文化財
旧弘前市立図書館 青森県弘前市富野(移築) 1906 堀江佐吉 都道府県指定文化財
盛美園 青森県平川市猿賀 1908 西谷市助 国の名勝[21]
旧岩谷堂共立病院 岩手県奥州市江刺区南町 1874 及川東助 都道府県指定文化財
旧石井県令私邸 岩手県盛岡市清水町 1886 市町村指定文化財
旧紫波郡役所庁舎 岩手県紫波郡紫波町 1889 市町村指定文化財
旧歩兵第四連隊兵舎 宮城県仙台市宮城野区 1874 市町村指定文化財
旧石巻ハリストス正教会教会堂 宮城県石巻市中瀬 1880 市町村指定文化財
旧白石公民館 宮城県白石市亘理町(解体保管[22] 1882 市町村指定文化財
金成小学校校舎 宮城県栗原市金成 1887 都道府県指定文化財
旧登米高等尋常小学校校舎 宮城県登米市登米町 1888 山添喜三郎 国の重要文化財
旧登米警察署庁舎 宮城県登米市登米町 1888 山添喜三郎 都道府県指定文化財
北鹿ハリストス正教会聖堂 秋田県大館市曲田 1892 東京ニコライ堂工事関係者 都道府県指定文化財
旧済生館本館 山形県山形市霞城町(移築) 1878 原口祐之ほか 国の重要文化財
旧西村山郡役所 山形県寒河江市寒河江(移築)[23] 1878 都道府県指定文化財
旧西置賜郡役所 山形県長井市高野町 1878 市町村指定文化財
旧東村山郡役所 山形県天童市五日町 1879 都道府県指定文化財
旧西田川郡役所 山形県鶴岡市家中新町(移築) 1881 高橋兼吉 国の重要文化財
三中分校旧校舎 山形県西村山郡朝日町 1882 市町村指定文化財
旧鶴岡警察署庁舎 山形県鶴岡市家中新町(移築) 1884 高橋兼吉 国の重要文化財
旧鶴岡警察署大山分署 山形県鶴岡市大山 1885 高橋兼吉 国の登録有形文化財
旧西村山郡会議事堂 山形県寒河江市寒河江(移築) 1886 都道府県指定文化財
東田川郡会議事堂 山形県鶴岡市藤島 1903 都道府県指定文化財
開成館 福島県郡山市開成 1874 増子儀三郎・宗形彦八 都道府県指定文化財
旧郡山学校 福島県郡山市堂前町 1876 増子儀三郎・宗形彦八 再建
旧伊達郡役所 福島県伊達郡桑折町 1883 山内幸之助・銀作 国の重要文化財
旧西白河郡役所 福島県白河市五郎窪(移築)[24] 1883
旧南会津郡役所 福島県南会津郡南会津町田島(移築) 1885 牛田方造 都道府県指定文化財
旧福島県尋常中学校本館 福島県郡山市開成 1889 国の重要文化財
なかむらや旅館新館 福島県福島市飯坂町 1896頃 国の登録有形文化財
旧亀岡家住宅 福島県伊達市保原町大泉(移築) 1887〜1896 都道府県指定文化財
水海道小学校玄関 茨城県水戸市緑町(移築) 1881 羽田甚蔵 都道府県指定文化財
旧群馬県衛生所 群馬県桐生市相生町(移築) 1878 群馬県庁技師 国の重要文化財
旧大岩学校 群馬県吾妻郡中之条町 1879 市町村指定文化財
旧吾妻第三小学校校舎 群馬県吾妻郡中之条町 1885 都道府県指定文化財
旧埼玉県師範学校 埼玉県さいたま市緑区三室 1878 土谷巌 再建
諸井家住宅 埼玉県本庄市中央 1879頃 都道府県指定文化財
旧三福学校校舎 埼玉県ふじみ野市(解体保管[25] 1882 市町村指定文化財
旧本庄警察署 埼玉県本庄市中央 1883 都道府県指定文化財
旧大宮学校 埼玉県秩父市大宮東平(解体保管[26] 1884 荒船市二 市町村指定文化財
旧千葉県会議事堂 千葉県栄町竜角寺池上 1880 再建[27]
九十九里教会 千葉県山武市松尾町 1887 国の登録有形文化財
靖国神社高灯籠 東京都千代田区(移築) 1871
慶応義塾三田演説館 東京都港区三田(敷地内で移築) 1875 国の重要文化財
旧東京医学校本館 東京都文京区白山(移築) 1876 工部省営繕局 国の重要文化財
学習院旧正門 東京都新宿区戸山 1877 国の重要文化財
妙法寺鉄門 東京都杉並区堀ノ内 1878 工部省営繕局 国の重要文化財
福住旅館金泉楼 神奈川県足柄下郡箱根町 1877 豊田為治郎 国の重要文化財
福住旅館萬翠楼 神奈川県足柄下郡箱根町 1878 豊田為治郎 国の重要文化財
富士屋ホテルアイリー 神奈川県足柄下郡箱根町 1884 国の登録有形文化財
富士屋ホテル本館 神奈川県足柄下郡箱根町 1891 国の登録有形文化財
旧新潟税関庁舎 新潟県新潟市中央区緑町 1869 国の重要文化財
旧新潟県警察本署 新潟県新潟市江南区 1880 取り壊し[28]
新潟県議会旧議事堂 新潟県新潟市中央区一番堀通町 1882 星野総四郎 国の重要文化財
尾山神社神門 石川県金沢市尾山町 1875 津田吉之助 国の重要文化財
旧龍翔小学校 福井県坂井市三国町緑ヶ丘(場所を変えて再建) 1879 G.A.エッセル 再建
旧福井県警察部庁舎 福井県越前市京町(移築) 1899頃 国の登録有形文化財
恵美写真館洋館 福井県鯖江市本町 1905 国の登録有形文化財
旧睦沢学校校舎 山梨県甲府市北口(移築) 1875 松木輝殷 国の重要文化財
旧津金学校校舎 山梨県北杜市須玉町 1875 小宮山弥太郎 都道府県指定文化財
室伏学校 山梨県山梨市牧丘町(移築) 1875 市町村指定文化財
旧富岡敬明家住宅 山梨県甲府市善光寺町 1875 松木輝殷 国の登録有形文化財
旧舂米学校校舎 山梨県南巨摩郡富士川町(移築) 1876 都道府県指定文化財
旧尾県学校校舎 山梨県都留市小形山 1878 都道府県指定文化財
旧千野学校校舎 山梨県甲州市塩山上於曽(移築) 1879 松木輝殷 国の登録有形文化財
旧上九一色郵便局 山梨県甲府市 1879 国の登録有形文化財
市川教会 山梨県西八代郡市川三郷町 1897 国の登録有形文化財
旧田中銀行主屋 山梨県甲州市勝沼町 1897 松木輝殷 国の登録有形文化財
旧中込学校校舎 長野県佐久市大字中込 1875 市川代治郎 国の重要文化財
旧長野県師範学校教師館 長野県長野市上ヶ屋(移築) 1875 都道府県指定文化財
旧開智学校校舎 長野県松本市開智(移築) 1876 立石清重 国の重要文化財
旧格致学校校舎 長野県埴科郡坂城町 1877 都道府県指定文化財
旧和学校校舎 長野県東御市 1879 都道府県指定文化財
旧東京専門学校文科教室 長野県北佐久郡軽井沢町追分 1882 再建[29]
旧園里学校 長野県須坂市豊丘 1883 市町村指定文化財
旧作新学校本館 長野県長野市稲里町(移築) 1884 市町村指定文化財
旧山辺学校校舎 長野県松本市里山辺 1885 都道府県指定文化財
下市田学校校舎 長野県下伊那郡高森町 1888 市町村指定文化財
屋代小学校旧本館 長野県千曲市屋代 1888 市町村指定文化財
鐘の鳴る丘集会所 長野県安曇野市穂高(移築) 明治中期 市町村指定文化財
旧池田警察署 長野県長野市篠ノ井布施五明 1893 国の登録有形文化財[30]
中野小学校旧西校舎 長野県中野市(移築) 1896 市町村指定文化財
蒲家土蔵 岐阜県高山市大新町 1873
旧大垣警察署第五分屯所 岐阜県大垣市赤坂町(移築) 1874 再建[31]
旧兼山小学校 岐阜県可児市兼山 1885
旧三星製糸所 岐阜県高山市神明町 1888 阪下甚吉
旧高山町役場 岐阜県高山市神明町 1895 阪下甚吉 市町村指定文化財
旧大沢学舎 静岡県賀茂郡松崎町(移築) 1873 市町村指定文化財
松城家住宅主屋 静岡県沼津市戸田 1873 国の重要文化財
旧見付学校 静岡県磐田市見付 1875 伊藤平右衛門 国の史跡
旧岩科学校校舎 静岡県賀茂郡松崎町 1880 高木久五郎・菊池丑太郎 国の重要文化財
新井旅館青州楼 静岡県伊豆市修善寺町 1881 国の登録有形文化財
旧下田警察署分署(旧松崎警察署) 静岡県賀茂郡松崎町 1882
旧周智郡役所 静岡県周智郡森町森(移築) 1885 市町村指定文化財
眺峰館 静岡県富士市伝法 1892 市町村指定文化財
旧外人茶商住宅 静岡県静岡市駿河区西草深 1887〜1896
歩兵第六聯隊兵舎 愛知県犬山市内山(移築) 1873 国の登録有形文化財[32]
旧井上家住宅西洋館 愛知県豊田市平戸橋町波岩(移築) 1877〜1886 国の登録有形文化財
旧名古屋衛戍病院 愛知県犬山市内山(移築) 1878 都道府県指定文化財
旧三重県庁舎 愛知県犬山市内山(移築) 1879 清水義八 国の重要文化財
旧中島郡高等小学校 愛知県稲沢市国府宮 1880 市町村指定文化財
旧山梨県東山梨郡役所 愛知県犬山市内山(移築) 1885 赤羽芳造 国の重要文化財
三重県尋常師範学校・蔵持小学校 愛知県犬山市内山(移築) 1888 国の登録有形文化財[33]
清水医院 愛知県犬山市内山(移築) 1897〜1906 国の登録有形文化財[34]
旧小田小学校 三重県伊賀市小田町 1881 都道府県指定文化財
旧上野警察署 三重県伊賀市上野丸之内(移築) 1889 安場直諒 国の登録有形文化財
旧土井本家事務所 三重県尾鷲市朝日町 1889
旧新町小学校正門 三重県北牟婁郡紀北町 1890 市町村指定文化財
旧三重県第三尋常中学校校舎 三重県伊賀市上野丸之内 1900 清水義八 都道府県指定文化財
長浜旧開知学校 滋賀県長浜市元浜町(移築) 1874 国の登録有形文化財
旧曽根学校玄関 滋賀県長浜市曽根町 1876 国の登録有形文化財
旧柳原学校校舎 滋賀県近江八幡市安土町(移築) 1876 都道府県指定文化財
旧八幡東小学校 滋賀県近江八幡市為心町元 1877 国の登録有形文化財
旧安土巡査駐在所 滋賀県近江八幡市安土町(移築) 1885 都道府県指定文化財
旧南大阪南警察署 滋賀県大津市瀬田 1885
旧八幡警察署武佐分署庁舎 滋賀県近江八幡市武佐町(移築) 1886 国の登録有形文化財
新島襄旧邸 京都府京都市上京区 1878 市町村指定文化財
龍谷大学本館 京都府京都市下京区 1879 国の重要文化財
龍谷大学北黌・南黌 京都府京都市下京区 1879 国の重要文化財
旧九鬼家住宅 兵庫県三田市屋敷町 1875頃 都道府県指定文化財
元生野鉱山外人宿舎 兵庫県朝来市佐嚢(移築) 明治初期 都道府県指定文化財
旧今津小学校(六角堂) 兵庫県西宮市今津二葉町 1882
旧佐用郡役所 兵庫県佐用町佐用 1884
旧氷上郡各町村組合立高等小学校校舎 兵庫県丹波市柏原町 1884 市町村指定文化財
旧豊岡警察署生野分署 兵庫県朝来市生野町口銀谷 1886 杉浦嘉作 市町村指定文化財[35]
旧豊岡中学校本館 兵庫県豊岡市京町 1888 都道府県指定文化財[36]
旧辰馬喜十郎住宅 兵庫県西宮市浜町 1889 山下某 都道府県指定文化財
旧七美郡役所 兵庫県美方郡香美町村岡区 1894頃
柏稜記念館 兵庫県丹波市柏原町 1897
浅井家住宅 奈良県大和郡山市新中町 明治初期
宝山寺獅子閣 奈良県生駒市門前町 1882 吉村松太郎 国の重要文化財
旧春日小学校 奈良県山辺郡山添村 1901
郭家住宅洋館 和歌山県和歌山市今福 1873 国の登録有形文化財
旧橋津警察署 鳥取県東伯郡湯梨浜町橋津 1889 再建[37]
旧岩井小学校校舎 鳥取県岩美郡岩美町 1892 市町村指定文化財
田野産婦人科医院 島根県松江市苧町 1871
旧周吉外三郡役所庁舎 島根県隠岐郡隠岐の島町郡 1885 白潟真一 都道府県指定文化財
旧大森区裁判所 島根県大田市大森町新町 1890
旧江津郵便局 島根県江津市江津町 1890 国の登録有形文化財[38]
興雲閣 島根県松江市殿町 1903 和泉利三郎 都道府県指定文化財
倉敷市磯崎眠亀記念館 岡山県倉敷市茶屋町 1874 国の登録有形文化財
法泉寺本堂 岡山県和気郡和気町益原 1878 大石四郎左衛門 市町村指定文化財
旧牛窓警察署本館 岡山県瀬戸内市牛窓町 1887 香川真一 国の登録有形文化財
高梁基督教会堂 岡山県高梁市柿木町 1889 都道府県指定史跡[39]
天城教会 岡山県倉敷市藤戸町 1890 吉田伴平 都道府県指定史跡[40]
村山外科医院 岡山県倉敷市児島下の町 1891 国の登録有形文化財[41]
旧笠岡組合キリスト教会 岡山県笠岡市中央町 1893 小林芳太郎
旧吉川村役場 岡山県加賀郡吉備中央町吉川 1894 市町村指定文化財
日本基督教団上下教会 広島県府中市上下町 1887
旧芦品郡役所庁舎 広島県府中市土生町 1903 市町村指定文化財
岩国学校校舎 山口県岩国市岩国 1870 都道府県指定文化財
河村写真館 山口県山口市上竪小路 1875 都道府県指定文化財[42]
四階楼 山口県熊毛郡上関町 1879 国の重要文化財[43]
旧萩学校教員室 山口県萩市堀内(移築)[44] 1887 都道府県指定文化財
むつみ村役場旧庁舎 山口県萩市 1895 国の登録有形文化財
四国村異人館ワサ・ダウン住宅 香川県高松市屋島中町(移築)[45] 1905 国の登録有形文化財
旧開明学校校舎 愛媛県西予市宇和町 1882 都築熊吉 国の重要文化財
旧宇和島警察署 愛媛県宇和島市住吉町(移築)[46] 1884 国の登録有形文化財
旧須崎警察署佐川分署 高知県高岡郡佐川町 1886 市町村指定文化財
畠中家住宅主屋(野良時計) 高知県安芸市土居 1887 国の登録有形文化財
旧檮原村役場庁舎 高知県高岡郡檮原町 1891 市町村指定文化財
有田異人館 佐賀県西松浦郡有田町 1876 都道府県指定文化財
大浦天主堂 長崎県長崎市南山手町 1864 ヒウレ神父 国宝
旧羅典神学校 長崎県長崎市南山手町 1875 マルク・マリー・ド・ロ 国の重要文化財
旧自由亭 長崎県長崎市南山手町(移築) 1878
出津教会堂 長崎県長崎市西出津町 1882 マルク・マリー・ド・ロ 国の重要文化財[47]
江袋教会 長崎県南松浦郡新上五島町(焼損後復元[48] 1882 都道府県指定文化財[48]
江崎べっ甲店 長崎県長崎市魚の町 1898 江崎栄三(施主) 国の登録有形文化財
熊本洋学校教師館ジェーンズ邸 熊本県熊本市中央区水前寺公園(移築) 1871 都道府県指定文化財
日野病院本館及び病棟 大分県由布市湯布院町 1894 法花津喜八 国の重要文化財
旧集成館機械工場 鹿児島県鹿児島市吉野町 1865 国の重要文化財
旧芹ヶ野島津家金山鉱業事業所 鹿児島県鹿児島市吉野町(移築) 1904 国の登録有形文化財
旧島津家吉野殖林所 鹿児島県鹿児島市吉野町(移築) 1909 国の登録有形文化財

文化財指定の凡例

国宝
国によって国宝に指定されているもの。
国の重要文化財
国によって重要文化財に指定されているもの。
国の登録有形文化財
国によって登録有形文化財に登録されているもの。
国の史跡
国によって史跡に指定されているもの。
国の名勝
国によって名勝に指定されているもの。
都道府県指定文化財
都道府県によって文化財に指定されているもの。
市町村指定文化財
市町村によって文化財に指定されているもの。
再建
解体された建物の外観を再現したもの。

日本以外の事例[編集]

19世紀後半、ヨーロッパ諸国は東アジアへと進出し、各地に居留地が置かれた。しかし、1843年開港直後の上海においては中国風の入母屋屋根をかけた江海関などの擬洋風的な建築が建てられていたにもかかわらず、19世紀中の中国・朝鮮半島では建築の擬洋風化は見られない。20世紀初頭に入ってから、中国では中華バロックと呼ばれる一群の擬洋風的な建築が建れられ、韓国においても徳寿宮の中にベランダコロニアルの洋風建築が建てられた。これは、日本と異なり中国・朝鮮半島にはすでに石造建築や椅子座が存在しており、西洋建築を受け入れる素養があったためと考えられる。[49]

出典[編集]

  1. ^ 清水重敦 2003, p. 17.
  2. ^ 藤森照信 1993, p. 89-90.
  3. ^ a b c 清水重敦 2003, p. 28-30.
  4. ^ 藤森照信 1993, p. 59-86.
  5. ^ 藤森照信 1993, p. 161-205.
  6. ^ 藤森照信 1993, p. 132-135.
  7. ^ a b 藤森照信 1993, p. 151-157.
  8. ^ a b c d e f 藤森照信 1993, p. 90-96.
  9. ^ a b c 清水重敦 2003, p. 63-69.
  10. ^ a b 清水重敦 2003, p. 34-36.
  11. ^ a b c d 清水重敦 2003, p. 27-28.
  12. ^ a b 藤森照信 1993, p. 97-101.
  13. ^ a b c d 藤森照信 1993, p. 102-115.
  14. ^ 清水重敦 2003, p. 40.
  15. ^ a b c d 藤森照信 1993, p. 118-132.
  16. ^ a b c d 清水重敦 2003, p. 70-75.
  17. ^ a b c d e f g h 清水重敦 2003, p. 20-24.
  18. ^ 清水重敦 2003, p. 77-80, 平成の大合併によって所在地名が変更されているものは、変更後の地名を記載した。
  19. ^ 越野武 1985.
  20. ^ 北海道浦河町役場.
  21. ^ 米山勇 2010a, p. 193.
  22. ^ 白石市.
  23. ^ 米山勇 2010a, p. 231.
  24. ^ 米山勇 2010a, p. 239.
  25. ^ ふじみ野市役所 2014.
  26. ^ 秩父市教育委員会事務局文化財保護課.
  27. ^ 千葉県立房総のむら.
  28. ^ 日本建築学会 2014, p. 4.
  29. ^ 高橋央 2011.
  30. ^ 文化庁 2005.
  31. ^ 米山勇 2010b, p. 64.
  32. ^ 米山勇 2010b, p. 46.
  33. ^ 文化庁 2003a.
  34. ^ 文化庁 2003b.
  35. ^ 米山勇 2010b, p. 168.
  36. ^ たんしん地域振興基金.
  37. ^ 湯梨浜町.
  38. ^ 文化庁 2009.
  39. ^ 高梁市観光協会.
  40. ^ 倉敷市教育委員会文化財保護課.
  41. ^ 文化庁 1997.
  42. ^ 山口県教育庁社会教育・文化財課.
  43. ^ 米山勇 2010b, p. 193.
  44. ^ 米山勇 2010b, p. 201.
  45. ^ 米山勇 2010b, p. 204.
  46. ^ 米山勇 2010b, p. 211.
  47. ^ 文化庁 2011.
  48. ^ a b 長崎県学芸文化課.
  49. ^ 清水重敦 2003, p. 24-25.

参考文献[編集]