旧開智学校

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旧開智学校校舎
正面全景
正面外観
情報
旧名称 第一番小学開智学校[1][2]
用途 博物館[1][2]
旧用途 旧制小学校[1][2]
設計者 立石清重[1][3][4][5][6][2]
施工 立石清重[1][4][5][6][2]
建築面積 507.0[3]
階数 2階[2][3]
着工 1875年(明治8年)4月[4][2]
竣工 1876年(明治9年)4月18日[2]
所在地 長野県松本市開智2丁目4番12号[5][6][2]
座標 北緯36度14分35秒
東経137度58分5.7秒
文化財指定 重要文化財(国指定)[1][3][4][6][2]
指定日 1961年3月23日[1][3]
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旧開智学校(きゅうかいちがっこう)は、長野県松本市開智に残る明治時代初期の洋風校舎である。文明開化における学校の役割を絵解きしたようなデザインで、文明開化時代の小学校建築を代表する建物として広く知られている[6]

沿革[編集]

開智学校(のちの松本市立開智小学校)は、崇教館から明治維新による松本藩学、廃藩置県による筑摩県学と続いてきた県下第一の小学校で[2]学制による第二大学区筑摩県管下第一中学区の第一番小学開智学校として1873年5月6日に創立された[1]。「開智」の校名は、学制発布の前日に公布された太政官布告の被仰出書の文中にある「其身を修め智を開き才芸を長ずるは、学にあらざれば能わず」に由来すると考えられている[1][2]。県の学校では唯一、英学(洋学)が設置された[1][2]

当初は廃仏毀釈で廃寺となった全久院の建物を仮校舎としており[1][2]、1876年4月に全久院跡地に新規造営となった校舎が、現存する旧開智学校校舎である[1]。この校舎は筑摩県権令・永山盛輝の主導で建設されたもので[1][5]、永山は自ら工事現場に出て監督を務めたと伝えられている[2]。工事費は約11,000円かかり[1][5]、およそ7割を松本町全住民の寄付により調達し[1][5]、残り3割は特殊寄付金及び廃寺をとりこわした古材売払金などで調達した[1]。上棟式には人力車や馬の往来ができないほどの見物人が押しかけ、開校式には約7,000人の来客と約12,000人の参観者があった[5]。校舎の写真は、1884年のニューオーリンズ万国博覧会と1893年のシカゴ万国博覧会に出品された[5][2]

1961年3月23日、明治時代の擬洋風学校建築としては初めて重要文化財の指定を受けた[1][3]校舎は、1963年3月まで約90年間使用された後、翌年にかけて現在地に解体移築復元された[1][5]。1965年から教育博物館として公開され[1]、年間約10万人が訪れている[5]。1987年10月6日に愛媛県西予市開明学校と、2005年11月5日に静岡県賀茂郡松崎町岩科の岩科学校と、それぞれ姉妹館提携している[7]。1991年には、明治時代の洋式住宅である松本市旧司祭館が隣地に移築された[8]

建築概要[編集]

地元出身で大工棟梁の立石清重が設計施工を担当した擬洋風建築である[4][5][2]。擬洋風建築は建築に当たり棟梁が横浜などに見学に出かけたという伝えが残っていても証拠が残っていない場合が多いが、立石は上京の記録「東京出府記」と付随するスケッチ集「営繕記」を残しており(立石は1875年の2度の上京で東京の開成学校、大蔵省、三井組を訪れたほか、山梨県の日川学校、琢美学校(藤村式建築)のスケッチが残っている。)、どの建物を参考にしたかが判明している点で開智学校は擬洋風建築の中でも重要な建物である[4]

営繕記のスケッチ

木造2階建寄棟造桟瓦葺、外壁はコーナーストーン及び石積みの腰壁を模した漆喰塗大壁、中央に腰銅板張で廻縁付の八角塔屋を持つ[3]。建物正面に中央玄関ポーチを突出させ、2階を唐破風屋根としている[3]。当初は背面に長い入母屋屋根の教室棟が付属する逆L字型の平面構成をとっており、教場数32の大規模な建物だった[2]

バルコニーの彫刻では、流水の上にが躍り、わき立つ雲の上でキューピッドが校名の額を支えている[2]。この額のデザインは、東京日日新聞(錦絵新聞)の題字がモチーフとなっている[4]。彫刻は室内の唐戸や洋灯の吊元にもあり、目立つ場所には高価な輸入品の色ガラスが使われた[2]。2500枚の色ガラスが使用された校舎は「ギヤマン学校」の愛称で呼ばれた[5]

開智学校のデザインは周辺の学校建築にも影響を与えた。山辺学校を手がけた棟梁の佐々木喜十は開智学校建設時に立石のもとで働いており、全体の構成、塔の姿、石壁を模した漆喰の腰壁など直接影響を受けている。隣接する諏訪市の高島学校は塔の姿に、埴科郡坂城町の格致学校は石壁を模した漆喰の腰壁に開智学校の影響が見られる。[4]

出典[編集]

参考文献[編集]