櫓 (城郭)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
日本の近世城郭の櫓群
(大坂城本丸東面の三重櫓と多門櫓 1865年頃)

(やぐら)とは、城郭内に防御や物見のために建てられた仮設または常設の建築物である。

日本の中世の城では、塀の内側に木材を組んで盾板を建てた櫓が登場し、攻撃のための「高櫓」(かたやぐら)や物見のための「井楼」(せいろう)と呼ばれる簡易な建物を建てて、防御を行っていた。また、常時矢を始めとする武具や生活道具なども保管する倉庫としての役割もあった。そのため、「やぐら」の字には「矢蔵」「矢倉」ともあてられる。戦国時代末期から江戸時代までには、鉄砲などの銃器の導入に伴う戦い方の変化から、より頑丈な建物が設置された。その形状も多様に及ぶようになり、意匠には寺社建築の要素も取り入れられて破風や外壁仕上げにより装飾して領主や城主の権威を誇示する要素を含むようになった。

ヨーロッパの城では、中世からルネサンス期の城にHoarding(ホーディング)と呼ばれる櫓がある。多くは石造城壁上の木造物で、城壁上の敵に対して攻撃可能な開口部が設けられる。

ここでは、おもに日本の城の櫓について解説する。

歴史[編集]

物見櫓
吉野ヶ里遺跡

起源[編集]

  1. 簡単な物見の建物が発達したものとする説。
  2. 「矢倉」・「矢蔵」を本来の呼称と見て、武器庫が発達したものとする説
  3. 「矢の坐」すなわち「弓を射る場所」が原型だとする説。

初期の頃は、『後三年合戦絵詞』や『一遍上人絵伝』など中世の絵巻物に見られるように、篭城戦での防御・物見のための仮設の建造物としての要素が強かったが、戦国時代末期、近世城郭が築かれ始めると、櫓は礎石の上に建ち、防火と防弾を考慮して厚い土壁が塗られ、屋根で葺かれるなど恒久的建築に発展した。織田信長近畿平定の頃からは、その家臣団達の居城に築かれ始め、全国的に広まった。

安土桃山時代[編集]

豊臣秀吉天下統一を成し遂げた天正末期より築造され、高石垣とともに瓦葺の櫓は豊臣系大名の築城した城郭に特有の構造と指摘される。特に西国の城では二重櫓や平櫓を多く建て並べた。この頃のものは構造も旧式といわれている望楼型が主流である。

なお、この時代の櫓は天守を除き現存するものがなく、最古の櫓として残るのは関ヶ原の戦い以後の慶長6年(1601年)前後に建てられた熊本城宇土櫓、福山城伏見櫓(伏見城からの移築)である。

江戸時代以降[編集]

関ヶ原の戦い後、各地に移封され、大幅に加封された外様大名達によって次々に城が建設され、既存の城も多くで改築を施された。この時期、徳川幕府による天下普請を媒介もあり、近世の築城技術が全国に広まった。天守を除き現存する櫓はすべてこの時期に建設されたもので、関ヶ原の戦い以前に建設されたものは1棟も残されていない。現存しない物も含め一城郭内での櫓数は多い順に、広島城76棟、姫路城61棟、津山城60棟であった[1]

櫓も元和頃までに大きく発達し、構造は新式の層塔型が主流になり、機能では石落とし狭間が増加し、隠狭間が登場した。

慶長末期になると、外様大名による築城は幕府への遠慮などにより自主的に憚られるようになった。さらに大坂の役後、1615年(元和元年)7月に2代将軍徳川秀忠伏見城で諸大名に発布した武家諸法度によって新規築城が原則禁止されると、天下普請による大坂城再築や、福山城など一部の譜代大名を除いて城は築かれなくなり、櫓も次第に実戦から離れていった。天守を失った城では江戸城の富士見櫓のように櫓が天守を代用することもあった。

明治まで、城には多くの櫓が立ち並んでいたが、廃城令に伴う取り壊し、火災、戦災により、ほとんどの櫓は失われ、現在109棟を残すのみである。

構造[編集]

櫓は、天守と同様の土壁の大壁である。天守に比べて、造りはおおむね貧弱で、使用される部材も細めのものが多い。そのため、櫓は天守より耐用年数が短く、また土蔵と同様に、厚い土壁が湿気を呼ぶため構造材が腐りやすく、多くの櫓は江戸時代の内に建て替えられたり、また、城主の財政難で維持管理が難しくなることにより倒壊したり、失火や落雷で焼失するなどして創建当初の櫓は明治にはあまり残っていなかった。

大型の櫓の平面構成は、中央に身舎(もや)を設け、周囲に入側・武者走(いりかわ・むしゃばしり)を廻らしており、その構成は天守に近いものである。熊本城の五階櫓のように身舎の内部に壁を設けていくつかの部屋に区切ることもあった。

江戸城大坂城名古屋城など徳川幕府による天下普請によって築かれた城や徳川幕府と関わりの深い大城郭に建てられた櫓は、中央に設けられた身舎をさらにいくつかの部屋に区切るなど天守とほぼ同じ構成をとり、規模は小規模な天守を凌ぎ、幕府権力の象徴となっていた。

地方の城郭に建てられた小型の櫓では、内部が一室で身舎と入側の区別もなく、1階の中央に1本か2本ほど独立したを立てるか、室内に1本も柱を立てないものが多かった。二重櫓と三重櫓は、天守と同じく望楼型・層塔型に区別でき、前者が旧式、後者が新式で、層塔型の櫓は慶長末期に現れた。現存例は層塔型の方が多い。櫓には通柱(2階以上を貫き通す柱)があまり使われず、すべての柱を1階ので止めていることが多かった。

櫓の外観は、全体的に同じような意匠にすることが多い。壁の材質、色、屋根の葺き方、屋根の反りなどをほぼ統一することで、一体化した美観を作ることもできた。天守がない城では、事実上の天守や天守の代わりにしていた三階櫓などを他の櫓との格式の違いを示すために、長押や、装飾性の高い破風、特殊な窓(火灯窓など)などで飾ることも多くあった。また、特別な役目を持つ櫓も同様に飾られることがあった。

種類[編集]

形状[編集]

基本的な櫓の図。
左から平櫓・多門櫓・重箱櫓・三重櫓・渡櫓・二重櫓を示している。
三重櫓・二重櫓・平櫓
それぞれ3重・2重・1重の屋根を持つ櫓。階層はこれに準じない場合がある。
隅櫓(角櫓)
曲輪の隅に配置される櫓。その方位・位置により二十四方位にちなんだ名称が与えられることが多い。たとえば東南(辰巳)に配置された櫓は、「巽(辰巳)櫓」など。
多聞櫓(多門櫓)
多門とは長屋状の建物のことで、明治以降に多聞と書かれることが多くなったといわれる。1565年(永禄8年)成立の『築城記』に載る「ハシリ矢グラ」の形態が発展したものと阿部和彦は解説している[出典 1]。名称の由来は、最初に松永久秀多聞城にこの長屋形式の櫓を建てたことからと『和事始』に載り、また『甲子夜話』には楠正成が渡櫓内に多聞天を祀ったからであるという北条氏長談として載せている。宮崎市定は、久秀が中国の城郭建築の城門の上に立てる楼閣(門楼)から発想して創築したものではないかと推測している。
同形の櫓を多聞櫓と呼ばない場合もある。金沢城では「三十間長屋」「五十間長屋」というように多聞櫓を長屋と称し、熊本城では十四間櫓や北十八間櫓と長さで称している。櫓の間を繋ぐように建てられたものは「渡櫓」という。門の上のものは「櫓門」、櫓門から連続した多聞櫓は「続櫓」と呼ばれる。
平時には住居や物置も兼ね、江戸城のように武士の名簿(『江戸城多聞櫓文書』)を保存してあったという例もある。
重箱櫓
重箱造(総二階造り)の二重櫓の総称で、1階と2階の平面が同規模のもの。1重の屋根は腰屋根となる。岡山城(岡山県)や臼杵城(大分県)に現存例がある。

天守代用[編集]

天守を焼失・破却した城、天守が建造されなかった城で、御三階櫓などと称して事実上の天守とも位置づけられた櫓。弘前城・丸亀城・新発田城白河小峰城・水戸城など。詳細は「天守」を参照。

数詞・イロハ[編集]

多数ある櫓群を数やイロハで数的に呼称した櫓。一番櫓~七番櫓の櫓群(大坂城)、イロハ付きの櫓群(姫路城)。

方位[編集]

櫓の建つ位置・方位に由来する名称が付けられた櫓。東南隅櫓・西南隅櫓・西北隅櫓(名古屋城)、丑寅櫓・辰巳櫓・未申櫓(弘前城)、巽櫓・坤櫓(明石城)など。

用途による種類[編集]

櫓は戦時の防御機能の他、物資を貯蔵する倉庫としての役割もあり貯蔵した物に由来する名称が付けられた櫓。塩を備蓄した塩櫓(姫路城・津山城など)、(ほしいい)を備蓄した干飯櫓(会津若松城・岡山城など)、旗指物を収容した旗櫓(徳島城古河城など)、鉄砲を収容した鉄砲櫓(新発田城・福岡城など)、具足を収容した具足櫓(高取城)など。

その他、特殊な用途や城主などが生活や趣味のために用いたことから名付けられている櫓もある。

太鼓櫓[編集]

太鼓櫓(たいこやぐら)は城郭内の比較的見晴らしのよい場所に設置され、時を知らせたり戦いの合図を打ち鳴らしたりするための太鼓が置かれた。現存・非現存を含め姫路城・松山城・広島城など多くの城郭に設置されていた。太鼓の代わりに鐘を釣るせば鐘櫓(かねやぐら)である。

月見櫓[編集]

月見櫓(つきみやぐら)は、その名の通り月見を目的とした櫓であるため、他の櫓に比べ開放的な構造で極端に開口部が大きいことが多い。御殿の奥向きの近くまた城の東側に造られることが多い。高松城・松本城などにみられる。その類で涼櫓(すずみやぐら)というものもある。

富士見櫓[編集]

富士見櫓(ふじみやぐら)も同様に富士山を眺めるための櫓とされる。関東地方に集中し、御三階櫓と同様に、幕府に憚って事実上の天守である櫓に名づけることもあった。

物見櫓[編集]

櫓は防御の目的だけではなく、ものを観察・監視するためにも用いられる。これを物見櫓(ものみやぐら)という。物見櫓は、弥生時代にはすでに建てられており『魏志倭人伝』では、「楼観」という記述が見られ、同時期の遺跡と考えられている吉野ヶ里遺跡では物見櫓と見られる掘立柱建築の跡が出土している。時代を遡り、縄文時代中期に当たる紀元前3000年 - 紀元前2000年の遺跡である三内丸山遺跡(青森県)では大型の掘立柱の構造物または建築物の跡と見られる遺跡が出土しており、物見櫓の跡であるという説がある[出典 2]

戦国時代には井楼櫓(せいろうやぐら)という木材を組上げただけの仮設の建物が造られており、逆井城高根城 (遠江国)の跡から掘立柱建物の遺構が出土している。

同様の目的で城郭だけではなく、京都市街の路上に建てられた監視用の櫓が『一遍上人絵伝』に描かれており、現在でも街中で見ることのできる火の見櫓もその類である。近世には、礎石の上に建てた土蔵造りの恒久的な建物とされたが用途は同様で、着見櫓(つきみやぐら)は月見櫓と名前は似ているが、着到櫓(ちゃくとうやぐら)とも呼ばれる将兵の到着などを確認するための物見櫓である。主に門の近くなどに建てられた。同様のもので、海城にのみあるが海の様子を観察する潮見櫓(しおみやぐら)がある。[出典 1][出典 3]

地名・移築[編集]

国名や地名に由来する名称、移築元に由来する名称が付けられた櫓。備中櫓(津山城)、日比谷櫓(江戸城)など。

伏見櫓(ふしみやぐら)は、指月山または小幡山伏見城から移築したという伝承に由来する。福山城(備後国)、江戸城、大坂城、尼崎城などの櫓に移築伝承があり、そのうち福山城の伏見櫓に移築の痕跡が確認されている。名古屋城御深井丸西北隅櫓は清洲城の天守または小天守を移築したものとの伝承から別名清洲櫓(きよすやぐら)と呼ばれている。また、福山城(備後国)の神辺一番櫓、神辺二番櫓、神辺三番櫓、神辺四番櫓の神辺とは神辺城からの移築によるものと伝えられる。

熊本城宇土櫓(うとやぐら)の名称由来については宇土城天守移築説があるが、移築の痕跡は確認されていない。宇土櫓の項に詳しいが、宇土櫓のある平左衛門丸には、加藤清正関ヶ原の戦いの際に攻め落とした宇土城を本拠とする小西行長の、家臣らを収容していた施設が併設されていたことにちなむ。

動物[編集]

動物に由来する名称が付けられた櫓。鹿櫓・烏櫓(高松城)、狸櫓(平戸城)など。

その他[編集]

その他、逸話・伝承などに由来する名称などが付けられた櫓。千貫櫓(大坂城)、化粧櫓(姫路城)、白土櫓・色附櫓(津山城)、オランダ櫓・朝鮮櫓(鹿野城)など。

現存一覧[編集]

国宝の櫓
  • 松本城 - 渡櫓、辰巳附櫓、月見櫓(複合連結式天守)
  • 彦根城 - 附櫓及び多聞櫓
  • 姫路城 - イ・ロ・ハ・ニの渡櫓(連立式天守)
重要文化財(国指定)の櫓
  • 弘前城 - 二の丸辰巳櫓、二の丸未申櫓、二の丸丑寅櫓
  • 江戸城 - 清水門渡櫓門、田安門渡櫓門、外桜田門渡櫓門
  • 新発田城 - 二の丸隅櫓
  • 明石城 - 巽櫓、坤櫓
  • 姫路城 - 帯櫓など27棟
  • 名古屋城 - 西南隅櫓、東南隅櫓、西北隅櫓
  • 彦根城 - 天秤櫓、西の丸三重櫓及び続櫓、太鼓門及び続櫓、二の丸佐和口多聞櫓
  • 二条城 - 東南隅櫓、西南隅櫓
  • 大坂城 - 多聞櫓(渡櫓、続櫓)、千貫櫓、乾櫓、一番櫓、六番櫓
  • 岡山城 - 月見櫓、西の丸西手櫓
  • 備中松山城 - 二重櫓
  • 福山城 - 伏見櫓
  • 高松城 - 北の丸月見櫓、北の丸渡櫓、旧東の丸艮櫓
  • 松山城 - 三の門南櫓、二の門南櫓、一の門南櫓、乾櫓、野原櫓、隠門続櫓
  • 大洲城 - 台所櫓、高欄櫓、苧綿櫓、三の丸南隅櫓
  • 高知城 - 東多聞、西多聞
  • 福岡城 - 南丸多聞櫓
  • 佐賀城 - 鯱の門及び続櫓
  • 熊本城 - 宇土櫓など11棟 宇土櫓は最近の城郭研究(西ヶ谷恭弘ら)では天守として扱われることが多い。
都道府県県指定有形文化財の櫓
  • 上田城 - 南櫓・北櫓・西櫓(長野県宝)
  • 笠間城 - 櫓(旧八幡台櫓、移築現存)
  • 高崎城 - 乾櫓(移築現存、群馬県指定)
市町村指定有形文化財の櫓
文化財未指定の近世櫓

復元された櫓[編集]

  • 小田原城 - 二の丸隅櫓
  • 駿府城 - 巽櫓
  • 高遠城 - 太鼓櫓(模擬説もある)


脚注[編集]

  1. ^ 日本有数の櫓の数を誇る津山城:津山市

参考文献[編集]

  1. ^ a b 西ヶ谷恭弘編著『城郭の見方・調べ方ハンドブック』東京堂出版 2008年
  2. ^ 坂井秀弥・本中眞 編『野外復元 日本の歴史』新人物往来社 1998年
  3. ^ 三浦正幸著『城のつくり方図典』小学館 2005年

関連項目[編集]