くど造

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川打家住宅(左)と森家住宅(右)、高台から望遠(佐賀県多久市)
川打家の小屋組み。部屋の横幅は二間。
大詫間のじょうご造り住宅の望遠。四辺の大棟の高さが異なる。

くど造(くどづくり)[1][2][3]は、日本民家形式の1つで、屋根大棟が「コ」の字状をしている。くど造りとも表記する[4][5][c 1]佐賀県福岡県熊本県有明海周辺、特に佐賀県と福岡県にまたがる筑紫平野に多く分布する。くど造りの発生理由には、耐風構造説、佐賀藩の倹約令説、既存民家からの影響・発展説、軟弱地盤対策説がある。

定義[編集]

の字形、ときに形とも表される平面を持つ民家で、それが外観から分かる屋根と大棟の形状にも反映されている。2つの手前に突き出た部分の奥に横長の棟が合わさった形、あるいは一本の長い直家(すごや)をコの時に折り曲げたような形[3][5][6]。大抵は茅葺寄棟屋根で、3方向からの屋根勾配が谷を作るツボ(谷または両鍵ともいう)部分の底は片流れの屋根や雨樋である[2][5]。屋根材はのほか、平野部では麦藁を用いることが多かった[6][7][8]

「くど造り」の「くど」はかまどの別称で、コの字形を竈 (くど)に見立てている[c 1][5][9]。くど造りの呼称は民家研究が始まってからのもので、今和次郎による命名ではないかとされる[10]。それ以前の現地では両鍵[4]、「テノマ」(樋の間)[11][注 1]、扇谷造り、三筋造り、両谷落しなどの呼称があった。あるいは単に(L字形の鍵屋と区別できないが)鍵家(かぎいえ)、曲屋/曲家などとも呼んだ[2][4][9]

九州には分棟型民家の鍵屋、二棟造二つ家が分布するが、くど造りはこれらとの類似点があって起源とする説もあり、民家分類ではしばしば類縁とされる[1][2]

広義のくど造りは佐賀県福岡県熊本県および大分県の一部に分布し、八代市など球磨川流域が南限である[4][12]。ただし、熊本県や福岡県の一部に分布する形式はくど造りではなく二棟造や二つ家、特に平行二棟造の派生形に分類する場合があり、宮澤智士が指摘しているように用語に混乱がみられる。狭義のくど造りは佐賀県や福岡県の筑後川下流域・柳川市周辺に分布する形式を指す[4][5][13][14]

今和次郎は著書で「四角いプランへ曲家状の屋根をかけた不思議な家がある」と表現しており、くど造りが目立つ家並みはこの地域特有の風景を見せていた[1]。しかし現在はほとんど見られなくなっている[c 2]

類型[編集]

くど造りの中でも、玄関の位置や谷部の仕上げには差異がみられる。位置については、通りに面する側や玄関のある側を直家のように見せて、その裏側を谷部分とするもの(裏谷型、後谷型)、谷部分に玄関がくるもの(前谷型)、谷部分を横とする位置に玄関がくるもの(横谷型)とがある。谷部分は、片流れの瓦とし広さを確保したものと、谷幅は狭く雨樋を置いたものがある[4][15]

狭義のくど造りの分布地域、特に佐賀県内では、裏谷型、かつ谷が北向き・玄関が南向きのものが多く、谷部分は瓦が多い。また、大棟には大型の棟瓦を被せ、棟の突端の屋根葺きを馬の耳のように仕上げる装飾も特徴[4][9][12]

一方、熊本県北部や福岡県の一部では谷部分は雨樋が多い。福岡県では前谷型が多いとされる[4][12]

川打家住宅・森家住宅(佐賀県多久市)は裏谷型、平川家住宅(福岡県うきは市)は前谷型。川打家・森家は谷が瓦葺き、平川家や旧石井家住宅(福岡県朝倉市)、旧境家住宅(元所在は熊本県玉東町)は谷が雨樋である。なお、川打家住宅はくど造り初期の形式を残し、典型例にも挙げられる[1][5][13][16]

コの字にさらに突出部分(角屋)が取り付いたバリエーションがみられ、鍵屋(L字)の派生を含め、ユ型(├┘型)、F型、H型(├┤)、□型、T型、Z型(└┐型)、ろ型(L字2つ)、E型(三つ棟)などが見つかっている[4][15][17]。特に□型はじょうご造りと呼ばれる[4][15]。ユ型は屋根面がつくる谷が3ヶ所・出隅が7ヶ所であることから現地で「ミタニナナシギ」と呼ばれ、取り付いた角屋は南面し座敷に用いる例などがみられる[4][17]

間取りでは、床上部(部屋)を縦に分割する「縦割り型」(棟向きでは⎿⏌の⎿と⏌どちらかを土間とする間取りもあれば、╷╷と└┘どちらかを土間とする間取りもある)と、横に分割、つまり部屋が田の字型/四つ間取りの「平入り型」の両方がみられる(cf.山﨑(1998)の図を参照)[4][5][12][15]

佐賀県内における在来の民家の形状は直屋、鍵屋、くど造り・じょうご造りの3類型が多い。青山賢信らの調査によりまとめられた『佐賀県の民家』(1974)に分布図が示されているが、くど造りは佐賀平野で目立ち、南部の東与賀町久保田町芦刈町にかけての地域で多く、散村の形をとる白石平野(白石町)では民家のほとんどを占める。じょうご造りは川副町付近で目立ち、川副町犬井道や大詫間で特に多い。これらに対して、山間部では直屋、山麓部では鍵屋が多い[7][10][12][18]

じょうご造り[編集]

じょうご造り(じょうごづくり)はじょうご造、漏斗谷造(じょうごだにづくり)、漏斗谷造りとも表記し、棟が一周するの字形で中央が漏斗のように窪んだ屋根を持つ民家[2][7]。現地では古くは「四方谷」「四方おとし」「谷家(たにいえ)」「底(てい)の家」「桝形屋根」などの呼称があった[2][9][19]

くど造りの開いた谷部分を繋げたような形状で、起源についてもくど造りから発展した形式だとする見方がある。佐賀県南東部と福岡県南東部のいずれも筑後川河口に近い狭い地域に分布する[7][9]

雨が降ると雨水は漏斗の底に集まり、家の中に設けた樋を使って排水される。素焼きで長さ4 - 5メートルの瓦樋(といがわら)(または梯瓦(ていがわら))を用い、屋根の中央から土間を通り外へと、室内を貫通して設置される[7][9][19]。また、四辺の大棟の高さは揃わず、一段高い辺と一段低い辺をもつのがほとんどである[7][19]。川副町の有明海に近い地域では、屋根を深く葺き下ろして軒先を低くするものが多い[20]

その数は著しく減少しており、1965年頃の調査では川副町内外に900棟超が確認されたが、『東与賀町史』によれば1985年頃には推定5分の1程度になっていた[19]

間取りを広くとれるが、奥の方は日光が届きにくかったり、大雨の際には樋から室内に水が溢れるおそれがあったりする欠点もある。現在、葦葺きの屋根を残すものは減少、トタンで覆いつつも漏斗型を残したものもあるが、漏斗の部分を片流れの屋根で塞いだり、漏斗とは逆に緩い勾配を付けたり[注 2]して雨水を外に流すよう変更したものが多くなっている[9][19]

装飾[編集]

川打家住宅の棟飾り(みんのす)

佐賀平野のくど造り・じょうご造では、千木にも類似するが、棟瓦をかぶせた棟の先端(棟端)に耳のように尖らせた棟飾りを作る。単純にミミ、またの耳に似ていることからミンノス、ウマンミミとも呼ぶ[4][7][8][9]。屋根葺き作業ではミミを作るのは職人の長とされている。ミミの形には地域差があり、中南部では基部が幅広く、これに対して東部では細長く上向き、西部や北部では逆に短く垂れ下がった形が多く、ミミを付けない地域もみられる[8]。葺き屋根にトタンを被せてもその形状を残しているものがみられる[4][9]。なお、ミミの装飾には神仏の加護の象徴あるいは呪術的なものがあるともいわれる[8][21]

棟瓦は長さ50センチ程度・曲面の周長80センチ程度の大型のもので、竹串で刺して止める[4][8]

大棟の真ん中を少し低く撓ませ、また葺き屋根のシギサキ(出隅の先端)を上方に反らせるといった、装飾的仕上げを施したものもみられる。反らせたシギサキには麦藁葺きであってもその部分だけ強度のある葦を使うという[8]

成立に関する議論[編集]

くど造りやじょうご造りの成立、普及の要因には複数の説が提唱されているが、決着をみていない[5][12]

耐風構造
台風などの強風に耐えるため成立・普及したとする説。くど造りやじょうご造りは屋根を低くしつつも間取りを拡張できる。この地域では有明海からの南風が強まることがあり、北を谷(⎿⏌)とするくど造りが多いことと整合する。正方形に近いほど強い構造になると考えられ、くど造りが発展してじょうご造りが生まれたとの説もある。1828年(文政11年)の子年の大風で多数の家屋が倒壊する被害があったことが普及を促したとする説も出された。しかし、福岡県などで南を谷(⎾⏋)とするものが多いことはこの説に疑問を投げかけている[1][2][5][12][22]
じょうご造りの家は高潮や洪水の避難の役に立ったという逸話が『川副町誌』にある。屋根は釘で留めなかったため増水の時に浮き、屋根にしがみついて助かったという。なお、家組みは流されてもコロを使って元の場所に曳き戻し復旧していたという[9][20]
梁間規制
江戸時代前期に幕府は建物の三間梁規制を行い、諸藩も類似・追加の規制を行っていた。梁間の狭いくど造りでは太い梁を使わずに間取りを拡張できる。諸藩が庶民の家の梁間を三・二間半にしていたのに対し、いわゆる倹約令が出されていた佐賀藩は二間の規制を行っていたとの推測があり、厳しい規制を受けながら庶民が工夫して生み出したもの[注 3]だという説である。二間との明記はないが、佐賀藩が1831年(天保2年)に発布した『郷内諸法度』は建物の構造・用材を規制している。青山賢信の調査でも、佐賀県内の民家200棟余りの梁間のうち7割超が二間、2割が二間半だった。しかし、くど造りの最古例は18世紀前半・1700年代初頭と考えられ、矛盾がある[1][2][3][4][12]
既存民家からの影響・発展
ひとつは、熊本県北西部を中心に九州に分布する二つ家・平行二棟造が間取りを広げるため発展して、縦割り型のくど造りになったという説。二つ家・平行二棟造と熊本県や福岡県の一部に分布する(広義の)くど造りは、土間部と床上部が平行に並び部屋は縦割り、玄関は妻入りという点で共通し、棟を接する平行二棟造の片側の屋根を繋げてコの字にし残りの部分に樋を通すと(広義の)くど造りになる。こうした構造の共通点をもとに香月徳男は、熊本県北部で成立した二棟造りが福岡県南部に伝わり発展したとの説を主張している。青山賢信は時代を遡ると分棟系民家が筑紫平野北部まで分布していたと推定し、縦割り型のくど造りはそこから発展した系統だと主張した。一方で、平入り型のくど造りに関しては二つ家・平行二棟造と間取りが異なり系統も違うとする説がある[1][2][3][4][12][13][15][18]
もうひとつは、平入りの広間型民家、L型の鍵屋が間取りを広げるため発展して、平入り型のくど造りになったという説。太田静六は耐風構造説と併せてこの説を主張している。分布地が重複・隣接し、形態の変化として連続性がある。しかし、日本国内に広く分布する鍵屋がこの地域に限ってなぜくど造りに発展したのかという点が不明である[2][5][12][15][18]
軟弱地盤対策
緩い地盤に対処するために成立・普及したとする説。橋本慎蔵は、筑紫平野に分布する軟弱地盤の有明粘土層の分布地域とくど造りの分布が一致すること、梁間二間の狭い間隔で柱が配置されて屋根荷重が分散され不同沈下が起きにくいことを指摘した。しかし、この地層の分布地域でもくど造りは従来型民家の4割程度にとどまり、同層の分布地域外の佐賀県北東部にもくど造りはみられると指摘されている[2][3][5][11][12]

指定文化財・著名なもの[編集]

くど造り建物のうち、保存され文化財に指定されているものや著名なものを挙げる。

  • 川打家住宅(佐賀県多久市) - 国指定重要文化財。江戸時代中期の建築と推定。移築され森家住宅と共に展示[c 2][c 3]
  • 平川家住宅 主屋(福岡県うきは市) - 国指定重要文化財。江戸時代後期の建築と推定。隣の納屋と併せて妻が3つ並ぶ特徴的な外観。新川田篭重要伝統的建造物群保存地区[c 4][c 5]
  • 森家住宅(佐賀県多久市) - 市指定有形文化財[c 2]
  • 旧石井家住宅(福岡県朝倉市) - 県指定有形文化財。1800年以前の築造と推定。麦藁葺きだが現在はトタンで覆われている[13][c 6]
  • 旧乗田家住宅(佐賀県鹿島市) - 市指定有形文化財。鹿島市浜中町八本木宿重要伝統的建造物群保存地区内[c 7]
  • 旧下村家住宅(佐賀県嬉野市) - 市指定有形文化財。塩田津重要伝統的建造物群保存地区内。江戸時代後期の建築と推定[c 8]
  • 前田家住宅 主屋(佐賀県伊万里市) - 国登録有形文化財。佐賀県遺産に認定。伊万里郷の大庄屋だった前田家の邸宅。コの字型の主部に座敷の部分が接続した大規模なもの[c 9][c 10]
  • 旧枝梅酒造店舗兼主屋(佐賀県佐賀市) - 国登録有形文化財。長崎街道に面した町屋で、通りから見えない背後に棟が延びている[c 11]
  • 釘町家住宅(佐賀県武雄市) - 佐賀県遺産に認定。19世紀中頃の築造と推定される在郷武士の居宅[c 12]
  • 宮地嶽神社民家村自然広苑のくど造り民家(福岡県福津市) - 佐賀県白石町に所在した民家を移築し展示。推定築150年[c 13]

同様にじょうご造り建物を挙げる。

  • 山口家住宅(佐賀県佐賀市) - 国指定重要文化財。明治時代の建築と推定。茅葺のじょうご造りで馬屋が付属する。屋根の下端(軒遊び)が低い。[7][23][c 14]
ギャラリー

場合によりくど造りに分類するもの[編集]

  • 旧境家住宅(熊本県和水町の肥後民家村) - 国指定重要文化財。1830年築造。コの字型。玉東町に所在した民家を移築し展示[5][c 15]
  • 旧矢羽田家住宅(大分県日田市) - 国指定重要文化財。江戸時代後期の建築と推定。二棟造り[15][c 16]
  • 旧山野家住宅(熊本県和水町の肥後民家村) - 町指定文化財。江戸時代末期の建築と推定。裏谷型・コの字型[c 17]
  • 伊藤家住宅(熊本県氷川町) - 裏谷型・コの字型[7]。旧・県指定文化財だったが、2015年の台風と2016年の熊本地震により被害を受け、解体のため2018年指定解除[c 18]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 鹿児島県に分布する樋の間(てのま)二つ家とは異なる。
  2. ^ マンサード屋根にあたると推定される
  3. ^ 伊藤ていじは封建時代の民衆の抵抗を示す造形の1つではないかという分析も示している。

文献[編集]

  1. ^ a b c d e f g 平尾ほか 2016, p. 90.
  2. ^ a b c d e f g h i j k 坂本 2018, pp. 255–258.
  3. ^ a b c d e 海野 2022, p. 439.
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 日本民俗建築学会 2001, pp. 150–152.
  5. ^ a b c d e f g h i j k l 日本民俗建築学会 2020, pp. 240–241「くど造り」
  6. ^ a b 日本民俗建築学会 2001, pp. 118–119, 150–152.
  7. ^ a b c d e f g h i 日本民俗建築学会 2020, pp. 232–233「漏斗谷造り」
  8. ^ a b c d e f 東与賀町史編纂委員会 1982, pp. 1094–1098.
  9. ^ a b c d e f g h i j 森 2019, pp. 241–243.
  10. ^ a b 東与賀町史編纂委員会 1982, p. 1088.
  11. ^ a b 日本民俗建築学会 2001, pp. 319–320.
  12. ^ a b c d e f g h i j k 山﨑 1998.
  13. ^ a b c d 日本民俗建築学会 2020, pp. 230–231「二棟造り」
  14. ^ 宮澤 1984.
  15. ^ a b c d e f g 中尾 2018.
  16. ^ TOTO出版 2008, p. 121.
  17. ^ a b 東与賀町史編纂委員会 1982, pp. 1087–1089.
  18. ^ a b c 杉本 1977, pp. 147–156.
  19. ^ a b c d e 東与賀町史編纂委員会 1982, pp. 1089–1091.
  20. ^ a b 川副町誌編纂委員会 1979, p. 815.
  21. ^ 日本民俗建築学会 2001, p. 124.
  22. ^ 東与賀町史編纂委員会 1982, pp. 1091–1094.
  23. ^ TOTO出版 2008, p. 123.

ウェブサイト出典[編集]

  1. ^ a b "くど造り". 講談社『家とインテリアの用語がわかる辞典』. コトバンクより2023年8月14日閲覧
  2. ^ a b c くど造り民家(森家・川打家住宅)”. 多久市公式ウェブサイト. 多久市役所. 2023年6月12日閲覧。
  3. ^ 川打家住宅(佐賀県多久市西多久町)”. 文化遺産オンライン. 文化庁. 2023年6月22日閲覧。
  4. ^ 平川家住宅(福岡県浮羽郡浮羽町) 主屋”. 文化遺産オンライン. 文化庁. 2023年6月12日閲覧。
  5. ^ うきは市新川田篭伝統的建造物群保存地区”. 福岡県文化財データベース. 福岡県. 2023年11月12日閲覧。
  6. ^ 旧石井家住宅”. 福岡県文化財データベース. 福岡県. 2023年11月12日閲覧。
  7. ^ 肥前浜宿(ひぜんはましゅく)”. 鹿島市公式ウェブサイト. 鹿島市役所. 2023年6月12日閲覧。
  8. ^ 重要伝統的建造物群保存地区塩田津の町並み - 旧下村家住宅|検索詳細|地域観光資源の多言語解説文データベース”. 地域観光資源の多言語解説文データベース. 観光庁. 2023年6月12日閲覧。
  9. ^ 前田家住宅”. 伊万里市公式ウェブサイト. 伊万里市役所. 2023年6月12日閲覧。
  10. ^ 前田家住宅主屋”. 文化遺産オンライン. 文化庁. 2023年6月22日閲覧。
  11. ^ 旧枝梅酒造店舗兼主屋”. 文化遺産オンライン. 文化庁. 2023年6月22日閲覧。
  12. ^ 第2006-4号 釘町家住宅”. 佐賀県遺産データベース. 佐賀県. 2023年11月16日閲覧。
  13. ^ 民家村自然広苑”. 宮地嶽神社. 2023年6月22日閲覧。
  14. ^ 山口家住宅(佐賀県佐賀郡川副町)”. 国指定文化財等データベース. 文化庁. 2023年11月12日閲覧。
  15. ^ 旧境家住宅(旧所在 熊本県玉名郡玉東町)”. 文化遺産オンライン. 文化庁. 2023年11月12日閲覧。
  16. ^ 旧矢羽田家住宅(大分県日田郡大山町)”. 文化遺産オンライン. 文化庁. 2023年11月12日閲覧。
  17. ^ 旧山野家”. 和水町 (2014年3月30日). 2023年11月12日閲覧。
  18. ^ 復旧せず県重文指定解除 氷川町の伊藤家住宅 県教委、地震被害で初”. 西日本新聞me. 西日本新聞 (2018年3月15日). 2023年11月12日閲覧。

参考文献[編集]