幸田町

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こうたちょう
幸田町
Kota bunkahiroba iriguchi.jpg
Flag of Kota, Aichi.svg
幸田町旗
Emblem of Kota, Aichi.svg
幸田町章
 町旗:2012年平成24年)5月1日制定
町章:1959年昭和34年)9月1日制定
日本の旗 日本
地方 中部地方東海地方
都道府県 愛知県
額田郡
団体コード 23501-6
法人番号 7000020235016
面積 56.72 km²
総人口 40,802
推計人口、2017年8月1日)
人口密度 719人/km²
隣接自治体 岡崎市西尾市蒲郡市
町の木 ヤマザクラ
町の花 ツバキ
幸田町役場
町長 大須賀一誠
所在地 444-0192
愛知県額田郡幸田町大字菱池字元林1-1
北緯34度51分52.2秒東経137度9分56.4秒
幸田町役場
外部リンク 幸田町ホームページ

幸田町位置図

― 政令指定都市 / ― 市 / ― 町 / ― 村

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幸田町(こうたちょう)は、愛知県の中南部に位置するである。額田郡を唯一構成する自治体。中部工業団地をはじめ多くの工業団地があり、自動車関連産業を中心に製造業が盛んである。

地理[編集]

愛知県の中南部に位置する。町の東部と南西部は丘陵が続き、中央部と北部は町名の由来となった広田川に沿って平野が広がっている。町の東部には遠望峰山(とぼねやま・標高441m)があるほか、南西部の西尾市(旧幡豆町)・蒲郡市との境界には三ヶ根山(標高325.7m)がある。東海道本線の西側、東海道新幹線の東側にあたる地域には、かつて菱池という湖沼があったが、近世以降の新田開発や明治時代干拓によって消滅した。

町内には、南北に国道248号、東西に国道23号が通っており、岡崎市や蒲郡市、西尾市などと結ばれている。鉄道では南北に東海道本線が通り、東西を東海道新幹線が通過する。市街地は、幸田駅周辺から北へかけてと、南西部の三ヶ根駅周辺に形成されている。このほかにも、町内各所に集落が見られる。

町内の大字[編集]

現在、町内には18の大字があるが、このうち上六栗・桐山・逆川・須美・永野・野場・六栗が旧幡豆郡豊坂村に属していた。

  • 芦谷(旧深溝村
  • 荻(旧深溝村)
  • 深溝(旧深溝村)
  • 北鷲田(旧相見村
  • 菱池(旧相見村)
  • 横落(旧相見村)
  • 大草(旧相見村)
  • 高力(旧相見村)
  • 坂崎(旧坂崎村
  • 長嶺(旧坂崎村)
  • 久保田(旧坂崎村)
  • 上六栗(旧豊坂村)
  • 桐山(旧豊坂村)
  • 逆川(旧豊坂村)
  • 野場(旧豊坂村)
  • 永野(旧豊坂村)
  • 須美(旧豊坂村、1975年一部が西尾市に編入)
  • 六栗(旧豊坂村)

地域[編集]

額田郡幸田町を構成する大字・行政区(2012年)

ケーブルテレビ三河湾ネットワークの事業エリアとなっている。インターネットは、アイタイネットワークのエリアである。

岡崎市にあるケーブルテレビ会社のミクスネットワークは、インターネット接続とデータ伝送サービスでのみ、町域の一部をサービスエリアとしている。

幸田町のナンバープレートは従来は「三河」ナンバーであったが、2006年10月10日より岡崎市とともにご当地ナンバーの「岡崎」ナンバーの導入対象地域となった。

人口[編集]

Demography23501.svg
幸田町と全国の年齢別人口分布(2005年) 幸田町の年齢・男女別人口分布(2005年)
紫色 ― 幸田町
緑色 ― 日本全国
青色 ― 男性
赤色 ― 女性
幸田町(に相当する地域)の人口の推移
1970年 20,456人
1975年 23,448人
1980年 26,163人
1985年 28,591人
1990年 31,004人
1995年 32,711人
2000年 33,408人
2005年 35,596人
2010年 37,930人
2015年 39,549人
総務省統計局 国勢調査より

歴史[編集]

原始・古代[編集]

丸山古墳

先土器時代の遺跡は町内にはないが、岡崎市美合町の五本松遺跡があることや西尾市上羽角町で有茎尖頭器が発掘されたことから、周辺では人間の活動があったと考えられている[1]。また、縄文時代の遺跡も発掘されていないが、石鏃石棒縄文土器貝塚などが発掘されている。その中心は町北東部で、西側は矢作川が入り込み菱池という湖沼があったと考えられている[2]弥生時代になると、菱池の岸辺と考えられる周辺や東部の内陸部で水田の跡が見られる。灌漑技術の進んでいなかった弥生時代初期に菱池周辺に湿田が作られ、技術の進展とともに高力や大草といった内陸に乾田が作られていったと考えられる[3]

古墳時代には、古墳が菱池を挟んで東西の丘陵や台地に分布していた。東側は、菱池の東部から町北東部の坂崎・大草といった周辺に集中し、町内で唯一の前方後円墳である青塚古墳がある。一方の西側は、菱池西部から西尾市羽角・野場などにかけて集中し、丸山古墳がある。このことから、菱池を挟んで2つの農業共同体があったと考えられる[4]。また、坂崎、大草、深溝、野場六栗、須美の5ヶ所で古墳時代後期に見られた群集墳の存在が確認されている[5]

律令制下、町域は三河国額田郡となった。『和名類聚抄』には、額田郡には7つのと1つの駅家があったと書かれているが、町内と比定できる所があるか詳しいことは分かっていない[6]。また、荘園の存在を裏付ける史料は見つかっていない[7]。そのなかで唯一確認できるものが、蘇美御厨・蘇美御薗である。これは律令制下で伊勢神宮を経済的に支えた新封戸のひとつで、町西部の須美にあたる[7]藤原宗忠の『中右記』によれば、角平御厨(現在の西尾市吉良町東部)の一部で、久安元年(1145年)に正式に認められ、南北朝時代の神宮領の記録では外宮領とされていたことが書かれている[8]

中世[編集]

建武3年(1336年)、吉良満義今川氏兼に三河須美保の政所職を与えた[9]。このことから、須美は少なくとも建武3年には武家領となっていたことが分かる。また、平安時代末期から鎌倉室町時代にかけて、町北東部の久保田を中心に17のが作られ、陶器が生産されていたが、室町時代に姿を消した[9]

戦国時代蓮如の布教により三河では浄土真宗に改宗する寺院が増えた。町内では、大草の広福寺、菱池の西光寺が天台宗から浄土真宗に改宗している[10]。また、三河三か寺のひとつである上宮寺の『如光弟子帳』には町内の上宮寺下の道場が4ヶ所記載されている。

寛正6年(1465年)、額田郡井口(岡崎市井ノ口町)で同郡南部の小領主が砦を築いて東海道の往来を妨害する事件が起きた。この額田郡牢人一揆には、大場・高力・芦谷といった町内の小領主も参加していた[11]。首謀者の中山中務入道父子と大場次郎左衛門らは、伊勢貞親被官だった松平信光戸田宗光に討伐された。松平信光はこれを機に三河の制圧を進め、一族に所領を与えた。町内では、信光の五男・光重を祖とする大草松平家と、五井松平家初代・忠景の二男・忠定を祖とする深溝松平家が生まれた。永禄6年(1563年)に起きた三河一向一揆では、大草松平家の昌久や六栗の夏目次郎左衛門ほか地侍が一揆方として参加する一方、家康方には深溝松平家の伊忠はじめ、天野康景平岩親吉高力清長などが付いた[12]。家康方の勝利により、大草松平家は大草の所領を没収された。

近世[編集]

慶長9年(1604年)に行われた検地によれば、町内は額田郡・幡豆郡宝飯郡にまたがっていたが、寛永19年(1642年)に宝飯郡域だった荻村が額田郡に編入された[13]。また、江戸時代初期に幡豆郡野崎村・上六栗村、額田郡西脇村・北鷲田村が成立した[14]天正18年(1590年)の徳川家康の関東移封後、吉田城主・池田輝政の家臣である日置忠俊が荻村・深溝村を支配し、残りの村々は岡崎城主の田中吉政が支配していたが、関ヶ原の戦い後に関東に所領を持っていた家康の家臣が再び三河へ転封した[15]。慶長期、六栗村・須美村が板倉重昌領で、荻村・逆川村が形原松平家松平家信領、永井村・野場村が岡崎藩領、残り10ヶ村が深溝松平家松平忠利領となった。慶長15年(1610年)に松平正綱が桐山村の領主となり、慶長17年(1612年)には松平忠利の吉田移封にともない10ヶ村が天領となるが、同年にはそのうち荻村が内藤佐七政俊の支配下となった[16]。慶長19年(1614年)に深溝村が板倉重昌、坂崎村が大久保忠教元和元年(1615年)に大草村が松平忠隆の領地となった。元和4年(1619年)に久保田村が、元和6年(1621年)に岩堀村・高力村・横落村が松平正綱領となり、同年には松平家信の高槻移封で逆川村と荻村が清直へ譲られた[17]

1624年寛永元年)、深溝村に深溝藩が立藩し、須美村と六栗村が加わった。寛永16年(1639年)に藩主・板倉重昌の領地の一部を重直が相続し、深溝に陣屋を置いて支配した[18]。また、1625年(寛永2年)に松平正綱が玉縄藩主となり、長嶺村と鷲田村が編入した。慶安元年(1648年)、藩主が信綱に代わると額田郡上地(現・岡崎市上地町)と幡豆郡小牧(現・西尾市吉良町小牧)に陣屋を置いてそれぞれの郡下の領地を支配した[19]

江戸時代、農作物は毎年のように被害に悩まされ、末期までに30ほどのため池が造成された[20]。また、などの製造も行われた[21]。このほか、平坂街道・深溝街道・浜街道などの街道が生まれ、交通が発達した[22]。町域の村々には藤川宿助郷が課せられていた[23]。菱池では、水運や漁業が行われていたが[24]、江戸時代以降に新田開発が進んだ[25]。この開発にともない、漁業は衰退していき[24]、唯一の排水路である広田川の能力低下などで周辺では水害が増えた[26]

近現代[編集]

明治維新後、町域は額田県下となったのちに愛知県下に入った。町域の村々では合併が進み、まず明治5年に開章村と久保田村が合併し、1875年(明治8年)に永井村と野崎村が永野村となり、岩堀村・西脇村・鷲田村が菱池村となった[27]。1888年に市制町村制が敷かれると、1889年に坂崎村・相見村・深溝村・豊国村・松坂村が誕生した[28]。ところが、1900年に義務教育期間が3年から4年に延長されたことや、日清日露戦争などの戦役で、各村の村費は3倍近くまで膨れ上がった。そこで、1905年に愛知県が訓令を出して合併の草案を提示、翌年に坂崎村・相見村・深溝村が広田村に、豊国村・松坂村が豊坂村となった[28]。1908年には、広田村に東海道本線の駅が設置された。しかし、広田駅がすでに存在していたため、村議会などは駅名を同音の幸田駅とし、村名も改称することを決定[29]。1909年、広田村から幸田村に改称した。

1882年、乙川が決壊する大水害が発生した。これを機に、県内でも屈指の水害地だった現在の岡崎市南部から幸田町北部にかけての水害軽減のため、相見川が造成された[30]。工事は、同年10月に着工、1883年10月に竣工式が行われた[31]。近世以降の新田開発により水害に悩まされていた菱池でも、1883年に愛知県が広田川改修に着手し、菱池の干拓を行って50町歩余の土地を造成した[32]。土地は神野金之助が払い下げを受けて1886年まで開墾を行い、内藤氏に払い下げてから農民の手に渡った[32]。また、1922年(大正11年)の矢作古川改修を契機に広田川改修が再び議論され、1928年(昭和3年)から1933年にかけて改修が行われた。

戦後、1950年(昭和25年)ごろから市制・町制施行の動きが活発になり、岡崎市でも額田郡内の町村との合併の話が持ち上がった[33]。そこで、幸田村では近隣市への併合時に大字単位で分割されないように町制を敷こうという機運が高まった[34]。当時、額田郡内では福岡町岩津町についで人口が多くなっていたこともあり、1951年8月9日の村議会で1日も早い町制施行が確認された[35]。同年12月17日の村議会で町制施行が全会一致で採択、1952年1月12日に額田郡幸田村町制施行申請書が愛知県知事に手渡され、3月30日に受理された[35]。また、1953年の町村合併促進法により西隣の幡豆郡豊坂村との合併が議論され、1954年6月2日の合併案が両町村議会に上程されて満場一致で可決した[36]。7月1日に告示され、8月1日に新設合併を行い新制幸田町が誕生した。この時、町名を「こうだ」から「こうた」に改めたが、駅名は改称せず、現在も「こうだ」のままとなっている。

1964年、東海道新幹線が町内に敷かれた。新幹線は幸田駅付近で東海道本線と立体交差しており、建設当時から国鉄に対して駅設置の陳情を行なっていた。後に東海道新幹線新設期成同盟会およびその前身に当たる新幹線国定公園三河駅新設期成同盟会による豊橋 - 名古屋間の新幹線停車駅誘致運動でも幸田は候補にあがったが、線路勾配のきつさなどの地理的条件の悪さ、豊橋寄りであることから選定されず、駅は1988年に安城市三河安城駅として設置された。

いわゆる平成の大合併の時期に、岡崎市との合併協議が行われたが物別れに終わり、2006年に額田町が岡崎市と合併したため、現在額田郡は幸田町一町のみとなっている。2016年1月より、アイサンテクノロジーと名古屋大学が共同で自動運転車のために町内全域の3D地図の制作を開始し[37]、6月22日には住民約20人を乗せた自動運転車の乗車体験会が開催された[38]

沿革[編集]

  • 1906年5月1日 - 額田郡坂崎村相見村深溝村が合併、額田郡広田村(こうだむら)設置。
  • 1906年5月1日 - 幡豆郡豊国村、松坂村が合併、幡豆郡豊坂村設置。
  • 1909年7月28日 - 東海道本線幸田駅に合わせ、幸田村に改称。
  • 1952年4月1日 - 町制施行、額田郡幸田町(こうちょう)となる。
  • 1954年8月1日 - 幡豆郡豊坂村と合併、額田郡幸田町(こうちょう)となる。
  • 1959年7月14日 - 町章制定。
  • 1967年3月20日 - 東海道本線三ヶ根駅開業。
  • 1972年4月1日 - 愛知県立幸田高等学校開校。
  • 1972年8月1日 - 岡崎額田地区広域市町村圏設定。
  • 1976年9月10日 - 幸田町消防本部消防署発足。
  • 1982年1月14日 - 町民憲章制定。
  • 1985年11月3日 - 幸田町役場新庁舎竣工。
  • 1995年12月26日 - 幸田の三河萬歳が国の重要無形民俗文化財に指定される。
  • 1996年1月5日 - 幸田町立図書館開館。
  • 2002年4月1日 - 桜坂区を新設、行政区が23となる。
明治22年以前 明治22年10月1日 明治23年 - 明治45年 大正1年 - 大正15年 昭和1年 - 昭和64年 平成1年 - 現在 現在


坂崎村 坂崎村 明治39年5月1日
合併 広田村
明治41年7月28日
改称 幸田村
幸田村 昭和27年4月1日
町制 幸田町
昭和29年8月1日
合併 額田郡幸田町
(読みを 「こうだ
 → 「こうた」 に変更)
幸田町 幸田町
深構村 深溝村
大草村 相見村
北鷲田村
鷲田村 菱池村
岩堀村
西脇村
横落村
高力村


桐山村 豊国村 明治39年5月1日
合併 豊坂村
豊坂村 豊坂村
逆川村
上六栗村
六栗村 松坂村
永井村 永野村
野崎村
須美村
野場村

政治[編集]

町政[編集]

町長は、2010年の町長選挙で初当選した大須賀一誠が務める。

町議会は16議席あり、日本共産党が2議席、公明党が1議席を持っている。このほか、デンソー労組が1議席を確保している。

財政[編集]

工業団地の誘致等により安定した財源を確保できたことから財政は豊かで、2009年度の財政力指数は1.47だった。また、経常収支比率(2009年度)は71.6%と高い水準にある。

歳入が歳出を上回る黒字決算が続いているものの、2009年度の実質公債費比率(3ヶ月平均)は11.4と高くなっている。

行政機関[編集]

警察

岡崎警察署の管轄となっている。町内には幸田交番と坂崎、深溝、野場の駐在所がある。

消防

幸田町消防本部が組織されている。

保健所

愛知県西尾保健所の管轄となっている。もとは岡崎保健所の管轄であったが岡崎市中核市移行に伴い、西尾保健所に移管された。

斎場

蒲郡市斎場(蒲郡市)を蒲郡市と共同で運営している。

岡崎額田広域行政圏に所属し、主に岡崎市と広域行政を行っているが、一部の事業(斎場)は蒲郡市と行っている。

経済[編集]

自動車工業を中心に製造業が盛んで、製造品出荷額等は1兆3538億3815万円(2005年)である。

農業では特産品の筆柿やハウス栽培のイチゴが有名で、筆柿は全国の生産量の95%を幸田町が占めている。

工業[編集]

1934年(昭和9年)、愛知紡績の工場が置かれた。工場は1936年(昭和11年)に呉羽紡績となるが、1942年(昭和17年)には大日本兵器に買収され、豊川海軍工廠から受注した海軍航空機用の機関銃を製造した[39]。戦後、大日本兵器は日平産業となるが、工場がほとんど無傷だったことから、岐阜工場の代替工場を探していた三菱化成工業(現・三菱レイヨン)の目に留まり、1946年(昭和21年)から復元工事を順次開始し、同年10月に8,000錘で操業を始めた[40]。三菱レイヨンに改称した1952年(昭和27年)には8万錘にまでなった[41]

1959年(昭和34年)、「工場建設奨励に関する条例」が施行され、1970年(昭和45年)までの期限で工場誘致が図られた。しかし、1968年(昭和43年)頃まで進出してくるのは三菱レイヨンの系列会社ばかりだった[42]。同時期、愛知県企業局が内陸工業団地形成など第三次建設計画を構想し、国道248号バイパスが整備されていた幸田町に工業団地が置かれることとなった[43]。1968年3月、愛知県内陸工業団地幸田地区(駅西工業団地)が整備され、1969年(昭和44年)の千代田カートンを皮切りに4社が操業した。また、同年9月に坂崎地区も整備され、ソニー幸田(現・ソニーグローバルマニュファクチャリング&オペレーションズ幸田サイト)など3社が操業を開始した[44]。さらに1986年(昭和61年)、中部工業団地の造成が完了し、1987年(昭和62年)に日本電装(現・デンソー)幸田製作所が置かれた。また、1991年(平成3年)には、長嶺工業団地が造成された。一方で、三菱レイヨンは1998年(平成10年)に操業を停止した[45]

商業[編集]

主な企業[編集]

姉妹都市・提携都市[編集]

海外[編集]

姉妹州
フレンドシップ相手国

2005年に開催された愛知万博で、愛知県内の市町村(名古屋市を除く。)が120の万博公式参加国をそれぞれ「一市町村一国フレンドシップ事業」としてフレンドシップ相手国として迎え入れた。[46]

教育[編集]

高等学校[編集]

県立

中学校[編集]

町立
  • 幸田町立幸田中学校
  • 幸田町立南部中学校
  • 幸田町立北部中学校

小学校[編集]

町立
  • 幸田町立坂崎小学校
  • 幸田町立幸田小学校
  • 幸田町立中央小学校
  • 幸田町立荻谷小学校
  • 幸田町立深溝小学校
  • 幸田町立豊坂小学校

交通[編集]

鉄道[編集]

JR東海道本線が町を南北に縦断し、町内には3ヶ所のがある。幸田駅が町の中心駅となっており、一部の快速新快速特別快速列車が停車する。町北部では、より発着本数の多い岡崎駅を利用する住民が多い。

JR logo (central).svg東海旅客鉄道(JR東海)

路線バス[編集]

名鉄バスが、幸田駅・相見駅と岡崎駅前・東岡崎駅を結ぶ路線バスを運行していたが、2014年9月で廃止になった。このほか、ソニーグローバルマニュファクチャリング&オペレーションズ幸田サイトと岡崎駅前・東岡崎駅を結ぶ路線が朝夕に運行されている。また、幸田町営によるコミュニティバス「えこたんバス」が運行されており、無料で利用することができる。

コミュニティバス
  • えこたんバス

道路[編集]

町の南北を4車線の国道248号が貫いている。このほか、国道23号名豊道路)が、国道248号との交点にあたる幸田芦谷ICから西(名古屋四日市方面)が岡崎バイパス、東(豊橋浜松方面)が蒲郡バイパスとして開通済み。

また、デンソー 幸田製作所や西尾製作所などの周辺道路は朝の通勤ラッシュ時に渋滞が起こりやすい。

一般国道
Japanese National Route Sign 0023.svg国道23号
Japanese National Route Sign 0248.svg国道248号
主要地方道
一般県道
広域農道
  • 幡岡線

道の駅[編集]

名所・旧跡・観光スポット[編集]

名所・旧跡[編集]

城郭
寺院
神社
古墳
  • 青塚古墳

観光スポット[編集]

公園
その他

祭事・催事[編集]

こうた凧揚げまつり(2016年)
  • こうた凧揚げまつり
  • 彦左まつり
    • 徳川家康に仕えた天下のご意見番、戦国武将大久保忠教(彦左衛門)を幸田町ゆかりの人物として掲げ、毎年7月末に「彦左まつり」と呼ばれる歩行者天国の祭りを開催している。歩行者天国を町内6学区の小学生や町民、企業の社員らが大久保彦左衛門や一心太助に扮して練り歩く時代行列がメイン行事。子供彦左行列と大人彦左行列(町会・企業)がある。たらいに乗った彦左役と女性扮する一心太助役が人気。7月第4土曜日の涼しくなる夕方から行われる。
  • こうた夏まつり
  • 産業まつり

出身有名人[編集]

参考文献[編集]

  • 幸田町史編纂委員会『幸田町史』 幸田町、1974年。

脚注[編集]

  1. ^ 幸田町史 63頁
  2. ^ 幸田町史 65頁
  3. ^ 幸田町史 68頁
  4. ^ 幸田町史 73頁
  5. ^ 幸田町史 81頁
  6. ^ 幸田町史 90頁
  7. ^ a b 幸田町史 94頁
  8. ^ 幸田町史 95頁
  9. ^ a b 幸田町史 104頁
  10. ^ 幸田町史 114頁
  11. ^ 幸田町史 123頁
  12. ^ 幸田町史 134頁
  13. ^ 幸田町史 147頁
  14. ^ 幸田町史 148頁
  15. ^ 幸田町史 157頁
  16. ^ 幸田町史 159頁
  17. ^ 幸田町史 159頁
  18. ^ 幸田町史 161頁
  19. ^ 幸田町史 162頁
  20. ^ 幸田町史 245頁
  21. ^ 幸田町史 248頁
  22. ^ 幸田町史 251頁
  23. ^ 幸田町史 255頁
  24. ^ a b 幸田町史 254頁
  25. ^ 幸田町史 288頁
  26. ^ 幸田町史 317頁
  27. ^ 幸田町史 328頁
  28. ^ a b 幸田町史 329頁
  29. ^ 地域史深溝 301頁
  30. ^ 幸田町史 831頁
  31. ^ 幸田町史 832頁
  32. ^ a b 幸田町史 383頁
  33. ^ 幸田町史 511頁
  34. ^ 幸田町史 512頁
  35. ^ a b 幸田町史 513頁
  36. ^ 幸田町史 515頁
  37. ^ "自動運転「町まるごと」実験 愛知・幸田町 1月 3D地図化 4月以降 住民乗せ検証"中日新聞2015年12月30日付朝刊、10版1ページ
  38. ^ 自動運転、愛知県内で住民が体験 アイサンテクノロジーが試乗会”. 日本経済新聞 (2016年6月23日). 2016年7月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年7月14日閲覧。
  39. ^ 幸田町史 517頁
  40. ^ 幸田町史 519頁
  41. ^ 幸田町史 520頁
  42. ^ 幸田町史 585頁
  43. ^ 幸田町史 586頁
  44. ^ 幸田町史 587頁
  45. ^ 「中日新聞」 2000年5月18日朝刊、西三河版西三河 20頁
  46. ^ 「あいちフレンドシップ交流アルバム」(あいちフレンドシップ交流アルバム)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]