園部城

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園部城・園部陣屋
京都府
巽櫓
巽櫓
別名 薗部城、園部陣屋
城郭構造 平山城
天守構造 なし(小麦山頂には三層の小麦山櫓が建っていた)
築城主 小出吉親
築城年 元和5年(1619年
主な改修者 小出英尚
主な城主 小出氏
廃城年 明治5年(1872年
遺構 石垣、堀、巽櫓、櫓門、番所、
太鼓櫓
指定文化財 京都府指定文化財
再建造物 なし
位置 北緯35度6分18.35秒
東経135度28分10.26秒

園部城(そのべじょう)・園部陣屋(そのべじんや)は京都府南丹市園部町小桜町周辺にあった陣屋または日本の城である。園部城が日本の城郭史で最後の建築物となる。

概要[編集]

小麦山(子向山)標高173.8mの東麓にある台地に築かれ、北側には園部川、西側に半田川を天然の堀として利用し、南側と東側に堀を巡らせ、もっとも外側の低地には延々2kmに渡り外堀を構え守りを固めた。主要部分は京都府立園部高等学校にあった。中世園部城と近世園部城と2つに時代に別けられる。しかし、中世園部城に関しては信憑性について疑問符も提示されている。天守閣はなかったので園部陣屋と呼ばれていたが、小麦山には慶応4年(1868年)建築の三層の小麦山が建っていた。

沿革[編集]

中世園部城[編集]

近世園部城以前に中世園部城があったと推定されている。

四月十日、滝川、惟任、惟住両三人丹波へ差遣され、御敵城荒木山城居城取巻き、水の手を止、攻められ、迷惑致し降参申し退散、去て惟任日向守人数入置き

—信長公記

と『信長公記』に記されている。これによると天正6年(1577年)4月10日明智光秀滝川一益丹羽長秀丹波国制圧戦で、荒木氏綱が籠る城を囲み水の手を切りこれを降し、自分の兵を置いて帰陣したとある。

信長公記には荒木氏綱の城が園部城との記載がないが、『籾井家日記』には波多野氏の家臣団のひとりに荒木氏綱という名前が見れ、「園部城」を任されたと記されている。しかし、『籾井家日記』には史料的信憑性に問題があるとされている。『図説・園部の歴史』によると、荒木氏綱の居城は中世園部城ではなく篠山市にある細工所城を指し、背後の山には明智軍が大砲を撃ったと伝わる鉄砲丸や、籠城戦にまつわる伝承が伝わっており、信長公記が指摘している荒木氏綱が籠る城というのは細工所城かその周辺の城ではないかとしている。園部城が荒木氏綱の居城という『籾井家日記』以外の史料はない。また絵図に「古城」を含みこんでいる場合が多いが、そのような事例も見受けられない。以上の点から『図説・園部の歴史』では「荒木山城守居城が園部城であるというのは、『籾井家日記』の記載を根底においた幻といえるだろう」と結論付けている。

小出吉親像/徳雲寺蔵

近世園部城[編集]

但馬国出石城より移封された外様大名小出吉親が、元和5年(1619年)に国替によって移封し、船井郡桑田郡何鹿郡そして上野国甘楽郡の約3万を所有する園部藩が誕生し、小出吉親が初代藩主となった。移封した直後は宍人城を拠点としたようである。宍人城の城主であった小畠太郎兵衛と小出吉親は京都所司代であった板倉勝重より紹介されていた。宍人城周辺に居館を築城したようであったが、この計画は変更され小麦山周辺を居館化した。なぜ宍人城から園部城に拠点が変更になったのか明確な史料はないが、『園部藩のあゆみ』によると「水運と交通の利便を考慮したものだったかもしれません」と推測している。小麦山の普請が始まると、山麓における「御屋敷」築城に際して園部村周辺の住民は土地交換を行った。土豪農民ら地域住民が協力した点が園部陣屋築城の特徴になる。小出吉親は宍人城1619年(元和5年)-元和7年(1621年)11月まで過ごし、城の完成をまって入城した。徳川幕府より城と名称する事を許されなかったが、小麦山の南東丘陵に方形居館、武家屋敷を構え、城下町がありその周囲には外郭線を築いた本格的な城、惣構えとなっていた。小出吉親を影で支えていた小畠太郎兵衛は宍人城に在住し続けたが、1626年(寛永3年)に260石で召出され園部城に移った。

小麦山には生身天満宮があったが、城から見下ろすのは畏れ多いとして、築城から三十数年後の承応2年(1653年)9月4日、東南へ約500m山麓に遷している。生身天満宮は菅原道真が在世中から祀られている全国にただ一つしかない神社として知られている。

小出英尚像/個人蔵

藩主の小出氏は外様大名ながら、2人の幕閣に輩出している。これは初祖小出吉親の青年期に徳川家康旗本でもあった為でもある。その後10代藩主小出英尚の時に幕末を迎えるまで、250余年にわたり一度も国替えはなかった。

10代にわたる歴代城主は、下記テンプレートの「小出氏園部藩初代藩主 (1619-1667)」も参照。

幕末の変動期に最後の藩主小出英尚は、入京して孝明天皇皇后九条夙子御殿准后殿を守護し、京都見廻役として京都の警固にあたっていた。

園部陣屋修築願絵図/個人蔵

池田屋事件禁門の変などの武力衝突が相次いで起こり、警備を厳重にする、園部は京から近く万が一の時には要街地ともなるなど、徳川幕府へ京都所司代松平定敬から老中へ進達したが改修は認められなかった。しかし、引き続き交渉を行い、慶応3年(1867年)10月に内諾を得る事が出来たが、大政奉還が行われた為正式な許可が出ず、[慶応4年(1868年)1月明治政府に願い出たところ、「帝都御守衛」の為として認められた。

このたび叡慮を以て御守衛のため、園部城地御成功仰せ蒙りなされ有り難き思召に候

—園部藩の廻状 慶応四年正月二十八日付

とある。これによると、園部藩の村役人寺院は御嘉詞の為に寺社奉行月番へ出頭するようにという廻状が出ている。慶応4年(1868年)1月28日頃から普請が始まり、明治2年(1869年)8月28日上棟式が挙行された。櫓門が3ヵ所、巽櫓や小麦山の三層櫓などの櫓が5ヵ所、堀も造成して園部陣屋は園部城に生まれ変わった。

明治4年(1871年)7月廃藩置県が断行され園部藩は廃止され園部県となり、園部城はそのまま園部県庁が置かれた。しかし園部県はすぐに廃止され京都府園部支庁となり、1872年(明治5年)に、現在まで残る建物以外は官有地や民間に払い下げ、政治機能としては役割を終えた。城の中心地は小学校となったが現在は京都府立園部高等学校の敷地となり、隅櫓や櫓門など一部の建物が現存する。

城郭[編集]

園部城と周辺地域の空中写真/国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成

園部陣屋時代[編集]

近世園部城の当初は、徳川幕府に絵図を提出しながら進められていたようで、櫓を築造するようだったが、二重の堀や狭間を設けたもあるという事で、櫓の建設は見送られた。徳川幕府の制度上では陣屋という扱いになるが、規模としては惣構えで、南北約650m、東西約450mもあり、城と呼べる規模であった。

園部城にも城下町があった。1619年(元和5年)の園部陣屋と共に町場を整備した。町場の用地拡大と陣屋の防御的な効果も得るために、現在の国道9号沿いを東流していた園部川を北側に湾曲される工事を行ったとされる。名残として小出吉親の名にちなんで「意閑堤」という名称が残っている。普請した城下町は6で、陣屋の北側と南側に位置している。北側には「宮町」、「上本町」、「下本町」、「新町」、「裏町」があり、南側には「大村町」が広がり、当初の町家数は430軒あまりであった。町の両端になる園部大橋詰と新町詰には、それぞれ番小屋を設け城下への出入り口をチェックしていた。

園部大橋付近には「運上」と呼ばれる、園部川舟運の拠点があったようである。また、東之辻より東の道筋にある本町は、参勤交代大名や幕府役人等の休暇施設となっている本陣脇本陣が置かれ城下町の中心地であった。本町の北側には裏町があり、その北側には馬場倉庫群があった。城下町にはいくつかの寺院があり、その配置を見ると町場へ向かう道沿いにあることや、枡形と隣接していることから、ある程度の防御機能を考えての寺町の配置であると推察されている。

櫓門/大正期に撮影
櫓門

園部城時代[編集]

西部の小麦山の山頂には三層の小麦山櫓が建っていた。計画時には櫓門を3ヵ所と本丸の4ヵ所を含む9ヵ所の櫓が建設予定であったが、最終的には櫓門3ヵ所と本丸の巽櫓、太鼓櫓、巣鴨櫓、乾櫓の4ヵ所と小麦山櫓を含む計5ヵ所の櫓が建てられた。現存しているのは、巽櫓、城門の櫓門(高校の校門)、番所、太鼓櫓(八木町安楽寺に移築)や、石垣の一部や堀も埋め戻され幅も狭くなった部分もあるのがその痕跡をとどめている。外堀は小麦山を囲んで2kmもあった。

園部城の本丸は南北に長く、長方形に多くの屈曲をつけた形状であった。1869年(明治2年)に新築完成した日本の城郭史の中で最期の建築物となる。二重櫓、番所、櫓門、付属の土壁は一直線上に並び現存している。二重櫓は、本丸の南東にあり、南東を表す櫓と呼ばれている。本丸には4つの二重櫓が建っていたが巽櫓が最大の櫓で園部城の象徴でもあった。巽櫓以外の櫓や城門は1872年(明治5年)入札によって払下げたのちに、破却もしくは城外に移築している。

巽櫓の内部は半武者走りが四周に取り、その内側が1室となっている。巽櫓のような中規模の櫓で武者走りを持つような例は少なく、立派な造りになっている。巽櫓は、1階の東と南面に大きな出窓を設けている。巽櫓のような中規模の櫓は一間ほどが普通で、出窓は大き過ぎると言える。櫓の出窓は軍事的に重要な設備で、出窓の側面に狭間を設けて城壁に近づく敵兵に横矢を加える。また出窓は下方の石垣に張り出す仕組みとなっていて、櫓の直下に近づいた敵に対して石落としで撃退する。しかし巽櫓は、石垣上に十分張り出しておらず、単なる飾りにしかならない。また巽櫓は軒の出が長いことも特徴である。城郭らしくなく寺社建築のようでもある。また櫓門も城郭としては変わった特徴がある。二階のが頭をぶつけるほど低く、鉄砲を自由に扱えず、格子の下の壁も低すぎて敵からの銃弾も防げない。これ以外にも変わった特徴として、正方形の大型の狭間が正面の格子窓の両脇、側面、背面にも設けられている。これは窓としては小さく格子も無い、鉄砲狭間としては大きく、大砲を撃つ特別な狭間のようにも見える。また一般的な櫓門に比べて整った外観になっている。巽櫓や城門は城郭としては変わった特徴が数多くみられ、城の建築物でありながら寺社的な建築様式がみられる。この建築に携わった大工やそれを指導した園部藩が城郭に十分な心得が無かったものと思われている。

巽櫓
櫓門と番所
園部城の石標

小麦山[編集]

小麦山櫓跡地
小麦山の竪堀跡
園部忠魂碑

古絵図[編集]

丹波国園部絵図/個人蔵
園部旧城見取図(部分)/京都府立総合資料館蔵
園部城略図/南丹市文化博物館蔵
園部公園平面図/個人蔵

城跡へのアクセス[編集]

南丹市国際交流会館(城内)

参考文献[編集]

  • 創史社『日本城郭大系』第11巻 京都・滋賀・福井、新人物往来社、1980年9月、114-115頁。
  • 南丹市文化博物館『園部藩のあゆみ』南丹市文化博物館、2008年10月、3-55頁。
  • 園部町・園部町教育委員会『図説・園部の歴史』園部町・園部町教育委員会、2005年12月、108-171頁。
  • 碧水社『復元体系 日本の城』5近畿、ぎょうせい、1992年5月、150頁。
  • 西ヶ谷恭弘、公武敏郎編著『城郭みどころ事典』西国編、東京堂出版、2003年9月、74-75頁。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]