荒木氏綱
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
官位 | 山城守 |
主君 | 波多野秀治 |
氏族 | 荒木氏 |
父母 | 父:荒木氏義[注釈 1] |
子 | 氏清、高兼 |
荒木 氏綱(あらき うじつな)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。波多野氏の家臣。丹波国多紀郡荒木城主。
生涯[編集]
丹波に影響力のあった波多野氏の家臣として仕えた。天正6年(1578年)4月、明智光秀・滝川一益に居城を攻められ降伏した(『信長公記』)[2]。光秀は氏綱の武勇を認めて家臣として仕えるよう要請したが、氏綱は病身を理由に断り、代わりに嫡男・氏清[注釈 2]を出仕させている。
死亡時期については諸説あり、天正10年(1582年)の本能寺の変に際し、明智方に属し瀬田で息子らと共に戦死したとする説(『武家事紀』)[2][注釈 3]や、同じく本能寺の変ののち、坂本城に籠城していたが明智秀満の計らいで脱出したという説(『新撰豊臣実録』)[2]など、天正10年(1582年)以降も生存していた可能性もあるが、正確な没年は不詳である。いずれも子の氏清との混同の可能性もある。
子孫は陸奥国三春藩に仕え、婚姻関係により藩主である秋田氏の一門扱いを受けた。玄孫で秋田藩重臣の荒木高村の嫡男は、藩主の秋田輝季の養子となり三春藩4代藩主秋田頼季となった。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ a b 『寛政重脩諸家譜 第5輯』 國民圖書、1923年、381、387頁 。
- ^ a b c 谷口克広 『織田信長家臣人名辞典』(第2版) 吉川弘文館、2010年、31頁。ISBN 978-4-642-01457-1。
参考文献[編集]
- 城郭談話会編 「荒木城」 『図解近畿の城郭Ⅲ』 戎光祥出版、2016年、422-425頁。ISBN 978-4-86403-193-6。