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下甑島

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下甑島
所在地 日本鹿児島県
所在海域 東シナ海
所属諸島 甑島列島
座標 北緯31度43分21.9秒
東経129度44分21.3秒
座標: 北緯31度43分21.9秒 東経129度44分21.3秒
面積 66.12 km²
海岸線長 84.8 km
最高標高 604 m
最高峰 尾岳(地図
Project.svgプロジェクト 地形
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甑島列島と本土、一番南(3)が下甑島
ナポレオン岩

下甑島(しもこしきじま)は、東シナ海甑島列島南部にある離島鹿児島県薩摩川内市に属する。「甑島」の名は中甑島北部にある「甑」(蒸籠)の形をした巨石を甑大明神として崇拝したことに由来し、かつては子敷島、古志岐島とも書いた[1][2]

地理[編集]

甑島列島は鹿児島県いちき串木野市の沖合約45kmにある離島であり、その南部にあるのが下甑島である。面積は66.12km2であり、2010年(平成22年)の国勢調査による人口は2,780人である。面積は奄美大島屋久島種子島徳之島沖永良部島長島加計呂麻島に次いで鹿児島県の離島中第8位であり、山手線の内側とほぼ等しい。最高標高地点は604mの尾岳[3]であり、尾岳の尾根には航空自衛隊下甑島分屯基地がある。第9警戒隊の警戒管制レーダーが設置されているが、2009年(平成21年)3月に大陸間弾道弾も追尾可能な最新鋭の警戒管制レーダー(J/FPS-5)への更新工事が完了した。

全体的に山肌が海にせまり、沖積平野の発達が極めて少ない[4]。地形は上甑島や中甑島に比べて険しく、400-500m台の山地が卓越し、特に西岸には切り立った断崖が点在する。甑島列島の平均気温は18.5度と温暖であり、本土の同緯度地域(阿久根市)よりもやや気温が高い[5]。夏・秋には台風、冬には季節風の影響を強く受け[6]、台風の影響は列島の西海岸よりも東海岸のほうが著しい[5]。降水量は年2,500mmほどであり、本土(鹿児島市)よりもやや多い[5]

大字[注 1]

小島・岩礁[編集]

国土地理院地図(抄)。陸繋した浜辺や海礁上の小岩、無名の岩を除く。

  • 津口鼻、長瀬 (おさんせ)、下長、鋤の塚 - 島の南側沖。
  • 野崎、二つ張、早崎、鈴崎、飛瀬 - 南西側沖。
  • 立髮、大カブ瀬、貝水、立崎、鷹の巣、チュウ瀬 (ナポレオン岩)、由良島 - 西側沖。
  • 西崎、浮水浦、池屋崎、藺落浦、ヘタノ瀬上、平瀬崎、熊ヶ瀬鼻 - 島の北端部沖。
  • ミタレ、にごりが浦、水の下、立平瀬、長生鼻、神場、トガリ瀬、曲瀬 - 東側沖。

歴史[編集]

甑島列島には約8000万年前の白亜紀の地層が残っている。下甑島では2013年に日本国内では初めてケラトプス類の化石が発見され、アジアを見渡しても貴重な発見とされている[7]。恐竜の化石が発見されたのは鹿児島県で初めてであり、藺牟田にある地層からは翼竜ワニなど爬虫類の化石も発見されている[8]手打遺跡、片野浦遺跡からは弥生土器土師器須恵器などが出土している[9]

奈良時代には薩摩隼人族の一根拠地(甑島隼人)だったと推測される[1][10]平安時代初期に編纂された『続日本紀』には遣唐使船が甑島に停泊したことが記され、中期に編纂された『和名抄』には「甑島郡管管」、「甑島」という名前が登場する[10]。甑島列島の各地に平家の落人伝説が残っている[10]鎌倉時代中期から370年間、13代に渡って小川氏が統治を行ない[11][12]、この時代から行政単位が上下(上甑島・中甑島、下甑島)ふたつに区分された[10]。1595年(文禄4年)、小川氏は本土の日置郡田布施(現南さつま市)に移封されて甑島の統治から離れた[13]

江戸時代には島津藩の直轄地となって地頭(領主)が派遣され、下甑島では手打に地頭仮屋が置かれた[11]。藩政時代には東岸の金山海岸で銅・金・銀などの採掘が行なわれた[14]。甑島列島は天草諸島長崎と同じくキリシタン文化を受け入れた場所のひとつであり、1638年(寛永15年)には甑島列島に潜んでいた島原の乱の残党35人が処刑されて殉教した[15]。1780年代の天明の大飢饉の際には、下甑島の百姓が出水(現在の出水市)に、郷士が串良(現在の鹿屋市串良地域)に集団移住した[16]。江戸時代には薩摩藩が浄土真宗を禁じたため、1835年(天保6年)には長浜村が焼き払われるという「天保の法難」が、1862年(文久2年)には下甑島全島の住民が取り調べられるという「文久の法難」が起こった[16]。1871年(明治4年)には鹿児島県に所属[2]。1889年(明治22年)に町村制が施行されると6村が合併して甑島郡下甑村(しもこしきそん)となったが、1949年(昭和24年)には地理的に隔てられた藺牟田が分離して単独で鹿島村(かしまむら)となった[16]。下甑島の最高峰である尾岳北側にある分水嶺が2村の行政界となっている[17]。明治10年代には台風・飢饉・悪疫流行などがあり、下甑島からは395戸1732人が種子島に集団移住した[16]。1896年(明治29年)には甑島郡が薩摩郡に編入。1901年(明治34年)には本土からの海底電信が到達し、九州商船によって串木野航路が開かれた[18]

鹿島村は下甑島の北側1/3を占め、大字藺牟田が単独で村を構成。下甑村は下甑島の南側2/3を占め、手打片野浦瀬々野浦青瀬長浜などの集落に人家が分散していた。1951年(昭和26年)に九州を襲ったルース台風では甑島列島も大きな被害を受けた[19]。甑島列島の4自治体はいずれも薩摩郡に属していたが、2004年(平成16年)に本土の川内市ほか4町と新設合併し、薩摩川内市となった。市町村合併時に甑島にある大字は「従前の村名を町名とし、従前の大字名に冠したものをもって大字とする」としたため、大字名がそれぞれ改称され、薩摩郡下甑村大字手打が薩摩川内市下甑町手打、薩摩郡鹿島村大字藺牟田が薩摩川内市鹿島町藺牟田などという表記をされている[20][11]

行政区画の変遷[編集]

明治22年以前 明治22年 明治23年-明治45年 大正1年-大正15年 昭和1年-昭和64年 平成1年-現在
薩摩郡[注 2] 藺牟田村 明治22年合併
下甑村
下甑村 下甑村 昭和24年
鹿島村
平成16年川内市ほかと合併
薩摩川内市
手打村 昭和24年
下甑村
片野浦村
瀬々野浦村
青瀬村
長浜村

人口数の変遷[編集]

出典 : 国勢調査
R10.png下甑地域 Azul.png鹿島地域
1920年(大正9年) R100.pngR100.pngR10.pngR10.pngR10.png 計11,535人(下甑村11,535人)
1930年(昭和5年) R100.pngR100.pngR10.pngR10.pngR10.pngR10.pngR05.pngR01.pngR01.png 計12,383人(下甑村12,383人)
1940年(昭和15年) R100.pngR100.pngR10.pngR10.pngR10.pngR05.pngR01.png 計11,834人(下甑村11,834人)
1950年(昭和25年) R100.pngR100.pngR10.pngB50 (1).pngB50 (1).png 計13,578人(下甑村10,546人、鹿島村3,032人 ※1949年に分離独立)
1960年(昭和35年) R100.pngR50.pngR10.pngR01.pngR01.pngR01.pngR01.pngB50 (1).pngB05.pngB01 (1).png 計11,048人下甑村8,237人、鹿島村2,811人
1970年(昭和45年) R50.pngR10.pngR10.pngR10.pngR10.pngR05.pngR01.pngR01.pngAzul.pngAzul.pngB05.png 計6,141人下甑村4,864人、鹿島村1,277人
1980年(昭和55年) R50.pngR10.pngR10.pngR05.pngAzul.pngAzul.png 計4,780人下甑村3,752人、鹿島村1,028人
1990年(平成2年) R50.pngR10.pngR01.pngR01.pngR01.pngR01.pngAzul.pngAzul.png 計4,280人下甑村3,247人、鹿島村1,033人
2000年(平成12年) R50.pngR05.pngR01.pngAzul.pngB05.pngB01 (1).pngB01 (1).png 計3,695人下甑村2,803人、鹿島村892人
2010年(平成22年) R10.pngR10.pngR10.pngR10.pngR05.pngB05.pngB01 (1).pngB01 (1).pngB01 (1).pngB01 (1).png 計2,780人下甑地域2,289人、鹿島地域491人

交通[編集]

フェリーニューこしき

島外交通[編集]

本土から甑島列島までの主要な交通手段は、甑島商船いちき串木野市串木野新港から運航している高速船とフェリーである。「高速船シーホーク」と「フェリーニューこしき」は、一日あたりそれぞれ往復2便が運航されている。いずれも本土側の起点は串木野新港であり、列島側の終点は下甑島の長浜港であるが、便によって立ち寄り先が異なり、下甑島の鹿島港などに立ち寄る場合がある。老朽化した「高速船シーホーク」の代替船として「高速船甑島」が2014年(平成26年)春に就航した[21]新幹線800系電車「つばめ」など、九州地方の輸送機関のデザインを数多く手掛けている水戸岡鋭治がデザインを担当した[21]。「フェリーニューこしき」はこれまで通り串木野新港を発着するが、高速船の本土側発着所は甑島列島が属する薩摩川内市川内港に移設され

島内交通[編集]

下甑島では南国交通によって「甑かのこゆりバス」(鹿島・下甑地域コミュニティバス)という名称の定期路線バス(薩摩川内市甑島コミュニティバス)が運行されている[6]。甑かのこゆりバスは手打・長浜線、手打・片野浦線、長浜・瀬々野浦線、長浜・鹿島線の4路線に分かれており、2路線ずつが長浜港と手打港をターミナルとしている。手打・長浜線は手打-青瀬-長浜を結び、手打・片野浦線は手打-片野浦を結び、長浜・瀬々野浦線は長浜-瀬々野浦を結び、長浜・鹿島線は長浜-藺牟田を結んでいる。手打・片野浦線の上り便(手打行き)はデマンド運行となり、事前の予約が必要である。手打・片野浦線の下り便(片野浦行き)は条件付き運行となり、手打トンネルで乗客がいる場合のみ片野浦まで運行する。

中甑島と下甑島は最狭部で1.3kmほどであり、2006年(平成18年)から藺牟田(いむた)瀬戸架橋事業が進行中である[8]。中甑島の南側半分には人家がなく、車が通行可能な道路もないが、この事業では中甑島の平良から下甑島の藺牟田まで自動車道路を整備する。完成予定は2017年(平成29年)である。平良島と中甑島、中甑島と下甑島は海で隔てられてはいるが、前者の間には沖の串と呼ばれる浅瀬があり、また後者の間にも沖の瀬上やヘタノ瀬上などの浅瀬があるため、かつては上甑島から下甑島まで一続きの島であったと考えられている[22]。1984年(昭和59年)に芦浜トンネルが開通すると陸路で旧鹿島村と旧下甑村の往来が可能となり、両地域の交流が活発化した。2011年(平成23年)には長浜青瀬手打をトンネルなどで結ぶ手打バイパスが開通し、安全性や利便性が大幅に向上した。

観光船「おとひめ」が下甑島発着で運航されている。「おとひめ」には西海岸コースと東海岸コースがあり、いずれも手打港を出港する。西海岸コースは下甑島の南端を時計回りに回って西岸に向かい、ローソク岩、鷹の巣、ナポレオン岩、壁立、コシ瀬などを間近に見る。下甑島中央部の金山海岸を過ぎたあたりで180度向きを変え、北ルートを引き返して手打港に着く。東海岸コースは手打港から下甑島の東岸を北上し、青瀬集落や長浜集落に接近した後、下甑島中央部の尾山の鼻を過ぎたあたりで180度向きを変えて引き返す。

自然・地質[編集]

甑島列島に自生するカノコユリ

1981年(昭和56年)には甑島列島が甑島県立自然公園に指定され[23]、2009年(平成21年)には鹿島断崖が日本の地質百選に選出された[6][24]。中甑島北部には巨大な正断層である鹿の子断層があり、北西-南東方向に発達した断層が露頭している[25]。海岸にはウミガメが上陸し、沿岸にはカツオクジラなどが回遊する。[26][27]甑島列島は熱帯性の木生シダであるヘゴの自生北限地のひとつであり、「ヘゴ自生北限地帯」の名称で国の天然記念物に指定されている。島内に生息するカラスバトは種として国の天然記念物指定を受けている[12][6][注 3]。薩摩川内市の市花はカノコユリであり、甑島列島はカノコユリの日本唯一の自生地とされている[28]。下甑島の百合高原などで夏場に薄紅色の花を咲かせる。

下甑島の手打では手打湾と手打港の間に小規模な陸繋砂州が形成されている[29]。1889年(明治22年)や1951年(昭和26年)(ルース台風)には砂州が切断されたといい、現在は防潮堤が張り巡らされているが、高潮時にはしばしば手打湾から手打港に水があふれる[29]。下甑島の手打には小川氏の統治時代の名残である武家屋敷通りがあり、玉石垣が特徴である[12]

経済[編集]

名物であるキビナゴの刺身

2010年(平成22年)の国勢調査による甑島列島の産業分類別就業者数は、第一次産業が12.3%、第二次産業が19.4%、第三次産業が68.1%であり、第一次産業の内訳は農業が1.3%、林業が0%、水産業が10.9%である[6]。就業者数・総生産額ともに、平均に比べて第一次産業(特に水産業)が大きな割合を占めている。2009年(平成21年)の下甑島への観光客は約14,100人だった。

甑島列島周辺海域はアジサバブリなどの回遊魚に加え、キビナゴバショウカジキアワビなどの水産資源が豊富で、鹿児島県内有数の漁場となっている[6]。甑島漁協の水揚げ量の45%を刺網漁業で漁獲したキビナゴが占め、5月から7月の夏期がキビナゴ漁の最盛期である。下甑島は九州で唯一海洋深層水が取水されている場所であり、水深375mからくみ上げた海水で塩やにがりなどの製造が行なわれている[6]

教育[編集]

いずれも薩摩川内市立
区分 所在大字 学校名 開校/閉校年
現存する学校 中学校 手打 海陽中学校
長浜 海星中学校
小学校 鹿島 鹿島小学校 1880年開校
手打 手打小学校 1874年開校
長浜 長浜小学校 1880年開校
閉校した学校 中学校 鹿島 鹿島中学校 2012年3月末閉校
小学校 瀬々野浦 西山小学校 1879年開校、2013年3月末閉校
青瀬 青瀬小学校 1886年開校、2012年3月末閉校
片野浦 子岳小学校 1886年開校、2012年3月末閉校

2013年(平成25年)時点で下甑島には薩摩川内市立中学校が2校、市立小学校が3校所在する。2013年5月1日時点の各中学校の生徒数は、海陽中学校が18人、海星中学校が26人であり、各小学校の児童数は、鹿島小学校が13人、手打小学校が52人、長浜小学校が59人である。甑島列島内に高校はなく、中学校卒業生の多くは本土に引っ越して本土の高校に進学する[30]

学校の統廃合[編集]

2004年(平成16年)の合併後、薩摩川内市は大規模な小中学校の統廃合を進めた。下甑島にある2つの中学校、海陽中学校海星中学校は、今後の生徒数の推移によっては統廃合が検討される[31]。2012年(平成24年)には鹿島中学校が休校となり、鹿島中学校に通っていた生徒は海星中学校に通うこととなった[31]。鹿島中学校の学校再開や鹿島小学校の統廃合については、藺牟田瀬戸架橋完成後の状況変動などから判断される[31]。2012年には青瀬小学校が長浜小学校に、子岳小学校が手打小学校に統合され、2013年には西山小学校が長浜小学校に統合された[31]

山村留学制度[編集]

薩摩川内市は下甑島で山村留学制度を実施している。鹿島小学校・鹿島中学校は1996年(平成8年)から「ウミネコ留学」を実施し、本土などから海村留学生(1年間)を年間10名程度受け入れている。留学生は里親の下で暮らし、長期休暇のみ実家に帰省していたが、近年では家族そろっての留学(移住)も増えているという。2007年度の鹿島小学校の全校生徒数は16人であり、このうち留学生は6人だった。なお、下甑島はウミネコの繁殖南限地である[32]。西山小学校でも2000年(平成12年)から鹿島小中学校同様の「ナポレオン留学」を行なっていたが、近年は希望者がいなかったことから2011年に制度が廃止され、また西山小学校自体も2013年度に統廃合の対象となった[31]

文化[編集]

鹿島村離島住民生活センター(旧藺牟田漁業組合)は国の登録有形文化財に登録されている[6]鹿島地域は中野姓が1/3、橋野姓が1/3、残りの1/3が小村姓などである[33]。1949年(昭和24年)に下甑村から分村して以来、鹿島村及び市町村合併後の薩摩川内市鹿島地域は交通死亡事故ゼロを継続しており、2013年(平成25年)6月には日本記録が連続22,000日まで伸びた[33]。下甑地域の歴史民俗資料館には、世界で一枚だけしかないビーダナシ(フヨウの織物)などが展示されている[34][35]。下甑島には、5月頃の深い霧の夜に山中から犬の鳴き声が聞こえてくる「犬の亡霊」(いんのもうれい)という怪異が伝わっている。これは、かつて狩りに行って命を落とした犬の霊が、そのまま山に残っているためといわれている[36]

下甑島のトシドン[編集]

下甑島には秋田県のナマハゲに似た「トシドン」という伝統的な民俗行事がある[8][3]。大みそかの夜、地元の若者がトシドンという怪物に扮し、首なし馬に乗って家々を回る。子どもたちの素行や行儀を戒めて諭し、褒美として子どもに歳餅を与えて去ってゆく。シュロの木の皮などで作った衣服をまとっており、ポリネシアの島々の祭礼を思わせる[37]。1977年(昭和52年)には国の重要無形民俗文化財の指定を受け、2009年(平成21年)には「甑島のトシドン」として国連教育科学文化機関(UNESCO)の無形文化遺産に登録された[8]

作品の舞台[編集]

堀田善衛の『鬼無鬼島』のモデルは下甑島である。椋鳩十が書いた児童文学「孤島の野犬」は下甑島の野犬が主人公であり、手打にはこの作品に因んだ銅像が建てられている[38]。映画『釣りバカ日誌9』では下甑島がロケ地となった[39]。浜ちゃんの上司が結婚式を挙げたのは手打地区の民家であり、ラストシーンではスーさんと浜ちゃんが手打海岸でキス釣りをした。下甑島は森進一の母親の出身地であり、1999年(平成11年)には「おふくろさん」の歌碑が手打に建立された[40]山田貴敏が描いた漫画『Dr.コトー診療所』の舞台である「古志木島」は下甑島がモデルであり[39]、30年間も離島医療に携わってきた手打診療所の瀬戸上健二郎医師が主人公のモデルだが、ロケは沖縄県の与那国島で行なわれた。下甑島のナポレオン岩は前述の『Dr.コトー診療所』やゆでたまごの『キン肉マンII世』などの漫画に登場する。

関連人物[編集]

  • 梶原景季 [41] - 平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。播磨を経て甑島に上陸したとされる。
  • 町春草 [42] – 女流書家。1922年下甑村長浜生まれ。
  • 小倉一郎 [42] – 俳優。1951年下甑村生まれ、東京都新宿区育ち。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 大字名の読み方のうち地域名と同じ読みのものは省略した(例:下甑町手打<読み:しもこしきちょうてうち>のうち下甑町は地域名と同じであるので読みのうちから<しもこしきちょう>を省略)
  2. ^ 明治29年以前は甑島郡
  3. ^ 『自然紀行 日本の天然記念物』講談社、308頁によると、「ヘゴの自生北限地帯」として国の天然記念物に指定されているのは、東京都八丈町八丈島)、長崎県五島市福江島)、鹿児島県肝属郡南大隅町肝付町大隅半島)、南さつま市薩摩半島)、宮崎県日南市に加えて甑島列島である。

出典[編集]

  1. ^ a b 日外アソシエーツ (1991)、221頁
  2. ^ a b 菅田正昭編(1995)、172頁
  3. ^ a b 日外アソシエーツ (1991)、268頁
  4. ^ 藤岡 (1964) 10頁
  5. ^ a b c 藤岡 (1964) 6-7頁
  6. ^ a b c d e f g h 甑島地域離島振興計画鹿児島県
  7. ^ “鹿児島でケラトプス類の化石発見 国内初、草食恐竜の一種”. 共同通信. (2013年2月19日). http://www.47news.jp/CN/201302/CN2013021901002103.html 
  8. ^ a b c d 「甑島振興だよりNo.12」薩摩川内市、2010年3月
  9. ^ 藤岡 (1964) 55頁
  10. ^ a b c d 藤岡 (1964) 3頁
  11. ^ a b c 松原 (2009)、79-93頁
  12. ^ a b c 日外アソシエーツ (1991)、161頁
  13. ^ 菅田正昭編(1995)、172-173頁
  14. ^ 山と渓谷社 (2006)、178-179頁
  15. ^ 長嶋 (2011)
  16. ^ a b c d 菅田正昭編(1995)、173-174頁
  17. ^ 南日本新聞社鹿児島大百科辞典編纂室 (1981)、224頁
  18. ^ 南日本新聞社鹿児島大百科辞典編纂室 (1981)、255頁
  19. ^ 藤岡 (1964) 37頁
  20. ^ 平成16年鹿児島県告示第1735号(字の名称の変更、平成16年10月12日付鹿児島県公報第第2026号の2所収、Wikisource-logo.svg 原文
  21. ^ a b 名称は「高速船 甑島」 14年春就航の川内甑島航路  47news、2013年1月13日
  22. ^ 藤岡(1964) 1頁
  23. ^ 甑島県立自然公園鹿児島県
  24. ^ 「Number 81 甑島」全国地質調査業協会連合会『日本列島ジオサイト地質百選Ⅱ』オーム社、162-163頁
  25. ^ 「No.016 甑島の鹿の子断層」日本地質学会構造地質部会『日本の地質構造100選』朝倉書店、26-27頁
  26. ^ 木白 俊哉. 2011. 西部北太平洋、特に南西部日本沿岸におけるニタリ クジラの資源生態学的研究
  27. ^ 環境省. 甑島列島 - 生物多様性の観点から重要度の高い海域
  28. ^ 三浦 (2007)
  29. ^ a b 藤岡 (1964) 29頁
  30. ^ 浮田 (1993)
  31. ^ a b c d e 薩摩川内市立小・中学校の再編等に関する基本方針薩摩川内市
  32. ^ 南日本新聞社鹿児島大百科辞典編纂室 (1981)、107頁
  33. ^ a b 日本離島センター (1998)、1028頁
  34. ^ 日本離島センター (1998)、1029頁
  35. ^ ビーダナシ(芙蓉布)の復元鹿児島県工業技術センター
  36. ^ 柳田國男監修 民俗学研究所編 『綜合日本民俗語彙』第一巻、平凡社、1955年、132頁。
  37. ^ 山と渓谷社 (2006)、199頁
  38. ^ 孤島の野犬像薩摩川内 観光物産サイト こころ
  39. ^ a b 鹿島・下甑 甑島の旅鹿児島県観光サイト
  40. ^ 『おふくろさん』歌碑除幕式と記念コンサート行われる森進一公式ウェブサイト
  41. ^ 日本離島センター (1998)、1023頁
  42. ^ a b 日本離島センター (1998)、1031頁

参考文献[編集]

  • 藤岡謙二郎編『離島の人文地理 – 鹿児島県甑島学術調査報告 - 』大明堂、1964年
  • 南日本新聞社鹿児島大百科辞典編纂室『鹿児島大百科事典』南日本新聞社、1981年
  • 『島嶼大事典』日外アソシエーツ、1991年
  • 浮田典良「鹿児島県甑島における過疎化の進行と近年の変化」『関西学院大学 人文論究』43巻3号、1993年、59-71頁
  • 『日本の島ガイド SHIMADAS』日本離島センター、1998年
  • 『地図帳 日本の島100』山と渓谷社、2006年
  • 三浦尚子「鹿の子百合の咲く島 : 里町における鹿の子百合栽培の変遷資料」『お茶の水地理』47巻、2007年、54-58頁
  • 松原武実「甑島の内侍舞とその周辺」 吉川周平『京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター研究報告 民俗芸能における神楽の諸相』京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター、2009年、79-93頁
  • 長嶋俊介「鹿児島島嶼の列島性 -連続的地域特性の現地確認(社会=生活環境・島嶼経営領域)-」『南太平洋海域調査研究報告』52巻、2011年、37-46頁
  • 田中史朗「離島における水産業を核とした地域発展モデル -鹿児島県甑島列島を事例として-」『鹿児島県立短期大学紀要 人文・社会科学篇』63巻、2012年、71-87頁

外部リンク[編集]