安藤信成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
安藤信成
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 寛保3年2月23日1743年3月18日
死没 文化7年5月14日1810年6月15日
官位 従四位下対馬守侍従
幕府 江戸幕府寺社奉行若年寄老中
主君 徳川家重家治家斉
美濃加納藩主→陸奥磐城平藩
氏族 三河安藤氏
父母 父:安藤信尹、母:不詳
兄弟 信成直時信姿上杉勝承継室、中山直寛継室、西尾茂教継室ら
松平武元の娘
信厚重馨信邦
テンプレートを表示

安藤 信成(あんどう のぶなり)は、江戸時代中期から後期にかけての大名美濃国加納藩の第3代藩主、陸奥国磐城平藩の初代藩主。官位従四位下対馬守侍従。対馬守系安藤家6代。江戸幕府寺社奉行若年寄老中を歴任した。

生涯[編集]

先代の加納藩主・安藤信尹の次男として誕生した。父の信尹は、乱行が原因で隠居を命じられ、宝暦5年(1755年)に信成が家督を継ぐことになった(安藤騒動)。懲罰の意味もあって、安藤家は間もなく加納6万5000石より磐城平5万石に減転封させられた。

その後、幕府内では寺社奉行、若年寄を経て、寛政5年(1793年)に老中に就任した。在任中の功績に免じ、没収されていた美濃領のうち1万7000石を加増され、都合6万7000石となる。

藩政として注目すべき点は、磐城平に入封後、藩校施政堂を城下の八幡小路に創設した点である。ここでは漢学四書五経国語、小学、通鑑、習字を始め、兵法・洋学が教育された。文化7年(1810年)死去した。長男の信厚を廃嫡し、次男の重馨に家督を継がせた。

略歴[編集]

系譜[編集]

父母

正室

子女

関連項目[編集]