椿海

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椿海(つばきのうみ)は、九十九里浜の北部、現在の千葉県東庄町旭市匝瑳市の境界付近に、江戸時代初期まで存在したである[1]江戸時代に作成された『下総之国図』(船橋市西図書館所蔵)では、太田ノ胡水と表記されている。

伝えられるところでは東西3里南北1里半(約51平方キロメートル)の大きさがあったと言われている。

概要[編集]

昔、この地に邪神が住む椿の大木があり、香取神宮がこれを東方の海中に椿の木ごと放逐したところ、その跡地に水が溜まって海になったという伝説がある。

椿海は、この地にあった入り江が、犬吠埼方面からの砂洲の形成によって出口を塞がれできた湖である。

縄文時代の丸木舟が、栗山川(椿海水系)で80例出土し、日本全体の出土の40パーセントに相当する。香取海と合わせて水上交通が活発だったと考えられている。

徳川家康の関東移封に伴い、木曾義昌義利父子が近くの下総国阿知戸(現在の旭市網戸)に封じられ、義昌は死後椿海に水葬されたと伝えられている[2]。その後義利の代に木曾氏改易された。

江戸時代初期に江戸の町人・杉山三郎衛門が幕府干拓を申請した。しかし、この申請は椿海を水源としている下流の村々が渇水による被害を受けるという理由で許可されなかった。続いて、白井治郎右衛門が友人の幕府大工頭辻内刑部左衛門とともに再度申請、この際辻内は自分が帰依していた黄檗宗僧侶鉄牛道機の援助を求めた。鉄牛は幕府首脳に進言し、下流の村々の反対があったが人口が激増していた江戸の町の食料事情もあって強行され、寛文8年(1668年)に工事が開始された。ところが白井は破産し、辻内の病没すると資金難もあり事業継続が困難となった。そこで鉄牛が老中稲葉正則と談判して6,000両の融資を受ける事に成功し、改めて辻内の婿養子・善右衛門と江戸商人の野田市郎右衛門・栗本源左衛門に工事の継続が命じられた。翌年より1年がかりで新川の開削に成功すると排水が進み、寛文11年(1671年)には新田開発が出来るまでになった。この間の3年間でのべ8万人の人員が工事に動員されたといわれている。延宝2年(1674年)からは1町歩あたり5両で干拓地の売却が開始された。

途中、貞享3年(1686年)には工事の責任者である3人(辻内・野田・栗本)に不正があったとして追放処分を受けるが、新田開発は順調に進み、元禄2年(1695年)の幕府の検地により、「干潟8万石」18ヶ村(春海・米持・秋田・万力・入野・米込・関戸・万歳・八重穂・夏目・幾世・清瀧・大間手・長尾・高生・琴田・鎌数・新町)が成立した。

元々湖であったこの干拓地は水害の被害を受けやすく、干拓地の排水を優先した幕府は下流にを設けることを禁じ、下流では渇水による被害を受けやすい状況となり、干拓地とその周辺では水害と旱魃に苦しめられることが少なくなかった。また、その後利根川東遷事業の影響などで下総台地を挟んだ利根川沿いでも水害に悩まされるようになっていた。そして昭和初期には排水と利水を両立させる大利根用水が計画され終戦後の昭和25年(1950年)に完成、ようやく水害と旱魃から開放されたかのようにも思われた。だが、昭和30年(1955年)には塩害が発生、翌年以降塩害の被害が拡大した。このため利根川河口堰の計画が昭和39年(1964年)に決定され、昭和46年(1971年)に竣工した。

脚注[編集]

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  1. ^ 下総国香取匝瑳海上郡の境界の地にあたる
  2. ^ 『旭市史 第一巻通史編・近代史料編』(1980年、54頁)

参考文献[編集]

  • 千葉大百科事典(千葉日報社、1982年)
  • 千葉県史
  • 『旭市史 第一巻通史編・近代史料編』(1980年)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]