P-51 (航空機)

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P-51 マスタング

第374戦闘航空隊所属のP-51D

第374戦闘航空隊所属のP-51D

P-51 マスタング(North American P-51 Mustang)は、アメリカノースアメリカンにより製造されたレシプロ単発単座戦闘機である。

第二次世界大戦では長い航続距離、安定した高高度性能、十分な運動性と格闘能力により、爆撃機の護衛や対地攻撃で活躍し、第二次大戦中の傑作機だけでなく史上最高のレシプロ戦闘機とも評される。

愛称の『マスタング(Mustang)』はスペイン人によって北アメリカ大陸に持ち込まれたが、野生化した小型の馬に由来する。日本語ではムスタングの表記もあるが本項ではマスタングに統一する。

概要[編集]

機首にV型エンジンを搭載した単発、主翼は低翼配置で尾翼は逆T字という当時の戦闘機では主流の設計である。翼型やラジエーターの配置に工夫が施されたが、初期型は凡庸な性能に加え、諸事情により短期間の設計であったため複数の問題も抱えていた。第二次世界大戦の半ばにイギリスロールス・ロイス マーリンエンジンを搭載した後は性能が大幅に向上、それまで主力だったカーチス製のP-40 ウォーホークの後継機として導入が進んだ。実戦では航続力と高高度性能を生かしボマーエスコート爆撃機の護衛)の主力として活躍した。また実戦配備後もパイロットの意見を取り入れた改良により完成度が高まっていった。

航空業界では後発だったノースアメリカンは、練習機としてアメリカ陸軍航空隊のほか数カ国に採用されたNA-16の開発により、単発機の開発能力は証明されていたものの、戦闘機の自社設計は初めてであった。P-51の成功により躍進し、第二次世界大戦後もアメリカ軍に練習機や戦闘機を多数納品した。

開発[編集]

1939年に第二次大戦が勃発してすぐに、イギリス及びフランス政府は共同でニューヨークマンハッタンに、サー・ヘンリー・セルフを長とする英仏購入委員会(Anglo-French Purchasing Commission)を設立した。この委員会はドイツによるフランス占領後はイギリス単独の機関となった。セルフが抱えていた多くの仕事のなかには、イギリス空軍のためにアメリカの戦闘機製造を組織化することも含まれていた。この時点では、完成ずみのアメリカ製航空機のうちで、ヨーロッパの水準に達しているものは皆無だった。P-40だけがいい線を行っていたが、工場は最大限稼働していたにもかかわらず供給は不足していた。

1940年2月25日、セルフはノースアメリカン(NAA)の社長 "ダッチ"・キンデルバーガーに「カーチスからライセンス供与を受けてP-40を作れないか」と尋ねた。ノースアメリカンは既にAT-6 練習機のイギリス向け輸出型、ハーバード I を生産しており、その品質はイギリス空軍でも高く評価されていた。3月のある日の午後、キンデルバーガーは主任設計士のエドガー・シュミュード[注 1]に相談した。シュミュードはかねてから戦闘機設計の構想を抱いていたため、戦闘機の自社開発は出来ると答えた。キンデルバーガーのヘンリー卿への回答は、「ノースアメリカン社は、同じエンジンで、もっといい航空機を、より短い製作期間で、初飛行させることができる」というものだった。そして、5月29日、ノースアメリカン社とイギリス空軍の間に契約が交わされた。

タイプ[編集]

初期型[編集]

提案は受け入れられ、1940年3月からNA-73開発計画が開始された。設計は、2つの新たな特徴を備えていた。

  1. 層流翼型(のまわりの空気の流れがきれいに流れる層流の範囲を大きくすることを意図した翼型): NACA設計のものを採用。失速特性(急激な運動時の気流の剥がれ方)が悪いので、ドッグファイトが避けられない戦闘機にはあまり用いられない。翼が厚くなることによる抗力の増大を同程度におさえ、このおかげで、降着装置機関銃弾薬燃料を収納するのに充分なスペースを確保することができた。
  2. ラジエーター: ラジエーターの空気抵抗を減らすため(通過空気の速度を落とすことが必要)、胴体下部やや後方に取りつけ、前後に減速・加速のスペースを確保した。また、空気取り入れ口を機体から突き出す形で設置して機体に沿った乱流を避けて効率化を図り、更にエンジン排気との熱交換で暖められた空気を噴射することで若干の推力を発生した。降着装置を下ろすと車輪部分のカバーが空気取り入れ口の前方にかかってしまうため、カバーだけを畳む機能がある。離陸時にはエンジンスタート後にカバーを畳み、離陸後にカバーを開けて降着装置を格納、再度カバーを畳むという手順を踏む。

アメリカ陸軍航空隊(USAAC)は当初は全く興味を示さなかったが、後にNA-73の性能に注目した。USAACはこの売買を禁止できる権限を有しており、最終的に、英国空軍に機体を納入する替わりに、USAACに無償で2機のNA-73を提供することで決着した(実際は形式的なものだった)。

NA-73は1940年10月26日に初飛行を行った。計画立案から9カ月未満という、驚異的な短期間での完成だった。全体的に操縦性は良好だった。機体の内部構造は膨大な量の燃料を搭載できた。NA-73は機首に2丁の12.7 mm機関銃、さらに2丁の12.7 mm機関銃と4丁の7.62 mm機関銃を主翼に備えていたが、これは当時としては軽武装の部類に属するものだった。同時代のドイツ戦闘機Fw 190プロトタイプの場合、4門の20 mm航空機関砲と2丁の7.92 mm機関銃を搭載できた。

プロペラカーチス・エレクトリックの3枚プロペラが採用された。

初飛行からすぐに、海面高度(海抜0m)および低高度での性能は大変高いものの高高度での性能が他のヨーロッパ機に及ばないことが判明した。これはP-40と同じ、アリソン・エンジン社製V-1710エンジンを採用したことによる。このエンジンも英国のロールス・ロイス マーリンエンジンも機械式スーパーチャージャーを装備していたが、当時既にマーリンが二段二速過給機を搭載していたのに対して依然として一段一速過給機であり、高高度の希薄な空気に十分に対応できなかった。当時のアリソン社はゼネラルモーターズ(GM)のベンチャー部門ともいえる新興企業であり、技術者は25名程度しかおらず、二段二速過給機の開発にまであまり手が回らないのが実情であった。また合衆国陸軍航空隊は1917年よりゼネラル・エレクトリック(GE)にターボチャージャーの開発を進めさせており、過給機付きエンジンにターボチャージャーを組み込んで高空性能を確保する方針だった。アリソンは後に二段二速過給機を搭載した改良型の開発に着手し、パッカードでの二段二速過給器型マーリンとほぼ同時期に生産できるようになりP-63F-82に搭載された。また、これを搭載した試作機、XP-51Jも作られたが第二次大戦が終結したこともあり、制式採用されずに終わっている。

約610機のマスタング Mk.I(マークI)がイギリス空軍に送られ、1942年3月10日に初の出撃を行った。航続距離が長く、低空性能に優れていたため、これらの機体はイギリス海峡付近での地上攻撃写真偵察に好適で、大活躍する。しかし、高高度では性能低下が大きく、対戦闘機戦闘に使うつもりは無かった。マスタング Mk.IAは、性能向上を意図して機首の機関銃を廃止し、主翼の機関銃を20 mm機関砲4門に変更したタイプで、150機が生産された。

アメリカ陸軍航空隊の後身であるアメリカ陸軍航空軍(USAAF)はマスタング Mk.IAの内57機を引き取りP-51の名称で実戦部隊に支給し、後に大多数がカメラを装備した偵察機F-6Aに改造された。同時に、A-32の完成が遅れていたため対地攻撃機に大きな興味を示すようになったUSAAFは、A-36(会社名NA-97)を発注した。これは、6丁の12.7 mm機関銃(機首に2丁、主翼に4丁)とダイブブレーキを備え、500ポンド (230 kg) 爆弾を2つ搭載するものだった。ただしダイブブレーキは性能上使用しなくとも急降下が可能であったため、後に不使用封印されたという。

その後まもなく、A-36からダイブブレーキと機首の機関銃を取り外し、戦闘機としたA型が発注された。P-51Aはエンジンの馬力強化と新型スーパーチャージャーの採用によって低高度性能が向上しており、主に高高度性能の低さが問題にならない中国・ビルマ・インド方面の第10航空軍に配備された。P-51Aを元にした偵察機型はF-6Bと呼ばれた。P-51Aはイギリス空軍にもマスタング Mk.IIの名称で採用されたが、間もなくマーリンエンジン搭載機が配備され始めたため50機という少数の配備に終わった。

B型およびC型[編集]

Mk.IAやA-36が発注されたのと同じころ、ロールス・ロイスの技術者やテストパイロットがマスタングを調査した。彼らは、すばらしい機動性(スピットファイアなどの既存の戦闘機に比べて)と膨大な燃料搭載量に感銘を受けた。当時、ロールスはマーリンエンジンのシリーズ60の生産を開始していた。これは、アリソン製エンジンと同程度のサイズと重量でありながら、はるかに優れたスーパーチャージング技術が適用されており、それに見合う高高度性能を発揮できるものだった。

ロールスの技術者たちは、マーリン68エンジンを4機のマスタング Mk.IAに載せた[注 2][注 3]。結果は驚嘆すべきもので、最新のイギリス製戦闘機を含め、いかなる機体よりも速く、航続距離が長かった(スピットファイアは航続距離の短さが問題点のひとつだった)。マーリンをV-1650として製造するためのライセンスがアメリカのパッカードに売却され一段過給器型のV-1650-1が生産されていたが、パッカードでの生産のシリーズ60相当への転換に合わせパッカード製のマーリンを積んだマスタングの生産が1943年から開始された。

エンジン強化に対応するため、プロペラはより大型のハミルトン・スタンダード製の4枚に変更された。

P-51の機体とマーリンエンジンの組み合わせた機体は当初XP-78と命名されたが、程無くしてP-51BP-51Cに変更された。カリフォルニア州イングルウッドで作られた機体はB、テキサス州ダラスで作られた機体はCと区別された。この新たなバージョンは、イギリスに基地を置くアメリカ陸軍航空軍の第8・第9航空軍とイタリアに出撃基地をもつ第12・第15航空軍(当時イタリア南半分は既に連合軍に占領されていた)の、あわせて15の戦闘航空群Fighter Group)で使用された。イギリス空軍ではP-51B/C共にマスタング Mk.IIIと呼称した。また、偵察機型F-6Cも存在した。

ヨーロッパ戦線でのP-51B/Cは主にボマーエスコートに使用された。1943年末頃から、P-51が爆撃機の長距離護衛を開始したことにより、ドイツ領奥地での爆撃が可能となった。

P-51B/Cは、12.7mm機関銃4丁という火力不足と後方視界の悪さがイギリスのパイロットたちに不評であった。そのため機関銃は後にP-51Dと同じ6丁に増設された。また後方視界改善のため、マルコム社がスーパーマリン スピットファイアのキャノピーに似たセミバブル型のP-51専用キャノピーを作ると、多くのパイロットが自分たちの機体に取りつける現地改修を行っている。

D型およびK型[編集]

D型は課題となっていた後方視界について、コックピット後部胴体を低くし、新たにホーカー タイフーンで採用されていた水滴型のキャノピー(バブルキャノピー)を取りつけた。これにより優れた全周視界を提供したが、その一方でコクピット後部の胴体断面積が減少したことで、横方向の安定性が低下した。これを改善するため、ドーサルフィン(垂直尾翼前側に設置する安定翼)が追加された。こうした背面の設計変更は乱流の増加による速度低下をもたらした。対策としてリベットをパテで埋め、機体表面を磨きあげる仕上げを採用した。

火力不足を補うため新たに2丁の12.7 mm機関銃を増設し、計6丁の機関銃を主翼に装備した。内側の4丁はそれぞれ380発、外側の2丁はそれぞれ270発の弾薬を有していた。翼下にレールを追加し、最大8発のロケット弾を携行できるようにした機体もあり、対地攻撃で成果を発揮した。

C型までは、濃緑色の迷彩と形状からメッサーシュミット Bf109に類似しており、友軍の対空砲火に誤射されたり他機種で編成された友軍機に攻撃される事件があった。D型でバブルキャノピーへ換装された後は、塗装をクリアドープにしたことでインベイジョン・ストライプ[2]が目立ったこともあり、フレンドリー・ファイアも無くなった。なおイギリス空軍は濃緑と灰色の2色迷彩を採用した。

プロペラをAeroproducts製に変更したK型も存在するが、性能はD型と変わらない。

結果として、D型とK型、そして偵察機型F-6D/Kは、シリーズ中で最も生産機数の多いタイプとなった。これらの新型は1944年3月からヨーロッパに届きはじめ、同年6月6日からのノルマンディー上陸作戦にちょうど間に合った。イギリス空軍でも1945年からP-51D/Kが配備されマスタング Mk.IVと呼称された。オーストラリアではCACによるライセンス生産が行われたが、配備開始は終戦後となってしまった。


H型[編集]

P-51のプロトタイプ NA-73は、USAAFの荷重倍数基準: 7.33 Gで設計された。強度は充分だったが、イギリス基準の荷重倍数: 5.33Gで設計した場合よりも、かなり重くなってしまった。USAAFとイギリス空軍の双方が、P-51をスピットファイア並に軽量化する計画に興味を示した。これによって、マスタングの性能は大幅に向上すると期待された。このためH型とプロトタイプは『"lightweight" Mustangs』とも呼ばれる。

新たに社内名NA-105と名付けられたこの機体計画において、 P-51Dを軽量化した『XP-51F』、エンジンをマーリン RM 14 SMsに変更した『XP-51F』、アリソン V-1710-119を搭載した『XP-51J』などがテストされた。これらのモデルは高性能であったが、そのまま量産には至らず、実験成果がH型に生かされた。

最終生産型となったH型は新型のV-1650-9エンジンを積んでいた。これはマーリンエンジンの改良型で、自動スーパーチャージャー制御を備え、水メタノール噴射によって最大出力は2,000 HP(1,490 kW)に達した。プロペラはK型と同じ物が採用された。最終的に数百ポンドの機体軽量化・出力の増加・ラジエーター形状の改善によって、P-51Hは9430 lb(4,277 kg)に高度6,919 m(22,700 ft)で759 km/h(412 knots)に達することができた。

それまでの多くの型が抱える欠点であった方向安定性改善のため、製造途中から垂直尾翼が高くなった。

日本への侵攻作戦において、全てのマスタングのモデルをP-51Hによって置き換え、USAAFの標準戦闘機とすることが計画されていた。生産は増加したが、555機が前線に送られたところで終戦となり、予約済みだった追加発注分はキャンセルされた。前線から戻った機体の一部は州兵の整備訓練で教材として使われた。

生産された機体が少ないことに加え、民間に放出された機体も人気の高いD型の部品取りにされ現存数は少ない。

実戦での評価[編集]

ドイツ本土に戦略爆撃を行う計画の実行には時間を要した。ドゥーエの論文に代表される戦前の考えでは「爆撃機は常に目標に到達しえる」もので、大量の爆撃機が緊密な編隊を組めば防御火器で自衛することも可能であると考えられていた。しかし、大戦前半におけるドイツ・イギリス空軍などによる実戦では、多発の爆撃機は単発の戦闘機によって迎撃され、爆撃機の火力のみでは防御しきれないという戦訓をもたらした。イギリス空軍は大戦開始以前にこのことを問題視し、1930年代中旬には夜間爆撃機軍団の創設を決定した。大戦が始まるとそれらの爆撃機は昼間に運用されたが、戦争初期の作戦においてあまりに多くの機体を失ったため、英独両軍ともすみやかに夜間作戦へと移行していった。

アメリカ軍はより高高度を飛行し、より強力な自衛火器を持つ「空の要塞」と呼ばれたB-17の投入で昼間爆撃は可能だと考えていて、十分な機数が揃うまで、彼らは護衛を伴ったフランスへの小規模な爆撃で、訓練を積み重ねた。1943年8月にUSAAFはドイツ領深くにある航空機製造に欠かせないベアリング工場を目標に大規模爆撃を実行したが、爆撃の度に一割を優に超える機体が撃墜され、修理不可能なほど損傷する機体はそれ以上に多いなど、結果は散々なものだった。

戦闘機による爆撃機の護衛が必要なことは明らかだったのだが、当時配備されていたP-38ではドイツの迎撃機に対し有効とは言いがたく、P-47の初期型では航続距離が不足していた。その点、P-51は信頼性の極めて高いマーリンエンジンと、十分な燃料を搭載できる内部容積を持ち、ドロップタンク(投棄可能な外部燃料タンク)の追加により、ドイツへの往復飛行の全行程に渡り爆撃機の護衛が可能だった。 1943年から44年にかけての冬、第8航空軍と第9航空軍が再編成される頃には多くのP-51が配備された。1944年2月に対独本土爆撃が再開されると、事態は劇的に変化した。この時点までドイツ空軍は、単発戦闘機の対重爆撃機用の重武装・重装甲化や、アメリカ戦闘機の護衛範囲外での双発戦闘機による大口径機関砲・ロケット弾などによる迎撃も実施していたのだが、これら機動性を欠く機体の運用は実行不可能になった。また5月からアメリカ軍の戦闘機は爆撃機に随伴して護衛するだけでなく、ドイツ機を発見したら爆撃機から離れて追撃しても良いことになり、これによる柔軟な戦術的対応で戦果は増えていく。 1944年の夏頃にはドイツ空軍の迎撃能力は大幅に弱体化したことで、アメリカだけでなくイギリスの爆撃機も自由に昼間爆撃を行えるようになった。ドイツでは爆撃を受けながらも戦闘機生産を続けていたが、ドイツ空軍は熟練パイロットを多く失い、燃料不足から補充兵の訓練にも事欠く状態であった。

P-51のアメリカにおける評価は非常に高く海軍のF8Fと並び「第二次大戦中の最優秀戦闘機」「最強のレシプロ戦闘機」とも評される。しかしP-51は短期間の設計によるためか、軽量化や強度の不足、燃料を満載した時の前後バランスの悪さ(胴体内燃料タンクに燃料が残っているときには空戦機動が禁止されている)など、多数の欠点が指摘されている。エンジンやキャノピーの換装は行われたが、基本設計に由来する欠点は解消しきれず、改良の度に別な問題が発生するというイタチごっこが続いている。B/C型ではセミバブルキャノピーを取り付けてもD型ほどの視界は獲られなかったため、空気抵抗の増加で速力が落ちることを許容し、キャノピー上部にバックミラーを付ける現地改修も行われている。

総合的な空戦能力ではF8Fに、防御力はF4Fに、機動力はスピットファイアに、攻撃力はP-47、加速力ではFw190と比較すれば劣る。しかしP-51の主任務はドイツ領への侵攻作戦における爆撃機の護衛と対地攻撃であり、その点での評価は非常に高い。スピットファイアの航続力ではこの任務に適さず、P-51なら帰還できるだけの燃料を残した状態でも、新兵だらけになっていたドイツの迎撃機とは十分に戦えるし、ジェット戦闘機相手でも離着陸時なら撃墜できた。またドッグファイトを避け高速性能を生かした一撃離脱戦法に徹すればベテラン相手にも戦うことが出来た。航続距離が長く操縦しやすいため、パイロットは心理的余裕を持って戦えたことでベテランだけでなく新人からも多くのエース・パイロットが生まれた。

登場したばかりのジェット機はさらに高い性能を有していたが、実際上の戦闘力においては差が小さく配備数も少なかった。長い航続距離、高高度でも安定した性能、優れた高速性、十分な加速性と機動性に加え、無改造で対地攻撃も可能という汎用性を持ち、なおかつ必要とされた時期に登場したことが『最優秀』と云われる所以である。 整備性が良好で低価格であるため整備士や上層部など支援する側からの評価も高い。また近接航空支援でも活躍したことから歩兵部隊からの知名度もあり、戦後には勝利の象徴として引き合いに出された。

旋回性能・加速力などを重要視し飛行技量が物を言う巴戦を得意とした日本陸軍日本海軍の操縦者間においても、日本軍機に引けをとらない運動性能に加え、圧倒的な速度性能と高高度性を有するP-51は、F6Fとならび「なかなか手強い敵機」との評判であった。日本陸軍航空部隊黒江保彦は、テストパイロットとして中国戦線鹵獲されたP-51Cを駆って、仮想敵機として日本各地の本土防空飛行部隊機と模擬空戦を行ったが、黒江はこの際「味方が自信を喪失しないため性能をすべて引き出さなかった」という趣旨の発言を行なっている。坂井三郎は戦後に複座型のTF-51Dを操縦する機会を得たが、速度や高高度性能以外にも、中速度域での操縦性の良さや高速でも思うように動くこと(高速で舵が効かなくなる零戦と比較して)を評価している。

戦後[編集]

F-51[編集]

1948年に、アメリカ空軍(USAF)全体にわたる命名規則一新計画によって、制式名P-51(P:Pursuit airplane、追撃機)からF-51(F:Fighter、戦闘機)へと変更された。偵察機型も同様にRF-51へと変更された。

F-51Dは朝鮮戦争の間、戦闘機としては旧式化していたものの、戦闘爆撃機対地攻撃機として使用された。新型でより高速のF-51Hは、軽量化のため強度が犠牲になっており、生産数が少なく実戦向きの補給・整備は困難とされ、使用されなかった。当時、既にジェット戦闘機が登場していたが、滞空時間が短く、敵地上空に長居できないため、レシプロ機は重宝された。P-51も対地攻撃に使用されたため、ペイロードの搭載量が着目され、速度性能はさほど問題にされなかった。アメリカ空軍最後の機体は1957年に退役している。

他国での運用[編集]

P-51は戦後余剰となった機体が多くの空軍で採用された。イスラエル空軍は1948年の第一次中東戦争(独立戦争)と1956年のカデッシュ作戦にマスタングを使用した。他に使用した国には、大韓民国中華民国インドネシアフィリピンニュージーランドオランダスイスエルサルバドルキューバドミニカ共和国などがある。特にドミニカ共和国空軍は1984年まで現役であった。

多くの国では短期間でジェット戦闘機に置き換えられたため、あまり飛行しないまま退役し博物館に送られた。このため世界各地の博物館で状態の良い機体を見ることが出来る。イギリスでは自国のエンジンを搭載し対独戦で活用した戦闘機であるため、あえてアメリカ軍機を展示している博物館もある。

民間[編集]

戦後は過剰となった機体の一部が民間に払い下げられ、スポーツ機として利用されていた。現代でも航空ショーやエアレースなどでは復元機や改造機の飛行を見ることができる。またアメリカ空軍や陸軍の航空祭などでも頻繁に飛行している。

特にD型はアメリカの勝利に貢献した傑作機として人気が高く、生産数が多いこともあって多数の機体が残っている。アメリカでは博物館だけでなくポール・アレントム・クルーズなどの資産家がコレクションとして保有していることがあり、特にポール・アレンの所有機はフライング・ヘリテージ・コレクションにて公開されている。新造された部品でレストアされた復元機も多いが、ほぼオリジナルの部品で飛行可能な状態に保たれた機体もある。P-51の情報サイトでは2017年7月時点で295機が現存し、174機が飛行可能となっている[3]

キャバリア製マスタング[編集]

トランス・フロリダ社が戦後に放出されたP-51を改修して複座の民間スポーツ機として販売したもの。同社は1967年にキャバリア社に名称変更したが、民間型を再び軍用型とした練習機やCOIN機、軽戦闘機も製作された。軽戦闘機型はボリビア空軍が採用した。

レプリカ[編集]

アメリカでは愛好家向けとして、2000ドル程度で購入できるキット機が多数販売されている[4]


各タイプと生産機数[編集]

P51evo.png
  • P-51A:310機製造。カリフォルニア州イングルウッド工場製。
  • P-51B:650機製造。イングルウッド。
  • P-51C:3,750機製造。テキサス州ダラス工場製。
  • P-51D/K:7,956機製造。6,502機がイングルウッド。1,454機がダラス。
  • P-51H:555機製造。イングルウッド。

総生産機数:15,675機。これはP-47に次いで、米国製戦闘機中では第2位。

戦闘機型の他、練習機、偵察型、高速輸送型(TP-51)など様々な派生型が製造された。


FJ-1 フューリー[編集]

FJ-1 フューリーは戦後ノースアメリカン社が開発した、アメリカ海軍向の艦載ジェット戦闘機である。これは、P-51の主翼と尾翼をそのまま流用し、胴体のみジェットエンジン搭載の新設計のものに変えた機体である。そのため、P-51のジェット化バリエーションとも解釈でき、そのように紹介される場合もある。

開発当初は画期的とされた層流翼形式の主翼であったが、第二次世界大戦の終結後にドイツで研究されていた後退翼が採用されると、層流翼は陳腐化してしまった。発展型のF-86 / FJ-2〜4は、新設計の後退翼の採用によって素晴らしい高性能を得たが、P-51との共通部分は皆無になってしまった。その後ノースアメリカンが開発した練習機T-2バックアイはFJ-1の主翼を流用しており、P-51の末裔と考えることもできる。

エピソード[編集]

日本軍による試験
1945年2月、中国戦線の漢口にて1機のP-51Cが日本陸軍の対空砲火で被弾、不時着し鹵獲された。本機は第51戦闘航空群第26戦闘飛行隊のサミュエル・マクミラン・ジュニア少尉搭乗機(本来はオリバー・ストローブリッジ大尉の搭乗機であったが、当日はマクミラン少尉が搭乗し空戦に参加していた)である。現地より情報を受けた陸軍航空審査部(試作航空兵器の審査等を行う日本陸軍の組織、輸入機や鹵獲機の飛行研究も担当)は飛行実験部戦闘隊陸軍准尉2名を派遣、同地にて修理したのち3月にはベテラン操縦者である光本悦二准尉が操縦し審査部のある多摩陸軍飛行場(現横田基地)に空輸、改めて本格的な調査が行われた。
陸軍航空審査部では同様に米軍から鹵獲していたP-40E、ドイツから輸入したフォッケウルフ Fw190A-5、日本製の三式戦闘機「飛燕」および四式戦闘機「疾風」と、加速力と全速力の比較を行っている。高度5000mで横一列に並んだ5機は、一斉に水平全速飛行を実施。最初の数秒でトップに立ったのはFw190A-5だった。3分後にP-51Cがこれを追い抜き、「疾風」もFw190A-5との距離を縮めた。5分後にストップをかけた時には、P-51Cははるか彼方へ、次いで「疾風」とFw190A-5がほぼ同じ位置、その少し後に「飛燕」、さらに遅れてP-40Eという順だった[5]
その後、このP-51Cは飛行実験部戦闘隊の黒江少佐らが搭乗し、内地の各防空飛行部隊機を相手とする巡回戦技指導に用いられたが、7月に発電機不調によって飛行不能となり、日本製部品では修復が不可能だったため放棄された[6]。なお、マクミラン少尉は不時着後日本兵に取り囲まれ捕虜となり、上海経由で東京、北海道に転送されここで日本の敗戦を迎え、戦後にアメリカ本国に帰還している[7]
これとは別に、1944年5月30日に1機のP-51Aが河津市付近で日本陸軍に鹵獲されており、こちらも試験飛行が行われている[7]
また敗戦間近の1945年7月15日に、第21戦闘航空群第531戦闘飛行隊のビンセント・A・グァディアーニ大尉搭乗機のP-51Dが零戦との空戦で被弾し、千葉県葛飾郡の水田に胴体着陸し原形を良くとどめた状態で鹵獲されている[7]
中国共産党による練習機
鹵獲されたP-51は東北民主連軍中国人民解放軍)に設置された(関東軍将兵投降捕虜を教官とし、人民解放軍初となる)航空学校(東北民主連軍航空学校)の練習機に使用された。
UFOによる撃墜
1948年1月8日(現地時間では1月7日の午後)、アメリカ空軍ゴドマン基地所属のトーマス・F・マンテル大尉が操縦するP-51がUFOを迎撃し墜落したとされる『マンテル大尉事件』が起きている。ただし事件の概要には諸説がある。
レシプロ戦闘機の空中戦の最後の敗者
1969年サッカー戦争では、エルサルバドル空軍のP-51DとFG-1D(グッドイヤー社製F4U)と、ホンジュラス空軍のF4U-5が、レシプロ機同士の最後の空中戦を行った。エルサルバドル空軍のP-51とFGはホンジュラス空軍のF4Uに撃墜され、「レシプロ機同士の空中戦の最後の敗者」という不名誉を負う事になった。

諸元 F-51H(P-51H)[編集]

North American P-51D Mustang line drawing.png
機体名 F-51H[8]
乗員 1名
ミッション BASIC INTERCEPTOR FERRY
全長 33.3ft (10.15m)
全幅 37ft (11.28m)
全高 13.7ft (4.18m)
翼面積 236ft² (21.93m²)
空虚重量 6,551lbs (2,971kg)
離陸重量 11,029lbs (5,003kg) 9,485lbs (4,302kg) 11,704lbs (5,309kg)
戦闘時重量 9,430lbs (4,277kg) 8,740lbs (3,964kg) 8,275lbs (3,753kg)
内部燃料 260gal (984ℓ)
外部燃料 220gal (832ℓ) 330gal (1,249ℓ)
エンジン Packard V-1650-9 (1,380Bhp 最大:2,220Bhp) ×1
プロペラ Aeroproducts 金属製4枚プロペラ。可変ピッチ
最高速度 410kn/22,700ft (759km/h 高度6,919m) 411kn/22,700ft (761km/h 高度6,919m) 412kn/22,700ft (763km/h 高度6,919m)
航続距離 1,665n.mile (3,084km) 2,060n.mile (3,815km)
戦闘行動半径 770n.mile (1,426km) 380n.mile (704km)
上昇能力 5,000ft/m (25.4m/s) 5,480ft/m (27.83m/s) 5,850ft/m (29.72m/s)
実用上昇限度 41,700〜44,300ft (12,710〜13,503m) ※重量により変化
武装 12.7mm重機関銃M2 ×6(計1,820発) or ×4(計1,780発)、爆弾最大2,000lbs(907kg) or HVAR×10

現存する機体[編集]

登場作品[編集]

P-51は第二次世界大戦後半の機体であるため、第二次大戦後半を題材にした作品への出演が見られる。

参考文献[編集]

  • James A.Goodson 『P51ムスタング空戦記:第4戦闘航空群のエースたち』早川書房、1993年、ISBN 4-15-203558-7
  • George Loving 著 『Woodbine Red Leader: A P-51 Mustang Ace in the Mediterranean Theater』 ISBN 978-0891418139

脚注[編集]

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  1. ^ ドイツからブラジルを経てアメリカに帰化した人物で、独学した航空機技術を用いゼネラルモーターズ航空部門のブラジル支社で頭角を現し、アメリカ移民が認められGM傘下のノースアメリカンに職を得ていた。
  2. ^ マーリンへの換装を提案したのは、ロンドン駐在のアメリカ武官であったと言われる。堀越二郎は「イギリスとアメリカとの友好関係をもってしても、イギリス人の間からは、本機のよき生まれを発動機によって活かしてみたいという親身の愛情と理解が生まれなかった事実もおもしろい」と評している[1]
  3. ^ 当時はイギリス向けのマーリンエンジンでさえ不足しており、イギリス側からエンジン換装の申し出がなかったのは当然である。また米国側も戦闘機用のエンジンは将来的にプラット・アンド・ホイットニー R-2800一本に絞る考えであり、マスタング改造機の高性能を目の当たりにするまでは、マーリンを採用する意図はなかった。
出典
  1. ^ 「名機マスタングについての考察」 光人社NF文庫『最強兵器入門』堀越二郎
  2. ^ 敵味方識別用の塗装。主翼に白黒の縞模様を塗装する
  3. ^ P-51 Mustang Survivors - 現存するP-51を追跡するサイト。シリアルと機体記号を照合できる。
  4. ^ "Where Dreams Take Flight." Titan Aircraft, 2012. Retrieved: 24 April 2012.
  5. ^ 鈴木五郎『疾風』第二次世界大戦ブックス64 pp180-181
  6. ^ 押尾一彦野原茂 『日本軍鹵獲機秘録』 光人社2002年、128-129頁。ISBN 978-4769810476
  7. ^ a b c 押尾一彦野原茂 『日本軍鹵獲機秘録』 光人社2002年、130頁。ISBN 978-4769810476
  8. ^ F-51H Mustang Specifications

関連項目[編集]

外部リンク[編集]