坂井三郎

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坂井 三郎
Sakai as young pilot.jpg
1939年、漢口基地での坂井三郎。
渾名 大空のサムライ(著書名より)
生誕 1916年8月26日
佐賀県佐賀郡西与賀村
死没 2000年9月22日(2000-09-22)(84歳)
所属組織 大日本帝国海軍の旗 大日本帝国海軍
軍歴 1933年 - 1945年
最終階級 海軍中尉
除隊後 印刷会社経営
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坂井 三郎(さかい さぶろう、1916年(大正5年)8月26日 - 2000年(平成12年)9月22日)は、日本の海軍軍人。ポツダム進級により最終階級は海軍中尉太平洋戦争におけるエース・パイロット。著書『大空のサムライ』で有名。

経歴[ソースを編集]

1916年(大正5年)8月26日、佐賀県佐賀郡西与賀村大字厘外1523番地(現在の佐賀市西与賀町大字厘外)で農家の三男だった父・坂井晴市と母ヒデの次男として生まれる。名前は祖父の勝三郎に由来している。坂井が5歳のときに一家は祖父の家から夜逃げ同然で出奔して貧しい生活を送った。父は小さな精米所に勤めたが、坂井が小学校6年生の1928年(昭和3年)秋、36歳で病没。残された母と6人の子供の生活は困窮した。見るに見かねた伯父が兄弟を中学に入れてやろうとして、坂井は東京に引き取られる形で上京した。坂井は新宿府立六中を受験したが落ちて青山学院中等部に進学したが、成績不振で落第して退学処分となった[1][2]

その後は実家に帰され約2年間、農作業に従事した。この頃から自身の将来について真剣に考えるようになった。スピードへの憧れがあり、騎手になろうとしたが本家の反対で挫折。同じ西与賀村出身で佐世保航空隊の平山五郎海軍大尉操縦の飛行艇が故郷で低空を旋回するのを、農作業をしつつ仰ぎながら見た速い物としての飛行機に憧れた。「海軍少年航空兵」募集のポスターを見て二回受験したが、不合格になった[3]

飛行機のある海軍に入れば、近くで見られるだろうし、触るぐらいはできるだろうという思いから、海軍の志願兵に受験し合格、周囲は反対したが1933年(昭和8年)5月1日、四等水兵として佐世保海兵団へ入団する。1933年10月1日、戦艦霧島に配属され、15センチ副砲の砲手となる。1935年(昭和10年)5月11日、横須賀の海軍砲術学校に入校。翌1936年(昭和11年)、同校を200人中2番の成績で卒業し、5月14日に戦艦榛名に配属。大艦巨砲主義全盛の当時、花形とされた戦艦の主砲の二番砲塔の砲手に任せられるが、演習で榛名の艦載機の射出を見て海軍入隊の目標であった搭乗員への志願を上官の搭乗員に打ち明けると、「指導してやるが、学科試験に合格しなければ道は開けない」と言われる。受験を上官に打ち明けたところ、主砲の砲手を外され、艦底で装薬や砲弾を扱う弾庫員に回される。それでもめげずに年齢的に最後となる操縦練習生を受験して合格。

1937年(昭和12年)3月10日、霞ヶ浦航空隊に入隊、4月1日初飛行。練習生の中では、操縦が上手いほうではなく単独飛行が許されたのは卒業も近い最後だった[4]。卒業後の延長教育の射撃も上手くはなかった[5]。首席を目指して勉強に励んだ結果、希望どおり艦上戦闘機操縦者として選ばれ、同年11月30日に第38期操縦練習生を首席で卒業。卒業式では昭和天皇名代の伏見宮博恭王より、恩賜の銀時計を拝受し、海軍戦闘機搭乗員としての道を歩み始める。佐伯航空隊付、戦闘機操縦者としての延長教育を受ける。この佐伯航空隊時代に、操練の三期先輩に当たる原田要が空戦訓練の相手に組まれ、切磋琢磨した[6]1938年(昭和13年)4月9日、大村航空隊に配属。5月11日、三等航空兵曹に昇進。高雄航空隊付。

支那事変[ソースを編集]

九六式艦上戦闘機に乗った坂井(1939年)

1938年9月11日、第十二航空隊に配属。勤務地の中国大陸九江に進出。

1938年(昭和13年)10月5日、漢口空襲に参加。これが坂井の初出撃であり、指揮官相生高秀大尉の三番機として九六式艦上戦闘機に搭乗した。坂井は中華民国国軍I-16戦闘機1機を撃墜。1939年(昭和14年)5月1日、二等航空兵曹に昇進。同月、九江基地からの南昌基地攻撃に参加。6月、占領した南昌基地に進出。10月3日、SB(エスベー)爆撃機12機編隊が漢口基地を空襲。坂井は迎撃に上がり、単機で宜昌上空8千メートルまで追尾して、1機を撃墜。11月、上海基地に移動。1940年(昭和15年)5月、運城基地に進出、同基地上空哨戒等に従事。

1940年(昭和15年)6月、大村航空隊配属。内地に帰還する。8月、横須賀航空隊で行われた新機種の取り扱い講習会で、登場したばかりの零式艦上戦闘機(零戦)を初めて見る。1940年10月17日、高雄海軍航空隊に配属。搭乗機が九六戦から零戦に変更されたため、坂井は名古屋で零戦を受け取って、鹿屋基地経由で台湾の高雄空まで空輸する形で、24日に高雄基地に着任した。零戦について、思い通りに動いてくれる格闘性能と燃料切れを気にせず空中戦に集中できる長大な航続力から高く評価している。そのため、翼幅を削り速度が上昇し、他性能が低下した零戦三二型が導入された際には、操縦性、格闘戦の上から改悪であると意見している[7]

1941年(昭和16年)春、坂井は高雄空の零戦18機のうちの1機として、海南島三亜基地に前進。更に坂井を含めた12機は、陸軍の北部仏印進駐に呼応する形で、ハノイ飛行場に進出する。

1941年(昭和16年)4月10日、第12航空隊配属。12空の横山保大尉の希望で中国大陸に再進出。漢口基地から華中における作戦に従事。5月3日、重慶攻撃に出撃。6月1日、一等飛行兵曹に昇進。7月9日、梁山攻撃に参加。27日、成都攻撃に参加。8月11日、零戦16機、一式陸上攻撃機7機による成都黎明空襲に参加。攻撃に参加する戦闘機はあらかじめ前日に漢口基地から宜昌飛行場へ移動し、同飛行場を夜間離陸し、漢口出撃の一式陸攻に合流した。中華民国国軍のI-15戦闘機1機を撃墜。坂井にとって零戦での初撃墜となる。8月21日、再度の成都攻撃で、I-16戦闘機1機を撃墜。ソ連からの援蒋ルート(北方ルート)を遮断すべく派遣された零戦18機の1機として、運城基地に進出。8月25日、零戦7機のうちの1機として蘭州基地攻撃に出撃。上空を制圧。その数日後、更に奥地の西寧への零戦12機での攻撃に参加。8月31日、岷山山脈の谷間という地形的に上空からの攻撃が難しい松潘基地への攻撃に指揮官新郷英城大尉以下零戦4機で参加。同基地上空に達しつつも、天候不良にて引き返す。坂井は支那事変では実戦を数えるほどしかやらなかったと回想している[8]

台南空[ソースを編集]

比島・蘭印方面[ソースを編集]

1941年(昭和16年)10月、台湾台南基地に新設された台南航空隊(以下、台南空と略)に配属。坂井は台南空で先任下士官兵搭乗員であった。台南空では下士官のみの小隊も組まれ、坂井は初めて僚機を持つことになった。戦後、坂井は、下士官のみで組まれた小隊は自分の隊が唯一であり注目されていたと話しているが、台南空には他にも同様の小隊が複数存在していた[9]。坂井は副長の小園安名中佐に頼まれ、新任で上官の笹井醇一中尉の戦闘教育を任せられたという。また、夜中に現地住民のニワトリを盗み出し、小園安名から「いやしくも日本海軍の軍人が、たとえニワトリの一羽でも、原住民のものを荒らすなどとは、とんでもないことだ」と叱られたが、その後も豚を盗みに行ったこともあったという[10]。またある時は、軍で禁止されていた麻薬成分が含まれたカナカタバコを吸い、他の下士官・兵たちにもそれを勧めていたところを上官の笹井に見つかって「それはカナカじゃないか。それを吸ってはいけないことぐらい知っているだろう。それには阿片が入っているんだぞ」と注意されたがそれでも坂井はやめようとせず、台南空司令部の士官にだけ上等なタバコが支給されていることを批判した。すると笹井は怒りで唇を噛み顔を曇らせて立ち去ると、士官向けに支給された通常の煙草をいっぱい詰めた箱を持ってきて、「みんなで分けろ。あんなくだらんタバコは捨てろ」と指示し、坂井の思惑通りになったこともあったという[11]

1941年(昭和16年)12月8日太平洋戦争開戦、台南空はフィリピンクラーク空軍基地攻撃に参加。第一中隊(新郷英城大尉指揮)の第三小隊(坂井一飛曹、横川二飛曹、本田三飛曹)の小隊長として台南基地を出撃。坂井は、台南空零戦36機で護衛した高雄空一式陸上攻撃機27機、一空九六式陸上攻撃機27機の爆撃成功で、黒煙の上がる飛行場500メートル上空で、米陸軍第21追撃飛行隊のカーチスP-40ウォーホーク戦闘機と初の空戦を行う。坂井は零戦得意の左急旋回からの一撃でP-40戦闘機を大破、同機は滑走路に滑り込んだ。戦後の1991年5月、米国テキサス州で同機に搭乗していたサム・グラシオ中尉と会見し、この空戦の記憶が一致した。

1941年12月10日、空の要塞と呼ばれたボーイングB-17爆撃機を日本が初撃墜した。戦後、坂井がAP通信社の東京支局長ラッセル・ブライアンに対し、この撃墜者が坂井であり、墜落するまで機影を見届けずに「戦果未確認」と報告したと語り、ラッセルが「あれは撃墜だった」と答える会見の様子が「日本タイムス」や「スターアンド・ストライプス」に発表された。しかし、坂井は当日出撃はしたが、当時の台南空・三空の資料に記載されている、B-17を攻撃した複数の搭乗員の中に坂井の名前はない。戦闘行動調書によれば、交戦した豊田光雄、山上常弘、菊池利生、和泉秀雄、野澤三郎の共同撃墜であり、坂井は交戦していない[12]

台南空は、12月25日より、スールー諸島ホロ島へ順次進出。1942年(昭和17年)1月16日、蘭印タラカンに進出。1月24日、坂井はボルネオ島バリクパパン上空哨戒中、米陸軍第19爆撃飛行隊のB-17フライングフォートレス爆撃機の7機編隊を発見。台南空4機(坂井一飛曹、松田三飛曹/田中一飛曹、福山三飛曹)で、20分にわたり攻撃し、うち3機の大破。1月25日、坂井はバリクパパン基地に進出。2月5日、同基地を出撃した坂井は、ジャワ島スラバヤ上空で米陸軍第20追撃飛行隊のP-40戦闘機1機を撃墜。2月8日、新郷大尉指揮9機(新郷大尉、田中一飛曹、本田三飛曹/坂井一飛曹、山上二飛曹、横山三飛曹/佐伯一飛曹、野沢三飛曹、石井三飛曹)の第二小隊長として、バリクパパン基地を出撃。日本陸軍が上陸を開始したセレベス島マカッサル方面に対する爆撃に向かっていた米陸軍第19爆撃飛行隊のB-17爆撃機の9機編隊とジャワ海カンゲアン島上空で交戦。零戦隊は、その後方から忍び寄り、B-17フライングフォートレス爆撃機の防御砲火が相対的に弱いと考えられた正面に回って攻撃。うち2機を協同撃墜し、4機を大破。

2月18日、オランダ領東インド(今のインドネシア共和国)・ジャワ島マオスパティ基地4,000メートル上空で蘭印軍のフォッカーC.XI-W水上偵察機1機を共同撃墜。晩年、坂井は、敵基地への侵攻途中で発見した敵偵察機を攻撃するために味方編隊から離れ、偵察機撃墜後に侵攻する日本軍から逃れる軍人・民間人を満載したオランダ軍の大型輸送機ダグラスDC-4に遭遇し、当時、当該エリアを飛行する敵国機(飛行機への攻撃は軍民・武装の有無は通常問わない)は撃墜する命令が出ていて、相手は鈍重な輸送機であり、容易に撃墜可能な相手ではあったが、坂井はこの機に敵の重要人物が乗っているのではないかと疑い、生け捕りにする事を考えたため、日本の基地へ誘導するために輸送機の横に並んだ時、輸送機の窓に震え慄く母娘と思われる乗客たちが見えることに気づき、それが青山学院中等部時代に英語を教え親切にしてくれたアメリカ人のマーチン夫人と似ていたため、さすがに闘志が萎え、当該機を見逃す事に決め、敵機のパイロットに行けと合図して逃がし、帰投後上官には「雲中に見失う」と報告したと語っている。それ以前の著書では、輸送機を捕虜にしようと威嚇射撃を行ったが、断雲を利用して全速で逃げられたと書いていたが、その理由は、『坂井三郎空戦記録』の執筆に取りかかった昭和25年は、占領下でマッカーサー司令部が戦犯追及をしていたので、関わり合いになりたくないと思ったからと述べている[13]。坂井の主張とは別に、「海外の調べで機内から坂井機を見ていたオランダ人の元従軍看護婦の生存が確認された」、「看護婦が「あのパイロットに会いたい」と赤十字等の団体を通じて照会して坂井と分かり再会した」、「看護婦が坂井の著書を読んで知り再会して日時や両者の記憶が一致し互いの無事を喜び合った」などの詳細不明の後日談が様々な形で主張されている。しかし戦闘行動調書によると、著書に記載された2月25日は輸送船団上空直衛の任務についており、2月18日、25日ともに輸送機を発見しておらず、また別日にも坂井が輸送機を発見したような出撃記録はない[14]

2月28日には、バリ島デンパサール基地より出撃し、ジャワ島マラン西方の6,000メートル上空で、蘭印軍のブリュースターF2Aバッファロー戦闘機(C.A.フォンク少尉機)を左垂直旋回から発射機銃弾160発で撃墜。

ラバウル方面[ソースを編集]

1942年4月1日、台南空は第25航空戦隊に編入され、ラバウル方面に移動する。4月16日、台南空はニューブリテン島ラバウルに進出。17日、ラバウルの前進基地となるニューギニア島東部のラエ基地に進出。この基地から連合国軍(米豪軍)のポートモレスビー基地まで近距離であり、台南空は、ポートモレスビー攻撃、連合軍のラエ基地爆撃の邀撃に従事する。この頃、坂井は遠方から油断した単独の敵機を発見し、後ろに回って死角である胴体の真下から隠れながら高度を上げて接近し、優位な位置を占めることに成功する運のいい巡り合わせがよくあり、隊内では坂井の落ち穂拾い戦法と笑い話になったという[15]

1942年(昭和17年)5月27日、飛行機隊長中島正少佐が指揮官の零戦18機によるモレスビー攻撃に参加し、6時20分ラエを発進し、小規模な空戦後、その日は小隊長じゃなかったので坂井は同じ中隊の西沢広義太田敏夫の3人でひそかに打ち合わせていた通り、中隊を離脱し、無断でポートモレスビーのセブンマイル飛行場上空にて3人による三回連続編隊宙返りを行い、中隊から遅れて基地に帰着、敵側はこれを天晴れと見物していたらしく攻撃されることは無かったが、後日、敵側から賞賛の手紙が基地に届いたため、上官の笹井にけしからん、と叱られた、と坂井は語っている。坂井の自伝として海外で出版された『SAMURAI』では5月17日の出来事としている。『SAMURAI』の共著者のマーティン・ケイディンは戦後に当時ポートモレスビーにいたある米兵からそれを目撃したことを聞いたと主張している。しかし、戦闘行動調書によれば、5月17日は11時45分に13機がラエに帰着、2機がサラモアに帰着し、5月27日の攻撃は山下政雄指揮の零戦27機がラエから8時50分に発進してモレスビー上空で交戦後、11時30分に全機がラエに帰着しており、さらにいずれも坂井は小隊長であり、3人は同じ中隊に所属していなかった。坂井が他の著作で主張した6月25日には太田が出撃していない。その他の日も合わせて日本でも連合軍でも坂井たちが別行動をとった記録はない[16]

1942年6月9日、来襲する敵爆撃機の迎撃に参加。後にアメリカ大統領となったリンドン・B・ジョンソン下院議員時代にB-26爆撃機に同乗してこの戦闘に参加し、撃墜されかけたと語っているが、ジョンソンの搭乗機は、エンジントラブルで引き返しており、議員の安全を優先させたためか、爆弾も投下しておらず、戦闘には参加していないとの公式記録がある[17]

負傷[ソースを編集]

負傷した戦闘から帰還した直後に撮影した写真

1942年(昭和17年)8月7日、ガダルカナル攻撃に参加。坂井は仲間とともにアメリカ海軍のジェームズ・“パグ”・サザーランドのF4Fと交戦した。サザーランドは陸攻との交戦が原因で黒煙を吹きながら、坂井三郎、柿本円次羽藤一志山崎市郎平と格闘戦になったが、零戦の後ろを取ったとき、機銃が故障していることに気がついた。攻撃を受けながらも5分ほど格闘戦を続けたが、どんどん高度が落ちて坂井、羽藤、山崎によって共同撃墜された[18]

その後、ガダルカナル島の上空において、坂井はSBDドーントレスの編隊を油断して直線飛行しているF4Fワイルドキャットの編隊と誤認して不用意に至近距離まで接近したため、坂井機は回避もままならないままSBDの7.62mm後部旋回連装機銃の集中砲火を浴びた。その内の一弾が坂井の頭部に命中、致命傷は免れたが右側頭部を挫傷し(そのため左腕が麻痺状態にあった)計器すら満足に見えないという重傷を負った。

坂井は被弾時のショックのため失神したが、海面に向けて急降下していた機体を半分無意識の状態で水平飛行に回復させている。一時は負傷の状態から帰還は無理と思い敵艦に体当たりを考えたが発見できず、帰還を決意。まず止血を行い出血多量による意識喪失を繰り返しながらも、約4時間に渡り操縦を続けてラバウルまでたどり着き、奇跡的な生還を果たした。正常な着陸操作ができる状態ではなかったため、降下角と進入速度のみをコントロールし、椰子の木と同じ高さに来た時、エンジンを足で切って惰性で着陸するという方法を取った。周回をあと1回行っていたら、燃料切れで墜落していたと言われるほどきわどいものであったと語っている。丹羽文雄が重巡洋艦「鳥海」からびっくりするほど低空を飛行している零戦を目撃したと記しているが、これは日時が違い坂井ではない[19]

坂井が受けた傷はラバウルの軍医では治療できず、内地に帰還。坂井は、笹井から「貴様と別れるのは、貴様よりもつらいぞ」と言われ、虎は千里を行って千里を帰るという縁起から坂井がまた帰って来るように、笹井が父からもらった虎のベルトバックルを渡されたという。その後笹井は戦死したが、がっかりするだろうからという理由で半年間、坂井には知らされず、知ったときは自分がついていたらきっと殺さなかったのにと地団太踏む思いがしたという[20]

横須賀海軍病院で手術を受けたが、右目の視力をほぼ失い左も0.7にまで落ち、左半身は痺れた状態だった。右目の視力を失ったことにより、搭乗員はもちろん軍人としてさえ勤務はできないであろうから軍人を辞めるように宣告された。市中での生計手段として指圧師や按摩師の道を勧められ、研修も受けていたが、転職する前に転院することになった[21]。佐世保病院に移されたときに、ラバウルより帰国して再編成中の251空(改称後の台南空)に行った坂井は、司令になっていた小園安名中佐に対して「片目でも空戦経験の少ない戦闘機乗りよりも、私は使えると思う」と説得した。軍医は反対したが、小園も訓練を見てみて具合が悪くて飛べなくても教官にすると言って、坂井は留まることになった[22]。台南空が内地で訓練する間、坂井が後輩たちをバットで殴る指導もあった。坂井はラバウルでは10月になると死者が出て、内地で教える時間がないからまずい戦いをしたやつは殴った、殴ると反省するから効果があったと語っている[23]

1942年10月、飛行兵曹長に昇進。1943年(昭和18年)2月、豊橋航空隊で搭乗員に復帰して訓練を行ったが、ラバウル進出直前の1943年(昭和18年)4月、大村航空隊に異動、教官に配属される[24]

硫黄島[ソースを編集]

1944年(昭和19年)4月13日、横須賀海軍航空隊に配属。台南空の上官だった中島正少佐によって、大村空で教官をしていた坂井は横須賀空へ呼び寄せられた。

戦況の悪化、絶対国防圏の重要な一角であったサイパン島への米軍上陸を受け、横須賀航空隊に出撃命令が下り、1944年(昭和19年)6月22日、中島正少佐指揮の零戦27機に参加し、硫黄島へ進出。中島は訓練を見る限り坂井は戦えるところまで目が治っていると考え、若いパイロットを元気づけるためにも出てほしいと頼まれたことで、坂井は右目の視力が完全に治っていない状態で前線に戻ることになった。横空派遣部隊は、硫黄島防衛に加え、マリアナ沖海戦に勝利したばかりで、マリアナ諸島沖に展開の米海軍機動部隊第58任務部隊)を攻撃することも視野に入れつつ、三沢基地で練成中だった252空他と共に、零戦の他に艦上攻撃機天山艦上爆撃機彗星他も含めて急遽編成された「八幡空襲部隊」の傘下に加えられた。

戦闘詳報によれば、硫黄島で坂井が参戦したのは、6月24日の敵艦上機邀撃戦闘と攻撃機隊援護だけである[25]

まだ八幡空襲部隊が硫黄島に移動集結中であった6月24日早朝、米海軍第58任務部隊第1群のVF-1、VF-2、VF-50航空隊のグラマンF6F ヘルキャット戦闘機約70機が、空母ホーネット、空母ヨークタウン 、空母バターンを発艦して硫黄島に来襲。これをレーダー探知して、横須賀空の25機、そして252空と301空(戦闘601飛行隊)の32機、合計57機の戦闘機が6時20分に硫黄島上空に迎撃に上がる。梅雨前線の影響で高度4千メートル付近に厚い雲層が立ち込めるなか、迎撃機は雲上と雲下に分かれ、7,8機引き連れた坂井の雲下組は、離陸後、硫黄島西岸の雲下、高度3千メートルを急上昇中のところ、早くもこの時点で侵攻してきたF6Fヘルキャット戦闘機群に遭遇。坂井の属する雲下組は離陸の順番が遅かったことで、予定の高度をとれず、硫黄島防空戦に突入する。坂井は一機と旋回戦になって左ひねり込みに誘いこみ巴戦で撃墜[26]、視界の利かない右側後方から、不意に敵戦闘機の射撃を受けていることに気付き、途中から、肩バンドを外して何度も右側を振り返って右側の視界を補いつつ撃墜、合計でF6Fヘルキャット戦闘機2機を撃墜したという[27]

坂井はこの空戦の終了時に、視力不足から、母艦へ帰還するF6Fヘルキャット戦闘機編隊を味方零戦と誤認して編隊に加わり、敵戦闘機15機に包囲されたという。一方、上空からの目撃証言によれば、坂井が囲まれたのは4機のラフベリーサークルであったという[28]。坂井は左旋回だけで逃げたと話しているが、目撃証言によれば、右に左に逃げていたという。戦後、坂井はアメリカで攻撃してきた生き残りと出会い、坂井の飛び方なら100機のグラマンでかかっても落とせないと賞賛されたと語っている[29]

この早朝の迎撃戦で坂井の小隊に所属した僚機の柏木美尾一飛曹と野口壽飛長が未帰還になっている[25]

坂井の著書「大空のサムライ」の描写では、迎撃戦の後、体調不良のため、一時地上待機して、7月4日に復帰し、7月5日、横須賀空の残存兵力の全てとなった天山8機と零戦9機の合計17機のみで、米機動部隊、第58任務部隊の大艦隊に対し、白昼強襲をかけたとして次のように書いている。

戦闘機隊指揮官は、山口定夫大尉、第二小隊長に坂井、第三小隊長は武藤金義飛曹長であった。出撃前、横須賀空司令の三浦鑑三大佐より、「本日は絶対に空中戦闘を行ってはならない。雷撃機も魚雷を落としてはならない。戦闘機、雷撃機うって一丸となって全機、敵航空母艦の舷側に体当たりせよ。」との訓示がなされ、ここに実質的に日本海軍初の航空特攻命令が下された。攻撃隊は米側レーダーに捕捉され、敵艦隊に達する前に30機以上のF6Fヘルキャットに迎撃を受ける。命令にて零戦隊も空戦もできぬまま、天山は次々と大爆発を起こし、8機中7機までが瞬時に撃墜されてしまう。零戦隊自体も多勢に無勢で、山口大尉も含めて、零戦も5機までがここで撃墜されてしまう。撃墜を逃れたのは、命令に反して、反撃に転じた武藤飛曹長と坂井小隊3機の計4機のみであった。坂井は反撃して、F6Fヘルキャット1機を撃墜[30]するが、その間に武藤機ともはぐれた坂井小隊3機は、敵艦隊を引き続き捜索するが叶わず、坂井は硫黄島への帰還を決意する。ただ、片道を前提に、帰路は全く念頭に置いていなかった状況で、正確な現在地もつかめず、日没迫るなか、硫黄島への帰還は絶望的であったが、坂井の長年の勘で、日没後、奇跡的に硫黄島への帰還を果たす。坂井は、二番機の志賀正美一飛曹と三番機の白井勇二二飛曹とともに暗闇の飛行場で、唯一撃墜を逃れた天山1機の誘導で先に帰還した武藤飛曹長と再会。生き残った4人で三浦大佐に報告に行くと、「御苦労だった。詳しくは明日聞こう」の一言。部屋は酒の匂いで満ちており、前例の無い自爆攻撃を下令しなければならなかった三浦大佐の心中も穏やかではなかったのであろうと語られている。

公式記録では、米機動部隊攻撃に発進したのは、最初の迎撃戦が行われた6月24日の午後であり、編成も零戦23機、彗星艦爆3機、天山艦攻9機(内、横空零戦隊は9機)となっている。攻撃隊の総合被害は未帰還:零戦10機 天山艦攻7機(内、横空被害は未帰還零戦4機、天山艦攻7機)である。坂井の著書で戦死したとされている山口大尉は、記録ではこの攻撃では戦死しておらず、山口大尉の戦死は「7月4日」の第四次硫黄島上空邀撃戦であり、同日午後の米艦隊の艦砲射撃により残存機は全機破壊されている。また、7月5日に米機動部隊に対する攻撃が行われた公式記録は無い[25]

少尉時代[ソースを編集]

硫黄島から帰還後の1944年(昭和19年)8月少尉特務士官たる少尉)に昇進。同年12月、第三四三海軍航空隊(通称『剣』部隊。以後、343空とする)戦闘七〇一飛行隊『維新隊』に配属。343空が装備する最新鋭戦闘機紫電改の操縦などの指導に当たる。 紫電改については、航続力がない点からみれば九六艦戦時代に逆戻りした感があるが、極めて斬新な設計(空戦フラップ)が施された優秀な戦闘機と評していたが[31]、晩年には「制空戦闘機とも局地戦闘機ともいえない中途半端な戦闘機」と批判的になっている[32]

指導に当たった坂井は空戦講話をやったが、激戦を経験した若者には不評だった。いわゆる昔語りに過ぎず、暴力をたびたび振るったことも反感を買った[33]。特に坂井より8つ年下でありながら、坂井の撃墜数を超える杉田庄一は大村空でも坂井と一緒だったが、杉田は坂井が前線から退いた後もずっと勝ちぬいてきた誇りがあり、また後輩に対して鉄拳制裁を好まず面倒見の良い優しい性格だったことから、自分より若い搭乗員達をことごとくジャク(未熟者)呼ばわりする坂井を嫌い、「坂井は敵がまだ弱かった頃しか知らない、坂井がいなくなった後の方が大変であった」と言って対立し、343空でも「零戦は正しく整備、調整されていれば、たとえ手を離して飛んでも、上昇下降を繰り返してやがて水平飛行に戻る。意識を失って背面状態に入り、それが続くなんてことはない。だいたい、意識がないのにどうして詳しい状況が話せるんだ」と批判し、また「あんなインチキなこと言うやつはぶん殴ってやる」と公言していた。飛行長の志賀淑雄少佐は一触即発の状態に苦慮し、空戦に使える杉田を残し、坂井の経験を活かすため飛行実験を任務としている横空へ武藤金義との交換の形で異動させる事にした[34]。これに対し横空は反発し、特に塚本祐造は、片目が見えない坂井と武藤の交換は割にあわない、横空は飛行実験だけが任務ではないとして、猛反発した。結局、野口毅次郎少尉を付けての2対1の交換でまとまった[35]。交換された武藤金義少尉が豊後水道上空の空戦において戦死したため、坂井は武藤少尉が自分の身代わりになって戦死したように感じると語っている。

1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾。松田千秋司令は、准士官以上を講堂に集合させ、「残念ではあるが日本は降伏することになった。しかし、厚木、その他の航空隊では、徹底抗戦を叫んで降伏をがえんじないようであるが、うち(横空)はこれには加わらぬ。諸君も無念ではあろうが、軽挙妄動してはならぬ」と戒めた[36]。しかし、晩年になると坂井は、横空は無条件降伏に納得せず厚木航空隊に同調し、松田司令が徹底抗戦を叫んでパイロットも引く気がなく、やってくる航空機に対する攻撃は国際法上で正当防衛と聞き、8月17日に他の機種に目もくれず零戦52型で出撃したと語っている[37]1945年(昭和20年)8月17日、アメリカ軍をはじめとする連合国軍による占領下の沖縄の基地から日本本土偵察のため上空写真の撮影に飛来していたB-32ドミネーター2機を多数の日本海軍機が襲撃して房総半島から伊豆諸島の上空で交戦した第二次世界大戦最後の空中戦があった。結果はB-32の搭乗員1名が戦死、2名が負傷。ダメージを負った機体は沖縄へ退いた。この戦闘での死者がアメリカ軍兵士の第二次世界大戦での最後の戦死者となった。この交戦に参加した小町定は「紫電ですら追いかけるのに苦労したのに、零戦では無理」のような趣旨の発言をして、離陸した坂井が攻撃には参加できなかったことを示唆している[38]。しかし大原亮治上等飛行兵曹は零戦52型で同日にB-32を迎撃し、三撃目までを加えたことを証言している。小町と大原の証言を本にまとめた神立尚紀は、この日飛来したB-32は複数機だったらしく、小町と大原が迎撃したのはそれぞれ別の機体であろうと判断している[38]

9月5日、ポツダム進級により海軍中尉。

戦後[ソースを編集]

戦後は、笹井醇一の親戚で大西瀧治郎の妻である大西淑恵に社長を依頼して印刷会社を経営した。1945年12月、AP通信社東京支局長のラッセル・ブラインズが日本の撃墜王に会いたいと復員省に依頼し、中島正中佐の推薦により、東京在住で連絡が取れるということで、きわだって目立つ存在ではなかった坂井が紹介された。その縁で福林正之にも紹介され、坂井の著書が出版されることになった[39]。その後もさまざまな著書を出版し、『SAMURAI!!』が海外で売れたことや一人娘がアメリカ軍人と結婚したことにより、渡米する機会も得るようになった。

戦後、坂井は元部下の内村健一が始めたねずみ講組織である天下一家の会に参加し、ほとんどの元下士官搭乗員たちを勧誘して被害を出すなど広告塔的存在となっていた。訴訟が相次いだが、規制する法律は間に合わず、ねずみ講は社会問題化していた。当時は頻繁に宗教法人が映画によって広報活動を行っており、1976年(昭和51年)、坂井の『大空のサムライ』が天下一家の会の宗教法人「大観宮」(大観プロダクション)から資金提供を受けて制作された。零戦にねずみ講のイメージが付くことを嫌悪した元零戦搭乗員たちが「零戦搭乗員の会」を一度解散して、新たに「零戦搭乗員の会」を設立する事態まで起こった[40]。このことで坂井はますます居場所をなくしてしまった。

1983年、アラバマ州空軍の航空200年祭に招待された坂井は、原爆投下の指揮・立案をしたポール・ティベッツが軍人として命令(原爆投下作戦)を遂行したことを賞讃し、坂井も原爆投下を命令されれば実行したと発言して、二人は握手した。この発言に被爆者たちからは非難の声が上がった。もっとも坂井は、原爆投下の道義的責任はハリー・S・トルーマン大統領にあると話してティベッツの個人的責任を追及しなかっただけで、原爆投下それ自体を問題無しとした訳ではない。

1987年7月、ワシントン州シャトル市で、エクスペリメンタル機(手作りのプラスティック飛行機)でスタントを体験する機会を得た。老いたパイロットが今も飛行機を見事に操縦した事で賞賛を受けるも、坂井は戦争以来のGに胃袋が腹の底に伸びきったような感じがしたと語っている[41]P-51ムスタングを操縦した時(一般人でも教官が同乗することで、訓練用の複座型であるTF-51の操縦桿を握ることができる体験飛行がある)は、感想としてその性能に脱帽したと言っている。

東大教授加藤寛一郎航空自衛隊を取材した際には、遠回しに「坂井三郎には近づきすぎない方がいい」という注意を受けたという[42]。航空自衛隊の士官あるいは幹部(空自のパイロットは全て幹部)は組織戦を好み、戦いを組織の戦いと考えているので、彼らから「自己宣伝をしすぎる」「宣伝が上手すぎる」「単なる職人」「自分のためだけに戦っていた」と見られる坂井は好印象を持たれていない。坂井より腕のいい戦闘機乗りはたくさんいたが坂井だけが有名になっていたと考えている人もいた[43]。なお、「坂井は単なる職人」という批判に坂井は、「それこそが我々の誇りである。それによってのみ、我々は存在意義を示せるのだ」と語っている[44]

1995年代頃、坂井への関心は薄れており、当時坂井の漫画の連載を開始した「ミスターマガジン」編集部によれば、読者は坂井三郎の名前すら全く知らなかったという[45]。また、アメリカでも本が売れたはずの坂井が米海軍に招待されることはなく、厚木や横須賀の米海軍でも、他の零戦パイロットと比べて関心は低かった。あるときから坂井も招待されるようになったのだが、始めのうちは、アメリカのパイロットたちはみんな大原亮治に寄ってきて、坂井のことは誰も知らなかったので大原も一生懸命先輩の坂井を立てようとしていた[46]。しかし、坂井は週刊プレイボーイの人生相談の連載などを開始し、プレイボーイ編集長などの出版関係者は坂井三郎を宣伝する「零の会」を結成して活動を開始した[47]。それから徐々に坂井の知名度が回復した。

マイクロソフトで発売された『Microsoft Combat Flight Simulator 2』(フライトシミュレータ)では、パイロット経験者や技術者などからの取材が参考にされており、坂井も取材に協力している。完成の暁には、同じく取材に協力した元アメリカ軍パイロットとのゲームでの空中戦も予定されていたが、完成を見る前に他界した。

当時の彼の愛車、スカイラインGTを引き合いに出され、「自動車と零戦はどっちがいいですか?」という質問に、「そりゃあ、車の方がよいに決まっています。車はバックができますから」と答えている。晩年は「戦闘機のように見晴らしが良い」という理由でユーノス・ロードスターを愛車としていた。 坂井は、最近の若者には向上心が足りずだらしがないと苦言を呈することもあったが[48]、『朝まで生テレビ』に坂井が出演した際には、現在の若者への苦言を期待された質問に、「自分の時代にも若いやつはだめだと言われ続けた」と答えて、スタジオ内で観覧していた若者から拍手が起きた。 生前は自宅の玄関から階段付近に鉄棒を渡し、ひまなときに懸垂やぶら下がりをしていた。70歳過ぎて悠々と懸垂を披露する姿に、多くの来客は驚嘆させられた。

2000年(平成12年)9月22日、坂井は米軍厚木基地の司令官交代式に招待されたときに倒れた。帰途につく際、体調不良を訴えたため、大事をとっての検査入院中の同日夜に死去。享年84。検査中に主治医に配慮して、「もう眠っても良いか」と尋ねたのが最期の言葉となった。坂井の葬儀のそばで元零戦搭乗員が30名ほど集まる会合もあったのに、坂井の生前の行いもあり、元零戦搭乗員で参列したのは4人だけだった[49]。他の零戦搭乗員たちからの反感、ゴーストライターの存在、ねずみ講の事件など批判のあった坂井の行動を取り上げている『祖父たちの零戦』を読んだ娘の道子は、熱狂的なファンには聞き捨てならないように思えるかもしれないが、全て父である坂井三郎から聞いて知っていたことと述べている[50]

空戦[ソースを編集]

日中戦争での坂井

成績[ソースを編集]

公認撃墜数は28機[51]。著書などにある撃墜数64機という数字はマーチン・ケイディンが宮本武蔵の真剣勝負の数から付けた数字であり、作家神立尚紀の取材に対し坂井は「実際に撃墜した数は六十四機よりうんと少ないかもしれないし、もっと多いかもしれない。」と把握していないことを述べている[52][53]。著書などにある出撃回数が200回というのも事実と異なり、加藤寛一郎の取材で坂井もそれを認めたが、「ただ、空戦回数は200回ぐらいあります。野球にたとえますと、一試合でバッターボックスには4回ぐらい立つ。だから空中戦も、ここで一球、こっちへ来てまたやってということで、なかなか回数と言うのは数えられない」「この数字は少ないほう」と語り、加藤から「でも、それで(撃墜の)最高機数をマークされたわけですね」と質問されると、坂井は「だから(撃墜の)確率は非常に高かった」「けっきょく相手がへぼだった」と返答している[54]

戦後、坂井は僚機を撃墜されたことがないと主張していた。しかし、1942年5月12日に敵から被弾した小林民夫が帰還中に不時着、沈没(小林は軽傷)しており[55]、1944年6月24日には敵艦上機邀撃戦闘で柏木美尾一飛曹、野口壽飛長が未帰還になっている[25]など、実際のところは、坂井の僚機は撃墜、死亡している。 この「僚機を殺したことがない」という自慢に対して反発する者もおり、「よい僚機に恵まれたから生き残れたんじゃないか。せめてひと言感謝の言葉があればもっと尊敬されたのに・・・」と批判もあった[56]。坂井の「ただの一度も飛行機を壊したことがない」という主張も、1941年12月12日の戦闘で被弾して不時着した際に機体の修理が必要になっている[57]など、実際は機体を壊したことがある。低燃費航行に長け、最小燃費の最高記録保持者と自負している。

戦法[ソースを編集]

坂井は戦闘機乗りが最後の頼みとするのは自分だけであるという。格闘戦で一騎打ちをやる場合、徹底的な頑張りがなくてはいけない。必ず勝てるという信念で頑張りぬいた者が空中戦で敵に勝つ人で、辛いと思うときは互角かむしろ勝っている方が多い。その苦しい最後のとき、へばったものが落とされる運命であるという[58]。また、坂井は空中戦の鉄則はまず見張りであり、敵を発見したら自分は撃てるが相手は撃てない位置に潜り込め、空中戦は牧羊犬の動きと考えよという[59]。格闘戦に入ったら自分の得意の技に引き込むごとく操縦せよ。相手の尾部が目に入ったらわれ勝てりだという。格闘戦とは自分が不利に立たされた最後の手だと思え、相手を動かさない据え物切りこそ空中戦の極意ともいう[60]。晩年に行われた加藤寛一郎の取材では、格闘戦とは窮地に入ったときの脱出法と心得よ、空戦は据え物斬りと心得よという点を強調していたという[61]。坂井は、目を鍛えたことで2万メートルから2万5千メートル先の敵が見えるようになったことが割と格闘戦をやらないで撃墜できた理由と主張している。ドッグファイトでは自分もピンチになることがあるので、圧倒的有利に立った奇襲一撃で先手を取るという[62]。著書には「左捻り込み」で撃墜する描写がみられるが、最晩年の坂井はただの一度も実戦では使ったことがないと主張している[63]。坂井は、死角であり、気づいてダイブする敵も翼を傾け背面になって絶好の標的になるとして後下方からの攻撃を好んだという[64]。坂井は、空戦空域に入った際の見張り方を「前を2、後ろを9」の割合で索敵するという[65]。坂井は水平線より上の索敵を得意としていたという。

空戦指導に関して坂井は、初心者には相手に食らいつきいよいよ機銃発射という直前には後方を確認するように教え、その上の者には追ってくる次の敵の未来位置を想定して攻撃をかわすように教え、さらに上の者にはかわすだけではなく巻き返してカウンターで撃墜するように教えると語っている[66]

視力に関して、笹井の手紙にある「坂井三郎という男あり、片目0.8ながら、なおかつ私よりも敵を早く発見し・・・」という記述について聞かれた坂井は、支那事変で一度負傷した際に破片が目の瞳孔のど真ん中に突き刺さり、ワセリンで拭いてもらい見えるようになったが、左目が飛行機乗りで最低の0.8になったからで、右目は鍛錬でぐんぐん視力がよくなり、今度はガダルカナルで右目をやられると左目がぐんぐん見えるようになったと語っている[67]。坂井は昼間に星を見て視力を鍛えたと主張しているが、加藤寛一郎は「昼間に星が見えた」とは、南の島で上を向いて頭を固定して、星座表で星の位置をあらかじめ確かめておき、午後二時から三時ごろ、五つか六つ星が見えるという意味であろうという[68]

零戦の最大の武器は20mm機銃という説に対し、坂井は「20mmは初速が遅く、ションベン弾」と低い評価をしており、命中率が悪い上に携行弾数も7.7mmより少なく、弾倉に被弾したら機が四散するほどの誘爆を起す危険を指摘している。しかし「敵機の翼付け根に一発でも命中すれば、翼が真っ二つになった」ともいい、その威力に関しては評価もしている。自身のスコアのほとんどは機首の7.7mm機銃でのものだったと語っている[69]。また、「前縁いっぱいに一三ミリ砲の火を噴くアメリカ軍の戦闘機を羨ましく思った」と語っている。

特攻作戦に赴く特攻隊員に対しては、「遅かれ早かれ我々も行かなきゃいかん。遅いか早いかだよ。ただし、どうせ行くんだから命中したいなぁ。それには俺の言うことを聞け。それには(角度を)絶対に深く行っちゃ駄目だよ」と声をかけて送り出していた[70]。戦後、坂井は硫黄島で特攻を命じられたことについて(実際に命じられた記録はない)、特攻を名誉に思う反面、「なぜおれが」という気持ちがあったと語っている[71]。また、「特攻で士気があがったと大本営は発表したが大嘘。『絶対死ぬ』作戦で士気があがるわけがなく、士気は大きく下がった」とも答えている[72]

著作活動[ソースを編集]

坂井が戦後出版した著書にはゴーストライターの存在が指摘されている。作家の神立尚紀の取材では、『坂井三郎空戦記録』は福林正之が坂井への取材や独自の取材などをもとに書き、『SAMURAI!!』はフレッド・サイトウによる坂井へのインタビューをもとにマーチン・ケイディンが脚色して書き、『大空のサムライ』は光人社社長の高城肇がアメリカ的な空戦活劇である『SAMURAI!!』を坂井と相談して日本向けに直したことを坂井も認めている[73][74]。一方、東大教授の加藤寛一郎の取材では、「著書にはゴーストライターの存在が噂されるが、真実はいかに」という問いに対し、坂井は「当初はそれを考えていたが飛行に関する部分がどうしても我慢ならず、結局すべて自身で書き直した」「一言一句自分で書く」また「何度も何度も書き直す」と答えている。但し、各エピソードの順番に関しては出版社の意見を聞くこともあるとも回答している[75]。しかしながら坂井の著書の内容は、それぞれの著書の間や実際の記録との間でも矛盾がいくつも指摘されている[76]

毎日新聞によると、イラク政府軍のある部隊では、戦意高揚の一つとして、マーチン・ケイディンの『SAMURAI!!』をアラビア語に翻訳してパイロットに必読を義務付けていたという[77]

作家の渡辺洋二は、第2次世界大戦の航空戦史と飛行機に深い関心を持つ私が、零戦関係者の名をいくつも並べられるのは当然だ。しかし搭乗員名を関心の大きな順に語っていくとしたら、坂井三郎はずいぶん後回しになってしまう。今日にいたるまで坂井に取材したいと思ったことはないと語っている[78]

晩年は太平洋戦争研究家を自称して、日本軍上層部に対する批判が多く見られる。不時着して捕虜となった後に陸軍に救出され帰還した陸攻隊員に対して、山本五十六連合艦隊司令長官が自爆命令を下して5月の初めにラエ基地にその陸攻部隊が来たときに坂井は批判したと主張しているが[79]、実際には陸攻の自爆命令は第11航空艦隊から発令され3月31日に実行され坂井と接点すらなかったなど坂井の批判には知識の誤りや虚偽が見られる[80]

また、坂井は元上官が死んで反論できなくなるたびにイニシャルを使ってこきおろしたが、イニシャルが同じ別人まであらぬ詮索をされ、上手いやり方とは言えなかった。また人間には相性があるので、坂井が嫌っていた上官にも慕っている部下はおり、坂井が「敵」と名指しした士官より、味方であるはずの下士官兵搭乗員から多くの反感を買った[81]

坂井は「どんな失策があっても、政治家や大企業経営者が責任をとらずに問題がうやむやになる今日の日本の状況は、そもそも天皇の戦争責任が厳しく問われていないからだ」と繰り返し主張していた[82]。さらに坂井は日本人を一億総寄生虫と評し、「戦後の日本の物質的な繁栄はアメリカに寄生してきたおかげです。日本人の勤勉さがどうとか言いますが、これだけ繁栄することができたのは幸運の一語につきます。(中略)韓国が経済的に苦しかったとき、朴正煕大統領が日本に50億ドルの援助を依頼した。大統領はこう言ったそうです。「朝鮮戦争で我々韓国人が血を流して戦ったからいまの日本がある。50億ドルくらいなんだ」と。それはそうなんです。ベトナムでもいちばん勇ましかったのは韓国兵だった。戦死者が多かったのも韓国軍だ。日本は戦後、血も流さず、汗も流さず、何もせずにひたすら金もうけをしていた。(中略)日本はなにもせず経済発展に邁進した結果、アメリカの寄生虫になってしまった。その寄生虫がてんでに勝手なことを言っている。高校や大学でそういうことを教えないと、日本は危ういと思います」と持論を展開している[83]

坂井には、「零の会」という出版関係者で組織された後援団体が存在する(会内では「坂井教」と呼ばれている)。坂井三郎の宣伝活動を目的にして、坂井の死後も活動している[84]

戦記物の漫画を書いていたが売れずに困っていた水木しげるに「戦記物は勝たなければダメだ」とアドバイスを送っている。しかし、日本軍が優位だった時期に活躍し、劣勢期には負傷して退いていた坂井に対し、負けだしてから戦地に送られたため劣勢期しか知らない水木は、なかなかアドバイスどおりに漫画を描くことができず苦労したという。

著作[ソースを編集]

著書[ソースを編集]

  • 『坂井三郎空戦記録』
  • 『大空のサムライ』正・続・戦話
  • 『零戦の真実』
  • 『零戦の運命』
  • 『零戦の最後』
  • 『零戦の勇者』

協力[ソースを編集]

脚注[ソースを編集]

  1. ^ 『坂井三郎空戦記録(上巻)』講談社プラスアルファ文庫p34-p42
  2. ^ 『零戦の秘術』p45
  3. ^ 『零戦の秘術』p46
  4. ^ 『零戦の秘術』p91
  5. ^ 『零戦の秘術』p91-92
  6. ^ 『原田要『わが誇りの零戦』』桜の花出版p54-58
  7. ^ 堀越二郎・奥宮正武『零戦』学研M文庫274-275頁
  8. ^ 『零戦の秘術』p58
  9. ^ 『坂井三郎『大空のサムライ』研究読本』p36
  10. ^ 坂井三郎『我が零戦の栄光と悲劇』p.59-p.63
  11. ^ 『わが零戦の栄光と悲劇』p89-92
  12. ^ 『坂井三郎『大空のサムライ』研究読本』p50-51
  13. ^ 『零戦の運命』p434-437
  14. ^ 昭和17年2月~昭和17年3月 台南空 飛行機隊戦闘行動調書(3)』 アジア歴史資料センター Ref.C08051602100 
  15. ^ 坂井三郎『坂井三郎空戦記録 下』講談社文庫78-83頁
  16. ^ 『坂井三郎『大空のサムライ』研究読本』p.145-p.156
  17. ^ 『零戦の秘術』p344
  18. ^ 郡義武『坂井三郎『大空のサムライ』研究読本』p.249-p.250
  19. ^ 丹羽文雄『海戦』
  20. ^ 坂井三郎『坂井三郎空戦記録 下』講談社文庫227-228頁
  21. ^ 坂井三郎『我が零戦の栄光と悲劇』p.205、坂井三郎『大空のサムライ完結編』光人社NF文庫119-120頁
  22. ^ 坂井三郎『我が零戦の栄光と悲劇』p.212-p.214
  23. ^ 『零戦の秘術』p64
  24. ^ 坂井三郎『我が零戦の栄光と悲劇』p.218
  25. ^ a b c d 横須賀海軍航空隊硫黄島派遣隊戦闘機隊戦闘詳報 昭和19年7月20日』 アジア歴史資料センター Ref.C13120487500 
  26. ^ 坂井三郎『我が零戦の栄光と悲劇』p.232-p.236
  27. ^ 坂井三郎著 「坂井三郎空戦記録(全)」改定版 1966年、出版共同社、272頁。
  28. ^ 『零戦の秘術』p335
  29. ^ 『零戦の秘術』p209
  30. ^ 坂井三郎著 「坂井三郎空戦記録(全)」改定版 1966年、出版共同社、290頁。
  31. ^ 坂井三郎『坂井三郎空戦記録 下』講談社文庫340頁
  32. ^ 世良光弘『坂井三郎の零戦操縦』170頁
  33. ^ 『祖父たちの零戦』p329-330
  34. ^ 『祖父たちの零戦』p330-331
  35. ^ 『祖父たちの零戦』p332
  36. ^ 坂井三郎『坂井三郎空戦記録 下』講談社文庫147-148頁
  37. ^ 『爺言』p42-43
  38. ^ a b 神立尚紀 『零戦 最後の証言〈2〉大空に戦ったゼロファイターたちの風貌
  39. ^ 神立尚紀『祖父たちの零戦』講談社315頁
  40. ^ 『祖父たちの零戦』p339-344
  41. ^ 『坂井三郎「写真 大空のサムライ」』p270
  42. ^ 『零戦の秘術』p327
  43. ^ 『零戦の秘術』p327-328
  44. ^ 『零戦の秘術』p328
  45. ^ 宗像和広『戦記が語る日本陸軍』銀河出版p76
  46. ^ 神立尚紀ブログ
  47. ^ 零の会『知られざる坂井三郎「大空のサムライ」の戦後』学研パブリッシング2013年
  48. ^ 丸2001年1月号
  49. ^ 『祖父たちの零戦』p345-346
  50. ^ 坂井スマート道子『父・坂井三郎』産経新聞出版2012年
  51. ^ 『坂井三郎『大空のサムライ』研究読本』p277
  52. ^ 『祖父たちの零戦』p321
  53. ^ 神立尚紀ブログ
  54. ^ 『零戦の秘術』p90-91
  55. ^ 昭和17年4月~昭和17年5月 台南空 飛行機隊戦闘行動調書(4)』 アジア歴史資料センター Ref.C08051602800 
  56. ^ 「祖父たちの零戦」講談社 ISBN-978-4062163026より
  57. ^ 昭和16年12月~昭和17年1月 台南空 飛行機隊戦闘行動調書(1)』 アジア歴史資料センター Ref.C08051601300 
  58. ^ 坂井三郎『坂井三郎空戦記録上巻』p.201-p.202
  59. ^ 坂井三郎『坂井三郎空戦記録上巻』p.235
  60. ^ 坂井三郎『坂井三郎空戦記録上巻』p.239
  61. ^ 『零戦の秘術』p120
  62. ^ 『零戦の秘術』p97
  63. ^ 『零戦の秘術』p350
  64. ^ 『零戦の秘術』p131-132
  65. ^ 大空のサムライ 坂井三郎氏 零戦を語る”. 2014年8月23日閲覧。
  66. ^ 坂井三郎『大空のサムライ完結編』光人社NF文庫18-20頁
  67. ^ 坂井・高城『大空のサムライ・完結篇―撃墜王との対話』p.96-p.97
  68. ^ 『知の頂点』p373
  69. ^ 坂井の著作・『零戦の真実』『大空のサムライ』
  70. ^ 『零戦の秘術』p295
  71. ^ 『零戦の秘術』p289
  72. ^ 加藤寛一郎によるインタビュー『零戦の秘術』講談社文庫P.304
  73. ^ 『祖父たちの零戦』p315-325
  74. ^ 神立尚紀ブログ
  75. ^ 加藤寛一郎 『飛行の秘術のはなし』 講談社〈文庫〉、1999年、178頁
  76. ^ 『坂井三郎『大空のサムライ』研究読本』
  77. ^ 毎日新聞 2004年8月17日付国際面記事
  78. ^ 「大空の決戦」(羽切松雄著)解説
  79. ^ 『知られざる坂井三郎』大空のサムライの戦後
  80. ^ 秦郁彦『日本人捕虜』ワレ今より自爆セントス
  81. ^ 『祖父たちの零戦』p338
  82. ^ 『知られざる坂井三郎』
  83. ^ 歴史通2012年1月号別冊
  84. ^ 零の会『知られざる坂井三郎「大空のサムライ」の戦後』学研パブリッシング2013年

参考文献[ソースを編集]