仏印進駐

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1941年、サイゴン市内の日本軍

仏印進駐(ふついんしんちゅう)とは、第二次世界大戦下におけるフランス領インドシナ(仏領印度支那)への日本軍の進駐のことを指す。1940年北部仏印進駐と、1941年南部仏印進駐に分けられる。南部仏印進駐は日米関係の決定的な決裂をもたらした、太平洋戦争への回帰不能点英語版であると評されている[1]

背景[編集]

1937年支那事変勃発以降、中華民国蒋介石政権に対して行われていたイギリスアメリカ合衆国などによる軍事援助は、いわゆる援蒋ルートを通じて行われていた[2]。特にフランス領インドシナを経由するルート(仏印ルート)は4つの援蒋ルートの中で最大のものであった[2]。日本はフランス政府側に対して繰り返しルートの閉鎖を申し入れていたが、受け入れられなかった[2]

北部仏印進駐[編集]

ナチス・ドイツのフランス侵攻によりフランスは敗北し、1940年6月17日には独仏休戦協定が締結された。これをうけて6月19日、日本側はフランス領インドシナ政府に対し、仏印ルートの閉鎖について24時間以内に回答するよう要求した[3]。当時のフランス領インドシナ総督ジョルジュ・カトルー英語版将軍は、シャルル・アルセーヌ=アンリー(Charles Arsène-Henry)駐日フランス大使の助言を受け、本国政府に請訓せずに独断で仏印ルートの閉鎖と、日本側の軍事顧問団(西原機関)の受け入れを行った[2]

6月22日に成立したヴィシー政権はこの決断をよしとせず、カトルーを解任してジャン・ドクー英語版を後任の総督とした[4]。しかしカトルーの行った日本との交渉は撤回されず、日本の松岡洋右外務大臣とアルセーヌ=アンリー大使との間で日本とフランスの協力について協議が開始された。8月末には交渉が妥結し、松岡・アンリー協定が締結された。この中では極東における日本とフランスの利益を相互に尊重すること、フランス領インドシナへの日本軍の進駐を認め、さらにこれにフランス側が可能な限りの援助を行うこと、日本と仏印との経済関係強化が合意された[5]

9月22日には現地の両軍司令部間(西原一策アンリ・マルタンフランス語版)での軍事協定(西原・マルタン協定)が締結され、翌23日から正式な進駐が開始された。しかし、参謀本部第1部長富永恭次少将の強引な指示の下に進駐を開始した数日間、ドンダン要塞など各地で、ヴィシー政権の決定を受け入れず、日本軍の進駐に反対する一部のフランス軍との間で戦闘が発生した。日本側でも当初から戦闘を想定し、戦車部隊などを伴い武力制圧可能な構えで進駐を行っていた。ドクー総督は「日本軍と戦ってはならぬ。それではインドシナを根こそぎ取られてしまう」と指令して9月25日に停戦させた[6]。停戦までに数百人の死傷者が出ている。その後ハノイなど重要拠点に進駐した日本軍は、紅河以北にある仏印国内の飛行場や港湾の利用権を獲得し、援蒋ルートや中華民国への攻撃に利用した[5][7]。一方で、イギリス軍が9月23日に行ったフランス領西アフリカへの侵攻はフランス軍に撃退されている。

11月25日からはタイ王国とフランス領インドシナ間の国境紛争が勃発した[8]タイ・フランス領インドシナ紛争)。陸上での戦いではタイが優勢だったものの、海上での戦いでフランス側が勝利した。タイとフランスは第三国に仲介を求めていたが、アメリカやドイツはこれに乗り気ではなく、結果として日本が仲介役を行うことになった。1941年5月9日に締結された東京条約では、フランス領インドシナからカンボジアラオスの一部地域をタイに割譲するという合意が成された。これは領土・権益の保全を定めた、先の松岡・アンリー協定に反する内容であったが、フランスはこれを受け入れざるを得なかった[9]

日米関係の悪化と南部仏印進駐の決定[編集]

9月27日、日本はイギリスと戦争状態にあったナチス・ドイツおよびイタリア王国との間で日独伊三国条約を締結したことによって同盟関係を築き(日独伊三国同盟)、アメリカ合衆国の警戒心を招くことになった。アメリカは10月12日に三国条約に対する対抗措置を執ると表明、10月16日に屑鉄の対日禁輸を決定した。また援蒋ルートとしてはイギリス領ビルマビルマ公路などを利用することで、蒋介石への援助を続けた。この経済制裁政策はフランス領インドシナにもおよび、フランス領インドシナ政府が求めていた武器支援をもアメリカ側は拒絶した[10]。翌1941年(昭和16年)に入ると、銅などさらに制限品目を増やした。

主要な資源供給先であるアメリカ・イギリスの輸出規制により、日本は資源の供給先を求めることになった。対象としてあげられたのはオランダ領東インドであったが、連合国であるオランダ政府が日本への輸出規制に参加する可能性も懸念されていた[11]。日本はオランダ領東インド政府に圧力をかけて資源の提供を求めたが(日蘭会商)、この行動はかえってオランダを英米に接近させることとなった[12]。1941年6月にはオランダ領東インド政府との交渉が決裂し[13]、陸海軍首脳からは資源獲得のために南部仏印への進駐が主張されるようになった[14]。経済的側面以外では、南部仏印はタイ、イギリス領植民地、そしてオランダ領東インドに圧力をかけられる要地であり、またさらなる援蒋ルートの遮断も行えると考えられた[15]。当時陸海軍は北部仏印進駐への反発が少なかったことからみて、南部仏印への進駐は、米英の反発を招かないという見通しを立てていた[15]

松岡外相は当初南部仏印の進駐を前提として交渉するのは得策ではないとしたが[13]、やがて強硬論に同調するようになり、6月25日の大本営政府連絡懇談会において南部仏印への進駐が決定された(南方政策促進ニ関スル件[16]

ところが6月22日に勃発した独ソ戦の緒戦の状況が伝えられると、松岡外相はソビエト連邦への攻撃を主張するようになり、南部仏印進駐の延期を主張して陸海軍首脳と対立するようになった[17]。松岡外相は『機密戦争日誌』で「節操ナキ発言言語道断ナリ」「国策ノ決定実行ニ大ナル支障ヲ与フルコト少カラズ」と評されたように激しく批判され[18]、結局6月30日に原案通り南部仏印進駐を行うことが決定された[18]

1941年7月2日御前会議において仏印南部への進駐は正式に裁可された。(『情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱』)。しかしイギリスはこの時点で仏印進駐の情報をつかんでおり、7月5日には駐日イギリス大使ロバート・クレイギーが日本の南進について外務省に懸念を申し入れている[12]。日本側は情報漏洩に驚き、進駐の延期を行ったが、イギリス側も日本を刺激することを怖れ、これ以上の警告を行わなかった[12]。7月14日には加藤外松駐仏大使がヴィシー政府副首相のフランソワ・ダルランと会談し、南部仏印への進駐許可を求めた[1]。ヴィシー政府はドイツの意向を探ろうとしたが、おりしも駐仏ドイツ大使オットー・アベッツ英語版は旅行に出かけており、不在であった。フランス政府はドイツ側と協議することなく、7月19日の閣議で日本側の要求を受け入れることを決定した[1]

フランス領インドシナ軍が日本軍に対して劣勢であることは明かであり、決定的な敗戦を迎えれば植民地喪失の危険性があった[19]。また松岡外相は、同様にヴィシー政府の植民地であったフランス領シリアフランス領レバノン連合国の攻撃によって占領された事態を匂わせてフランス側を説得しようとした[20]。また日本に対して強い影響力を持つドイツや、アメリカなどの中立国がこの事態に介入してくれる可能性も皆無であり、植民地の継続には日本軍にすがるほか無かった[21]。こうしたことがフランス側の極めて早い受諾回答の背景にあった[22]

一方でイギリスとアメリカはこの間に協議を進めた。7月21日までの段階で、イギリス外相ハリファックス伯ディーン・アチソン国務次官は、日本が南部仏印進駐を行った場合には、共同して対日経済制裁を行うことで合意した[12]

南部仏印進駐[編集]

7月23日、豊田貞次郎外相[23]野村吉三郎駐米大使に南部仏印進駐についてアメリカ政府に伝達するとともに、この進駐は「平和進駐」であり、日米交渉を継続するように訓令した[24]。野村大使はこの日本の南進が「国交断絶一歩手前迄進ムノ惧レ」を招くことになり、駐日大使に南部仏印進駐の真意を説明するよう報告した[24]。7月24日には野村とサムナー・ウェルズ国務次官の会談が行われた。野村は南部仏印進駐がやむを得ない措置であるとしたが、ウェルズは世論からの突き上げもあり、対日石油禁輸に踏み切る可能性があると警告した[24]。7月25日にはフランクリン・ルーズベルト大統領と野村大使の会談が行われ、ルーズベルト大統領は仏領インドシナをイギリス・オランダ・中国・日本・アメリカによって中立化させる案を提案した[25]。この後に野村が行った報告によると、アメリカの閣僚は南部仏印進駐をヨーロッパにおけるドイツの作戦と呼応していると考えており、この疑問が氷解するまでは日米間の交渉は「続行無意義ナリ」であると判断していた[25]。野村は自分がいかに述べても『手ノ施シ様ナキニ至リタル』であるとして、対日石油禁輸と日本資産凍結も不可避であると報告している[25]。豊田外相は25日および27日にジョセフ・グルー駐日アメリカ大使と極秘に会談し、南部仏印進駐は他国に対する軍事的基地として用いるためではないと釈明したが、結果として日本政府は仏印進駐の方針を変えなかった。

日本軍は7月28日に仏印南部への進駐を開始した。

南部仏印進駐の日米関係への影響[編集]

野村大使が南部仏印進駐後アメリカ側の反応が明らかに悪化したと観測しているように、南部仏印進駐後のアメリカの態度は極めて強硬なものとなった。8月1日、アメリカは「全侵略国に対する」石油禁輸を発表したが、その対象に日本も含まれていた。またイギリスも追随して経済制裁を発動した。これらの対応は日本陸海軍にとって想定外であった[12]。当時の石油備蓄は一年半分しか存在せず、海軍内では石油欠乏状態の中でアメリカから戦争を仕掛けられることを怖れる意見が高まり、海軍首脳は早期開戦論を主張するようになった[26]

8月2日には野村大使がアメリカの某閣僚と会談したが、その際にコーデル・ハル国務長官がひどく失望していると伝えられた[27]。アメリカ側は以前のフランス領インドシナ中立化案についての回答を求めたが、日本は南部仏印進駐が平和的自衛的措置であるとして、支那事変終了後に撤退するという回答を行った[28]。ハル国務長官はこの回答が申し入れに対する回答になっていないと拒絶し、日本が武力行使をやめることによって初めて日米交渉が継続できると伝えた[29]

その後も日本とアメリカの交渉は平行線をたどり、10月2日にはハル国務長官が「ハル四原則[30]の確認と、中国大陸およびフランス領インドシナからの撤退を求める覚書を手交した[31]。日本側はハル四原則に「主義上」は同意するが、「実際ノ運用」については留保すること、中国大陸からは日中の和平が成立した後に撤退すること、フランス領インドシナからの撤退については、日中の共同防衛が実現した後に行うと回答した[32]。日本側は日米の諒解案の一つ「乙案」をアメリカ側に提案することになったが、東郷茂徳外相は乙案の中に南部仏印駐屯の日本軍を北部に移駐させる案を挿入するよう訓令した[33]。しかしこの提案はアメリカおよびイギリス、オランダ、オーストラリアにとっては不満のある内容であり[34]、11月26日にはいわゆるハル・ノートがアメリカ側から手交された。

11月28日には野村大使、来栖三郎特命大使とルーズベルト大統領の会談が行われたが、この席でハル・ノートが日本政府を痛く失望させたという日本側に対し、ルーズベルト大統領は「日米会談開始以来、まず日本の南部仏領インドシナ進駐により冷水を浴びせられた」とし、またハル国務長官も『暫定協定』が失敗に終わったのは、「日本が仏領インドシナに増兵することによって他国の兵力を牽制した」ことが原因の一つであると日本側の対応を非難した[35]。12月2日にはハル国務長官が北部仏印に対する日本軍の増派が行われていると非難し、日本側の対応を改善するよう求めた[36]。日本側はこの増派は協定による合意内であると反論したが、日本政府はこの頃すでに対米戦を決定していた。12月8日に日本はイギリスとアメリカに宣戦布告し、ここに太平洋戦争大東亜戦争)が勃発することとなる。

戦時下のフランス領インドシナ[編集]

フランス領インドシナは本国から遠く、軍備も極めて弱体であった[37]。しかも本国がドイツに敗れたため、独力で植民地を維持することは困難であった[37]。そのため多くの植民地がヴィシー政府から自由フランス支持に転向していった。ヴィシー政府および植民地政府は植民地を維持するため、日本と協力する道を選んだ。

また日本側も植民地政府を温存する方針をとり、1941年11月6日の大陸指991号、11月15日の「対英米蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」による大本営政府連絡会議の決定でも確認されている[38]。この方針は「大東亜戦争」の目的であるとされた植民地支配からの「大東亜解放」とは矛盾した方針であったが、陸軍は「人種戦争の回避」という方針のためであるとして対応した[39]

この協力関係はフランス領インドシナ政府側にとって不利ばかりではなく、経済面では有利に運ぶこともあった。独立運動家にとっては日本軍の登場は新たな支配者の出現であり、現代のベトナムでは「一つの首に二つの首枷」と評されている[40]

軍事協力[編集]

太平洋戦争開始後も、従前のヴィシー政権による植民地統治が日本によって認められ、軍事面では日仏の共同警備の体制が続いた。情報交換や掃海作業などでは両軍で協力が行われている[41]

もっとも、仏軍が日本に対して攻撃しないように念のための処置として、フランス駐留軍の軍備は制限され、主要海軍艦艇の武装解除などが行われている。日本軍はフランス側の許可を得てサイゴン(現在のホーチミン市)の放送局を利用し、ジャワやインドに対する謀略放送を行った[42]

またフランス領インドシナ政府は日本軍の駐留経費の支払いも行っている。北部進駐の翌月、1940年10月から支払が開始され、仏印処理までの4年半の間に7億2370万8000ピアストルが支払われている[43]。これは当時のフランス領インドシナ政府の経常支出とほぼ同額である[43]。この潤沢な資金により、日本軍はインドシナにおいて軍票を発行する必要がなかった[43]

経済協力[編集]

フランス領インドシナの経済はモノカルチャー経済であり、輸出入の半分以上を本国に依存していた[44]。しかし大戦の勃発により本国との連絡が途絶し、イギリスが付近の植民地にフランス領インドシナとの貿易を禁止するとたちまち経済は危機に陥った[45]。そこに現れた日本が、フランス領インドシナにとって最も重要な貿易相手となった。

大戦中、日本は輸入額の半分、多い時は6割をフランス領インドシナとの貿易でまかなった[45]。このためフランス領インドシナの対日貿易は圧倒的な黒字であった[46]。しかしアメリカ側の通商攻撃が激化すると、インドシナからの物資を日本に運搬することは極めて困難になった[45]

仏印処理[編集]

1942年、連合軍がアルジェリアに上陸したことによって(トーチ作戦)、ヴィシー政府の存続が危ぶまれる情勢となった。日本側はフランス領インドシナ政府を本国とは切り離すことで支配を維持しようと考え、ドクー総督に植民地政府内の親英米派の追放と、さらなる対日協力を迫った[47]。枢軸国の頽勢が明確になり始めた1943年には、武力によって植民地政府を「処理」すべきであるという案が陸軍の現地部隊や外務省から挙げられ始めた[48]。しかし戦線の拡大を抑えたいという政府中央の意志により、フランス領インドシナ政府は維持され続けた[48]

1944年にヨーロッパ大陸に連合国軍が再上陸を果たし、その後シャルル・ド・ゴール率いる自由フランスと連合国軍がフランスの大半を奪還したことで、同年8月25日にはヴィシー政権が事実上消滅した。フランス領インドシナ政府はすでに本国に政府が存在しないという見解をとり、新たな正統政府に対応を一任する考えを明らかにした[49]。これをうけて9月14日の最高戦争指導会議では、フランス領インドシナ政府が日本に対して離反・反抗する場合には、武力処理を行うことを定めた「情勢の変化に応ずる対仏印措置に関する件」が決定されたが、これは原則的には現状を維持するものであった[50]

しかしその後フィリピンの失陥などにより、インドシナは「前線」となり、その戦略的意味はいよいよ重大となっていった。12月30日には1945年1月中に仏印処理に関する決定を行うという方針が決定されたが、1945年1月11日の最高戦争指導会議で、場合によっては武力処理を行うという方針が決定された[51]。1月17日には時期によっては「現仏印政権を武力で打倒せしめる」決定が行われ、『明号作戦』の準備が開始された[51]。2月1日には最高戦争指導会議で武力処理の方針が再確認されたが、処理後の現地統治については意見が分かれた。陸軍はフランスを決定的に敵に回すことを避けるため、主権については完全否定しない方針をとるべきだと主張したが、外務省は「大東亜解放」の方針を貫徹すれば、民族解放の観点からソ連も反対できないと主張した。決定においては公表される処理の理由を「自存自衛のため」とするという陸軍側の意見が通ったが、現地統治については決定が先送りされた[52]。その後陸軍と外務省の協議の結果、2月22日の最高戦争指導会議において「武力処理をしても、フランスと日本が戦争状態に入ったと考えない」「フランス直轄領であるコーチシナ、ハノイ、ハイフォンツーラン」に軍政を施行するが、外部に対しては一時的な管理と説明する」「インドシナ全体の統治にあたっては、総督府首脳に日本人をあて、日本が管理する」「インドシナ三国(安南・ラオス(ルアンパバーン王国)など・カンボジア王国 (フランス保護国)英語版)に対して自発的にフランスとの保護協定を破棄させ、独立させる」という方針が確認された[53]

3月9日に仏印処理は実行されたが、その動機は米軍上陸が迫ったという判断によるものであった[54]。作戦終了後、安南国(阮朝)のバオ・ダイ(保大帝)を担ぎ出し、ベトナム帝国の独立を宣言させた。しかしベトナム人にとって極めて評判が悪かったバオ・ダイの擁立は、親日的な独立運動家に失望を与えた[40]。同年8月14日に日本が連合国に対して降伏を予告すると、3日後の8月17日ベトナム八月革命が勃発し、日本が降伏文書に調印した9月2日には、阮朝は打倒されてベトナム民主共和国が樹立された。しかしフランスは植民地支配を復活させるべく、インドシナ政府を復活させようとした。1946年には第一次インドシナ戦争が勃発し、長い「インドシナ戦争」の時代を迎えることになる。

脚注[編集]

  1. ^ a b c 立川京一 1998, pp. 21.
  2. ^ a b c d 立川京一 1999, pp. 42.
  3. ^ 谷川栄彦 1967, pp. 734.
  4. ^ 立川京一 1999, pp. 42-43.
  5. ^ a b 立川京一 1999, pp. 43.
  6. ^ 谷川栄彦 1967, pp. 736.
  7. ^ 立川京一 1999, pp. 45.
  8. ^ 昭和15年(1940年)11月25日タイ・仏領インドシナ国境紛争 - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」
  9. ^ 立川京一 1999, pp. 44.
  10. ^ 立川京一 1998, pp. 22-23.
  11. ^ 昭和16年(1941年)5月22日第25回大本営政府連絡懇談会(議題:蘭領インドシナ交渉、対米国交調整その後の状況、国民政府承認) - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」
  12. ^ a b c d e 小谷賢 2009, pp. 123.
  13. ^ a b 昭和16年(1941年)6月11日 第29回大本営政府連絡会議(議題:日蘭交渉) - アジア歴史資料センターインターネット特別展「公文書に見る日米交渉」
  14. ^ 昭和16年(1941年)6月12日 第30回大本営政府連絡懇談会(議題:南方政策促進ニ関スル件) - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」
  15. ^ a b 小谷賢 2009, pp. 122-123.
  16. ^ 昭和16年(1941年)6月25日第32回大本営政府連絡懇談会(議題:南方政策促進決定、南部仏領インドシナ進駐) - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」
  17. ^ 昭和16年(1941年)6月26日第33回大本営政府連絡懇談会(議題:帝国国策要綱) - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」
  18. ^ a b 昭和16年(1941年)6月30日第36回大本営政府連絡懇談会(議題:帝国国策要綱閣議提出案、対独通告文、御前会議における外務大臣説明案) - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」
  19. ^ 立川京一 1998, pp. 22.
  20. ^ 立川京一 1998, pp. 32.
  21. ^ 立川京一 1998, pp. 32-34.
  22. ^ 立川京一 1998, pp. 32-33.
  23. ^ 前記の通り、北進論を唱えて閣内で対立した松岡外相を更迭するため、7月18日に第2次近衛内閣が総辞職し、同日成立した第3次近衛内閣で外相に就任。
  24. ^ a b c 昭和16年(1941年)7月23日豊田外務大臣、野村大使に対し、南部仏領インドシナ進駐に関わらず、対米交渉を継続するよう訓令 - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」
  25. ^ a b c 昭和16年(1941年)7月25日野村大使・ルーズヴェルト米大統領第三回会談 - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」
  26. ^ 小谷賢 2009, pp. 123-124.
  27. ^ 昭和16年(1941年)8月2日野村大使、某米閣僚と懇談、野村は仏領インドシナ進駐について説明 - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」
  28. ^ 昭和16年(1941年)8月5日豊田外務大臣、野村大使に対し、ルーズヴェルト米大統領の仏領インドシナ中立化申し入れに対する日本側回答提示を訓令 - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」
  29. ^ 昭和16年(1941年)8月9日野村大使・ハル米国務長官会談、8月6日の日本側回答に対する回答について - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」
  30. ^ ((1)すべての国家の領土と主権を尊重すること、(2)他国の内政に干渉しない原則を守ること、(3)通商の平等を含めて平等の原則を守ること、(4)平和的手段によって変更される場合を除き太平洋の現状を維持すること)
  31. ^ 昭和16年(1941年)10月2日野村大使・ハル米国務長官会談、ハルは、4原則の確認と、仏領インドシナ及び中国からの撤兵を要求する覚書及び、日米首脳会談についての回答を手交 - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」
  32. ^ 昭和16年(1941年)10月6日豊田外務大臣、野村大使に対し、大局的見地より国交調整を図るという日本側の趣旨を徹底するよう訓令 - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」
  33. ^ 昭和16年(1941年)11月20日東郷外務大臣、野村・来栖両大使に大使、「乙案」に挿入すべき南部仏領インドシナ撤兵に関する条項について説明 - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」
  34. ^ 昭和16年(1941年)11月24日東郷外務大臣、野村・来栖両大使に対し、「乙案」の徹底を訓令 - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」
  35. ^ 昭和16年(1941年)11月28日野村・来栖両大使、ルーズヴェルト米大統領と会談 - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」
  36. ^ 昭和16年(1941年)12月2日野村・来栖両大使、ハル米国務長官と会談 - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」
  37. ^ a b 立川京一 1999, pp. 50-51.
  38. ^ 白石昌也・古田元夫 1976, pp. 4.
  39. ^ 白石昌也・古田元夫 1976, pp. 5.
  40. ^ a b 立川京一 1999, pp. 53.
  41. ^ 立川京一 1999, pp. 47-48.
  42. ^ 立川京一 1999, pp. 48.
  43. ^ a b c 立川京一 1999, pp. 47.
  44. ^ 立川京一 1999, pp. 49-50.
  45. ^ a b c 立川京一 1999, pp. 50.
  46. ^ 立川京一 1999, pp. 51.
  47. ^ 白石昌也・古田元夫 1976, pp. 4-5.
  48. ^ a b 白石昌也・古田元夫 1976, pp. 12.
  49. ^ 白石昌也・古田元夫 1976, pp. 14.
  50. ^ 白石昌也・古田元夫 1976, pp. 14-15.
  51. ^ a b 白石昌也・古田元夫 1976, pp. 15.
  52. ^ 白石昌也・古田元夫 1976, pp. 23-24.
  53. ^ 白石昌也・古田元夫 1976, pp. 25.
  54. ^ 白石昌也・古田元夫 1976, pp. 26.

参考文献[編集]

外部リンク[編集]

関連項目[編集]