チャハル作戦

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チャハル作戦(ちゃはるさくせん)とは、1937年昭和12)8月9日から10月17日にかけて行われた察哈爾省綏遠省(現在の内モンゴル自治区)とその周辺における日本軍の作戦である。

7月7日の盧溝橋事件から始まった日中戦争支那事変)で、日本軍は7月末には北平天津地方を制圧し、華北分離工作を完成させるため、8月には北支那方面軍を編成して河北省保定(パオティン)以北の制圧を実行に移そうとしたが、河北省南部に集結しつつある中国軍と衝突する恐れがあったため準備期間が必要となり一時延期され、代わりに行われた作戦である。「察哈爾作戦」とも表記される。

日中開戦前の状況[編集]

当時、関東軍満州国の安定化を計るため西側で国境を接する察哈爾省を自己の勢力下に置くことを望んでいた。そのため、内モンゴルの独立や自治を求める動きを利用しようと考え、1936年 5月には関東軍の板垣征四郎参謀副長などがウジムチン王府で、その動きの中心にある蒙古自治政府委員会の政務院長であるデムチュクドンロブ(徳王)や他の有力者と会見し、蒙古自治政府委員会の支援を約束した。

また同年6月5日、関東軍の特務機関員が察哈爾省で、国民党の創設した冀察政務委員会の委員長である宋哲元に逮捕されると(察哈爾事件)、同年6月23日に特務機関長の土肥原賢二少将は、察哈爾省代理主席の秦徳純に、塘沽停戦協定における停戦地帯の察哈爾省までの拡大や合法活動を認めることを要求し、同年6月27日には土肥原の希望通り土肥原・秦徳純協定が調印され、内モンゴルの分離工作が着々と進められて行く。同年11月には蒙古自治政府軍が関東軍の計画に基づいて、綏遠(綏遠省の省都)を攻撃したが、中国軍の反撃により敗退した(綏遠事件)。

日中開戦後の状況[編集]

綏遠事件により関東軍の計画は一時頓挫したが、好機はすぐに訪れた。1937年(昭和12年)7月7日の盧溝橋事件を発端に日中両軍が交戦状態に入ると、関東軍は察哈爾省の占領を参謀本部に要求し続けた。参謀本部はそのつど却下していたが、そのうち事変不拡大か対支一撃論などの事変拡大か、明確な長期戦略の無いまま同年8月8日に攻略作戦を認可した。こうして始まったのがチャハル作戦である(無断で始めたと言う説もある)。

当初、作戦地域は張家口(察哈爾省の省都)以東とされた。関東軍は3個旅団で東條英機を指揮官とする察哈爾派遣兵団(俗に「東條兵団」と言われる)を編成し、察哈爾省に侵攻し、張家口を占領した(ここには土肥原・秦徳純協定のため中国軍は殆ど配備されていなかった)。その後、1個独立混成旅団が北京方面から万里の長城に程近い河北省南口(現北京市昌平区)と察哈爾省の居庸関を攻略のため北上した。しかし、居庸関は険しい山岳地帯に位置していたため、攻めるに難しく守るに易い地形で中国軍の抵抗は頑強であった。そのため内地から派遣されていた第五師団の一部を増援に当て師団長板垣征四郎中将に指揮させた。第五師団の活躍により居庸関を落とし張家口まで進撃した。そこで察哈爾派遣兵団と合体し、チャハル作戦は終了したと思われた。しかし、実際は察哈爾派遣兵団・第五師団ともに参謀本部から許可された作戦地域を無視し、独断で作戦地域を張家口以西に拡大していった。9月13日には綏遠省山西省の省境にある大同を占領し、10月14日には綏遠を占領、10月17日に包頭を占領して進撃は停止した。この際、蒙古自治政府軍も察哈爾派遣兵団に随行して綏遠省の各機関を吸収し、10月27日、徳王らは厚和(現フフホト)で蒙古連盟自治政府を樹立した。その後、張家口には駐蒙軍(日本軍)が置かれた。

陽高事件[編集]

1937年9月9日、山西省陽高で日本軍が起こした虐殺事件で、日本軍が日中戦争支那事変)時に起こしたとされる殆どの「虐殺事件」は日本と中国の見解に大きな食い違いが見られるが、この事件は日中双方が述べる様相は大まかに一致している[1][2][3][4][5][6]。9月8日夜に察哈爾派遣兵団の本多旅団が南城門から、篠原旅団が北城門から城壁を乗り越えて城内へ突入したが、強引な攻撃方法だった事や中国軍守備兵の猛抵抗で140人ほどの死傷者を出す。頑強な敵の抵抗で多数の死傷者が発生したことで激高した現地部隊が敵愾心のあまり実行したものと言われている。夜が明けて戦闘が終わると、日本軍は老幼を問わず城内の男性を捕縛し、機銃掃射を浴びせて殺害した。その数は350人から500人とされるがはっきりせず、また処刑を実施した部隊名も明確でない。また、兵団長だった東條英機首相在任中の1943年(昭和18年)2月3日に夕食時の雑談で秘書官に対し、チャハル作戦において「不穏な支那人等は全部首をはねた」と述懐していることから、便衣兵狩りだった可能性もある。当時、察哈爾派遣兵団と作戦行動を共にしていた蒙古自治政府軍指揮官の李守信将軍は戦後、チャハル作戦では各地で捕虜虐殺が頻発していたことを証言している[7]

出典[編集]

  1. ^ 秦郁彦「東条英機の戦争責任」(『諸君』1987年8月号)
  2. ^ 畠山清行『東京兵団Ⅰ』光風社,1963年
  3. ^ 『野砲兵第四聯隊並びに関連諸部隊史』信太山砲四会,1982年
  4. ^ 伊藤隆ほか編『東條内閣総理大臣機密記録』東京大学出版会,1990年
  5. ^ 李乗新ほか主編『侵華日軍暴行総録』河北人民出版社,1995年
  6. ^ 内蒙古アパカ会・岡村秀太郎共編『特務機関』国書刊行会,1990年
  7. ^ 日華事変と山西省 歴史の闇に埋もれた陽高事件

関連項目[編集]