百人斬り競争

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1937年12月13日東京日日新聞紫金山麓にて十二日淺海鈴木兩特派員發】"百人斬り競爭"の兩將校 (右)野田巖少尉 (左)向井敏明少尉 -常州にて佐藤(振)特派員撮影-

百人斬り競争(ひゃくにんぎりきょうそう)とは、日中戦争支那事変)初期、大日本帝国陸軍将校野田毅少尉と向井敏明少尉が、南京入りまでに日本刀でどちらが早く100人斬るかを競ったとされる行為である。

戦中は前線勇士の武勇談として賞賛されたが、戦後は南京事件を象徴するものとして[1]非難された[2]。今日、事実か否か、誰を斬ったのかを巡って論争がある。また、遺族を原告とした名誉毀損裁判が提訴されたが、訴訟については毎日新聞朝日新聞柏書房本多勝一の勝訴、原告敗訴が確定している。

当時の報道[編集]

戦時中に、以下の記事が報道された。

媒体 日付 主な内容
東京日日新聞      <第1報> 昭和12年11月30日 向井少尉と野田少尉が敵兵をどちらが早く百人斬りするか競争している。無錫から初めて現在65対25(常州でのインタビュー記事)「敵トーチカに突進し・・敵陣に部下とともに躍り込み・・」向井少尉「・・俺の刀は・・」野田少尉「僕等は二人共・・。は〇官をやっている・・・」(常州にて29日、浅海、光本、安田)
東京日日新聞 <第2報> 昭和12年12月4日 2日午後6時丹陽入城までに・・・常州出発から丹陽までに数字を更新して86対65。向井少尉は丹陽中正門の一番乗りを決行、野田少尉も右手首に軽傷(丹陽にて3日浅海、光本)
東京日日新聞 <第3報> 昭和12年12月6日 「句容入城にも両少尉が最前線に立って奮戦」、89対78(句容にて5日浅海、光本)
東京日日新聞 <第4報>昭和12年12月13日 紫金山攻略戦の際に106対105、野田「おいおれは百五だが貴様は?」向井「おれは百六だ!」10日正午対面しドロンゲームとして新たに150人斬り競争を始めた。11日昼中山陵を眼下に見下す紫金山で敗残兵狩真最中の向井・・・顛末を語って・・・(紫金山麓にて12日浅海、鈴木)
鹿児島毎日新聞 昭和12年12月16日 東京日日新聞の後追い記事
鹿児島毎日新聞 昭和12年12月18日 東京日日新聞の後追い記事
大阪毎日新聞 昭和13年1月25日 野田少尉が中村硯郎あてに百人斬りを自慢する手紙が届いた。253人を斬り、百人斬りの歌が紹介されている。
鹿児島朝日新聞 昭和13年3月20日 野田少尉が鹿児島に帰還。374人を斬ったと語った。
鹿児島新聞 昭和13年3月21日 野田少尉が374人を斬ったと語った。地元の児童、生徒に百人斬りの競争談をなした。
鹿児島朝日新聞 昭和13年3月22日 野田少尉の父伊勢熊氏が息子の戦果(374人斬り)を紹介。(野田少尉、両親、五女とよ子氏の写真が掲載)
鹿児島新聞 昭和13年3月26日 野田少尉が神刀館で百人斬りの講演を行った。
東京日日新聞 昭和14年5月19日 向井少尉が野田少尉と別れてから約束の500人斬りを果すため、奮闘中。今までに305人斬った。

後の名誉毀損訴訟において、原告側は「百人斬り競争の記事は表の上4つを書いた浅海記者ら新聞記者が創作した」と主張した[3] が、野田少尉が中村硯郎あてに出した手紙の中で野田少尉は新聞報道の内容にいささかの否定的見解も示していない[4]ことや、また「305人斬り」の話は向井中尉自らが浅海、光本、鈴木記者とは別の特派員に、それも二年後において話したものである[5]との反論があり議論がある。(「自らが」「話した」とはこの記事中に書かれておらず、笠原十九司はこう言っているが根拠を示していない[6]。)

両少尉と同じ大隊(歩兵9連隊第3大隊)の大野少尉(第3大隊第9中隊第1小隊)陣中日誌に拠り東中野修道が検証

大野少尉陣中日誌[7]と解説
日付 行跡 解説
12月2日 13:45丹陽停車場(城外)を占領、更に追撃、新豊駅裏高地にて一晩中交戦す 丹陽に入らず、22:00丹陽東門を占領したのは20連隊第4中隊[8]
12月3日 7:00大隊は出撃す、敵影なし、村落を占領、一夜を明かす 朝第4中隊は大隊と共に丹陽城内を掃蕩[9]
12月5日 白許崗、殷巷、大隊は買岡里に進出、ここにて一泊す 句容に向かわず、北西に進み丘陵地帯へ[10]、5日夜(夕?)20連隊第1中隊が句容を占領[11]
12月11日 霊谷寺より(下って)山腹に。迫撃砲射撃を盛に受く、一晩中壕中にて射撃猛烈なり 第3大隊は中山陵よりも低い地点にいた、上から射撃され苦戦、敗残兵は出ていない[12][13]

反響[編集]

この競争は地元で英雄譚として、大いに称賛された。鹿児島市草牟田尋常小学校の副教材では百人斬り競争をとりあげ、「血わき、肉おどるような、ほがらかな話であります」」と紹介されている[14]

野田は、地元の小学校、中学校で、多くの「百人斬り講演」を行った[15]秦郁彦は3回を確認している)。

戦犯裁判[編集]

1947年の夏、ともに陸軍少佐として復員除隊していた向井敏明野田毅はGHQにより逮捕され、警察署に拘留された後巣鴨拘置所さらに中国・南京戦犯拘留所に移送され、12月4日に東京日日新聞やその転載翻訳を資料とする『外人目睹中之日軍暴行』[16]を基に南京軍事法廷において「我国人」殺害の容疑で起訴された。12月18日に最初の公判が行われ石美瑜裁判長によって「連続して捕虜及び非戦闘員を虐殺した」罪[17]で即日死刑判決を受け、中華民国によって1948年1月28日に南京郊外(雨花台)で処刑された。

北村稔は、ティンパリーによる脚色や『戦争とは何か』の中国語訳版における事実の書き換えが影響し、死刑判決が下ったとしている[18]

判決は新聞報道は証拠にならないという中国最高法院の判例に違背し、告訴状の「我国人」を説明抜きで「捕虜及び非戦闘員」にすりかえ[19]、判示している。鈴木明は1972年頃元裁判長に会い、「この種の裁判には何応欽将軍と蒋介石総統の直接の意見も入っていた」との証言を聞き出している[20]

論争[編集]

1971年本多勝一は、朝日新聞に連載していたルポルタージュ『中国の旅』(のちに単行本化)で、この事件を取り上げた。このとき、本多は、両少尉をA少尉、B少尉と匿名で表現した。これに対して、イザヤ・ベンダサン山本七平)は、「百人斬り競争は存在しない」とし、「なぜ両少尉を匿名にしたのか。実名を明らかにしていただきたい。この話は「伝説」なのでしょう。この二人は存在しないから実名が記せないのでしょう。」と批判した[21]。これに対して、本多は、両少尉の実名入りの新聞記事や鈴木二郎記者、志々目彰の手稿(後述)を挙げ、「これでも伝説と主張しますか」と反論した[22]。山本は軍隊の常識という経験に基づいた論法で、鈴木明は南京軍事法廷の記録と向井少尉を知るもの達への取材という方法により虚偽を主張[23]。本多はこの論争を『死人に口なし』、『今後相手はご免被る』と一方的に打ち切った[24]

また本多は、実際の「百人斬り」は報道されたような武勇伝的なものではなく、「捕虜や農民の据え物斬りだったとしている(下掲「肯定側の主張」も参照)。[25]

その後、鈴木は雑誌分載の主張をまとめた「南京大虐殺のまぼろし」を出版し[26]大宅賞を受賞する。山本は殺陣師の談話や軍刀修理に当たった成瀬関次の著書『戦う日本刀』、軍刀の強度試験に立ち会った材料工学のO工学博士からの手紙[27]、自身の体験等から、「日本刀で本当に斬れるのはいいとこ三人」(殺陣師)等を引用して「日本刀にはバッタバッタと百人斬りができるものでない」と結論づける[28]秦郁彦は、その山本に対し、「1.無抵抗の捕虜を据えもの斬りすること[注釈 1]を想定外としていること」「2.成瀬著から都合のよい部分だけを利用し、都合の悪い事例を無視している[注釈 2]こと」から『トリックないしミスリーディングといえよう』と評した[29]洞富雄も、同じ観点から同様に山本七平と鈴木明を批判している[30]。(山本の「据えもの斬りを想定外」について[31]。また「都合の悪い事例」すなわちは日本刀の優秀性を謳う個所はによるとこの4箇所[32]だが、山本は必ずしも無視していない[33][34][35][36]。)

論争当時の著名著述家の反応。

  • 臼井吉見「特派員の署名記事で、銃後の話題を賑わそうとの特ダネゲームの与太ばなしであった・・」
  • 開高健「ジャーナリズムの幼稚と無責任をうまくついた作品で・・もっと正面から告発してもよかった」
  • 小田実「百人斬りというような事件は、真実には、それ自体はたしかになかったものにちがいない」[37]

肯定側の主張[編集]

  1. 野田少尉と同郷である志々目彰は、小学生の時、学校で野田少尉が百人斬りの講演を行い、野田自身が捕虜を斬ったことを自分から告白していたことを、講演から32年後に証言している[注釈 3]。志々目は、「極東裁判が開かれた・・・南京虐殺事件の報道はすなおに受け入れることができた。N少尉の全体像がつかめてきたように思い・・・(銃殺は)当たり前だな」[39]と語った。
  2. 野田少尉と同じ小隊に所属していた(正しくは同じ中隊(約250人)で6ヶ月過ごしたことがある)望月五三郎の手記『私の支那事変(私家版)』(P42-45)に、「百人斬り」の一環として、野田少尉が無辜の農民を日本刀で斬殺した記述がある。
  3. 少なくとも、戦時中は野田向井両名とも事件を否定するような証言はしておらず、むしろ自分の故郷などで武勇伝的に語っていた。また、大阪毎日新聞鹿児島沖縄版1938年1月25日付の記事では、野田が故郷の友人に宛てた手紙が掲載されており、「百人斬り」の実行を記している。
  4. 野田少尉の父、野田伊勢熊氏は昭和42年6月の段階で野田少尉が「南京入城前に百人斬り競争を同連隊の向井少尉となし」たことを認めている[40]
  5. 2少尉が作成した遺書の中でも、2少尉が「百人斬り競争」について話したことにより新聞記事になった、と認めている[40]。被告側の主張で、引用する遺書全文はこちら[41]。本多勝一によれば遺書は、「MはNが言った、NはMが言ったと、一種なすりつけあいをしている[42]」。
  6. 南京攻略戦においては、捕虜や一般民衆に対する殺害はごくありふれた現象だったことを示す資料は多数存在している。[43]
  7. 秦郁彦は1991年に野田の故郷鹿児島でインタビューを行い、野田自身が地元の小学校や中学校で捕虜殺害を自ら公言していたことを調べ、日本大学法学会『政経研究』42巻4号に発表している。また、「投降捕虜処刑の有無」に「論点をしぼってみる」と自説部分を始め[44]、「(野田が)捕虜を並べての据え物斬りをやったと『告白』したのは事実らしい」と結論付けた[45]

否定側の主張[編集]

  1. 当時、向井少尉は、丹陽の砲撃戦で負傷して前線を離れ、「百人斬り競争」に参加することは不可能であったという証言をおこなった[46]鈴木明宛に衛生兵T氏の手紙があり、「向井少尉の負傷は事実で」負傷後の行動も具体的に書かれている[47]。名誉棄損訴訟の判決は、富山大隊長の受傷証明書は事後に提出された、犬飼総一郎手記は具体性に欠けるとし、証拠能力を否定して負傷を認めない。がT氏の手紙には言及していない[48]
  2. 銃器が発達した近代の陸上戦闘では、白兵戦における個人の戦果を競うという概念はほぼない[46]
  3. 向井少尉は砲兵隊の小隊長であり、野田少尉は大隊の副官であった[49]。両者とも所属が異なり、最前線で積極的に白兵戦に参加する兵科ではない。さらに、兵科の違う2人が相談して「何らかの戦果を競争する」ことは不自然である。また、向井少尉には軍刀での戦闘経験はない[46]。2少尉と浅海記者の会見に居合わせ、2少尉の写真[注釈 4]を撮影した東京日日新聞カメラマンの佐藤振寿は、1994年5月に『産経新聞』紙上で、「修羅場になったら(野田少尉が務める)大隊副官は大隊長の命令指示を受けて、何中隊はどうする、と命令を下してなくちゃいけないわけです。(向井少尉が務める)歩兵砲の小隊長は『距離何百メートル、撃てーッ』とやってなくちゃいけない。それなのにどうやって勘定するの。おかしいなと私は思ったんですよ」と証言している[49]
  4. 戦時報道は、言うまでもなく、両少尉の証言は戦意高揚、武勇伝としてのものである[46]
  5. 仮に抜刀による戦闘が実際あったとしても、民間人を殺害させ、勝者には賞が出されるという「殺人ゲーム」のようなものは、東京日日新聞の記述とは全く異なるものである[46]
  6. 東京日日新聞などの記事では、野田少尉向井少尉が戦場で「百人斬り競争」を始め、その途中経過を記者らに逐次伝えたことになっているが、野田が戦後残した手記によると、二人は1937年秋に無錫で東京日日新聞の記者から「ドウデス無錫カラ南京マデ何人斬レルモノカ競争シテミタラ。記事ノ特種ヲ探シテヰルンデスガ」と持ちかけられ、向井が冗談のつもりで応じると、記者は「百人斬競争ノ武勇伝ガ記事ニ出タラ花嫁サンガ殺到シマスゾ」「記事ハ一切記者ニ任セテ下サイ」と述べた[50]。2少尉と記者は無錫で別れ、野田少尉によれば、件の記者と再会した時には、既に「百人斬り競争」の記事が日本で話題になっていたという[50]
  7. 向井少尉が昭和15,6年頃、母校の京城公立商業学校を訪れた際、「校長から『生徒達に是非百人斬りの話を』とすすめられたが、何故か固辞して語らなかった」、と共に訪れた同級生・田辺の証言がある[51]
  8. 3年後向井中隊長の直属の部下になった宮村喜代治は、昭和15年の秋頃広東で向井中隊長から「あれは冗談だ」「冗談話を新聞記事にしたんだ」「冗談が新聞に載って、内地でえらいことになった」と聞いた。その旨、裁判でも陳述書にしている。報道陣は第一線までは来ず、突撃演習が実戦として放映されたことがあるが悪い気はしなかった、とも語っている[52]
  9. 当時向井少尉の直属の部下だった田中金平は、阿羅健一の取材に1983年頃次のように答えている。「まわりの兵隊達もその話は知っていました。しかし誰も信用していません」「無錫から南京にいくまでほとんど私の側にいました。この間、小隊長が刀を抜いたのを一度も見ていません」「我々の周りに中国兵などいません」[53]
  10. 2人とも丹陽にも句容にも入城していない、中山陵を見下す地点に行っていない。『記事は一切記者に任せてください』どおり、記事は創作。13日記事の写真が11月29日(または30日)に撮影したものなのは、3者が会っていなかったから[54]
  11. 第3報(12月6日)を掲載した「記事の隣の記事は、浅海記者が同じ12月5日に丹陽で取材した記事であり、丹陽で取材しているはずの浅海記者がはるか離れた句容で2少尉から『百人斬り競争』の結果を取材したことになり、全くありえない」[55]。浅海記者はその後も丹陽にとどまり、12月10日鈴木記者と合流した[56]ことが戦後の東京裁判尋問調書で知られる。この点からも「12月5日の句容(丹陽の先)での記事は虚偽である[57]」。さらに、検事から『1937年12月5日の記事の執筆者はあなたですか』と質問され『はい。私がこの記事の執筆者です』と答えている[58]。これにより記事は光本記者ではなく、浅海記者が書いたものと確認された。[59]
  12. 「毎日新聞社自身、毎日新聞が平成元年3月5日に発行の『昭和史全記録』の中で、百人斬りに触れ、『この記事は当時、前線勇士の武勇伝として華々しく報道され、戦後は南京大虐殺を象徴するものとして非難された。ところがこの記事の百人斬りは事実無根だった』と書いている」[60]
  13. 「(軍隊では)ボク・キミ・アナタ・ワタシ等は絶対に口にできない禁句に等しかった」、「一人称代名詞は原則として使ってはならず・・・使う場合は『自分』であって、他の言葉は使えない」、「軍隊語の二人称代名詞は俗説では貴様だが・・・私自身、将校同士が貴様と言い合った例を知らない」、貴公のはず。山本七平は自身の将校経験から会話文を分析する。軍隊ではこれを叩き込まれ、三カ月もすれば反射的に軍隊語が出てくるという[61]

佐藤振壽の証言[編集]

  • 第1報の会見に居合わせ2少尉の写真を撮った、東京日日新聞カメラマン・佐藤振寿は名誉毀損訴訟の陳述書に言う。「記事を見たのは、翌年の一月に南京から上海に帰ってからですが、そのときの印象は『浅海はうそっぱちを書いたな』という感想です」[62]
  • なぜか裁判所は証人を一人しか認めなかった[63]。唯一の証人・佐藤は、訴訟の証人尋問で『(百人斬りは)100%信じることはできません』『(記事は)うそだと思いましたよ』と証言した[64]

肯定側主張への疑問・批判[編集]

  • 民衆殺害について
“民衆に対する殺害”に関し、研究者は次の留意を記している。中支では民衆に「抵抗することが要求され」た。「上海で日本軍歓迎の旗を振る婦人の列の陰から便衣隊が一斉射撃をした[65]。不意を衝かれた日本軍の死体は、見る見るうちに山と築かれていった[66]」。「老婆といえども情報を探って通報する恐れ」があった。某カメラマンの言「一度自分がやられそうになった時、相手をやらなければ自分がやられるのだな、ということをしみじみ痛感させられた[67]」。なお昭和20年小磯國昭内閣が本土決戦のために「国民義勇隊」を組織化すると発表したとき、南原繁教授(東京帝国大学法学部長)は次のように語っている。「ゲリラをしますとね、虐殺されても仕方ないです。本当の戦闘員ですと、捕虜として待遇され、そうにひどい目に遭うことはないですが、ゲリラですと直ちに殺されても文句はいえません。あれは一番ひどい目に合います」[68]
  • 志々目彰および回想記(公演から三十数年後の発表)について
  • 「儞、来々(振り仮名付:ニーライライ)、出て来い、といった(中略)儞、来々、快々的来々、と怒鳴った。・・・残っているのもぞろぞろ出てきた。(後で殺されたことを聞く)[69]」 VS 「占領した敵の塹壕にむかって『ニーライライ』とよびかけるとシナ兵はバカだから、ぞろぞろと出てこちらへやってくる。それを並ばせておいて片っぱしから斬る[70]」。前者は火野葦平土と兵隊』、手榴弾を七発放り込んだトーチカ制圧の描写。後者は志々目が野田から聴いたという講演内容。トーチカなら火野が言う通り「袋の鼠」[71]だが、塹壕は通常総延長が長い。にも拘らず奥へ逃げない[72]。火野は最前線の兵士だが、野田は大隊本部副官。『土と兵隊』は南京攻略戦を描き、翌1938年に刊行されベストセラーとなる。1953年文庫に復刻。志々目手記は1971年発表。志々目は戦後、児童文学に携わったという[73]
  • 「最初出てきた4人の支那兵の一人が逃げようとした。阪上上等兵がそれを射ちたおした[74]」 VS 「多数の捕虜の中には逃亡を企てる奴等は必ずいる。他の捕虜の見せしめの為には処罰しなければならない。その様な連中を切ったのです[75]」。前者は火野葦平土と兵隊』の同じ場面。後者は辛島勝一が野田から聴いたという講演の様子。辛島と志々目とは、野田少尉の百人斬りに関して話し合ったこともあった[76]
  • 処刑について「日本の新聞はニュースさえ報道していない」[77]。野田の同期生・手島清忠も「銃殺されたことを知ったのは後のことである」[78]と1972年に語っている。志々目が“新聞記事”を読み「銃殺は当たり前」と考えた[79]のは極東裁判(1948年)当時ではない。後の情報(次に話題になるのは23年後)を基に考えたことを、当時の話として語っている。
  • 「志々目彰は、氏の大阪陸軍幼年学校会報の寄稿文によると、終戦後共産党員になり党員として活動しているときに傷害罪で実刑を受け、その後共産党を離党し、30年間児童文学に携わった人である[80]」。
  • 望月五三郎の回想記(南京戦から半世紀後の1985年刊)について
  • 望月の回想記に「重機関銃、軽機関銃の猛射で城壁は破壊されていく」「戦車が城門めがけて激突破した」などとあるが、本当の体験記なのかと思うほど間違いが多いと阿羅健一は言う[81]
  • 「百人斬りの勇士と・・・一躍有名になった人である」。望月はこれを昭和12年11月27日-12年11月28日の条に記している[82]。東京日々新聞の第1報が出るのが昭和12年11月30日、有名になるのはその後である。また、第1報が出るまでに“競争”が始まっていないことは、名誉棄損訴訟に於ける佐藤振寿の証言がある[83]
  • 「その行為は、支那人を見つければ、向井少尉とうばい合ひする程、エスカレートしてきた(望月回想記)[84]」は、上記、田中金平の述懐と大きく異なる。
  • 「一刀のもとに首がとんで胴体が、がっくりと前に倒れる[85]」とは望月回想記の一節。三島由紀夫の介錯では四刀を要した。また身体は前に倒れると思い勝ちだが、実は「押え役がいるときは前へ倒れるように押えているからよいが、支えがないばあいの多くはうしろへ立ち上るようにして倒れ」るという[86]
  • 片桐連隊長が野田を厳しく戒めたという事実[87]が有る。望月の回想記「連隊長も大隊長も・・・黙認した」は、この事実に反し日本軍を断罪する内容になっている。
  • 電話取材した稲田朋美に望月の親族は言った。「だれもあんな人のいうことを信用していませんよ。親族にも迷惑ばかりかけていました。そういう本を書いて関係者の方々に送ったということですが、だれも相手にしていないと思います」[88]朝日新聞は回想記を事実と主張し[89]、裁判所は反証がないことを以って回想記を真実の証拠の1つにしている[90]
  • 本多勝一のルポについて
ほとんど知られることのなかった「百人斬り伝説」を「本多勝一記者は中国旅行中に南京で聞きこん」で「『朝日新聞』の連載でむし返し[91]」た。鈴木明は、「ルポは、そのネタとなった35年前の『毎日』の記事と比べて、1.戦闘中の手柄話が、故意に平時の殺人ゲームにスリかえられている。2.『上官命令』というフィクションがつけ加えられている。3.『百人斬り』が3回もくり返されたように誇張された表現となっている、など、明らかに『勘ちがい』とはいえない『作りかえ』が成されており・・数十倍も強烈である」という[92]名誉棄損裁判(後述)に原告側の証人として出廷した佐藤振壽は本多の取材手法や「検証のなかったことについても証人尋問のなかで痛烈に批判した。『私に聞かないで百人斬りの話なんか分かるはずはないと思って、従って、朝日新聞の記事はうそであるという結論に至りました。ジャーナリストが一つの事実を報道する場合に、あくまでそれが真実であると確信しなければ、原稿に書いてはいけないことなんですよ』」[93]秦郁彦は、田中正明本多勝一を"無責任なレポーター"と評したことを紹介している[94]

記事を疑問とする主張[編集]

第1報:会見は無錫ではなく常州[95]浅海一男記者は“無錫に一番乗り”という、11月27日発の記事を書いている[96]。2少尉が属す冨山大隊は26日、すでに常州(無錫の先)に向け追撃に移っていた[97]ので、無錫での会見は不可能だった[98]。29日(か30日)常州で会見に加わった佐藤振壽は、“競争”は未だ始まっていなかったと証言している[99]。にも拘わらず、さかのぼって無錫から常州までに「25名を斬」った、「刃こぼれが」した、等と浅海記者は記事に書いている。なお名誉棄損訴訟の判決は、「聞き取った内容を記事にした」という記者の供述に信頼を置く[100]。結果がこの第1報であり2,3,4報である。

第2報:当時当事者が書いた『大野日記』に、2少尉が属す冨山大隊が丹陽に入城した形跡はない[101]

第3報:冨山大隊が属す9連隊は句容を迂回した[102]。5日浅海記者はまだ丹陽に居て[103]、句容に居ない(否定論の第3報参照)。

第4報:11日向井少尉に会ったと記事に書いた鈴木二郎記者は、『抵抗もだんだん弱まって、頂上へと追い詰められていったんですよ。・・・いぶり出された敵を掃蕩していた時ですよ、二人の少尉に会ったのは[104]』と1972年の取材に答えている。「紫金山(488m)攻撃」の戦況に限れば、鈴木記者は間違っていない[105]。その後公文書や第1次資料が大量に発掘され、精緻な研究が進む。『南京戦史(1989年)』他によると、冨山大隊が戦ったのは、紫金山麓ではあるが「本街道地区の戦闘」で[106]、両者には明確な線引きがあった[107]。「中山陵を眼下に見下す」地点にも行っていない[108]。9日(9連隊は10日)から始まったこの戦闘は11日も、「益々敵の射撃猛烈[109]」で上から終日射撃され孤立ないしは苦戦して[110]「戦況は進展しなかった[111]」。第3大隊が当初目指す73(m)高地も未だ攻略されていない[112]

一方の浅海記者は、直接の戦場でなかった「孫文陵前の公道あたり」で「両少尉の訪問を受けた[113]」と語る。その場には『向井少尉野田少尉浅海さん、ぼく(鈴木)の4人がいたいた[114]』という。『記事は浅海さんが主に執筆したもの』[115]とは東京裁判の検事に、『どちらが直接執筆したかは忘れました』[116]は「週刊新潮」に、鈴木記者が各々答えている。記事の写真は常州中山門を背に佐藤振壽が11月29日(か30日)に撮影したもので、紫金山麓と合致しない門と分かる部分はカットされて掲載された[117]。 なお判決は、記事として具体的には唯一、第4報だけに言及し「冨山大隊がおよそ紫金山付近で活動していたことすらなかったものとまでは認めめられない[118]」ことを一理由として、新聞報道は完全な虚偽ではなかった[119]としている。

名誉毀損裁判[編集]

2003年4月28日野田向井の遺族が遺族及び死者に対する名誉毀損にあたるとして毎日新聞、朝日新聞、柏書房、本多勝一らを提訴した。原告側代理人弁護士は稲田朋美[120][121]

訴訟の主な争点[編集]

「戦闘による百人斬り」を言いだしたのは誰か[編集]

佐藤振壽カメラマン、中山陵の前で昭和十三年十二月十三日に撮影
  • 原告の主張 - 報道された新聞記事大阪毎日新聞、東京日日新聞の記者らが戦意高揚のために創作した[122]
  • 被告(毎日新聞)の主張 - 報道された新聞記事は両少尉が記者たちに語ったことをそのまま伝えた。記者たちは実際に二人が中国人を斬ったところは見ていない。
  • 裁判所の判断
    1. 日日新聞に掲載された写真を撮った佐藤カメラマン(原告側証人)は、記事の執筆には関与していないが、「百人斬り競争」の話を両少尉から直接聞いたと供述しており、これは当時の従軍メモを元にしている点からも信憑性が高い。
    2. 両少尉自身も、遺書等で両少尉のいずれかが記者に話したと記している。
    3. 野田少尉が中村硯郎あてに百人切りを自慢する手紙を送ったり、地元鹿児島で百人切りを認めるコメントをしたり講演会をしたりしており、少なくとも野田少尉は百人切りを認める発言をしている。
等の理由により、『両少尉が浅見記者ら新聞記者に話をしたことが契機となり、「百人斬り競争」の記事が作成されたことが認められる。』と判断した[123]

向井少尉の負傷について[編集]

  • 原告の主張 - 当時、向井少尉丹陽の砲撃戦で負傷して前線を離れ、「百人斬り競争」に参加することは不可能であった[124]。両少尉の手記や、冨山大隊長の証明書にも同旨の記載がある。
  • 被告(本多勝一)の主張 - それらは南京軍事裁判で向井少尉が死刑を回避するために捏造したものである。検察の主張をそのまま認めたら死刑になってしまうのでこの行為自体は仕方ない行為だが、資料の裏付けは無く、信憑性はない。
  • 裁判所の判断
    1. 両少尉の手記や、冨山大隊長の証明書は南京軍事裁判になって初めて提出されたものであり、南京戦当時に作成された客観的な証拠は提出されていない。
    2. 向井少尉が丹陽の戦闘で負傷し、離隊しているのであれば、向井少尉直属の部下であった田中金平の行軍記録に当然記載があるはずだが、そのような記載はない。
等の理由により、『向井少尉が丹陽の戦闘で負傷して前線を離れ、紫金山の戦闘に参加することができなかったとの主張事実を認めるにたりない』と判断した[125]

戦闘による百人斬りは実際に行われたか[編集]

  • 原告の主張 - 山本七平は著書「私の中の日本軍」で「日本刀は三人戦闘で斬れば使い物にならなくなる。だから100人も斬れるはずがないので100人斬り報道は虚偽である」と主張。原告もそれを引用して同様の主張をした。
  • 被告(本多勝一)の主張 - 宮本武蔵や佐々木小次郎でもない一般人が百人も戦闘で斬れるはずがない。実際には両少尉は捕虜や農民を斬ったのであり、それを新聞記者にぼかして伝えたのだ。
  • 裁判所の判断 - 南京攻略戦当時の戦闘の実態や両少尉の軍隊における任務、一本の日本刀の剛性ないし近代戦争における戦闘武器としての有用性等に照らしても、本件日日記事にある「百人斬り競争」の実体及びその殺傷数について、同記事の内容を信じることはできないのであって、同記事の「百人斬り」の戦闘戦果ははなはだ疑わしいものと考えるのが合理的である[126]

実際には何が行われたか[編集]

  • 被告(本多勝一)の主張 -
    1. 野田少尉が教官だった望月五三郎が靖国神社に寄贈した体験記「私の支那事変」に、野田少尉が農民をひっぱってきて首を斬り、その行為は中国人を見つければ向井少尉と奪い合いをするほどエスカレートしていった記述がある。
    2. 野田少尉と同郷である志々目彰は小学生の頃、学校で野田少尉が講演を行い、野田少尉が自ら「実は百人斬りの内容は捕虜を斬った」ことを語ったと証言している[38]
    3. 「南京大虐殺のまぼろし」を記した鈴木明も、対象者が捕虜であれば可能性があることを認めている。
    4. 南京攻略戦当時の日本軍には捕虜や農民の殺害はありふれていたことであり、そのことを裏付ける資料は多数存在する。
等の根拠から、実際には両少尉は捕虜や農民の殺害数を競う「殺人ゲーム」をしていたと推察される。
  • 裁判所の判断
    1. 望月五三郎の記述の真偽は定かでないというほかないが、これを直ちに虚偽であるとする客観的資料は存在しない。
    2. 志々目彰の小学校の同級生である辛島勝一も、志々目彰と一緒の機会に、野田少尉から、百人という多人数ではないが逃走する捕虜をみせしめ処刑のために斬殺したという話を聞いた旨述べている。辛島が野田少尉を擁護する立場でそのような内容を述べていることに鑑みれば、ことさら虚偽を述べたものとも考え難く、少なくとも野田少尉が「捕虜を斬った」という話をしたことは両名の記憶が一致している。
    3. 本多は捕虜を斬ったとする鵜野晋太郎の手記を引用している。これらの話も、真偽のほどは定かではないというほかないが、自身の実体験に基づく話として具体性、迫真性を有するものと言える。
以上の点から、その重要な部分において全くの虚偽であると認めることはできないというべきである。以上と異なる前提に立つ原告らの主張は、いずれも採用することはできない。

時効[編集]

  • 被告(毎日新聞)の主張 - 新聞記事は1937年のものであり、民法724条の除斥期間(3年)は経過しており、訂正・謝罪の義務はない。
  • 原告の主張 - 新聞記事は60年以上前の物であるが、その記事は虚報であり、その虚報を正さずに放置し続ける限り、時効は延長する。
  • 裁判所の判断 - 前述の通り新聞記事が「虚偽であることが明らかになったとまで認めることはできない」。よって時効は考慮するまでもない[注釈 5]。また仮に原告らの請求権が存在していたとしても除斥期間を経過しており時効は成立している。

上記等の理由により、2005年8月23日、東京地裁において原告請求全面棄却の判決が出された[127]

原告は控訴、2006年2月22日、東京高裁は一回審理で結審した。なお、控訴人が提出した第2準備書面の一部の陳述について、裁判長は内容不適切(裁判官侮辱)につき陳述を認めないとした。結審の後、控訴人側弁護士は裁判官の忌避を申し立てたが3月1日却下された(結審後の申立てや訴訟指揮を理由とした裁判官忌避は通常認められない)。5月24日、控訴棄却判決[128]

原告側は上告したが12月22日、最高裁においても上告棄却判決。原告側の敗訴が確定した。

備考[編集]

  • 原告側の証人として出廷した佐藤振寿は原告側で唯一の証人だった。原告側弁護人を務めた稲田朋美によると、原告側は佐藤以外にも証人を申請し、上申書も提出したが、裁判所から却下されたという[129]

その他[編集]

台湾台北市国軍歴史文物館の展示。田伯烈の"What's War Means"の中文版『外人目睹中之日軍暴行』及軍事委員會政治部『日寇暴行實錄』に掲載された写真の左右反転画像のパネルに、九十八式軍刀 (昭和十三年制式)がはめ込まれて展示されている(「九八式鐵殼軍刀(南京大屠殺殘殺我同胞107人之軍刀:魏炳文將軍公子魏亮先生捐贈」)。
  • 2004年、集英社の週刊ヤングジャンプ43号に本宮ひろ志の漫画『国が燃える』第88話が掲載された。そこでは、南京事件をとりあげ、二人の兵士が捕虜を並べて速く斬る競争をする描写をしたが、政治結社正氣塾や『集英社問題を考える地方議員の会』の抗議を受けて集英社は、「現在、戦犯として処罰された方々のご遺族の皆様が裁判中です。係争中という時期に、誤解を招きかねない描写を掲載した件につきましては、関係者の皆様には、深くお詫び申し上げます」とし、当該シーンを削除した。
  • 毎日新聞社が1989年(平成元年)に刊行した『昭和史全記録 Chronicle 1926-1989』には、向井少尉が負傷して不在であったことを理由として、この記事の百人斬りは事実無根だったと記載している[2][130]
  • 1991年に秦郁彦は、野田の故郷鹿児島で上述の(志々目や辛島が聞いた)野田の講演の聴衆に対し裏付け調査を行った。野田が地元の小学校や中学校で捕虜殺害を公言していたことに対して複数の証言が得られたので、「どうやら一般住民はともかく、野田が白兵戦だけでなく、捕虜を並べての据え物斬りをやったと「告白」したのは事実らしい」と結論づける論文を2005-2006年に発表している[131]
  • 中華人民共和国南京市にある南京大虐殺紀念館では、この東京日日新聞の記事を「虐殺の証拠」として等身大パネルを作成して展示をしている[49]
  • 台湾中華民国台北市にある中華民国軍の歴史資料館である国軍歴史文物館には、魏炳文少将の親族より贈られた、刀身に「南京の役 殺一〇七人」と刻まれた軍刀が展示されている。同館はこの軍刀を、“南京大虐殺の際、同胞の中国人を107人斬った日本軍刀”であるとして、向井・野田両少尉のいずれかが使用したものに間違いないと主張している。2人が斬ったとされる人数(向井105人・野田106人)より多いことについては、百人斬りが日本で報道された後に、さらに1人斬った可能性があるとしている[132]

関連項目[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 戦闘で敵を斬ることとは難易度が全く異なる。
  2. ^ 「戦ふ日本刀」は山本七平が引用した斬れなかった事例は少数派で、大部分は日本刀の優秀性を印象付ける内容である。
  3. ^ 「郷土出身の勇士とか、百人斬り競争の勇士とか新聞が書いているのは私のことだ。実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは四、五人しかいない。占領した敵の塹壕にむかって『ニーライライ』とよびかけるとシナ兵はバカだから、ぞろぞろと出てこちらへやってくる。それを並ばせておいて、片っぱしから斬る。百人斬りと評判になったけれども、本当はこうして斬ったものが殆んどだ。二人で競争したのだが、あとで何ともないかとよく聞かれるが、私は何ともない」白兵戦では斬らずに戦意を失って投降した敵を斬るという"勇士"の体験談は、私にはショックだった[38]
  4. ^ 『東京日日新聞』(昭和13年12月13日付)に掲載[49]
  5. ^ 「したがって,その余の点について検討するまでもなく、原告らの上記主張に理由はなく、被告毎日に対する請求は認められないというべきである。」

出典[編集]

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  1. ^ “【新閣僚に聞く(詳報)】稲田朋美防衛相詳報(4) 南京事件「百人斬りはなかったと思っています」「30万人、40万人という数がどうであったかは重要」(3/5ページ)”. 産経ニュース (産経新聞). (2016年8月5日). http://www.sankei.com/politics/news/160805/plt1608050013-n3.html 2016年8月28日閲覧。 
  2. ^ a b 『昭和史全記録 Chronicle 1926-1989』 1989年3月5日発行, 毎日新聞社, ISBN 4-620-80210-7, 178頁。
  3. ^ 「南京大虐殺と『百人切り競争』の全貌」P157
  4. ^ 「百人斬り競争」と南京事件 P194
  5. ^ 「百人斬り競争」と南京事件 P200
  6. ^ 200,201頁『「百人斬り競争」と南京事件』笠原
  7. ^ 73,76,97頁『南京百人斬り競争の真実』
  8. ^ 90頁『南京百人斬り競争の真実』東中野修道 2007年
  9. ^ 150頁『南京百人斬り競争と南京事件』笠原十九司 2008年 笠原は草場追撃隊(20,9連隊)に、両少尉が属す富山大隊が入っていたこと強調するが、丹陽に入城したと断定していない。富山大隊が追撃隊に復帰するのは4日
  10. ^ 91頁『南京百人斬り競争の真実』
  11. ^ 84頁『南京戦史』1989年 311頁「中島今朝吾日記」『南京戦史資料集』
  12. ^ 113頁『南京百人斬り競争の真実』
  13. ^ 170頁『南京百人斬り競争と南京事件』笠原は、霊谷寺を迂回して「桂林石房高地の陣地を占領・・・中山陵とその階段を見下ろすことができた」と言う。が引用する9連隊第1大隊副官六車政次郎『惜春譜』には「敵陣地に突入」「11日・・わが第1大隊は桂林石房の山を下り・・方面で戦闘しているとのことであった」と第1大隊で第3ではない。『南京戦史』も同じ
  14. ^ 早川タダノリ『「愛国」の技法: 神国日本の愛のかたち』(青弓社)[要ページ番号]
  15. ^ 秦郁彦『いわゆる「百人斬り」事件の虚と実(二)』「政経研究」第42巻第4号 P94
  16. ^ 244,213頁『「百人斬り競争」と南京事件』笠原 「証拠が日本の新聞と本だけ」,290頁『旧日本陸海軍の生態学』秦郁彦 「『外人・・暴行』ばかりでなく東京日日新聞の記述が証拠」
  17. ^ 「百人斬り訴訟」裁判記録集P108
  18. ^ 「南京事件」広めた本 著者の豪人記者は中国からカネ貰って執筆した…そんな本が「百人斬り」脚色、裁判をも影響産経新聞(2015.4.23)web魚拓
  19. ^ 291,290頁『旧日本陸海軍の生態学』秦
  20. ^ 106頁『「南京大虐殺」のまぼろし』鈴木明1973年
  21. ^ 諸君!』 1972年3月号[要ページ番号]
  22. ^ 『諸君!』 1972年4月号[要ページ番号]
  23. ^ 44頁『「百人斬り訴訟」裁判記録集』百人斬り訴訟を支援する会 2007年
  24. ^ 44頁『「百人斬り訴訟」裁判記録集』百人斬り訴訟を支援する会 2007年
  25. ^ 柏書房「南京大虐殺否定論 13のウソ」第6章
  26. ^ 273頁『南京大虐殺のまぼろし』鈴木明
  27. ^ 270頁『私の中の日本軍』山本七平
  28. ^ 306頁『旧日本陸海軍の生態学』秦郁彦
  29. ^ いわゆる「百人斬り」事件の虚と実(二)『政経研究』2006年2月号P96
  30. ^ 山本への批判は「『"南京大虐殺"はまぼろし』か」(本多勝一編集「ペンの陰謀」に収録)鈴木の批判は「南京大虐殺―「まぼろし」化工作批判」
  31. ^ 山本は遺体の手首と足を軍刀で切断した後、刀の柄がぐらついた自身の体験を出発点にしている(71,153頁『私の中の日本軍』)。山本が無抵抗の遺体も想定していることは確か。鵜野晋太郎(中帰連活動家)を引合いに、秦は据え物斬りなら何人(10人)でも故障なく斬れそうなことを言う(307頁『旧日本陸海軍の生態学』)が、『日本刀の近代的研究』(小泉久男)によると、2人で故障は起こり重大な故障もある。以下その研究《据え物斬り限定で、斬った人数、故障個所の8例:(1).2人,無 (2).1人,無 (3).1人,無 (4).7人,少しく刃こぼれ (5).42人,無 (6).数人,刃こぼれ (7).2人,2,3箇所刃こぼれ (8).2人,曲がり護拳ガタガタで使用上甚だ不便(32頁『百人斬り競争と南京事件』)》 (5)の42人斬り故障無しは、いわゆる突出データ。
  32. ^ 306頁『旧日本陸海軍の生態学』秦郁彦 1「曲がることはあるが、『二千振近いものゝ中に、折れは一振も見なかった』」2「(ある少尉は)・・都合47人を手にかけ・・」3「・・一騎討ちの原始戦が盛んに行われ・・異国に於いて日本刀の威力を発揮した・・」4「・・武術の心得もなくして・・如何様にも切り落とす名手が少なくない・・」
  33. ^ 104頁『私の中の日本軍』山本七平「《(キズから刀が折れぬかと聞かれたので、折れぬ事を保証した)日本刀はなかなか折れぬものである。二千振近いものゝ中に、折れは一振も見なかった(山本が成瀬著より引用)》 日本刀は折れるのではない。曲がるのである。その事実を知らないで人を斬ったなどという人がいたら、ほらふきである(山本)」。秦郁彦は括弧内を外しゴチック部を変えて引用している。
  34. ^ 102頁『私の・・』「47人斬りを披露し」た一少尉に、成瀬自身が「名説はかうだ」、「宮本武蔵でも乱刃渦中で闘った記録は絶対にない」と皮肉な調子で記す。これを以って、軍人の言説をフィクションと言えない戦時下の言論状況を山本は見て取る。この話を秦郁彦は真実とする。
  35. ^ 100頁『私の・・』 3,4点目に直接の言及はないが、読者から提供された成瀬著作を「全部、戦場における伝聞である」として、山本はその部分を信用せず受け入れない
  36. ^ 306頁『・・生態学』「都合のよい部分だけを利用し」と秦が言っているのは、「一刀のもとに斬り殺すほど鋭利な日本刀はほとんど皆無」の部分だが、これは成瀬の体験でもある。
  37. ^ 42頁『「百人斬り訴訟」裁判記録集』百人斬り訴訟を支援する会 2007年
  38. ^ a b 月刊『中国』1971年12月号P43。
  39. ^ 「百人斬り競争 日中戦争の追憶」志々目彰(月刊『中国』1971年),141頁『南京百人斬り競争と南京事件』2008年
  40. ^ a b 南京大虐殺と「百人斬り」の全貌P54
  41. ^ [向井]<野田君が新聞記者に言ったことが記事になり死の道づれに大家族の本柱を失わしめました事を伏して御詫びすると申し伝えて下さい、との事です。何れが悪いのでもありません。人が集まって語れば冗談も出るのは当然の事です。私も野田君の方に御詫びして置きました。公平な人が記事を見れば明らかに戦闘行為であります。犯罪ではありません>  [野田]<向井君から父上へ「口は禍の元、冗談を言ったばかりに、大事な独り息子さんを、死の道連れにして申し訳ありません」とのことです><日本国民に告ぐ 私は嘗て新聞紙上に向井敏明と百人斬り競争をやったといわれる野田毅であります。自らの恥を申し上げて面目ありませんが、冗談話をして虚報の武勇伝をもって世の中をお騒がせ申し上げた事につき、衷心よりお詫び申し上げます>
  42. ^ 111頁『南京大虐殺否定論13のウソ』1999年 90頁『百人斬り訴訟裁判記録』
  43. ^ 南京大虐殺と「百人斬り」の全貌P55
  44. ^ 301頁『旧日本陸海軍の生態学』秦郁彦
  45. ^ 304頁『旧日本陸海軍の生態学』
  46. ^ a b c d e 「百人斬り(名誉毀損)裁判」における原告側主張の1つ。[1]争点2-カ(ア)c [リンク切れ]
  47. ^ 305頁『私の中の日本軍』山本七平
  48. ^ 192頁『「百人斬り訴訟」裁判記録集』
  49. ^ a b c d e “【土・日曜日に書く】論説委員・石川水穂 南京の真実語った従軍記者”. 産経ニュース (産経新聞). (2008年9月27日). オリジナル2008年10月3日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20081003071022/http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/080927/trl0809270350001-n1.htm 2015年11月12日閲覧。 
  50. ^ a b 産経新聞』 2001年6月18日
  51. ^ 74頁『南京大虐殺のまぼろし』鈴木明 1973年
  52. ^ 150頁『百人斬りから南京へ』稲田朋美 2007年
  53. ^ 153頁『百人斬りから南京へ』稲田朋美 2007年 「話を聞いた時、刀で百人など斬れないので何を言っているのかと思いましてね。それでよく覚えています。まわりの兵隊達もその話は知っていました。しかし誰も信用していません」「小隊長は砲撃を我々分隊長に任せて、全体を見ていて、無錫から南京にいくまでほとんど私の側にいました。この間、小隊長が刀を抜いたのを一度も見ていません。・・・百人斬るとか何とかの前に、我々の周りに中国兵などいません。中国兵がいないのですから、斬るも斬らないもありません」
  54. ^ 91,120頁『南京百人斬り競争の真実』東中野修道 2007年
  55. ^ 205頁『南京百人斬り競争と南京事件』2008年 原告側準備書面(2004年8月10日)
  56. ^ 152,70頁『「百人斬り訴訟」裁判記録集』2007年
  57. ^ 70頁『「百人斬り訴訟」裁判記録集』2007年
  58. ^ 154頁『「百人斬り訴訟」裁判記録集』2007年
  59. ^ 記事を書いたのは光本記者との見方も一部にあったが、両少尉の手記、遺書には、浅海記者は何度か出てくるが光本記者の名は一度も出てこない。光本記者は日日新聞京都支局の特派員で、地元部隊・9連隊の活躍を報ずる立場にあった。
  60. ^ 67,229頁『「百人斬り訴訟」裁判記録集』2007年
  61. ^ 288,287頁『私の中の日本軍』山本七平 4カ月ぶりに家に帰ったとき、私が「自分は・・」「自分は・・」というので、家のものがおかしがった。
  62. ^ 佐藤振壽「陳述書」『「百人斬り訴訟」裁判記録集』百人斬り訴訟を支援する会 2007年
  63. ^ 170頁『百人斬り裁判から南京へ』稲田朋美 2007年
  64. ^ 21頁 「証人調書」東京地裁 2004年
  65. ^ 220頁『本当はこうだった南京事件』板倉由明 1999年 「女性が赤ん坊を装って手榴弾を運んだり、ゲリラを手引きして日本軍陣地に誘導したり、まして壮年男子は突然隠した武器でテロを行う危険があった」
  66. ^ 156頁『南京大虐殺のまぼろし』鈴木明 1973年 「たとえ子供といえども、一刻も油断はできないということであった。庭で食事をしていただけで狙い撃ちにされたというような例はいくらでもある」
  67. ^ 224頁『南京大虐殺のまぼろし』鈴木明 1973年
  68. ^ 196頁『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』東中野修道 2006年 44頁『戦時国際法論』立作太郎 1938年 「私人は敵國の直接の敵對行爲に依る加害を受けざると同時に、自己も亦敵國軍に對して直接の敵對行爲を行ふを得ざるを以て、敵對行爲を行うて捕へらるれば、敵軍は、自己の安全の必要上より、之を戰時重罪人として處罰し得べきである」
  69. ^ 63頁『土と兵隊』火野葦平 東日「百人斬り」記事の約1カ月前、杭州湾から南京への戦記
  70. ^ 182頁『「百人斬り訴訟」裁判記録集』
  71. ^ 『火野葦平の手紙』 これは『土と兵隊』の原形手記
  72. ^ 55頁『「百人斬り訴訟」裁判記録集』 「中国国民党は、ドイツ式の組織防衛戦を行い、日本軍と遜色ない武器を携帯した近代軍隊でありニーライライと呼びかけられ、塹壕から出てくることはあり得ない」は原告側主張。
  73. ^ 54頁『「百人斬り訴訟」裁判記録集』
  74. ^ 53頁『土と兵隊』
  75. ^ 182頁『「百人斬り訴訟」裁判記録集』
  76. ^ 141頁『「百人斬り競争」と南京事件』笠原十九司
  77. ^ 292頁『旧日本陸海軍の生態学』秦郁彦 1972年 鈴木明台北の図書館で、処刑を伝える「中央日報」を苦心の末発見する(98頁『まぼろし』)。「処刑の様子を伝える新聞報道は前掲資料集(南京事件資料集 2.中国関係資料編)に収録されていない(244頁 笠原)」
  78. ^ 『鎮魂 第三集 49期生のおもかげ』1972年 143頁『百人斬り競争と南京事件』
  79. ^ 「極東裁判が開かれた・・・南京虐殺事件の報道はすなおに受け入れることができた。・・・しばらくすると地方新聞で、N少尉らは南京で戦犯として銃殺されたという記事が報ぜられた。ああ、そうだらうな、当たり前だな(志々目証言,141頁『南京百人斬り競争と南京事件』)
  80. ^ 54頁『「百人斬り訴訟」裁判記録集』百人斬り訴訟を支援する会 2007年
  81. ^ 133頁『百人斬りから南京へ』稲田朋美 2007年
  82. ^ 130頁『南京百人斬り競争と南京事件』2008年
  83. ^ 20頁「証人調書」東京地裁 2004年 ---(今からか、)現在百人斬りの競争をしているという話なのか、どっちですか。佐藤「今からです」
  84. ^ 132頁『南京百人斬り競争と南京事件』2008年
  85. ^ 132頁『南京百人斬り競争と南京事件』2008年
  86. ^ 39頁『斬』綱淵謙錠 1972年 これは江戸末期の首切り職人の話
  87. ^ 134頁『南京百人斬り競争と南京事件』笠原十九司 2008年 「時の連隊長片桐大佐が新聞記事に対し『戦争はスポーツではない』と厳しく戒めたと聞く(吉田大桂司『野田君を憶う』)」。秦郁彦も同様の証言を吉田から得ている『いわゆる百人斬り事件の虚と実』。
  88. ^ 135頁『百人斬りから南京へ』稲田朋美 2007年
  89. ^ 128頁『「百人斬り訴訟」裁判記録集』
  90. ^ 194頁『「百人斬り訴訟」裁判記録集』
  91. ^ 307頁『南京事件』秦郁彦 2007年
  92. ^ 56頁『南京大虐殺のまぼろし』鈴木明 1973年
  93. ^ 123頁『百人斬りから南京へ』稲田朋美 2007年
  94. ^ 283頁『南京事件』秦郁彦 2007年
  95. ^ 55,44頁『南京「百人斬り」の真実』東中野修道 「無錫から常州までは不眠不休の激戦だった」「話す余裕はなかったはずだ」「常州の間違いであろう」,101頁『「百人斬り競争」と南京事件』笠原十九司 「駅前広場の日本軍の様子から無錫ではなく常州であることはほぼ間違いなく」「両少尉が所属した冨山大隊が無錫入城後すぐに追撃先発隊として無錫を出発していることは、戦闘詳報類から確認できる」。「無錫駅頭では両少尉にインタビューする時間などなかった」。無錫でまず浅海特派員と向井少尉の間で談合が行われ、常州で野田がそれに付き合ったと山本七平は推定している(282頁以下『私の中の日本軍』)。どちらにしろ、佐藤振壽が加わった常州では、まだ競争は始まっていない。
  96. ^ 110頁『「百人斬り競争」と南京事件』笠原十九司
  97. ^ 56頁『南京「百人斬り」の真実』東中野修道 110頁『「百人斬り競争」と南京事件』
  98. ^ 111頁『「百人斬り競争」と南京事件』笠原十九司
  99. ^ 20頁「証人調書」東京地裁 2004年 ---(今からか、)現在百人斬りの競争をしているという話なのか、どっちですか。佐藤『今からです』
  100. ^ 191頁『「百人斬り訴訟」裁判記録集』
  101. ^ 大野少尉『陣中日記』 73,91頁『南京「百人斬り」の真実』東中野修道
  102. ^ 91,76頁『南京「百人斬り」の真実』東中野修道 153,154頁『「百人斬り競争」と南京事件』笠原十九司
  103. ^ 152頁『「百人斬り訴訟」裁判記録集』2007年
  104. ^ 「南京百人斬りの虚報で死刑戦犯を見殺しにした記者が今や日中かけ橋の花形」『週刊新潮』S・47・7・29,179頁『「百人斬り訴訟」裁判記録集』百人斬り訴訟を支援する会 2007年
  105. ^ 紫金山戦は、10日227高地を攻略、11日382高地占領、12日第1峰(488m)を占領した(90頁『南京戦史』)。
  106. ^ 91頁『南京戦史』
  107. ^ 90頁『南京戦史』
  108. ^ 113頁『南京「百人斬り」の真実』東中野修道
  109. ^ 『大野日記』 97頁『南京「百人斬り」の真実』
  110. ^ 113頁『南京「百人斬り」の真実』
  111. ^ 91頁『南京戦史』
  112. ^ 96頁『南京戦史』
  113. ^ 『ペンの陰謀』,177頁『「百人斬り訴訟」裁判記録集』
  114. ^ 「南京百人斬りの虚報で死刑戦犯を見殺しにした記者が今や日中かけ橋の花形」『週刊新潮』,179頁『「百人斬り訴訟」裁判記録集』
  115. ^ 153頁『「百人斬り訴訟」裁判記録集』
  116. ^ 「南京百人斬りの虚報で死刑戦犯を見殺しにした記者が今や日中かけ橋の花形」『週刊新潮』S・47・7・29 175頁『百人斬り競争と南京事件』
  117. ^ 115頁『南京「百人斬り」の真実』東中野修道
  118. ^ 192頁『「百人斬り訴訟」裁判記録集』
  119. ^ 193頁『「百人斬り訴訟」裁判記録集』
  120. ^ “朝日、毎日新聞などを提訴 「百人斬り」は名誉棄損”. 共同通信社. 47NEWS. (2003年4月28日). http://www.47news.jp/CN/200304/CN2003042801000202.html 2013年4月14日閲覧。 
  121. ^ a b “国の名誉守りたい 稲田衆院議員 「百人斬り裁判」を本に”. 福井新聞 (47NEWS). (2007年5月17日). http://www.47news.jp/CI/200705/CI-20070517-6456278.html 2013年8月9日閲覧。 
  122. ^ 「百人斬り訴訟」裁判記録集P113
  123. ^ 「百人斬り訴訟」裁判記録集P191
  124. ^ 「百人斬り訴訟」裁判記録集P192
  125. ^ 「百人斬り訴訟」裁判記録集P192
  126. ^ 「百人斬り訴訟」裁判記録集P253
  127. ^ “軍人遺族の請求棄却 南京「百人斬り」報道で”. 共同通信社. 47NEWS. (2005年8月23日). http://www.47news.jp/CN/200508/CN2005082301000955.html 2013年4月14日閲覧。 
  128. ^ “2審も軍人遺族の請求棄却 百人斬り「虚偽と言えぬ」”. 共同通信社. 47NEWS. (2006年5月24日). http://www.47news.jp/CN/200605/CN2006052401002374.html 2013年4月14日閲覧。 
  129. ^ 170頁『百人斬り裁判から南京へ』稲田朋美 2007年
  130. ^ 野田 2011 p.16
  131. ^ 日本大学法学会『政経研究』42巻1号・4号
  132. ^ “台北市の資料館に“107人斬り”の日本軍刀” (日本語). 大紀元. (2007年2月17日). http://www.epochtimes.jp/jp/2007/02/html/d67527.html 2016年10月29日閲覧。 

参考文献[編集]

関連文献[編集]

  • 板倉由明『本当はこうだった南京事件』(日本図書刊行会、1999年)ISBN 4-8231-0504-4
  • 鵜野光博「百人斬り競争の虚報を証明した野田少尉の日記」(『正論』2001年8月号)
  • 笠原十九司『「百人斬り競争」と南京事件』(大月書店、2008年)ISBN 978-4-272-52080-0
  • 熊谷伸一郎 「歴史修正主義との闘い 検証 南京事件・「百人斬り」訴訟--問われる戦後責任・報道責任」(『世界』745、2005.11)
  • 小野賢二「報道された無数の〈百人斬り〉」(『戦争責任研究』50、2005.冬季)
  • 鈴木千慧子「〈百人斬り競争〉訴訟はなぜ起こされたか」(『歴史地理教育』666、2004.3)
  • 秦郁彦「いわゆる「百人斬り」事件の虚と実 (1)(2)」(『政経研究』第四十二巻第一号、第四号 日本大学法学会)
  • 洞富雄「軍隊教育に培われた青年将校の精神構造--「百人斬り競争」は「事実」であったか「語られた事実」であったか」(『歴史評論』269、1972.11)
  • 向井千恵子(向井敏明次女)「裁かれる百人斬り捏造報道」(『諸君!』2003年9月号)
  • 本多勝一星徹渡辺春己 「南京大虐殺と「百人斬り競争」の全貌」(株式会社金曜日)ISBN 9784906605538
  • 山本七平 「私の中の日本軍」(上・下)(文春文庫)ISBN 9784167306014 ISBN 9784167306021

外部リンク[編集]