南京事件論争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
南京大虐殺論争から転送)
移動先: 案内検索

南京事件論争(なんきんじけんろんそう)とは、日中戦争支那事変)中の1937年(昭和12年)12月に遂行された南京攻略戦において発生したとされる南京事件における虐殺の存否や規模などを論点とした論争である。論争は日中関係を背景に政治的な影響を受け続けた[1]。以下、主な論点について概説する。

目次

犠牲者数について[編集]

犠牲者数の論議[編集]

南京事件の犠牲者(死亡)者の数については、30万人からゼロまで幅広い説がある。そもそも、現代史のしかも歴史ある国の首都で発生した、多くの軍人や市民のかかわった、それも欧米の外交官も含めた目撃者のある事件だが、このような幅が存在する[2]

このような幅広い学説が存在する理由は、いくつかある。まず、1947 年の南京戦犯裁判軍事法廷にて中国側(国民政府)が30 万人以上と記載したことが、きっかけになり30万人説が今日まで学術根拠なく一人歩きしている[3]。そのうえで、被害者である中国の国民政府軍の兵士は当時の南京に何人動員されていたかが万単位で諸説あり、当時の南京の人口は何人か(一部、わかっている。「人口推移」参照)も推測のみで不明確である、など、基本的な情報が定まっていないことも原因である[4][5]。一方で、南京安全区国際委員会など南京安全区(クリックで説明にリンク)在住の外国人の記録は不完全ながらも一定の信頼ができ、特にルイス・S・C・スミス博士の行った、南京占領後約3-4か月後の広範囲な現地の人口調査(スマイス調査(クリックで説明にリンク))は、一般民間人の犠牲者の人数が推定できる貴重かつ重要な一次資料である[6][7]。また、日本側の旧日本軍の親睦組織偕行社のまとめた『南京戦史』(1993)は、日本軍の戦闘終了後の中国兵処分についてを記録しており、その中の公式文書での約1万2千人の殺害やその他の文書での計1万前後の殺害も信頼性のある資料である(一覧表は南京事件の被害者(中国兵))。

日本の代表的研究者(秦郁彦笠原十九司板倉由明など)は、まず、中国軍人の兵員数の推測値を基に、普通の戦死者や逃げた人数を除いた、日本軍に捕まって殺害された中国兵の中で戦時国際法に照らして違法で殺された人数を日本側の公式・非公式記録も参考にして算定し[8][9]、そして民間人の死者の中で日本軍に不法に殺された数を人口調査(スマイス調査(クリックで説明にリンク))を参考にしつつ算定している[10][11][12]

つまり、『 「中国兵の虐殺犠牲者」プラス「一般人の虐殺犠牲者」 』、この「両方の推計値の総計」が「南京事件の日本軍による全犠牲者の推計値」である。ただ、ここで、一般人の殺害の場合は、どの地域までとするかで、研究者によって算定が異なっている。特にスマイス調査は近隣の農村部を含むが、より広い農村部の被害者の可能性は日本側の記録にも残るが数値は明確でなく、また、被害者のうち遺体を長江に流された者も非常に多いとみられるが、もし含めるなら推測しかない[13]

一方で、日本の文化人や研究者の中の虐殺否定派(新しい歴史教科書をつくる会日本「南京」学会など)は、そもそも日本軍は戦時国際法に違反した殺害をしておらず、安全区の外国人の記録も公正さに疑問あり、などととして、ゼロもしくはほとんどなしと推察している。虐殺否定派は、従来無批判に認められていた中国側資料の一部に南京事件と無関係なものがあることを見出すなどの成果をあげた[14]。一方で、反中国姿勢が行き過ぎて、虐殺否定を説得するあまり、学術的には無理のある一次資料批判や事実の一方的否定の可能性が問題になったことも皆無ではない[15]

肯定説・否定説ともに、反対説に対し、いずれの史料批判も学術的な妥当性が無く、その史料批判が恣意的であるとの批判をすることもある。また、加害側・被害側の証言や記録を一方的に取り上げ、自身の見解に都合の悪い史料に関しては、捏造・偽証というレッテルをはって切り捨てると主張することがある。

以下のとおり、第1次安倍内閣のときに発足が決まった日中歴史共同研究では、20 万人を上限として、4 万人、2 万人など様々な推計と虐殺被害者の数を、日本の代表的研究者(秦、笠原、板倉など)の意見を中心にして述べている[16]

スマイス調査[編集]

スマイス調査とは、南京安全区国際委員会の事務局のメンバーのアメリカ人であり、南京の金陵大学社会学部教授であるルイス・S・C・スマイス博士が、1938年3月から4月にかけて、南京市部の家族調査などの市部調査と農村部の農村と市場などの農業調査を実施して取りまとめた「南京地区における戦争被害」に関する社会調査である。翻訳全文は[17]。それによると、市部(南京城区)の一般市民の不法殺害は2400人、男性で日本軍に拉致されて殺された市民が4200人と算出したが、しかし城内と城壁周辺の入念な埋葬資料調査からの推測で市部でおそらく12000人の民間人が殺害された予測。近郊区の農村地域では南京行政区を構成する地域(江浦県と六合県は揚子江の北側にあり、その南側には江寧県(南京はその中に位置している)・句容県・溧水県・高淳県。そのうち高淳県と六合県の半分は調査せず。これら調査した四県半(江浦県、江寧県、句容県、溧水県、六合県の半分)の県城をのぞいた農村)における被害者数は26870人と算出した[18]

つまり、スマイスは以下のとおりの一般市民の不法殺害数を推定算出した(スマイス調査本文より)

・市部(南京城区)では民間人の殺害・拉致後殺害 計6千6百人 (ただし1万2千人という推測値もあり)

・近郊の農村での殺害 2万6千8百7十人

日中歴史共同研究での日本側研究者の説[編集]

日中歴史共同研究」での日本側研究者の 波多野庄司によると、

  • 日本軍による虐殺行為の犠牲者数は、極東国際軍事裁判における判決では 20 万人以上(松井司令官に対する判決文では 10 万人以上)、1947 年の南京戦犯裁判軍事法廷では 30 万人以上とされ、中国の見解は後者の判決に依拠している。一方、日本側の研究 では 20 万人を上限として、4 万人、2 万人など様々な推計(日本の代表的研究者(秦、笠原、板倉など)の意見を中心にして述べたとされる)がなされている。
  • 犠牲者数に諸説がある背景として、「虐殺」(不法殺害)の定義、対象とする地域・期間、埋葬記録、人口統計など資料に対する検証の相違が存在している[19]

三十万人以上[編集]

主に中国側論者の見解であるが、この数字には科学的根拠が一切なく、日本側の学者からは支持されていない。


代表的な論者は、アイリス・チャン(ジャーナリスト)、孫宅巍江蘇省社会科学院研究員)、高興祖南京大学教授)などがおり、中国共産党政府、南京大虐殺紀念館、また中華民国国軍歴史文物館[20]も同様の見解をもっている。ちなみに、孫宅巍は30万人以上とする推計のうち、南京防衛軍の総数を十万余としている[21][22]。1976年、サンケイ新聞で連載中だった『蒋介石秘録』には、30万〜40万と記された[23]。ただし、これらの数字には、いずれも科学的根拠が一切なく、日本側の学者からは支持されていない[24]

2010年1月に日中歴史共同研究の報告書が公表された際、中国メディアは中国共産党宣伝部の指示により、20万人を上限とする日本側研究者の見解を報道しなかった[25]

十数万人以上[編集]

笠原十九司説:『①「中国兵の虐殺犠牲者」プラス ②「一般人の虐殺犠牲者」』 = 『①「8万人」プラス②「1万2千人(南京城市)+2万7千人(南京周辺農村部)以上」』 =10万人以上、もしくは20万人に近いかそれ以上と(ただし、他の説と異なり南京周辺農村部の犠牲者を含んでいる)推定[26]


笠原は、中国軍総数を約15万人と推計し(一方、中国軍側集計11万人[27])、約5万人が国民政府軍に帰還、1万人が戦闘中に死亡、1万人が撤退中に逃亡、残り8万人が日本軍による殺害としている[28][29]。民間人の犠牲者数の推定は極めて困難としつつも、「ジョン・ラーベ『ヒトラーへの上申書』中国側推定10万人、残留外国人推定5-6万人。[30]」、「埋葬団体の埋葬記録 埋葬総数18万8674体(虐殺に当たらない死体、埋め直しによる重複がある一方、長江に流された多数の遺体があると指摘)。」、「スマイス調査市部(城区)殺害3250人、拉致後殺害された可能性が高い者4200人、農村部(近郊4県半)被殺害者数2万6870人[26]。」をもとに推計している。

この説、もしくは説に近い代表的な研究者は、南京事件調査研究会のメンバーである洞富雄 (元早稲田大学教授)、藤原彰一橋大学名誉教授)、笠原十九司都留文科大学名誉教授)、吉田裕(一橋大学教授)、井上久士駿河台大学教授)、本多勝一(ジャーナリスト)、高崎隆治(戦争研究家)、小野賢二(化学労働者)、渡辺春巳(弁護士)[31]などが挙げられる。

「4万人上限」説[編集]

秦郁彦の説:『①「中国兵の虐殺犠牲者」プラス ②「一般人の虐殺犠牲者」』 = 『①「3万人」プラス②「1万人」(南京城市のみ)』=4万人上限[32]  


秦は、南京守備軍の兵力を十万(台湾公式戦史、上海派遣軍参謀長の飯沼守少将日記)を採用、うち五万が戦死、四万ぐらいが捕虜になり、三万が捕虜になったあと殺害された(生存捕虜は一万)と推定した。「南京戦に従軍した佐々木元勝(上海派遣軍郵便長)が、十二月十五日の日記に「俘虜はおよそ四万二千と私は聞かされている」と書いていることにほぼ符合する。」[33]

秦は一般人をスマイス調査(修正)による死者二万三千、捕らわれてから殺害された捕虜を前述のとおり三万をとした。しかし不法殺害としての割引は、一般人に対してのみ適用(2分の1か3分の1)すべきとし、三万+一万二千(八千)=三万八千〜四万二千という数字なら、中国側も理解するのでは無いか、考えた[34]と主張した。その後、民間人の不法殺害八千〜一万二千の中間値をとって一万とし、総数を四万とした。「事情変更をもたらすような新資料は出現せず、今後もなさそうだと見極めがついたので、あらためて四万の概数は最高限であること、実数はそれをかなり下回るであろうことを付言しておきたい」[35]と、それまでの自説を下方修正した。スマイス調査の実態についての北村稔の調査結果が影響したという説もある[36]

久野輝夫(元中京学院大学准教授)は被害者数を37820人としている[37]

(参考)(なお、中国軍の一次文献では、中国軍総数を約11-12万人と集計し、半数が国民政府軍に帰還、約4-6万人が戦死と捕虜(行方不明を含む)[38]

数千〜2万[編集]

板倉由明の説:『①「中国兵の虐殺犠牲者」プラス ②「一般人の虐殺犠牲者」』 = 『①「8千人」プラス②「5千人」(南京城市と周辺農村部の一部(江寧県のみ))』 =1万-2万人[39]


この説に近い代表的な研究者は、畝本正己(元防衛大学校教授[40])、板倉由明(南京戦史編集委員・南京事件研究家)、原剛防衛研究所調査員)などの他、中村粲獨協大学教授)が挙げられる。

板倉自身は「虐殺数30万人のみを否定する南京事件派」を標榜している[41]。板倉の研究によると、中国軍総数を5万、そのうち戦死者数を1万5,000人、捕らわれて殺害された者を1万6,000人、生存捕虜を5,000人、脱出成功者を1万4,000人と推計した。その上で兵士の虐殺数を8,000人-1,1000人と推計し、市民に対する虐殺は、城内と江寧県を合わせた死者総数1万5,000人とし、このうち虐殺に該当するものを5,000-8,000人と推計した。結局、兵士と市民の虐殺数の合計は1万3,000人となるが、これに幅を持たせて1〜2万人と推計する[42]

(他には、否定派にも近い)北村稔立命館大学教授)は、南京軍事法廷および東京裁判において南京事件を確定した「戦犯裁判」の判決書を歴史学の手法で検証するという立場で分析。従前から知られていた2万弱の中国軍捕虜の殺害を新たに発掘した資料で確認している。一方で、判決書にみえる、南京攻略戦から占領初期にかけて一般市民に対する数十万単位の「大虐殺」が行われたという「認識」については、中国や連合国による各種の戦時宣伝の分析を通じ、1937年以降、徐々に形成されていったものとしている[43]。彼は、その後、2007年4月2日の日本外国特派員協会における講演で、「一般市民を対象とした虐殺はなかったとの結論に達する」と述べた[44]

「虐殺」否定説[編集]

「虐殺」否定説:『①「中国兵の虐殺犠牲者」プラス ②「一般人の虐殺犠牲者」』 = 『①「ゼロ人」プラス②「ゼロ人」(南京城市のみ)』 =ゼロ人(もしくはごく少数)


南京攻略戦のときの日本軍による戦時国際法上の違法な行為は、なかった、もしくはほとんどなかったとする説。つまり、中国兵の殺害は戦時国際法上、合法であったものであるか、それ以外は殺害しなかった(ほとんどなかった)、そして、市民の殺害や暴行なども なかった、もしくはほとんどなかったとする説である。

1990年代以降に、歴史教科書の内容にある日本の近現代史での日本のアジア侵略の記述に対して疑問を持つ、俗に右寄りと呼ばれる文化人新しい歴史教科書をつくる会日本「南京」学会などで、そもそも日本軍は戦時国際法に違反した殺害をしておらず、安全区の外国人の記録も公正さや事実関係に問題あり、などの主張を行っている。虐殺否定派は、従来無批判に認められていた中国側資料の一部に南京事件と無関係なものを見出したことは学問的な成果であった[45]。一方で、反中国姿勢が行き過ぎて、虐殺否定を説得するあまり、学術的には無理のある一次資料批判(新路口事件の裁判での東中野修道の敗訴)や事実の一方的否定の可能性(報道があったのに、なかった(このページの「当時の国際社会の認知や報道についての議論」の虐殺否定説②参照)等の独自解釈が問題になったことも皆無ではない[46]


その論は、以下のとおりであるが、その論にも反論があり、このページの「一般市民に関して」「便衣兵の殺害について」「投降兵に関して 」「人口推移」などに記載あり。

(その1)中国兵殺害は、戦時国際法上、殺しても合法な便衣兵ゲリラ兵)であり、投降兵等の殺害も戦闘行為の延長であったのではないか? (注:これの反論が、このページの「便衣兵の殺害について」「投降兵に関して 」にあり)

(その2)戦闘終了前後に、多くの難民の避難した南京安全区に対しては日本軍は残虐行為をほとんど行っていないし、残虐行為の多くの記録の出所である安全区在住の欧米人やその話をもとにしたジャーナリストの記録は事実として信用が薄いのではないか?残虐行為を行っていない証拠に、南京占領後の3ヶ月後には南京の人口が5万人増えているという記録があり、大規模な市民殺害があれば人口が増えるはずがないので、百人単位の虐殺もなかったのではないか?埋葬記録などの死体数に関する資料は捏造・水増しであり、史料により確認できる死体は虐殺に該当しない。よって、虐殺に該当するような行為はほとんど無かったのではないか? (注:これの反論が、このページの「一般市民に関して」「人口推移」にあり。人口のことは、このページの「人口推移」にこの部分の間違いを指摘している。)

(その3)国際連盟は南京事件を中国の訴えにも関わらず、非難せずに無視した、つまりその存在を認めていない。当時の国際報道は南京事件を取り扱っていない。当時の中国国民党が行っていた300回の記者会見においても言及されたことがない。蒋介石毛沢東中華民国政府・中国共産党は虐殺についてふれていないのではないか? (注:これは全て事実と異なるか、その可能性がある内容である。「南京事件」のページの「外国メディアによる報道」や「国際社会や中国政府の対応」や、300回会見や国際連盟が無視の反論は、このページの「当時の国際社会の認知や報道についての議論」に記載している。)

(その4)安全区の欧米人のうち、マイナー・シール・ベイツ中華民国政府の顧問であるという資料が存在する。国民党の戦略は例え虚偽を用いてでも「支那の悲惨」と「日本軍の残虐」を世界中に訴えてアメリカを味方につけ、支那事変に巻き込んだ日本を叩き潰すためであり、マイナー・シール・ベイツはこの国民党の戦略に沿い日本軍の残虐行為という政治的謀略宣伝を世界に発信したのではないか?[47]。南京にいた欧米人記者のスティール、ダーディン両記者の記事は、日本軍入城後にすぐ南京を脱出したので、マイナー・シール・ベイツが「さまざまな特派員に利用してもらおうと(ベイツの手紙より)」手渡した情報によるのではないか、つまり信用できない。 (注:このページの「一般市民に関して」にベイツ顧問説などについての反論があり)

(その5)また、ハロルド・J・ティンパーリの編著の『戦争とは何か』(1938年)にて「日本軍による南京での市民虐殺」が大々的に取り上げられ、アメリカ人に日本軍の非道を訴えその後の日米戦争の一因となったが、実際ハロルド・J・ティンパーリは上海にいて南京には居なかった。「戦争とは何か」の記述も多くが伝聞に基づくものであり、鈴木明は、ハロルド・J・ティンパーリが中国国民党顧問の秘密宣伝員であった事を明かしている[48]。 (注:このページの「一般市民に関して」にハロルド・J・ティンパーリの著作に関する反論があり)

主な研究者は、田中正明 (元拓殖大学講師)、東中野修道亜細亜大学教授)、冨澤繁信日本「南京」学会理事)、阿羅健一(近現代史研究家)、勝岡寛次明星大学戦後教育史研究センター)、渡部昇一上智大学名誉教授)、中川八洋筑波大学名誉教授)、杉山徹宗(明海大学名誉教授)、早坂隆(ノンフィクション作家)など。

なお、2007年4月9日、東中野・阿羅などが委員を務める「南京事件の真実を検証する会」は訪日していた温家宝首相に対し、「事件の存在を信じるには無理がある」とする公開質問状を提出した[49]。内容は中国英字紙が報道し[50]、日本の国会でも松原仁衆議院議員によって取り上げられた[51]

質問状の中では

  • 毛沢東は生涯ただの一度も南京虐殺などということを言わず、当時の中国国民党が行っていた300回の記者会見においても言及されたことがない。(注:「南京事件」のページの「国際社会や中国政府の対応」あるように、蒋介石や共産党側の発言、発信はあったので、この部分は事実関係は不正確。300回会見の反論は、このページの「当時の国際社会の認知や報道についての議論」に記載している。)
  • 国際委員会の活動記録というべきものが「Documents of the Nanking Safety Zone」と題して1939年に出版されているがそこで述べられている南京の人口は12月中ずっと20万と記録され、翌1月14日には人口25万と記録されると、これ以後は25万とされていた。そして殺害件数は26件と報告されるものの1件を除き目撃情報はなく、その1件も合法的なものとされている(注:人口のことは、このページの「人口推移」にこの部分の間違いを指摘している。また、殺人被害は「一般市民に関して」に反論あり )
  • 虐殺を証明する写真がなく、発表されているものについてはいずれもその問題点が指摘されている。(注:虐殺の写真に偽物があるのは、事実であるが、ぜんぜんないというのは極論)

と主張し、これらの点から南京大虐殺は考えられないものだとして温家宝に回答を求めている。

平成24年度以降は、新しい歴史教科書をつくる会 のメンバーが中心になり、「南京の真実国民運動」として名古屋市の河村たかし市長の父親の証言に関する発言 を支持することを、従来の前述した論拠を繰り返しながら、「通常の戦闘行為はあったが、いわゆる南京事件はなかった」という見解を国民の多くに理解してもらう運動が行われている[52]

戦時国際法上合法説[編集]

虐殺否定説と数字はほぼ同じ。論旨展開が、当時の日本軍の殺害は、戦時国際法上は合法であった、よって虐殺はなかったと主張する説。

法学者佐藤和男[53]大原康男竹本忠雄[54]小室直樹渡部昇一[55]らによって主張されており、事実の証明・確定について、多くの日記や証言等は十分に史料批判がなされていないとして安易に証拠価値を認めず、現在では完全な事実の証明は最早不可能としつつ、この説を唱えている。

以下の(1)-(3)が、その説である。これ等にはそれぞれ反論があり、(2)は、このページの「便衣兵の殺害に関して」「便衣兵に対する裁判」「捕虜の殺害に関して」に事実関係も含めて反証(予備審問も裁判(軍律審判)もなかったことやその実施の必要性、捕虜の殺害の軍事的必要性への反論、捕虜への復仇は日中戦争の前の(日本は批准はしていないが)ジュネーブの捕虜条約で禁止されている(佐藤和男はなお自著[56]でそのことも記載しているが))があり、(3)は、このページの「投降兵に関して」に反論がある。

(1)当時、日中両国間の関係に適用された戦時国際法ハーグ陸戦条約であったが、軍事目標主義(ハーグ25条)[57]によれば、南京城内は安全区も含め防守地域であり、この地域に無差別に攻撃をしても合法であった(一般市民の犠牲は戦死に準じた扱い)が、日本軍は安全区に無差別攻撃を仕掛けなかった[58]

(2)安全区に侵入した中国軍の便衣兵の摘出は、憲兵によりおこなわれたとされ(予備審問)、これに基づいて裁判(軍律審判)がなされたとするし、捕虜の取扱についても、軍事的必要性や復仇の可能性もある[53]。(南京事件の原因は、第二次上海事変を起こした蒋介石や、日本軍の降伏勧告を無視した唐生智、安全区に侵入した中国便衣兵、侵入を許した安全区委員会にある[53][59][60])。

(3)混戦時においては、軍事作戦遂行のため、捕虜を拒否することも許される場合がある。(国際法学者ラサ・オッペンハイム)

(付記)なお、佐藤和男は、南京戦に関して、「きわめて厳しい軍事情勢の下にありながら、戦闘部隊が交戦法規の遵守に非常に慎重な考慮を払い、激戦中にも能う限りの努力をそのために払った事実が明らかにされ、筆者などむしろ深い感動を覚えざるを得ないのである。」とし、その理由として、①松井石根南京城攻略要領、②ハーグ陸戦条約の交戦規定の一部(害敵手段の選用)の「規定ヲ努メテ尊重ス」との陸軍次官発支那駐屯軍参謀長宛の通知「交戰法規ノ適用ニ關スル件」を事実の例として述べた[53]。 ただし(以下、反論)、①は現場では残念なことに十分に履行されず、②はこのページの「捕虜の殺害に関して」に書いてあるように、その通知の原文の別の箇所ではハーグ陸戦条約については厳密遵守とまでしなくてもよいとのことが記載されている(佐藤和男はその部分を自著で記述していない)。

人口推移[編集]

現在、南京事件を否定する意味として、「南京市の人口は占領時に20万人なのに、30万人も虐殺されたのは嘘だ」「20万人の人口が数か月後に25万人に増えている(だから虐殺はゼロだった)」という言説が広まっているが、この言葉は、以下の通り、様々な意味で南京事件の被害の正しい説明とは言えない。むしろ事実を混乱させているので、以下にその「正しい説明でない理由」と南京市(城市内)の人口推移を示す。 なお、20万人というのは、南京市内の南京安全区(クリックで説明にリンク)の人口、それもある時点の予測値を指す。

「人口20万人で30万人も虐殺できない」が正しい説明でない理由[編集]

「南京市の人口は20万人なので30万人も虐殺できない」は正しい説明でない

・南京事件の犠牲者は南京市民よりも、日本軍による「捕虜などの中国兵に対する不法殺害」が、主な犠牲者であり、捕虜の組織的虐殺のみでも約3万人(秦郁彦の説)の殺害と推測されていて、中国兵の犠牲者は市民の人口とは全く別の人数である[61]。また、欧米人の管理する南京安全区では市民への組織的虐殺がなかったが、(兵士と間違えられて日本軍に組織的に拉致されたものも含めて)拉致されて戻らなかったものや南京安全区外も含めて個々の日本兵による市民の不法な殺害記録は決して少なくない数だけあった[62][63]スマイス調査(クリックで説明にリンク)では、南京城内の日本軍による南京市民の不法殺害の数は6千6百人から1万2千人との可能性が推察され、その数字は20万人と比較しても決して少なくない[64]

・南京の市民の犠牲者には、戦闘終結前後に殺された南京市民も含まれるべきであるが(新路口事件など)、その殺害数はもう死んでいるのでこの20万人には当然含まれないものの、南京安全区外・城外での事件の記録が残っている[65]。また、このページの「一般市民に関して」にも記載したように、日本軍の進撃時に南京郊外の農村部における不法な殺害、一部では組織的な殺害さえもあった[66]スマイス調査(クリックで説明にリンク)では、その数は南京城内の不法殺害の数より多く、日本軍による南京周辺の農村部の不法殺害は2万6千人以上との可能性が推察された。この数字も20万人には含まれない

30万人も虐殺されたというのは中国側が一方的に唱えている学術根拠のない数字で、その数字を根拠には比較できない。

・「南京市の人口は20万」は、南京占領後に一般人が避難した欧米人の設置した「南京安全区」でのしかも12月の人口の推定値(推定したのは11月)[67]。であり、「南京市の人口は20万」でその後、「25万人」に増えた、とは必ずしも言えない。数字の増加、うんねんも含めて、以下の南京市(城市内)の人口推移を読んで欲しい。

南京市(城市内)の人口推移[編集]

南京市の人口は、もともとは100万人以上の人口(1937年の日中戦争前)であったが、8月に日本軍の空襲が始まってからは脱出する市民が数多く、11月には約50万人になったと伝えられるスマイス調査(クリックで説明にリンク)[68]。12月は日本軍が近づくなか、周辺部の農村から逃げてきた住民が人口に加わりつつ、逃げだす市民はその後も続いた。12月の日本軍の南京占領のときの市民の人口は当初、南京安全区国際委員会約20万になると予測(11月に12月の人口予測)した[69]。しかし、スマイス調査(クリックで説明にリンク)の記述では「12月末から1月にかけて日本軍当局によって行われた不完全な登録に基づいて、 国際委員会のメンバーが推定したところでは、当時の南京の人口は約25万人」とあり、その中で安全区の正確な人口はわからない。つまり、12月でも南京の人口は約25万人だった有力な説がある。ただ、占領後の南京城の人口の大半は南京安全区に避難、もしくは主に(安全区外に時々出て)住んでいたことは記録に残る。その後3月―4月に調査したスマイス調査(クリックで説明にリンク)では南京市全体の推測人口は約25-27万人とされ、その正確性が高い。人口増があったとしても、周辺の農村部などより欧米人の管理する南京安全区のほうが治安がよいので移動して増えたのだという記録が残っており、南京の周辺も含むすべての治安が著しく改善されたかどうかを必ずしも示さない[70]

虐殺の対象[編集]

一般市民に関して[編集]

日本軍による南京事件の犠牲者(死亡)については、日本側など様々な記録には一般市民の犠牲者も記録されているが、多くの研究者は、城内での一般市民の殺害例は捕虜殺害等の軍人殺害より、少ないとみる。スマイス調査(クリックで説明にリンク)でも 6千6百人、もしくは1万2千人と、捕虜などの数万人台よりも不法殺害は少ない数値である。

民間人の犠牲者数が過大にならなかった理由としては、南京市陥落前から欧米の宣教師や外交官の人道的配慮(南京安全区国際委員会の活動)によって南京市内に南京安全区(クリックで説明にリンク)が設定され、多くの被災民がこの安全区に避難できたことにある[71]。南京安全区(別称 難民区)に対しては、日本軍は砲撃を仕掛けなかった(いわゆる「ラーベの感謝状」)とされ、占領後も日本軍は組織的な住民虐殺を行っていないが、ただし、安全区内でも個々の虐殺の記録はあり、決して過少ではない[72][73]。2012年10月2日頃、外務省の見解が「多くの非戦闘員の殺害や略奪行為等」から単に「非戦闘員の殺害や略奪行為等」に記述変更した。 ただし、占領前の陥落戦時の市民の犠牲も数は不詳であるが少なくなく、何よりも南京周辺において日本軍が組織的でときに村単位の住民虐殺を行った記録(戦時国際法違反)は、南京でも行政区つまり南京城より外の広大な農村地域において南京への進軍中のものであり[74]、多大・悲惨であったため、日中共同研究において中国側も具体的に指摘しており、スマイス調査(クリックで説明にリンク)でも2万6千人以上と南京市街地より犠牲者は多い。ただし、南京城外の農村部の被害は、中国側と日本の一部の研究者等を除き通常は南京事件の範囲に含めていない。

日本軍が南京城を陥落させた12月13日の前後以降に発生した日本軍の戦時国際法違反、いわゆる「南京事件」のうち、一般市民の被害(死亡・暴行・強奪など)にあたる犠牲者は、①「陥落戦時の被害(南京城区での12月13日の南京陥落時と、その直前直後に発生)」と、②「12月14日後の占領期に発生した被害」に分かれる。

①日本軍による南京城市陥落(12月13日)の前後に、日本軍の攻撃や掃討や暴力行為に巻き込まれた市民が少なからず存在したとされる(城外を出て長江を渡って逃げる途中の市民(婦女子も含む)が兵士とともに銃撃を受けて殺された証言、日本兵による攻撃や暴力で殺害された証言(例:新路口事件)があるが、この実数は明確でない。南京城内のものは凄惨な例はあるが実数は大規模でなく、城外では兵卒とともに殺害されて遺体が長江に流された記録もある[75]

②「12月14日後の占領期に発生した被害」は、陥落後の日本占領期には、南京城内に残ったほとんどの市民は、当時の在留欧米人によって設定された南京安全区(クリックで説明にリンク)に避難した。そのときは、南京安全区国際委員会の関係者の記録が残り、南京安全区の内外において、日本軍による、市民への暴力・殺傷行為(安全区へ逃亡した中国兵掃討に関する誤認逮捕・処刑も含む)や物品強奪・建物器物損壊が、個別に行われたとされる。

南京安全区国際委員会の関係者の記録:南京安全区国際委員会の日本大使館への提出文書[76]ジョン・ラーベの日記(日本語訳「南京の真実」)[77]ジョン・マギーの証言や残したフィルム(マギー・フィルム)[78]、多くの中国人女性を保護したミニー・ヴォートリンの日記(日本語訳「南京事件の日々」)[79]、ロバート・O・ウィルソン医師の手紙[80]、マッカラムの手記[81]、ジョージ・A・フィッチ「中国での八十年」[82]、(日本大使館への抗議交渉を行った)マイナー・シール・ベイツの証言、ドイツ人外交官の記録[83][84]、そのほか[85]、そしてスマイス調査である。 また、日本軍も記録を残しており、たとえば、海軍軍人の奥宮正武は「私の見た南京事件」で捕虜のみならず一般人の殺害も記しており、南京にいた新聞記者松本重治や外交官日高信六郎も証言している。


以上について、虐殺否定派の唱える「虐殺はなかった」の説の根拠とその「反論」を記載する。

①南京陥落後の日本作成の映画「南京 (戦線後方記録映画)」では、明るい雰囲気でとても殺害・暴行などありえないか?

(虐殺否定派の意見)日本の南京占領事件直後に撮影された映画「南京 (戦線後方記録映画)」では、南京市民の日本軍への歓迎と友好の様子や日本軍の入城への住民の歓迎シーン等が描かれていて、とうてい「虐殺」を思わせる場面がない。虐殺などは、中国側の「プロパガンダ」によるでっちあげである。

(同 反論)日本作成の映画「南京 (戦線後方記録映画)」のカメラマンである白井茂氏の回想によると、映画の撮影について「見たもの全部を撮ったわけではない。また撮ったものも切られたものがある」とのことである[86]。  白井氏の以下の証言から、彼の見た殺害シーンは中国兵についての日本軍の戦闘後の殺害とみられるが、「明るい雰囲気や南京市民の日本軍への歓迎と友好」があくまで広い南京城内の安全な一部の事実であり、都合の悪い部分を隠した当時の日本軍の「プロパガンダ」が映画「南京 (戦線後方記録映画)」であり、以下の引用から見ても、「南京 (戦線後方記録映画)」の「友好や平和のシーン」は、当時の記録に残る日本軍による一般人殺害を完全否定するとは言えない。

(日本作成の映画「南京 (戦線後方記録映画)」カメラマン白井氏の戦後の証言。以下はすべてこの引用より[87]。)

「これは何事だろうと思ったら、実はこの人々はこれから銃殺される人々の列だったのだ。 だから命乞いの哀願だったのである。それがそうとわかっても、私にはどうしてやることも出来ない。一人の人も救うことは出来ない。柵の中の広い原では少しはなれた処に塹壕のようなものが掘ってあって、その上で銃殺が行われている。」

「松井石根の入城式になった。向うの住民も手を振って迎えている。しょうがないから手を振りまわす。メイファーズ( 没法子=どうしょうもない)というわけだ。」

 「戦争とはかくも無惨なものなのか、槍で心臓でも突きぬかれるようなおもいだ、私はこの血だらけの顔が、執念の形相がそれから幾日も幾日も心に焼付けられて忘れることが出来ないで困った。 私は揚子江でも銃殺を見た。他の場所でも銃殺をされるであろう人々を沢山見たが余りにも残酷な物語はこれ以上書きたくない。 これが世に伝えられる南京大虐殺事件の私の眼にした一駒なのであるが、戦争とはどうしても起る宿命にあるものか、戦争をやらないで世界は共存出来ないものなのだろうかとつくづく考えさせられる。」


②残虐行為は「日本軍」の行為か? 「中国兵」の仕業か?

(虐殺否定派の意見)中国軍敗残兵の暴行が日本兵の仕業と誤った可能性があるのではないか?中国側の漢奸狩りや「堅壁清野作戦」という焼き払い作戦のように、中国側も残虐行為を行った。中国軍は、陥落前に、南京市内やその周辺の建物を焼いたことは当時のニューヨークタイムズに(12月7、8、12日)も報道された。ソ連大使館も中国兵が焼いたという記録がある。  また、南京における日本軍の乱暴狼藉は、実は中国側の「反日撹乱工作隊」の仕業だという話もあり(1月4日のニューヨークタイムズ記事など)、欧米人のかくまった王大佐という人物のグループが武器を隠し持って、日本軍の仕業として乱暴行為を行っていたと東中野修道は主張する。そして、女性への性的暴行の記述のうち、女性器に物を入れることでの拷問・殺害や殺害後の凌辱は日本人でなく中国人のやりそうな行為がある。

南京安全区国際委員会のジェームズ・H・マッカラムの以下の手記も証拠である(1938年1月8日) 「支那人の或者は容易に掠奪・強姦及焼打等は支那軍がやったので、日本軍がやったのでは無いと立証すら致します」。

(同 反論)南京安全区の欧米人は、中国人の仕業であることは、はっきりそう記しているが一部であり、日本軍の行為であるとの記述が大半である[88]

・中国軍の南京市の焼き払いは、南部と南東部の城壁周辺の一部と城の西方面にある建物が中心であり、ニューヨークタイムズ(1月9日)で不徹底な放火と記されている。しかし、城内の南京安全区外の中心街の放火(太平路周辺など)をはじめとした市内広範囲は当時の欧米人の記録(1月9日のニューヨークタイムズ、ラーベ・スマイス・フィッチなどの証言)にも日本軍の放火と書いてある[89]。また、ソ連大使館の放火は、戦後に中国人の証言として日本兵の放火があったとされているだけでなく、日本軍の不祥事の疑いがあることが陸軍OB会偕行社の編纂する「南京戦史」においても記録されている[90]

・「反日撹乱工作隊」の話は、当時の安全区であった元中国軍兵士と疑われる人物の逮捕事件を、日本側が「中国兵も悪いのだ」と宣伝した記事を東中野修道が必要以上に誇張して話を拡大させているだけであり、その証拠に(以下、板倉説)、「日本軍に逮捕されて白状したとあれば、日本軍の悪評を消すための絶好の宣伝記事だから、大々的に公表し、新聞に書かせるだろう。捕らえたのがどの部隊かも明らかでなく、第十六師団関係者、憲兵隊関係者の日記や証言に全く見当たらず、『東京日日』や『朝日』にも出ていない」[91]。日本側も欧米人側もその連中の仕業による被害を全くそれ以上報告していない。中国人の女性器にものを入れる残虐行為も、残念だが、日本側の記録にもいくつか、日本兵が具体的に行ったと記している[92]

南京安全区国際委員会のジェームズ・H・マッカラムの以下の手記は、その前の文章を入れると以下のようになる(1938年1月8日) 「彼等(引用注 日本軍のこと)は貧賎な支那人を脅迫して、我々が云ったことを否認させようとします。支那人の或者は容易に掠奪・強姦及焼打等は支那軍がやったので、日本軍がやったのでは無いと立証すら致します」。


③南京安全区の欧米人の記録は中立か?

(虐殺否定派の意見)南京安全区の欧米人の記録は、中国寄りの外国人もいるのでその内容は信用できないのではないか?マイナー・シール・ベイツは中国国民政府顧問であるという証拠を東中野修道は唱えており、また、ジョン・ラーベジーメンス社の社員で中国軍への武器販売業者である。南京事件の直前9月まで南京に居て、他のジャーナリストの情報などを元に南京事件を著作「戦争とは何か」に書いたマンチェスター・ガーディアン紙のハロルド・J・ティンパーリは、近年、東中野修道が発見した『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』(1941年)[93]の記述によって、国民政府の依頼を受けて記者活動を行ったとされており、公平な報道ではない捏造が疑われる。また、ベイツは「秩序ある日本軍の入城で南京に平和が早くも訪れたのは何よりです」と東京日日新聞の記者と握手している(東京日日新聞昭和12年12月26日号)という矛盾ある行動をとっている

(同 反論)戦争の中で、危険をかえりみずに自発的に、しかも人道目的のために南京に残った宣教師や医師なども含めて、中国寄りと一方的に考えるのはおかしい。

マイナー・シール・ベイツ中華民国国民政府顧問説はアメリカの一部の新聞の写真の見出しに小さく出た写真のキャプション[94]のみを根拠にしているだけで、具体的な証拠は弱い。マイナー・シール・ベイツは家族を日本に残して中国に来ており、むしろ親日派だったし、別の日の東京日日には日本在住の家族とともに「日支親善のため活躍を続けてゐる親日家」・「今回の南京陥落の際には避難民のため安全地帯設置委員として身の危険を忘れて活動した」(東京日日新聞昭和12年12月17日号第11面)として紹介された。東京日日の「秩序ある日本軍の入城で南京に平和が早くも訪れた」との彼の肯定的な言葉は、陥落3日後であり、安全区のみのことか?などニュアンンスが解らない。ただ、同日の記事のそれ以外の本人の弁は、現地の食糧問題等の深刻な話が主で日本軍への称賛部分はない。

ジョン・ラーベジーメンス社の扱う製品は、発電機器や通信機器が主であり、いわゆる武器に当たるものの取引はドイツでもハプロ社が扱っていた。現地では日本人の外交官とも親しくしていた。

ハロルド・J・ティンパーリは国民党中央宣伝部顧問に就任したとされるが、それは南京事件のずっとあと、1939年であることが渡辺久志の研究でわかっており、井上久士は「曽虚白の自伝」による中国側の依頼で本を書いたのは誤りとしている[95][96][97][98][99][100][101]。 ハロルド・J・ティンパーリの「戦争とは何か」は、事件を伝える主要な部分は南京在住者の手記で構成されていることが確認されているので、著作を捏造とすることは論理的に不可能であるし、もし国民政府の意図に沿った取材を彼が行ったとしても、それより前に「戦争とは何か」を著作しているので、捏造とはみなせるであろうか?[102] また、南京事件の前は、後述するように、ハロルド・J・ティンパーリ松本重治と親しく、日本人には親しみを持っていた。

ハロルド・J・ティンパーリマイナー・シール・ベイツは、松本重治(新聞記者であり、後に著名な国際人となる)と現地でも親しく、松本の記録では両名ともよき日本人への好感を持っていたが、同時に日中戦争の日本軍の行動によって、好感が失望に変わったことが記されている[103]

・ともかく、記述した内容の成否を問うべきであり、出自を疑うだけ疑って、そして不信イコール全否定は、学術研究においての事実認定の常道に反しており、論外である。繰り返すが、南京の代表的な欧米人は、この事件の前に日本人の外交官などから得た好印象を日本に対して持つものもいたし、ジョン・ラーベマイナー・シール・ベイツも、皆全て、日本軍の入城後は秩序が安定すると信じていた[104]にも関わらず、その後の日本軍の行動によって裏切られたと思ったのである。例えば、ミニー・ヴォートリンは南京事件後にノイローゼになって結局自殺する。根っからの反日主義者ではなかった彼ら彼女らが反日の感情を持ったのは、「南京事件」以後である。


④欧米人の記録は事実か?そして記録にある殺害等の事件が事件のすべてか?

(虐殺否定派の意見)欧米人が数多く記録を残したとするが伝聞が非常に多く実際見た例は少ない。また、南京安全区の殺害報告の正式のものは、数十件のみであるなど、被害数はすくないのでは。たとえば、冨澤繁信は、『南京安全地帯の記録』の記述が被害のすべてで被害は少ない[105]としている。

(同 反論)南京城全体は、山手線内(約64平方キロ)の三分の二程度の広さ(約40平方キロ)であり、事件は南京安全区の中でも広範囲な場所に散発的に起こっていたので、現場に立ち会うことがなく、伝聞であっても仕方ない。城外に連れ出して殺害した例[106]もあり、数がどこまで増えるかは別として、実数はわからず記述したものは一部とみるべき。むしろ立場からして、日本軍が欧米人の見ている前での蛮行を避けるぐらいはあり得た。記録にあるものですべてであるとは言えない。また、ジョン・ラーベやジェームズ・H・マッカラム、ミニー・ヴォートリンなどは、人道的支援や女性支援、安全区でただひとつの病院に勤務したりしたため、中国人が信用して報告しており、救済を望んでいるので、少なくとも起こった事実が基本であると考えるべきである。ただし、欧米人の記録には現場を確認していないので、間違いや事実誤認も含まれているという指摘はあるのは事実であるし、現地のアメリカ大使館も日本軍の木材持ち出し事件という虚構の話を信じるというエラーを犯している[107]が、これ等の話を伝える当時南京で日本大使館にいた福田篤泰は、そのような間違いを指摘しつつ、虐殺を否定するまでのものではないと証言した。

南京安全区[編集]

南京安全区とは、南京攻略戦前の11月、アメリカ人宣教師(ジョン・マギーマイナー・シール・ベイツや女性宣教師ミニー・ヴォートリンなど)を中心とする15名ほどによって、戦災に巻き込まれて南京城市から避難できない市民などを救済するために組織された南京安全区国際委員会(別称:南京難民区国際委員会)が、南京城市内にアメリカ大使館に協力を依頼して、設定した地域である。南京城市内の北西部にあり、面積は約4平行キロで城市内全域の1割程度であり、外国人施設・邸宅が多くある。ドイツのジーメンス南京支社の支配人であるジョン・ラーベが委員会の委員長となり、南京陥落前に南京安全区への市民の避難を呼びかけた。この安全区は被災民によって南京陥落直後は約20万人(諸説あり)との推測値があり、南京城市内の南京安全区外には住民が少ない状況となった[108]。日本側は、安全区には砲撃もせず(いわゆる「ラーベ感謝状」。(注)に記載)、組織的な殺戮も起こしていないが、前述したような日本軍の市民や脱走兵(便衣隊以外)への暴行・殺傷行為を起こしている。

(注)「ラーベの感謝状[109]」とは

「ラーべ感謝状」とは、1937年12月14日に南京安全区国際委員会ジョン・ラーベより日本軍に提出された文書のことである。この冒頭の「貴軍の砲兵部隊が安全区に攻撃を加えなかったことにたいして感謝申し上げるとともに、安全区内に居住する中国人一般市民の保護につき今後の計画をたてるために貴下と接触をもちたいのであります。」という一文であり、日本軍が南京安全区へ砲撃しなかった事実の根拠となっている。ただし、文書の日付から見れば日本軍の南京入城直後に提出していることがわかり、これ以降に南京城内外で発生した可能性がある暴虐行為の存否について直接言及できる史料とはならない。またラーベら南京安全区の国際委員会が蒐集できたであろう情報の範囲や正確性も論点となる。

便衣兵の殺害に関して[編集]

南京事件のときに、日本軍の殺害で最も多かったとされるのが中国兵である。その中で、便衣兵として摘出されて集団で殺害された事例があり、その証言は日本側の信用できる記録(偕行社の「南京戦史」)にも残る。そのうちの一部であるが、例えば12月14日-16日の安全区での日本軍の元中国兵での摘発と処刑は、約6500-6700名とされる[110]。もし、戦時国際法違反であれば、これ等は虐殺である。しかし、日本側の行為は、戦時国際法に違反しない合法のものであるとの意見もある。果たして、本当に「違反していない合法処刑」のだろうか?以下に説明するとおり、「合法処刑」かどうか?の論争がある。

まず、南京攻略戦の戦闘終了後、組織的な降伏を行わずに混乱した中国軍の多くの中国兵が、日本軍に捕まらないように軍服を脱いで民間人に紛れ込んで、南京安全区にも数多く潜んでいた。そして、日本軍は南京での戦闘終了後に、民間人に紛れ込んだ中国兵の摘発を行ったのは、それより少し前の第二次上海事変において、中国側が民間人に化けて武器を隠し持って相手に近づき戦闘行為を行う(便衣兵戦術。今でいえばテロ行為)戦術をとって、日本側が苦しめられていたこともあった。この、便衣兵戦術は、当時の戦時国際法ハーグ陸戦条約第23条第2項)で禁止されている

そして、「民間人に化けた戦闘員」つまり便衣兵であるかないかの基準は、当時の戦時国際法ハーグ陸戦条約)において定めている。つまり、軍服を着る・武器を見えるように持つなどして(同条約第1条の「交戦者資格の四条件」(注)) 交戦者(戦闘員)であることを示さないで戦闘行為を行おうとしている者は、便衣兵の対象となり捕虜待遇を受ける資格がない(同条約第3条)ので、軍律軍律会議を経て、また敵対行為(戦時反逆)のときは、軍律で定めれば、即決処分が可能である[111]。つまり、摘発され・手続きを経て処刑されても戦時国際法では合法となりうる。

ただし、便衣兵とは、交戦者(戦闘員)つまり「現に戦闘している者」や「戦闘行為を行おうとしている者(例:手榴弾などの武器をテロをしようと隠し持っている)」が対象となるのであり、日本軍に捕まらないように軍服を脱いで民間人に紛れ込み戦意を完全に失った脱走兵の場合は、そのまま便衣兵の対象となるとは示していない。以上は、戦前の日本の戦時国際法((信夫淳平「戦時国際法提要」)でも「交戦者たるの資格なきものにして害敵手段を行ふのであるから」との定義があり、害敵手段(戦闘行為やテロ行為)を行うものを便衣兵としている[112]

(注) 交戦者資格の四条件ハーグ陸戦条約第一条) 交戦者、つまり戦闘を行うものは、①軍としての上官がいて、②軍服・軍徽章を身につけ、③武器をはっきりと身に着け、④戦時国際法を遵守している、ことが求められる。言い換えれば、例えば、武器を隠し持ち、民間人の服を着て、戦闘を行うのは違法であり、いわば便衣兵となる。しかし、これは戦闘を行う、もしくは行おうとする者であり、戦闘行為を行う意思をなくして民間人に化けた兵士(脱走兵)を即、 便衣兵とみなすかの判断基準を示していない。

以上について戦時国際法上、問題があったか?なかったか?が、論争になっている。

①問題ない(虐殺でなく合法)とする意見

東中野修道は、交戦者資格の四条件を満たしていない場合は非合法戦闘員となり、戦時国際法に照らして合法であり虐殺でないと主張した[113]。東中野の国際法理解については、吉田裕との間で論争が行われた[114]。また、国際法学者佐藤和男は、一般に武器を捨てても(機会があれば自軍に合流しようとして)逃走する敵兵は、逃走したと認められないので、攻撃できる[115]とした。

②問題あり(違法であり虐殺)とする意見

これらの処刑は南京が陥落して戦闘が終了した後に行われたものであり、戦闘行為とは見なすことが出来ない。また、もう抗戦の意図はなく専ら逃亡目的で平服を着用していた兵士を便衣兵と見なして殺害したり、一般市民から敗残兵を摘出した際に、便衣兵が紛れている可能性があるとして識別の努力もせず殺害した場合等は虐殺にあたる。日本側の証言でも、かなり基準のいいかげんな摘発で、間違えて一般人を兵士として摘発・処刑したとされる記録がある[116]。 以上は、秦郁彦などの意見であり、右派と呼ばれる北村稔さえも「手続きなき処刑の正当性」には疑問を示している。[117]

なお、佐藤和男の説の表現振り、つまり便衣兵を(機会があれば自軍に合流しようとしている)と書いたのは、脱走兵でなく実は戦闘員であるという意味をもたせるためと見られる。しかし、であれば、実際にその中国軍兵士が完全な脱走兵なのか、もしくは(機会があれば自軍に合流しようとする)意図的なゲリラなのかを、検証しないと便衣兵かどうかの正しい判断ができないことになる。その検証がされずに、即、処刑では意味を持たない。

日中歴史共同研究北岡伸一は、「便衣隊についても、本来は兵士は軍服を着たまま降伏すべきであるが、軍服を脱いで民衆に紛れようとしたから殺してもよいというのは、とんでもない論理の飛躍である。」[118]と主張している。

便衣兵に対する裁判[編集]

(論点)仮に捕虜が便衣兵とみなせた場合でも、日本軍が裁判なしで処刑したことについて、戦時国際法違反である、いや違反ではない、との意見がある。 なお当時の軍隊は、占領地で戦時の敵対行為などの処罰を独自で定める軍律軍律会議を設置することが認められることがハーグ陸戦条約第三款42条以下で定められていたため、 実は、日本軍も南京占領前の12月1日に、「中支那方面軍軍律(中方軍令第一号)」、「中支那方面軍軍罰令(中方軍令第二号)」、「中支那方面軍軍律審判規則(中方軍令第三号)」(以上、すべて引用に本文あり)[119]で、軍律軍律会議についての規則を定めていた。詳細は引用の本文参照。 ただし、軍律軍律会議は、論争にて記載あるように、その内容の厳正さに関わらず、十分に裁判を実施することや調査を経たうえでの死刑などの判決が行われず、即決即断の処刑が行われたため、実質的に機能していなかった。

以上を踏まえたうえで捕虜が便衣兵とみなせた場合でも、日本軍が裁判なしで処刑したことについて、戦時国際法違反である、いや違反ではないかの意見を示す。

戦時国際法違反ではないという意見

・スパイ行為や攻撃準備などの敵対行為(戦時反逆)は軍律で、即決処分が可能である[120]

・中国側は最後まで降伏はしておらず、両国間で休戦の合意(ハーグ陸戦条約第36・37条)もなされていないことが、裁判不要な根拠となる。

・多人数なので、軍律審判の実施を不可能であった。佐藤和男「兵民分離が厳正に行われた末に、変装した支那兵と確認されれば、死刑に処せられることもやむを得ない。多人数が軍律審判の実施を不可能とし(中略)また市街地における一般住民の 眼前での処刑も避ける必要があり、他所での執行が求められる。したがって、問題にされている潜伏敗残兵の摘発・処刑は、違法な虐殺行為ではないと考えられる」[121]

戦時国際法違反であるという意見

便衣兵を死刑として殺害するには軍事裁判の手続きが必要であったから、多人数なので軍律審判を経ずに殺害したということは、その殺害の正当性を証明するべき根拠がなく、戦時国際法への違法行為であるとする。

・しかも、日本軍の当時の軍律から見ても、「敵対行為(戦時反逆)は軍律で即決処分が可能」とまでは定めていないことが、前述の日本軍「中支那方面軍軍律」の条文を読んでみればわかる。また、自首については刑の軽減が考慮されるとの「中支那方面軍軍律」の軍律第4条の規定にも、即決処刑は反する。また、軍律審判規則の第8条に「軍律会議に於て死を宣告せんとするときは長官の認可を受くべし」とあるが、そのような軍律や審判規則を無視した処断は正当化できない。

・両国間で休戦の合意(ハーグ陸戦条約第36・37条)もなされていなくても、裁判は必要。国どうしが休戦していなくても、部隊や個々の軍人が、例えば降伏する意思表示をすればハーグ陸戦条約第23条のように殺傷されないことになっており、個々に戦時国際法は適用される。

・以上の理由で、便衣兵を死刑として裁判なく殺害した、日本軍の行為は、戦時国際法への違法行為であるとする。

投降兵に関して[編集]

南京戦において、中国軍の投降して捕虜になる意思のある兵士を、拘束後すぐに日本軍が殺害した例は、日本側の記録において戦闘終了直後にみられ、その証言は日本側の信用できる記録(偕行社の「南京戦史」)にも残る。

中国側は撤退命令を出したものの、最後まで組織的な降伏の申し出をしなかった。戦闘中に降伏して投降してきた兵士を受け入れるないで殺害することが、戦時国際法違反かどうか?について意見が分かれる。当時の日本軍は、松井石根司令官の意思に関わらず、現場の指揮官側は中島今朝吾第16師団長の「大体捕虜はせぬ方針」(中島今朝吾日記12月13日。ただし、この表現には諸説ある)との考えであった。 当時、日中両国の批准した戦時国際法ハーグ陸戦条約の第23条によると害敵手段として禁止されているのは、第3項「兵器を捨て、または自衛手段が尽きて降伏を乞う敵兵を殺傷すること」同第4項「助命しないことを宣言すること」である。しかし、日本陸軍は同年8月にハーグ陸戦条約の「厳密遵守の必要なし」、「捕虜という名称もなるべく使わないように」、と現地軍に通知していた(この通知については「捕虜の殺害に関して」にて説明)。

以下に、日本軍による、中国兵に対する投降の拒否は、戦時国際法上、合法であるか、違法であるか、についての両方の論を記する。

①作戦遂行の妨げになる場合の投降拒否は合法という意見

・第二次大戦下でも戦闘中に米英軍に捕えられた日本軍兵士やドイツ軍兵士が捕虜とはされずその場で殺害されることは普通に行われた。 軍事作戦の遂行が最優先事項であるから戦闘中において作戦遂行の妨げになる場合には投降を拒否しても合法である。

・「多数の敵兵を捕えたために自軍の安全が危殆に瀕する場合には、捕えた敵兵に対し助命を認めなくてもよい」(佐藤和男。軍事作戦遂行のため、捕虜を拒否することも許される場合があるという(国際法学者ラサ・オッペンハイム)の考えに沿った[122]

②投降拒否は違法という意見

ハーグ陸戦条約第23条第3項「兵器を捨て又は自衛の手段尽きて降を乞へる敵を殺傷すること」を根拠に、投降兵殺害は違法。戦時国際法違反にあたり、その時の学説(第一次上海事変の後に出された信夫淳平「上海戦と国際法」)でも違反とされている。[123]

・捕虜がたくさんいたら作戦行動に不利であるので殺すというのは、古今の戦争で見られたが、近代戦において大作戦を他国の首都で行っておいて、指揮官が「捕虜をとらぬ方針」とか、たくさんの捕虜の発生のときの準備を用意していないので処分、というのは戦時国際法をないがしろにして軍事作戦にのみ固執して、相手国軍人の命を軽視しているのであるが、戦前の日本の戦時国際法(信夫淳平「戦時国際法提要」発刊は南京戦より数年後)でも、過去の18世紀の欧州の戦争で食糧不足を理由にした捕虜虐殺の事実を述べたあと、「斯かるは今日の交戦法則の許さざる所で」「(ホールの学説)俘虜にして之を安全に収容し置く能はざる場合は之を解放すべきである。敵の兵力を増大することの不利は人道の掟則を破るの不利に比すればヨリ小である」[124]、と記されている。軍事作戦遂行のため、捕虜を拒否することも許されるという、国際法学者ラサ・オッペンハイムの考えは、当時、まだ影響はあったが、ラサ・オッペンハイムの著書からその執筆の後継者が、すでにその部分を削除しているほど、国際人道法から見て問題があり、それを日本軍の行動に一律に適応するのは当時の国際法では間違っている。また、相手国の恨みをかった場合の国策上の不利を考える必要があった。

捕虜の殺害に関して[編集]

南京事件のときに、日本軍の殺害で最も多かったとされる中国兵のうち、一旦捕虜として受け入れたのちに殺害するケースは非常に多く、その証言は日本側の信用できる記録(偕行社の「南京戦史」)にも残る。そこには12月12日に第114師団第66連隊が南京城南部で行った、「投降すれば殺さない」と中国兵にふれこんで約1千5百人を捕虜にしたあと殺害した例も掲載されている。

2015年に日本テレビが製作した番組であるNNNドキュメント'15『シリーズ戦後70年 南京事件/兵士たちの遺言』においても当時の日本兵の証言とその検証の中に虐殺行為として残されている[125]

秦郁彦の説では、数千人単位の捕虜殺害が何か所も発生し、約3万人が殺害されたとする[126]

なお、捕虜の扱いについての交戦当時の戦時国際法として有効なものは、日本と中国の双方が批准したハーグ陸戦条約であるが、その第4条には「俘虜は人道をもって取り扱うこと」となっている。

しかし、日本陸軍は、支那事変という宣戦布告がない戦争だったため(事変とよび戦争と呼ばないほうが国際的に都合がよい)という理由で戦時国際法の適用に対して、「現地軍にある通知」をしていた。つまり、1937年の8月5日に陸軍次官名での通知で、ハーグ陸戦条約の精神に準拠しとし交戦規定の一部(害敵手段の選用)は努めて尊重と言いつつ、別の箇所で、これを厳密遵守とまでしなくてよいこととし、捕虜という名称もなるべく使わないようすることを現地軍に命じていた[127] 。つまり、ハーグ陸戦条約の交戦規定の一部(害敵手段の選用)の「規定ヲ努メテ尊重スヘク」、「具体的事項ヲ悉ク適用シテ行動スルコトハ適當ナラス」及び「俘虜等ノ名稱ノ使用」を「努メテ避ケ」るとのことであった。出典は、(陸軍次官発支那駐屯軍参謀長宛「交戰法規ノ適用ニ關スル件」陸支密第198号(1937年8月5日) ( 「昭和13 年支受大日記〔密〕」〔防衛研究所図書館蔵〕)[128]


以上について、日本軍の捕虜殺害は、戦時国際法上、合法であったか?違法であったか?が、以下のような論争になっている。

①捕虜殺害は合法とする考え

便衣兵とみなされる可能性の者の処刑は合法、と主張。(これについての論争は、このページの「便衣兵の殺害について」を参照)

・日中双方での捕虜の取り扱いに対する人道上の個別合意は存在したのか?俘虜の待遇に関する条約ジュネーブ条約については、中華民国は1929年7月27日に署名、1935年11月19日に批准していた[129]が、日本は署名のみで批准していない[130]

・前述されている、1937年の8月5日に陸軍次官名での通知(宣戦布告がない(事変とよび戦争と呼ばない)という理由で戦時国際法ハーグ陸戦条約は、厳密遵守とまでしなくてよいこと、捕虜という名称もなるべく使わないようすること)を、現地軍は命じられていたので、捕虜として扱わなくてもよくなっていた。

・中国兵が他の日本人へ行ったことの復仇が捕虜処刑とも言えるという説もあり、復仇戦時国際法で合法である。佐藤和男は、それまでの支那側の日本への数々の違法行為に対する復仇の可能性と明言している[131]

・例えば、捕虜であっても、捕虜暴動から発した幕府山事件(第13師団第65連隊を主力した山田支隊による。このページの(山田支隊の捕虜処断(戦時国際法上に合法か)参照)は、戦時国際法学者のラサ・オッペンハイムが例外的に捕虜殺害を合法としていた学説の文脈によれば正当化できる。

②捕虜殺害は違法とする考え

・捕虜を便衣兵と一方的にみなした処刑は、この場合は非合法。(これについての論争は、このページの「便衣兵の殺害について」を参照)

・日中双方での捕虜の取り扱いに対する人道上における個別の合意に当たる法的根拠は存在し、それが日中双方が批准していたハーグ陸戦条約であり、その第4条「俘虜は人道をもって取り扱うこと」や当時の慣習法などを根拠にする、捕虜殺害は違法である(ジュネーブ条約は日本が批准していなかったが、同じく捕虜の人道上の取り扱いを定めたハーグ陸戦条約は日本も批准)。

・1937年の8月5日に陸軍次官名での通知の考え方、つまり「宣戦布告がない戦争だったためにハーグ陸戦条約の厳密遵守とまでしなくてよいこと、捕虜という名称もなるべく使わないように」というが、ハーグ陸戦条約の条文からは「宣戦布告」なければ守らなくてもよいとは記載されていない。このような通知は、軍官僚的な国際人道法を無視したナンセンスな発想である。

・たとえ復仇であっても、捕虜に対する非人道行為については、戦時国際法ジュネーブ条約)では合法とはならない(日本は批准はしていないが)と定められているので、復仇は、捕虜への非人道行為の正当化にはならない、復仇の可能性と述べている佐藤和男は、何と同じ論文でジュネーブの捕虜条約で捕虜への復仇が禁止されていることを記載[132]しているという不可解な言動をとっている。

・捕虜の敵対行動に関しては、そのような場合の殺害もやむないかもしれない。しかし、否定説が主張する具体的な「捕虜の敵対行動」の事実の存在には疑問(捕虜暴動から発した幕府山事件(第13師団第65連隊を主力した山田支隊による。このページの(山田支隊の捕虜処断(戦時国際法上に合法か)参照)は、本当に捕虜の暴動があったかは、小野賢二説によって疑問視されており、また暴動の有力な根拠のひとつとなる両角手記は「南京戦史」でさえもその史料価値を疑っている[133]。がある。

 以下、南京事件での捕虜殺害は違法と考える有識者の意見である。

日中共同研究北岡伸一は、「捕虜に対しては人道的な対応をするのが国際法の義務であって、軽微な不服従程度で殺してよいなどということはありえない。」[134]と主張している。

原剛は、「当時の国際法や条約に照らしても不法殺害である」と主張[135]

吉田裕は、「仮に不法殺害に該当しないとしても非難・糾弾されるに値する行為である」と主張するとともに[136]、「日本軍は投降捕虜の安全について明確な軍令を出してはいないが、殺害を事実上黙認していたかのように読める命令を発していた」と主張している[137]

内海愛子は、「日本軍では、捕虜とは陸軍大臣管轄下の正規の俘虜収容所に収容されて、はじめて「俘虜取扱細則」による「正式な俘虜」になり、捕虜の待遇を定めた条約の「準用」の対象となった」[138]、と述べている。

立川京一は、「東京裁判に提出された武藤章(支那事変発生当時、参謀本部第1部第3課長)の尋問調書(1946 年4 月16 日付)によれば、1938 年に「中国人ノ捕ヘラレタル者ハ俘虜トシテ取扱ハレナイトイフ事ガ決定」されている。つまり、陸軍は、戦争ではない支那事変では捕虜そのものを捕らないという方針を採用、したがって、正式の捕虜収容所も設けなかった。」[139]としている。

期間と場所[編集]

事件の期間[編集]

東京裁判では「日本軍の南京占領(1937年12月13日)から6週間」という判決を出しており南京大虐殺紀念館や日中両国の研究者もこれを事件の期間とするのが通例である。

笠原十九司は、南京市のみならず、周辺部の農村部である南京行政区への日本軍進入後の事件も被害の対象にしているので、異説としても少し早い時期も含めた「1937年12月4日 - 1938年3月28日の4ヶ月」説を唱える。また当初6週間としていた張[誰?]後に笠原説に同調するとともに、始期を「中国の学術界では12月の初めごろと考えております」と述べている[要出典]

地理的範囲[編集]

この論争での地理的概念は広い順序で示すと次の通りとなる。

  • 地理的概念として地区を限定しないもの
  • 南京行政区 :南京市と近郊6県
  • 南京市 :城区と郷区
  • 城区 :南京城と城外人口密集地である下関・水西門外・中華門外・通済門外
  • 南京城 :城壁を境にした内部
  • 安全区 :南京城内の中心から北西部にかけた一地区(面積3.86km²)

東京裁判では、検察側最終論告で「南京市とその周辺」、判決文で「南京から二百中国里(約66マイル)のすべての部落は、大体同じような状態にあった」としている。事件発生後に行われた被害調査(スマイス報告)では、市部(城区)と南京行政区が調査対象とされた。

南京での事件で、しかも日本軍の南京占領(1937年12月13日)から6週間となると、安全区のみということはまずなく、城内及び城区は少なくとも含むと考えられ、広くみれば郷区も含めた南京市までを考える。ただ、南京行政区の農村地帯をふくむという笠原十九司などの説は、あくまで参考の説として考えるべきであろう。

三十万人説をとる孫宅巍は南京市(城区+郷区)を地理的範囲と定義する[要出典]

板倉由明は「一般には南京の周辺地域まで」とする[140]

藤原彰は、この定義に対し、日本軍が進撃した広大な地域で残虐行為が繰り返し行われており、もっと広い地域を定義すべきである、虐殺数を少なくするために地域や時間を限定している、と批判した[141]

笠原十九司は、大本営が南京攻略戦を下命した12月4日における日本軍の侵攻地点、中国側の南京防衛線における南京戦区の規定より、地理的範囲を南京行政区とする[142]。これは、集団虐殺(とされる行為)が長江沿い、紫金山山麓、水西門外などで集中していること、投降兵あるいはゲリラ容疑の者が城内より城外へ連行され殺害された(とされている)こと、日本軍の包囲殲滅戦によって近郊農村にいた100万人以上の市民の中の一部が多数巻き添えとなっている(とされる)ことなどによるとする[143]。この定義に対しては、資料に基づいたものとは到底言えず、数合わせのために期間および地理的範囲を拡大しているとの批判が否定派から[要出典]提示されている。

本多勝一は、第10軍と上海派遣軍が南京へ向けて進撃をはじめた時から残虐行為が始まっており、残虐行為の質は上海から南京まで変わらず、南京付近では人口が増えたために被害者数が増大したし、杭州湾・上海近郊から南京までの南京攻略戦の過程すべてを地理的範囲と定義する[144]

当時の国際社会の認知や報道についての議論[編集]

国際連盟の決議・中国政府の記者会見[編集]

・(虐殺否定派の意見①)中国側が1938年1月の国際連盟理事会において「南京における日本軍の暴虐」(犠牲者は2万人としている)を演説したが、それについての国際連盟による日本への非難決議や制裁行動の決議が出されなかった。つまり当時の国際連盟は南京事件を認めていない証拠である(日本軍が中国への渡洋爆撃を行った際には国際連盟が全会一致で非難決議(1937年9月)をしたのに)。つまり、国際連盟は、南京事件で2万人の虐殺も認めなかったと言える。

(意見①の反論)国際連盟は、南京事件も含めた日中戦争と日本をできる限り、厳しく非難しているし、制裁行動は理由あって行われていない。実は、そのとき第100回国際連盟理事会では、「中国への道義的支援」等についての、その前年10月に行った国際連盟総会での、日本の中国侵略への「非難決議」を再度確認(remember 想起する、として前回と同じ決議文言をそのまま確認)している。10月に日本の軍事行動が不戦条約等の国際法違反であることへの非難決議がすでになされており、それを確認つまり再度非難したのであり、南京事件も含めた日本の侵略行動が非難決議された。中国側の演説は、11月以降の日中戦争全般についての深刻な事態を「南京事件も一部として」説明し、より言えば日本の中国への主権侵害が中国の存亡にかかわる深刻な状況にあること(日本が南京に傀儡政権を作った、中国に不利な関税策を一方的に設置したなど)にも力点を置いて説明している[145]。なお、日本への経済制裁の行動の決議を中国が前年より(その後も)要請しているものの、経済制裁の行動までは決議されていない。実は、その理由は、欧州諸国はまだ日本と事を構えたくない思惑があり、しかも過去の国際連盟の経済制裁は、イタリアの第二次エチオピア戦争の一回のみであり非常に稀であったという事実がある。例えば、スペイン内戦への英仏の対応は、英仏のファシズムへの対抗姿勢がこの時期には消極的だったことを示す。(国内事情で国際連盟未加盟の)アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領が前年10月(最初の国際連盟での日本非難の直後)に隔離演説を行い、米国国務省も日本軍の行動を批判したにも関わらず、当時のアメリカ世論も、まだナチスや日本への直接行動に消極的であった(アメリカが経済制裁を具体的に行うのは後のことである)。なお、日本の渡洋爆撃(世界でもほぼ初期の本格的な空爆)は、新しい人道の脅威である軍事行動でありハーグ陸戦条約違反の可能性が明らかであるので、特別な非難があった。以上の経緯でわかるように「南京事件」を決して国際連盟が無視したのではない。


・(虐殺否定派の意見②)当時の中国国民党が行っていた300回の記者会見においても一度も南京事件は言及されたことがない(戸井田徹[146]東中野修道[147])。だから嘘である。

(意見②の反論)東中野修道は、中華民国の外交・外務業務の記録(「外事課工作概況」)より、1937年12月から1938年10月までの間の中華民国の漢口に避難した政府が中央宣伝部の外務・軍事の記者会見を300回開いたことのみに言及し、その記者会見の内容を個々に確認したのでなく、「南京大虐殺が真実と確認されるや重要問題として、中央宣伝部はいつものように「緊急記者会見」を開催し、目撃者として外国人特派員を招いて講演してもらい、 中華民国政府声明を発表して全世界に伝えた、という記録が、この極秘文書のどこかに必ずやあるはずであった」、そこで、具体的に記載されていないから、なかった、という論理である。事件が起きた時期は、欧米人ジャーナリストが独自の取材で全世界に広めたが、漢口政府の独自情報はかえって難しい時期であったので、外国の新聞でこうあったとかの記者会見を開かなくても、おかしくない。しかも、内容も確認していないのに、ない、は研究者の分析としては一方的である。

中国国民党は南京事件を批判している。南京事件 (1937年)#国際社会や中国政府の対応の「事件発生後」の後半にあるように、国民政府の蒋介石が日中戦争開始の1年後に公表した「日本国民に告ぐ」(1938年7月7日 漢口)において、日本が占領した地域での略奪、暴行、残酷な殺人を非難[148]蒋介石夫人の宋美齢は、南京の殺戮を1938年1月、つまり南京占領から一か月以内の時期にアメリカの友人宛ての手紙に書き(外国報道などから得た情報か?)[149]。また、国民党に近い新聞「大公報[150]では南京事件を残虐行為としてとりあげている。そもそも、300回の記者会見の内容も調べず、記者会見なし、南京事件なし、は、おおよそ研究とはいえるのであろうか。

国際社会の報道はなかったか?[編集]

・(虐殺否定派の意見③)「南京事件は国際社会に報道されていなかった」という自民党の歴史議連が主張した説がある。南京事件についての『ニューヨーク・タイムズ』・『ロンドン・タイムズ』での記事、南京事件の発生したあとの約2ヶ月の新聞の記事を一次資料(12月13-30日、1月26日ー2月2日)自民党の歴史議連を調査したところ、その間は、12月の場合は市民が大虐殺されたとか、1月以降も強姦や殺人事件があったという記事はない。むしろ、アメリカの船パネイ号事件の日本軍による沈没事件などやアメリカ外交官への日本軍人の殴打事件(アリソン殴打事件(クリックで説明にリンク))が主であり、「殴打事件」よりも記事の重要度が低いなら、例えば強姦や殺人は南京には当然なかったとみなせる[151]。かつてある自民党の議員が、この調査結果を発表し、インターネットTV「日本文化チャンネル桜」において、南京事件の外国報道はなかった、と簡潔に述べた[152]。別の国会議員は、ニューヨークタイムズもロンドンタイムズも虐殺など全く報道していないと、2013年4月の衆議院予算委員会で述べた[153]


(意見③の反論) では、「南京事件についての外国報道がなかった」と言うなら、以下の『ニューヨーク・タイムズ』(12月18日)の記事の文章はどうなるのであろうか?

「・・少なくとも戦争状態が終わるまで、日本側の規律は厳格であろうという気はしていた。ところが、日本軍の占領が始まってから二日で、この見込みは一変した。大規模な略奪、婦人への暴行、民間人の殺害、住民を自宅から放逐、捕虜の大量処刑、青年男子の強制連行などは、南京を恐怖の都市と化した」「民間人の殺害が拡大された。水曜日、市内を広範囲に見て回った外国人は、いずれの通りにも民間人の死体を目にした。犠牲者には老人、婦人、子供なども入っていた(引用者注:日本軍の不法行為の死者ばかりとはもちろん限らない)」「民間人の死傷者の数も、千人を数えるほどに多くなっている(引用者注:日本軍の不法行為の死者ばかりとはもちろん限らない)。唯一開いている病院はアメリカ系の大学病院であるが、設備は、負傷者の一部を取り扱うのにさえ、不十分である。」[154]

イギリスの『タイムズ(ロンドン・タイムズ)』(12月20日)の記事でも、「日本軍は安全区に入り、戸外で捕らえた中国人を、理由もなくその場で銃殺した」ことが書かれているし[155]、そのほか、アメリカの有力紙の記事、ロイター通信社による新聞記事によって、事件初期の殺人、傷害、強姦、略奪などの犯罪行為が日本軍によって行われたとして伝えられて報道された[156]

自民歴史議連の調査のやり方も結果も間違っているし、容易に間違いと解る結論を出している。本来の一次資料の調査とは、対象になる報道記事を可能な限り集めて、内容や信頼度や情報源や影響を個々に分析・精査するものである。しかし、自民歴史議連は、新聞2紙のみをある期間にという条件(とその他の条件、後述)をつけて記事をえりすぐって判断した。その他の条件として、「記者が確認した記事」であるか、1月に発生したアメリカ外交官殴打事件などより取り扱いが弱いかどうか等と設定した[157]。しかし、現地欧米人記者は南京占領後すぐ上海方面へ避難したので、ごく初期の事件以外は自社の記者では直接確認できない[158]。また、アメリカ人外交官への日本軍人の殴打事件(アリソン殴打事件(クリックで説明にリンク))はアメリカの面子に関わる(当時の外交官は今より国を代表する立場が高い)ため、現地の中国人の殺人多数の記事よりも(今の日本でも日本人の巻き込まれた海外の事件は、他国の大事件より注目される)大きく扱われても不自然でない。パネイ号事件も、現在の日本ではあまり知られないが、当時は、駐日大使、日本外務省、日本海軍も巻き込んだ大事件であった[159]。そして南京事件は2紙以外の有力紙、シカゴ・デイリー・ニューズの12月17日版でも民間人殺害の記事として存在する[160]。結局、自民歴史議連の調査は、「南京事件の報道や記事」が「あっても」、「報道・記事はなかった」と見なした。もし、記事の内容の個々の信頼度に問題があるならば、その部分で個々に意見すべきであり、少なくとも「この戦争は人道上問題がある」という問題意識での欧米記者の報道を「あった」のに、「報道されていない」、というのは事実と異なる。国会議員が「南京事件は海外では報道されていない」との見解をメディアで(調査に際した条件等は説明せず)発言すれば、容易に間違いを指摘されてしまうので、かえって日本の主張の信頼がそこなわれ、国益に反する。

アリソン殴打事件[編集]

なお、この日本軍人に殴打されたアメリカ人外交官(当時、南京領事)のアリソンとは、後に駐日アメリカ合衆国大使になったジョン・ムーア・アリソン(1953-57年 駐日大使)である。サンフランシスコ講和条約の草案作成を行ったとされており、池田慎太郎『日米同盟の政治史――アリソン駐日大使と「1955年体制」の成立』によって再評価されており、アイゼンハワーの対日政策にも影響を与えた知日派[161]である。

 ちなみに、アリソン殴打事件(1938年1月26日)とは、東中野修道によると「アリソン米国領事がある事件調査のため、日本軍中隊長の制止を振り切って家屋内に侵入しようとした」として、当時の日本軍の「アリソン氏が日本軍に恰も検察官的不遜の態度を以て、その領事たるの職分を超越し、事毎に日本軍の非を鳴らすが如き態度に出た」とした公式見解が正しいと支持した[162]。一方、ジョン・ムーア・アリソンの当時の記録では、まず(1)武装した日本兵たちが(安全区の)アメリカ人施設である金陵大学農学院の作業所に深夜に侵入し、中国人女性1人を連れ去り強姦して返した、(2)女性の強姦された場所をたどっていくと、もともとアメリカ人のカソリック司祭が住んでいた家屋であり日本兵が占拠していた、(3)強姦事件は日本大使館に報告され、1月26日の午後、日本人の憲兵等を伴ってアリソンともうひとりアメリカ人がその日本兵占拠の家を被害者の女性とともに事件の調査のために訪問し、(4)日本人憲兵と女性のみならずアリソンたちもその家に入ろう(やや憲兵の制止を振り切った行動ではあったが)としたら、家の中にいた日本兵に押し戻されて侮辱的な言い方(アリソンは日本の海軍機関学校の英語教員の経験があり、日本語がわかった)をされつつ、アリソン達アメリカ人はそれぞれ日本兵(注:下士官級)に殴打された、(5)アリソン達アメリカ人は日本側に乱暴や侮辱的なことをしなかった(よって日本軍の前述公式見解には、アリソンは「事実と違う」と怒る)、とのことである[163]。日本側に残る記録(「南京戦史」より「飯沼守日記」)では、その日本兵たちの家では、(他にも記録で登場する評判の悪い)天野中隊長と日本兵十数名が住み、何人もの女性を拉致しては皆で強姦していた[164]。 


・(虐殺否定派の意見④)上海から南京まで追撃される中国軍に従軍していた『ニューヨーク・タイムズ』のティルマン・ダーディン通信員は、1989年10月号の『文藝春秋』においてインタビューに答えて、「日本軍は上海周辺など他の戦闘ではその種の虐殺などまるでしていなかった」「上海付近では日本軍の戦いを何度もみたけれども、民間人をやたらに殺すということはなかった。」「(上海から南京へ向かう途中に日本軍が捕虜や民間人を殺害していたことは)ありませんでした。」と言っている。南京までの道のりで日本軍の残虐行為がなかった証拠である。

(意見④の反論)実は、ティルマン・ダーディン通信員は1986年9月(文春取材より以前)のインタビューで、「日中戦争が勃発し、上海でも戦闘が始まってからおよそ二、三週間後(引用中: 日本軍が南京に向かい上海から進軍する約3か月前)に『ニューヨーク・タイムズ』の外国特派員として南京に向かい、南京に在住していた」「『ニューヨーク・タイムズ』で与えられた最初の仕事です。上海からは南の道をつかって行きました。戦闘に遭わずに南京に行くためです」と述べている[165]そして、南京から逃げるときは長江を船を使って下り、上海に向かった[166]。よって、上海事変は実際に見たかもしれないが、日本軍の上海から南京までの進撃は、本人の南京への往復時には、直接体験したとは想定できないので、日本軍の農村部での殺害や略奪を否定する発言とは言えない。


・(虐殺否定派の意見⑤) 南京陥落後の12月13〜15日は日本軍は掃討戦中であり、国際委員会に届けられた殺人事件もそれが全てではないにせよ目撃者のないものが5件のみである(国際委員会編「市民重大被害報告」)ので、スティールら外国人記者が見たという殺人事件の信憑性を疑う。日本の外交官宛の「虐殺の外電」についても同様に「伝聞が情報源であり日本政府(もしくは軍部)は誤情報を報告されたのではない」としている[167]渡部昇一は、『ニューヨーク・タイムズ』やアメリカの地方紙の「大虐殺」の記事を、便衣隊あるいはそれと間違われた市民の処刑を見て誤解したと推定する[168]。また、当時『ニューヨーク・タイムズ』に掲載された「南京虐殺の証拠写真」とされる写真も虚偽写真の可能性が指摘されている[169]。たとえば日本兵の内地への手紙についても正確性や信憑性に疑問が呈されている(例えば、虐殺行為を手紙で内地へで伝えたとしても検閲で落とされるため)[170]

(同 反論)欧米の新聞記者は、すぐに南京を離れて、しかもその後は現地情報に頼ったので、正確さには問題がある。しかし、在住欧米人の記述も含めて、戦闘があきらかに終わったあとの残虐行為が実際に起こったかどうかなど、「南京戦史」などの記述との整合性をみるべきであり、ただ疑えばよいというものでない。写真や手紙も疑いあるものが南京事件関係に少なくないが、全てがすべてとは限らない。疑うのみでなく、個々に事実であるかを精査するという視点で見るべきである。ちなみに、渡部昇一の説明についてだが、便衣隊あるいはそれと間違われた市民の処刑を裁判なしに行っているなら、それだけで虐殺である。

証言[編集]

日本人証言者[編集]

虐殺があったとする証言[編集]

当時、実際に従軍した元日本軍人の方々の証言(戦時国際法違反行為があった事実)が多数存在する。戦後、陸軍のOB会偕行社が1984年より集めた「証言による南京戦史」及びその後の「南京戦史」の中に数多く掲載されており、その結果、30万人説は無いにしても、一定の不法殺害の事実の証言が数多く集まった。

2015年に日本テレビが製作した番組であるNNNドキュメント'15『シリーズ戦後70年 南京事件/兵士たちの遺言』においても当時の日本兵の証言(主に中国軍人の不法虐殺)とその検証が残されている[171]。また、2002年にもテレビ朝日「ニュース・ステーション」平成14(2002)年8月15日にて松岡環著のとりまとめた「南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて-元兵士一〇二人の証言」に関連して取材した内容が放送された。松岡は、南京事件60年のときに武田倫和監督の『南京 引き裂かれた記憶』というドキュメンタリー映画を制作し、公開するに至った。


ただし、証言者の中で、以下の「一覧表の証言者」は、証言内容に疑義の指摘のあるもの(ただし、御覧いただければわかるように個々の疑義の程度差はかなりあり、必ずしも嘘をついているということでなく、矛盾や疑問があるなど確証がない場合もあるので、個々人の人格への一方的批判ではない)であり、それぞれの信憑性について研究者のコメントがある。

証言内容に疑義の指摘のあるもの

証言者 時期 発表媒体 証言内容 備考 評価
田所耕三 1971年頃 『アサヒ芸能』昭和46年1月28日号 下関にいて陥落後10日間にわたって、城の内外で耳鼻をそいだり残虐行為を繰り返し、女を略奪して兵に分けたりした 洞富雄アイリス・チャンザ・レイプ・オブ・南京)が引用。 水戸の兵士なら第102連隊で下関までは行っていないはず。また数日後には南京から転進している。阿羅健一が田所に面会すると「(ルポライターが)南京での残忍な話に執心するので、しばらくして南京での作り話をしてやると、ルポライターは目の色を変えてそれらを書き留めだした。その態度を見て、わたしはいっそう膨らまして話をした。ルポライターはさらにのってきた。それがあの証言で、私自身は城内に入ってもいなければ、下関にも行っていない。あの話はまったくのウソなのだ」[172]
赤星義雄 1979年 『揚子江が哭いている』創価学会青年部反戦出版委員会 歩兵13連隊の二等兵。14日下関の揚子江岸で「広い川幅いっぱいに、数え切れないほどの死体が浮遊し」「5万人以上」「ほとんどが民間人の死体」が流れていた。 板倉由明は、流速は時速数キロとみて数時間たてば南京から見られなくなる。水は濁っており一部しか水面上に出ていない水死体を遠望して軍民別、年齢などが解かるわけがない。下関は中国軍によって焼き払われ住民は避難していたと思われる、城門は9日に閉鎖され住民は出入りできない状態だった。揚子江上にいた米、英、日の艦船、連絡線乗組員、便乗の新聞記者、碇泊場司令部の日記にはこのような記録がない、等の疑問点を挙げた[173]
高城守一 1979年頃 『揚子江が哭いている』創価学会青年部反戦出版委員会 輜重6連隊小隊長。南京に2日いた。14日下関の兵站まで物資を取りに行った。下関には数隻の輸送船、護衛艦も見えた。揚子江に「民間人と思われる累々たる死体が浮かび」「十名前後のクーリーが射殺されるのを目撃した」「おびただしい糧秣が揚陸されていた」 軍艦の突入が13日15時40分で、「軍艦以外の貨物船などが南京まで運航するのは、機雷除去が進んだ18日以降であり、14日というのはおかしい[174]。なお碇泊場司令部勤務の梶谷日記は日付と業務を記してある。
中川誠一郎(仮名) 1979年頃 『揚子江が哭いている』創価学会青年部反戦出版委員会 野砲六連隊。中華門攻撃に加わり陥落後、「南京城を素通りして、ただちに蕪湖へと向かった」。途中の下関で、延々と黒焦げの何百台という自動車と何百人にのぼる住民の死体を見た。「『この肉もうまいぞ』と出された肉を何人かの兵が食べた」。それは中国兵の大腿部の肉だったと後で聞かされた。 秦郁彦はこの証言者の「老農夫をなぐり殺したシーンも見た」「二百人近い敗残兵・・・”捕虜をつれて戦ができるか”と一喝され、数日後に皆殺しにしたと聞かされた」回想を、下関釈放捕虜の行く末だった可能性が高いとして採用した[175]。中華門は南京城の南端で、蕪湖は南京の南南西90キロ辺りにある。下関は南京の北西端城外だから、素通りしたら下関は通らない。応召し(兵歴記載無し)砲の取扱い訓練も経ずに6日後には分隊長となり、蕪湖では野砲を離れ宣撫班の班長になったと軍歴は不自然である。
中山重雄 1983年頃 朝日新聞昭和58年8月5日、昭和59年6月23日夕刊 雨花台で大虐殺を実見した。 朝日新聞は中山を「南京大虐殺」を目撃したとして講演活動する中山を戦争の語り部と持ち上げ、新聞・テレビ紹介、記録映画も製作されると報道した[176] 板倉由明の再三の問合せに答えず。語った内容を検証すると、”雨花台で実見した大虐殺”は、「中山氏が所属していた戦車第一大隊は中山門正面で戦闘をしており」「場所的にも時間的にも目撃不可能であった。また、城内で目撃したと語っている死屍累々の光景は、日本軍兵士の誰も、いや、ほぼ同時に入城して、後に日本軍の虐殺を書いた朝日・今井正剛記者や東京日々新聞・鈴木二郎記者すら見ていない光景であった[177]
曽根一夫 1984年頃 手記で、分隊長として面子から捕虜の斬首をした、分隊の先頭を決死の渡河をした、分隊員を率い掠奪、(分隊員の後で)輪姦、殺人をした、等々と記す。 笠原十九司が執筆した教科書『世界史B』(平成5年検定)は曽根の文章に似た文を引き、”掠奪”は軍の命令だった[178]とした。板倉による原本提示要求を笠原も出版社も無視した[179]。しかし、板倉は文部省に改定を要求し、『諸君!』に論考を発表するなど各方面へ働きかけて、出版側は「命令」が曽根本からの引用であることを認め、内容も修正された[180] 板倉由明の反証では、連隊は夏野鎮まで行軍。「曽根氏はこの徴発隊に参加していない」「行軍中御者は馬と共にあり・・・曽根氏が徴発に行って、非行の体験や実見をするはずが無い」、出たことも無い徴発での虐殺や掠奪を行うことは不可能である[181]。戦友会から隊史、戦闘詳報、陣中日誌などの他の資料との考証から、曽根が歩兵分隊長でなく、野戦12中隊第一分隊の前馬、一等兵の新兵で、御者であったことが判明する[182]。ほか至南京途中の虐殺原因を半月ずらした糧秣欠乏に求めた点[183]、架空の下関大虐殺[184]、戦友の残虐談・部落襲撃もその戦友は否定しており[185]、日記も創作であった[186]。一方、秦郁彦は「ほぼ要望に答えてくれる絶好の証言記録」として評価し[187]」、他の「伝聞記[188]」でなく曽根手記から捕虜殺害例[189]、紫金山付近の住民殺害[190]、クーニャン狩り[191]、残虐行為の心的要因[192]に引用した。板倉由明は秦に曽根手記の全削除を要求した[193]
東史郎 1987年頃 日記を日本共産党の新聞赤旗に連載。自著『わが南京プラトーン―一召集兵の体験した南京大虐殺』(青木書店、1987)『東史郎日記』 熊本出版文化会館、2001年刊行。 1月23日、南京転出のため立寄った下関と思しき波止場で、なぎさに敵兵の死体が山となって転がっており、毎日トラックで敗残兵で積んできた奴を河の中へ突き落とし射ち殺すのだと、その兵士から聞いた。
隠れている女の子を見つけると100%犯した。1人ではなく5人で犯した。その後は殺し、火をつけて燃やした。罪悪感はなかった[194]
上官の元陸軍第16師団歩兵第20連隊伍長が「中国人を郵便袋の中に入れ、ガソリンをかけて火をつけ、手榴弾を袋のひもに結びつけて沼の中にほうり込んだ」と証言した[194]
元上官から名誉棄損で提訴された。上官がやったという郵便袋による殺害は物理的に不可能であり、日記も数年後に書いたものと最高裁で判定した[194]
東は訪中するたびに英雄として各地で熱烈歓迎を受けた[195]
2015年、カリフォルニア州の公立高校の世界史の授業で東証言は教材として使用されていることがわかった[194]
笠原十九司は東史郎手記から、兵士の安眠のために部落農民を殺すのだった、と教科書『世界史B』に引用した[196]上杉千年はその不適を説いた[197]。板倉によれば、停泊場司令部は12月28日までに港湾の死体処理を終わらせた[198]。敗残兵の掃蕩も第二次便衣狩りが1月5日に完了している[199]。検証なき引用[200]は、内容の真偽をめぐる裁判が係争中でもあり、差し替えられた。
太田寿男 1990年頃 毎日新聞1990年12月14日夕刊 撫順戦犯管理所で長期拘置中(17年後の1954年)に書いた供述書は、日本軍が下関を中心に15万の死体を処理したと綴る。 事実なら、中国側「15万5千余」と合わせ「南京大屠殺30万」が証明されることになり、『侵華日軍南京大屠殺史稿』他に要旨を載せたと毎日新聞は報じた[201] ”犯罪事実”を自白・認罪し自己批判した程度によって罪の軽重すなわち刑期が決まる、撫順戦犯管理所で長期拘置中(17年後の1954年)に書いた供述書であると板倉は指摘[202]。板倉によれば、竹田昌弘記者には取材過程で、畝本正己から記事、日記[203]を示して虚偽であることを明確に説明してあった。調べると識者論評も曲解という。「この明白な犯罪は、毎日新聞社に乗り込んでやっと認めさせたが[204]」、謝罪は行わず。日記にアリバイがあること、長期拘置中の供述であること、一次資料による検証等から判断し」、供述は「客観的に信憑性ゼロ」と板倉は結論した[205]。産経新聞は部下の日記を下に信憑性を否定した。一方、早稲田大学教授中原道子は太田の供述を”歴史の真実”とする[206]。板倉はその著作7論点11ヵ所に真実である証明を求めた[207]が、「日中両国の専門家の研究をふまえ」とのみ岩波側から回答があった[208]。中原は板倉の証明要求を「前向きで建設的な姿勢はいささかも読み取ることができ[209]」ないと言い、自らは「戦争を知らない世代に歴史の真実を伝える[210]」のが基本姿勢として板倉を一蹴した。
船橋照吉 1991年頃 石原発言を許さない京都集会実行委員会(心に刻む会、カトリック福音センター京都、京都府教職員組合、真宗大谷派反靖国、浄土真宗本願寺派反靖国、日本社会党京都府本部、部落解放同盟。代表駒井昭雄。)」が出版した冊子に東史郎証言と共に掲載。 板倉由明の質問に「基本的事項があやふやで、肝心の点は『忘れた』と言い、また、歩兵九連隊の実戦記録とはなはだしく異なることを指摘すると、結局、「自分は輜重特務兵であった」と「真実を告げ、9月2日に京都で立ち会いのO氏を交えた会談で、日記の偽造を白状した」「舟橋氏は、公演や日記の公表は、東史郎下里正樹(赤旗記者、「隠された連隊史』著者)、吉田保(京都機関紙印刷センター代表)など各氏に説き伏せられてイヤイヤやったものだ、とか、旅費は持つから中国へ行こう、と誘われた」とも板倉に語った[211]。輜重特務兵なら、最前線でトーチカ攻撃をしたり、捕虜の機関銃での虐殺などは架空の話だったことになる[212]

虐殺がなかったとする証言[編集]

  • 南京攻略戦時に歩兵第20連隊(福知山連隊)大隊長を務めた森王琢は「私の大隊は南京城の東正門の中山門を攻撃した。激戦したが、13日の午前3時10分、砲撃で城壁を崩し、その勢いではい上がり、軍旗を立てました。私はその時は城外の丘の上におり、城内には師団長と共に十五日に入場した。宿営地について陸軍省の先輩に会い、その日の午後、二人で戦場の視察に出かけた。山陵、紫金山など見て歩いた。翌年の1月19日に命令で転進したが、それまでは南京とその周辺の警備に当たつていた。したがって南京の大虐殺が行われたという時期、あったかないか、私は確信をもってお話しできるただ一人の人間だと思っています。例えば火事があったという人、なかったという人がいる。あったという場合には焼け跡を示すことが出来るが、なかった場合というのは、明かしは立てにくい。それと同じで、南京で虐殺があった、婦人が乱暴された、家が焼かれたと盛んに言われているが、それがほとんどウソであることを申し上げる」と証言している[213]

なお、南京の真実監督水島総による日本映画。ジョン・ラーベの著書の日本訳とは無関係)の第1部「七人の死刑囚」(2008年公開)にインタビュー出演 した 稲垣清など5名(南京攻略戦に参加している人物であり2007年12月6日に開催された参戦勇士九人が「南京事件」を語った「南京陥落七十年国民の集い」(協力:南京事件の真実を検証する会)に参加)などが、「南京事件はなかった」と証言した。

山田支隊の捕虜処断の証言(戦時国際法上に合法か)[編集]

俗に幕府山事件とも言われる、捕虜処断の証言について、戦時国際法上に合法かにかかわる相対する証言を記する。 第13師団第65連隊を主力した山田支隊(長・山田栴二少将)は、1937年12月13日〜15日にかけて、烏龍山砲台、幕府山砲台その他掃討地域で14777名以上の捕虜を捕獲し、幕府山にあった国民党軍の兵舎に収容した。1937年12月17日付『東京朝日新聞』朝刊には、「持余す捕虜大漁、廿二棟鮨詰め、食糧難が苦労の種」という見出しで記事が掲載されている。山田少将は軍上層部へ処置を問い合わせたところ、殺害するように命令を受けた。この多数の捕虜の処置について、殺害数や殺害理由が、戦時国際法上で合法か?について議論される。

自衛発砲説
自衛発砲説とは、当時、第65連隊長だった両角業作大佐手記証言に基づいた見解で、虐殺は少数で、戦時国際法上、合法と主張する。
両角手記によれば、捕らえた捕虜は15300余名であったが、非戦闘員を抽出し解放した結果、8000人程度を幕府山南側の十数棟の建物に収容した。給養のため炊事をした際に火災となり、混乱によって半数が逃亡した。
軍上層部より山田少将へ捕虜を殺害するように督促がなされ、山田少将は両角大佐へ捕虜を処分するよう命令する。両角大佐はこの命令に反し、夜陰に乗じて捕虜を長江対岸へ逃がすことを部下に命じた。長江渡河の最初の船が対岸へ進んだところ、対岸より機関銃による攻撃を受けた。渡河を待っていた残りの捕虜は、この攻撃の音を自分たちを江上で殺害するものと錯覚し、暴動となった為、やむ得ず銃火をもって制止し、その結果、僅少の死者を出し、他は逃亡した。[214]
小野賢二説
小野賢二は、歩兵第65連隊の元将兵に対する聞き取り調査の結果、証言数約200本、陣中日記等24冊、証言ビデオ10本およびその他資料を入手し、これらの資料を基に、自衛発砲説には一次資料による裏づけが無いと批判、以下のような調査結果を発表する。
山田支隊が捕らえた捕虜は、12月13日〜14日にかけて烏龍山・幕府山各砲台付近で14777名、その後の掃討戦における捕虜を合わせると総数17000〜18000名になった。この捕虜を幕府山南側の22棟の兵舎に収容する。
12月16日、昼頃に収容所が火災となるが捕虜の逃亡はなかった。この夜、軍命令により長江岸の魚雷営で2000〜3000人が虐殺され、長江へ流される。
12月17日夕〜18日朝、残りの捕虜を長江岸の大湾子で虐殺した。同日は、魚雷営でも捕虜虐殺が行われた可能性がある。山田支隊は、18日〜19日にかけて死体の処理を行った。
小野は、山田支隊による一連の捕虜虐殺を、長勇参謀一人による独断や、山田少将による独断ではなく、軍命令によって計画的・組織的に実行されたものであり、この命令を受けた山田支隊は、準備も行動も一貫して捕虜殺害を行ったことが証言や陣中日記などで実証されているとし、自衛発砲説が成立しない(戦時国際法上は違法)と断じた。
この小野説は、南京事件調査研究会などにおいて支持されている[215][216]。ただし、小野賢二が発掘した日記群は重要でない2名を除いて残り全てが仮名であることは踏まえておかなければならない[217]

名古屋市の河村たかし市長の父親の証言に関する発言[編集]

「南京事件なかった」と河村氏発言:中国からの訪問団に名古屋市の河村たかし市長は20日、表敬訪問を受けた同市の姉妹友好都市である中国・南京市の共産党市委員会常務委員らの一行8人に対し、 1937年の南京事件について「通常の戦闘行為はあって残念だが、南京事件というのはなかったのではないか」と発言した。河村市長は旧日本兵だった父親が南京で45年の終戦を迎え「温かいもてなしを受けた」と話していたことを明かし 「8年の間にもしそんなことがあったら、南京の人がなんでそんなに日本の軍隊に優しくしてくれたのか理解できない」などと述べた。さらに「真実を明らかにしないと、とげが刺さっているようなものでうまくいかない。一度、討論会を南京で開いてほしい」と求めた。(毎日新聞 2012年2月20日)

(反証)以上の発言は、様々な同調者や批判などの賛否を巻き起こしたが、以下のような反証(南京事件があっても、河村発言の父親が受けた南京市民の「温かいもてなし」は矛盾しない)もある。ただし、南京事件はあった、といっても、もちろん30万人の大虐殺ではなく、一定規模の戦時国際法違反の虐殺があったかどうか、についてを論じている。

・終戦後、日本軍に苦しめられた国民政府の蒋介石が、以下のような発言をして、中国の軍民に、日本軍人・居留民に暴力的報復をしないで、無事に帰国させるようにしたことは広く知られている。所謂、暴を以て暴に報ゆる勿れ、である。「われわれ中国人は、旧悪を思はず、人に善をなす、と云ふことがわが民族の伝統的な至高至貴の特性であり、 われわれが一貫して声明したのは、「われわれは日本軍閥を敵とするが、日本人民を決して敵と認めない」(1945年8月の日本の終戦についての演説の一部」 そして、報復をしなかった国民党軍の対応を見て、日本軍人たちは、心より「負けた」と感じたとの証言[218]がある。つまり、「温かいもてなし」があったので、南京事件がなかったため、とは言えない。

・一方で、中国国民の本音について、南京引き揚げの日本人の以下の証言もあり、河村の父の受けた「温かいもてなし」は、必ずしも南京の中国人が日本人を全く恨んでいないということの証拠にはならない。

 戦後の南京からの日本人引揚者の証言:(その1)終戦直後の南京では、「新聞面でその当時の被害回想記事がセンセイショナルに報道」がされていたし、 「居留民は強制収容所に抑留され、自由を奪われると同時に、前非の反省を迫られるなど、物心両面の圧力を蒙むった」[219]

 戦後の南京からの日本人引揚者の証言:(その2)終戦直後の南京では、「街を歩いていて、いきなり殴られたり、石を投げつけられるといったようなことも、再々おきているようであった」[220]

中国人の証言[編集]

  • 李秀英 - 松村俊夫は、李について「証言のたびに内容がクルクル変わるのは、実体験でない証拠だろう」と著書に書き、名誉毀損に当たるとして民事裁判を1999年9月に起こされた。東京地裁は判決で「(松村には、李が)嘘を言ったと信じる相当の理由はなかった」と述べ、松村に150万円の支払いを命じた。2005年1月に最高裁上告棄却となり原告の勝訴が確定した。
  • 夏淑琴 -新路口事件の被害者で家族11人が殺害されたとき8歳(正確な年は戸籍がないので解らず)であり、一家でただ二人生存した証言者。彼女の証言に東中野修道は、疑いを持った。たとえば日本軍の進行した時間と事件発生時間のくい違い、そして証言の中の本人の年齢に関する情報があいまいなこと等から、偽の証言と決めつけた[221]。これらの疑いは、その後、東中野本人も日本軍の進行した時間と事件発生時間のくい違いはないことも認めたし、年齢についても戸籍がないためあいまいだったのでそれが偽証とは言えない。なお、東中野修道が、新路口事件の資料から事件の被害者と夏淑琴 は、別人と決めつけ[222]られたことに怒り、中国と日本で東中野修道に対して名誉毀損訴訟を起こした。日本での裁判の結果、東中野修道の疑いによって偽と見なすことまではできないとされ、むしろ本人への東中野の疑いの解釈について「(地裁判決)解釈はおよそ妥当なものとは言い難く、学問研究の成果というに値しない」と見なされ、結果、最高裁において日本での訴訟は夏淑琴が 勝訴し、東中野修道は罰金を支払った。

欧米人の証言[編集]

(注)東京裁判証拠文書とジェームズ・H・マッカラムの日記:

マッカラムの1937年12月29日の日記の以下の文章は、日本軍の虐殺否定の証拠として東京裁判に提出されている。

「(安全区に入ってきた日本軍は)礼儀正しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。若干のたいへん愉快な日本兵がいました。私は時々日本兵が若干の支那人を助けたり、また遊ぶために、支那人の赤子を抱き上げているのを目撃しました」(東京裁判 速記録210)

確かにこの一説(ただし、同じ日に以下の記載あり「私たちのことを丁重に扱ってくれる、たいへん気持のよい日本人もいることはいるが、他はおしなべて随分と残酷で、なぐったり、ぶったりするのを見ると恐ろしくなる」[229] )と、あと他にも日本側の食料提供などを非常に好意的に書いた部分もあるが、彼の手記の大半は、日本軍による、具体的な殺人、暴行、強姦、中国兵とみなされた一般人の拉致が列挙されており、ごく一例を以下に挙げる。(日本軍の行動の結果:12月30日、1月7日)「きょう病院に運ばれてきた男性は内臓を貫通されて腸が四フィートもとび出ていた。幸い彼は九死に一生を得た。ボブ・ウィルソンがほぼ半日かけて傷を縫合した。夕食前に日本兵二人が来て、一二歳の少女を黄色のタクシーで連れ去った。」「プライスの庭で、六ヵ月ぐらいの赤ん坊が泣いていた。かたわらで日本兵が母親を強姦している。兵士は赤ん坊の口と鼻を押さえて窒息させてしまった。」[230]

日記史料[編集]

陣中日誌・戦闘詳報[編集]

戦後の南京事件の論争があった1980年代に陸軍のOB会偕行社が編纂にした「証言による南京戦史」は、後に「南京戦史」・「南京戦史資料集I」「南京戦史資料集II」として1993年にまとめられた。その「南京戦史資料集I」には、飯沼守上海派遣軍参謀長、「南京戦史資料集II」には、上村利道日記(上海派遣軍参謀副長)が含まれており、そのほかの軍人の日記や、部隊の戦闘詳報が掲載されている。また、個別の出版では、下士官だった村田 和志郎の「日中戦争日記」(1986年出版)などが出されている。

陣中日誌
記録者 所属 内容 備考
松井石根 中支那方面軍指令官・大将
中島今朝吾 第16師団長 1937年12月13日「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシタルモ千、5千、1万ノ群衆トナレバ之ガ武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ唯彼等ガ全ク戦意ヲ失イゾロゾロツイテ来ルカラ安全ナルモノノ之ガ一旦騒擾セバ始末ニ困ルノデ部隊ヲトラックニテ増派シテ監視ト誘導ニ任ジ
13日夕ハトラックノ大活動ヲ要シタリ乍併戦勝直後ノコトナレバ中々実行ハ敏速ニハ出来ズ 斯ル処置ハ当初ヨリ予想ダニセザリシ処ナレバ参謀部ハ大多忙ヲ極メタリ
後ニ至リテ知ル処ニ拠リテ佐々木部隊丈ニテ処理セシモノ約1万5千、太平門ニ於ケル守備ノ一中隊長ガ処理セシモノ約1300其仙鶴門附近ニ集結シタルモノ約7,8千人アリ尚続々投降シ来ル
此7.8千人、之ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ中々見当ラズ一案トシテハ100,200二分割シタル後適当ノカ処ニ誘キテ処理スル予定ナリ[231]
この記述の「大体捕虜ハセヌ方針」を軍による捕虜殺害命令とする見方がある(藤原彰[232]笠原十九司[233]秦郁彦[234]吉田裕[235])。吉田裕は裏付けとして第38連隊児玉義雄証言、第16師団歩兵33連隊、第114師団第66連隊第一大隊戦闘詳報を挙げている。一方、中島日記の記述を裏付ける命令書と物証は発見されていない。

東中野修道はこれを捕虜殺害の意味でないと意見する。当初から殺害する方針であったとすれば明記するはずであり、捕虜にせずに釈放するのだと考え、上海派遣軍参謀・大西一大尉「これは銃器を取り上げ、釈放せい、ということです」という証言も挙げる[236]。日本軍は捕虜収容所を作り捕虜を収容し汪兆銘政権下の兵士となった者もいて、戦闘中の捕虜を解放した事例もある。

ただし、もし「捕虜ハセヌ方針」が「殺害せよ」でなく、”釈放せよ”だと、以下の理由で不自然である。そのあとの文章、つまり「此7.8千人、之ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ」、つまりなぜ捕虜を釈放したあとに、「7、8千人の人間をかたずけるための大きな地面の穴(大ナル壕)が必要か」との表現上の矛盾があるので、「捕虜ハセヌ方針」は、「捕虜を殺害して処分しろ」との意味であると解釈したほうが自然である。「南京戦史」にも「殺害せよ」の意味との当時の軍人の解釈や、大きな壕に捕虜を大量に埋めたという証言がある[237]。東中野氏の、この反論に対する説得力のある再反論はなく、「釈放せよ」の意味と述べた大西大尉は、陸軍OBの偕行社の「南京戦史」の編集部からも、その言動の真意を批判されたことがある[238]

児玉義雄 第16師団第38連隊の副官 師団命令として中国兵の降伏を拒否し、殺害するよう伝えられた[235]
佐々木到一 第16師団の歩兵第30旅団長 掃討戦記を残す。 『佐々木到一少将私記』(『南京戦史資料集』偕行社)
山田栴二 歩兵第104旅団長、山田支隊支隊長 『南京戦史資料集』偕行社
遠藤高明 第13師団山田支隊第65連隊第8中隊少尉
黒須忠信 第13師団山田支隊山砲兵第19連隊第3大隊上等兵
牧原信夫 歩兵第26連隊・上等兵 笠原十九司『南京事件』で引用
堀越文雄 第13連隊山田支隊歩兵第65連隊 中国人女、子供を銃殺。 笠原十九司『南京事件』で引用
大寺隆 第13連隊山田支隊歩兵第65連隊第7中隊 12月18日、昨夜までの揚子江捕虜殺害は2万。 笠原十九司『南京事件』で引用
増田六助 第16師団歩兵20連隊伍長 難民区掃討。 『南京戦史資料集』偕行社。笠原十九司『南京事件』で引用
戦闘詳報
名称 所属 内容 評価
南京附近戦闘詳報 第16師団歩兵33連隊 捕虜処断3096名[235] 処断=殺害とする解釈と、通常は刑を決めるの意味との説がある
戦闘詳報 第114師団第66連隊第一大隊 「旅団命令ニヨリ捕虜ハ全部殺スベシ」[235] この戦闘詳報は原本が存在しない。『南京戦史』では「隣接部隊等の戦況の進捗状況とチグハグの部分や、軍事的慣例と異なる記述などがあり了承しがたいものがある」、「全文を通じその表現は極めて異様である」と評価されている[239]
  • 児玉義雄(歩兵第三十八連隊副官)、沢田正久(独立攻城重砲兵第二大隊第一中隊、観測班長、砲兵中尉)、宮本四郎(歩兵第十六師団司令部副官)、助川静二(歩兵第38連隊長)は、それぞれ証言や回想において、捕虜殺害命令を受けたとしている。[要出典]

欧米人の日記[編集]

写真史料[編集]

南京事件の写真資料(マギー牧師の写真、国国民党が編纂した『日寇暴行実録』(1938年)、日本人のカメラマン撮影など)は、数多く存在しているが、その信憑性を検証しないままに扱われていた。だが、後述するように1984年の朝日新聞1984年8月4日大阪版夕刊(翌朝全国掲載)「南京大虐殺の証拠写真」の生首写真が間違いであったなど、信憑性のない写真が一部混在していた。

南京事件関連の写真を検証してきた松尾一郎 やその研究に参加した東中野修道等は、アイリス・チャンの著作などの南京事件関係の書籍に掲載数多くの「証拠写真」を捏造写真として指摘している[245][246][247]。故意(捏造)であるかは、別として今まで指摘された間違い写真の例は、(故意かは別として)他の関係ない写真が混じっている、南京事件の後の1938年の日本軍の軍装(つまり南京以外の場所のもの)、編集者の誤記など、様々である。

その上で、東中野修道”南京大虐殺の証拠写真はすべて捏造である”と主張している[248]。ただし、東中野修道の写真分析と全て捏造という主張には、行き過ぎがあるとの主張(考証・指摘の間違いもあり、例えば女性の陰部に異物を入れる残虐行為は中国人しか行わないので偽写真とみなす(実は日本兵も行っていた)、そもそも外国人でも殺人事件そのものは撮影がほぼ不可能なことを考慮していないなど)が存在する。

2008年、南京市にある南京大虐殺記念館が南京事件と無関係であると指摘された写真3枚を撤去したとに一部で報道された[249]。しかし、中国側は撤去を否定した[250]

アサヒグラフと『日寇暴行実録』の写真[編集]

「我が兵に援けられて野良仕事より部落へかへる日の丸部落の女子供の群れ」1937年10月14日熊崎玉樹撮影 『アサヒグラフ』1937年11月10日号。
中国国民政府(蒋介石政権)によって1938年の『日寇暴行実録』で日本軍に拉致された中国人女性と解説され転載された。

写真週刊誌『アサヒグラフ』1937(昭和12)年11月10日号に、江蘇省宝山県盛家橋部落の中国人農民の写真に「我が兵(日本軍)に援けられて野良仕事より部落へかへる日の丸部落の女子供の群れ」とキャプションがつけられ掲載された[251]

この写真は翌1938年に中国国民政府軍事委員会政治部『日寇暴行実録』に「日本兵に拉致される中国人女性と説明され無断転載された[251]

この『日寇暴行実録』の写真は、本多勝一が1972年の著書『中国の日本軍』(創樹社)や、1997年11月発行の笠原十九司『南京事件』III章の扉に「日本兵に拉致される江南地方の中国人女性たち」のキャプションで掲載された。

1998年、秦郁彦がこの写真の原版は『アサヒグラフ』昭和12年11月10日号に掲載された「我が兵士(日本軍)に援けられて野良仕事より部落へかへる日の丸部落の女子供の群れ」という写真であることが指摘された[251]。笠原は、中国国民政府軍事委員会政治部が事実と異なるキャプションを付したことに気付かず使用したことにつき、秦郁彦に謝意を表し、撮影者の故熊崎玉樹カメラマン、朝日新聞、読者に詫びた[252]。これを受け岩波書店も謝罪文を掲載して出品を一時停止し、笠原と相談の上で『村瀬守保写真集 私の従軍中国戦線』[253]の日本兵に強姦されたという老婆の写真に差し替えた。

2014年に週刊新潮が、本多勝一が著書『中国の日本軍』に「婦女子を狩り集めて連れて行く日本兵。強姦や輪姦は7歳の幼女から70歳の老婆まで及んだ」とのキャプションとともに掲載していた(上記笠原と同様の)写真の誤用を指摘すると、本多は「『中国の日本軍』の写真説明は、同書の凡例にも明記してあるとおり、<すべて中国側の調査・証言にもとづく>ものです。ただ中国側に問題点があることは、俺が司会を務めた座談会 [254]で、吉田裕さんが次のように指摘しているとおりだと思います。<中国側の対応で問題があるのは写真の使い方ですね。いつ、だれが、どこで撮ったかという根拠を確認しないままに、政治的なキャンペーンの中で勝手に写真を使っている。日本の市民運動側もそれを無批判に受け入れてしまうような一面があって、それを反動派につけこまれている>。『アサヒグラフ』に別のキャプションで掲載されているとの指摘は、俺の記憶では初めてです。確かに誤用のようです」と、文書で回答を寄せた[255]

朝日新聞の「南京大虐殺の証拠写真」[編集]

朝日新聞1984年8月4日大阪版夕刊(翌朝全国掲載)が「南京大虐殺の証拠写真」として生首写真を掲載した。

しかし、この生首写真は、中国軍が馬賊の首を切り落とした写真であることが判明し、記事中で虐殺に関わったとされた歩兵23連隊戦友会「都城二十三連隊会」が朝日新聞に抗議して訴訟になった(1986年1月に和解)[256]

村瀬守保写真集[編集]

また『村瀬守保写真集 私の従軍中国戦線』は東中野修道からその信憑性について疑義が出された[257]が、笠原は反論している[258]

映像史料[編集]

論争史[編集]

前史(1971年以前)[編集]

事件当時[編集]

南京事件は、事件当時からニューヨークタイムズなど欧米メディアによって大々的に報道され世界に衝撃を与え、ライフ誌は1938年1月と5月に特集記事を組んだ。当時の欧米での認識は、数多くのメディアやティンパリーの著作『戦争とは何か』(1938年)などによって「非武装4万人殺害、3割は兵士でない」というものだった。日本政府の反応については、外務省の福井南京総領事代理の報告や岡本上海総領事の詳細な報告によって、南京事件が深刻な事件として外務本省に伝えられた。広田弘毅外務大臣より陸軍大臣の杉山元への軍紀粛正の申し入れがあった結果、1月に陸軍参謀本部の本間雅晴が現地に派遣され、その報告を受けて現地の中支那方面軍司令官の松井石根が日本に召還された。[259]。一方、日本国内では一般の国民には報道されることはなく、当時のほとんどの国民が事件を知ることはなかった(1937年8月2日の憲兵司令部警務部長通牒「時局に関する言論、文書取締に関する件」では、「国境を超越する人類愛又は生命尊重、肉親愛等を基調として現実を軽蔑する如く強調又は諷刺し、為に犠牲奉公の精神を動揺減退せしむる虞ある事項」などが言論取締りの対象とされた)。一般国民は、日本の南京占領事件直後に撮影された映画「南京 (戦線後方記録映画)」を見て、南京市民の日本軍への歓迎と友好の様子や日本軍の入城への南京住民の歓迎シーン等を鑑賞したが、映画「南京 (戦線後方記録映画)」のカメラマンである白井茂氏の戦後の回想によると、映画の撮影について「見たもの全部を撮ったわけではない。また撮ったものも切られたものがある」とのことであり、「・・私は揚子江でも銃殺を見た。他の場所でも銃殺をされるであろう人々を沢山見たが余りにも残酷な物語はこれ以上書きたくない。 これが世に伝えられる南京大虐殺事件の私の眼にした一駒なのである・・」と述べている[260]

戦後[編集]

南京事件は、東京裁判において日本に大きな衝撃を与えた[261]が、それ以降、日中戦争を取り上げた研究などでは触れられるものの、世間で注目をあびる問題ではなかった[262]。専門的な研究は洞富雄『近代戦史の謎』(人物往来社 1967年)、五島広作毎日新聞記者)と下野一霍の共著『南京作戦の真相』(東京情報社 1966年)がある程度であった(『南京作戦の真相』は、南京大虐殺の存在自体を疑う否定論としては最も早い時期に単行本として出版されたものであったが、当時この本が注目されることはなかった)。家永三郎『太平洋戦争』(岩波書店 1968年)は、軍人・記者の回想録や洞の著書を引用しながら、南京大虐殺として比較的詳細に記述している[263]。 また、重光葵は、その著書『昭和の動乱』の中で、「南京に入城した中島師団の暴挙が主となって、南京における日本軍の乱行(南京の強姦)として、世界に宣伝せされた国際問題がその際起こって、日本の名誉は地に墜ちた。」と書いている[264]

1971年から1982年まで[編集]

再び注目を集めるきっかけとなったのは、日中国交樹立直前の1971年(昭和46年)8月末より朝日新聞紙上に掲載された本多勝一記者の『中国の旅』という連載記事である。南京を含む中国各地での日本軍の残虐行為が精細に描写された記事で、南京事件についての一般的日本人の認識はこれ以降大きく広まり、また日本人による南京事件目撃証言がさまざまな雑誌や本に掲載されるようになった[265]。論争は、この記事で当時「百人斬り競争」が大々的に報道されていたことが取り上げられた時、山本七平鈴木明の“百人斬りは虚構である”という主張から始まった。鈴木明の『「南京大虐殺」のまぼろし』(文藝春秋 1973年)は事件の事実自体は全面否定しない立場からの論考であったが、否定説の象徴とみなされるようになり、この書名に影響されて否定説・否定派を「まぼろし説」「まぼろし派」とも呼ぶようになった[266]。1975年頃の論争は「肯定派」「否定派」「あったとしても大虐殺というほどではないとする人々」の間で激しく展開された[267]。なお、70年代末生まれの中国の作家朱世巍の著書『东线』によると、当時の中国の教科書は虐殺を記述しておらず、彼の教師が一小学生の彼に大虐殺のことを教えたという[268]。また、1960年から1982年まで人民日報には南京大虐殺を論じた記事は一つもなかった[269]

1982年から1990年まで[編集]

三度目に大きく取り上げられるようになったのは、1982年(昭和57年)の教科書誤報事件をきっかけとして、日本の教科書における事件の記述が政治問題化したときである。日本政府は首相の訪中により政治決着させることを選んだが、日本国内の反発を招き、否定派が支持を拡大した。また、この際に近現代史に関する日本の教科書記述については近隣諸国に配慮しなければならないという近隣諸国条項が設けられた。否定派の中心となったのは松井石根大将の秘書も務めたこともある、評論家・田中正明だった。また、家永三郎が起こした教科書検定をめぐる訴訟(家永教科書裁判)では南京大虐殺の記述を削除したことについて争われた。それを受ける格好で、洞・本多を始めジャーナリストや歴史研究者が集まって1984年(昭和59年)3月に南京事件調査研究会を発足。これにより「大虐殺派」[270]が形成された[271]

一方、陸軍将校の親睦団体である偕行社は、「一般に定説になりつつある20万、30万という数字を破砕する」ため南京問題を取り上げることを決め、機関紙『偕行』の1983年10月号と11月号で関連情報の提供や協力を呼びかけた。1984年4月号から1985年2月号まで畝本正巳による「証言による南京戦史」が11回に渡り連載される過程で、不法行為を示す多くの証言が集まり、1985年3月号の「証言による南京戦史 (最終回) その総括的考察」において、編集部を代表して加登川幸太郎が「重ねて言う、一万三千人はもちろん、少なくとも三千人とは途方もなく大きな数である。日本軍がシロではないだろうと覚悟しつつも、この戦史の修史作業を始めてきたわれわれだが、この膨大な数字を前にしては暗然たらざるを得ない。戦場の実相がいかようであれ、戦場心理がどうであろうが、この大量処理には弁明の言葉がない、旧日本軍の縁につながる者として、中国人民に深く詫びるしかない。まことに相すまぬ。むごいことであった。」と記した[272]。また、1985年(昭和60年)に、板倉由明が 田中の著書『松井石根大将の陣中日記』の内容を陣中日誌の原本と比較した結果、田中が松井石根大将の陣中日誌を編纂する際に600箇所以上の変更ないし改竄を行い、自ら加筆した部分をもって南京事件がなかったことの根拠とする注釈を付記していたことを発見した。板倉は大虐殺には懐疑的な立場であったが「改竄は明らかに意図的なものであり弁解の余地はない」として田中を強く非難した。田中はのちに自著の後書きでこの件に触れ、加筆の大部分は誤字や仮名遣いの変更であったと弁明し、意図的な改竄を否定した[273][274]

この頃、板倉や秦郁彦[275]が論争に参入し、偕行社はこれに近い立場をとった[要出典]。秦はそれまでの論争のありかたに危惧を抱いていると述べ、このままでは歴史的真実の究明はどこかに押しやられ、偏見や立場論が先走った泥仕合になってしまうおそれがあるとし[276]、「南京事件は東京裁判いらい、日中関係の変転を背景に、歴史学の対象としてよりも政治的イシューとして扱われてる不幸な運命を担ってきた」と主張した[277]。偕行社が収集した証言、史料は1989年(平成元年)に『南京戦史』として刊行され、その中で少なくとも約1万6000名に上る捕虜などの殺害があったことを認めた[278]。そのため、大虐殺派の笠原十九司は、「あったか」「なかったか」というレベルでの論争は、この時点で学問的にはほぼ決着がついたと主張している[279]

1990年代以降[編集]

1990年代には第一次史料の発掘・収集がすすめられて、ジョン・ラーベの日記の邦訳『南京の真実』などをはじめとする多くの資料集が編集・発行され、それらの資料に基づいた論文や歴史書が次々に公刊された[280]。また、アメリカ合衆国では反共派の在米華僑が日本の戦争犯罪を非難しはじめた。当初、中国政府は立場の違いからこの運動に関わりを持たなかったため、事件は政治色の薄い人道問題とみなされるようになり、その流れでアイリス・チャンの『ザ・レイプ・オブ・南京』が登場し話題を呼んだ[281]。論争は国際的なものになっていき、その一方で大虐殺派と中国政府の公式見解に対立が見られるようになった[282]

1990年代後半になると、新しい歴史教科書を作る会が結成され、その中から否定派として東中野修道などが登場した[283]。東中野は、捕虜や投降兵などの殺害が行われたことは認めたうえで、それは戦時国際法に照らして合法であり便衣兵狩りを虐殺とみなすべきではないと主張し[284]、東中野の国際法理解は誤りとする大虐殺派の吉田裕との間で戦時国際法についての論争が行われた[285]。大虐殺派には、「南京への道・史実を守る会」のようにインターネット論争を通じて、否定派を批判する研究者も現れた[286]

1998年、前年11月発行の笠原十九司『南京事件』III章の扉に「日本兵に拉致される江南地方の中国人女性たち」のキャプションで掲載された写真(1938年の中国国民政府軍事委員会政治部『日寇暴行実録』に掲載)が、実際には『アサヒグラフ』昭和12年11月10日号に掲載された「我が兵士(日本軍)に援けられて野良仕事より部落へかへる日の丸部落の女子供の群れ」という写真であることが秦郁彦により指摘された[287]。笠原は、中国国民政府軍事委員会政治部が事実と異なるキャプションを付したことに気付かず使用したことにつき、読者に詫びた[288]。これを受け岩波書店も謝罪し村瀬守保の写真に差し替えた。

東中野修道は、1998年の著書の中の新路口事件の記述をめぐり、南京事件の生き残りとされる中国の夏淑琴から「ニセ被害者呼ばわりされて、名誉を傷つけられた」として、著書の出版社と共に名誉毀損で提訴された。審理は中国と日本の裁判所で独立して行われた。日本においては、最高裁まで争われ、2009年の判決で夏淑琴への東中野側の名誉棄損を認め、東中野側の敗訴となった[289]

東中野と吉田裕の論争で決着がついたかに見えた戦時国際法論争であったが、2001年に佐藤和男が雑誌『正論』平成13年3月号にて「南京事件と戦時国際法」を発表し、戦時国際法上合法説を展開した。

東中野は、30万という大量虐殺説はほとんどの歴史家・専門の歴史研究者の間では受け入れられる傾向はないと主張し、2008年に日本「南京」学会は12年にわたり「南京事件」(「南京虐殺」)に関する1次資料を調査研究した結果、「南京虐殺」はなかったと主張した[290]。ただし、この研究の一次資料の扱いには問題があり、このページの「虐殺「否定」説」などに反論がある。

2012年6月24日には民間教育機関信孚教育集団を設立した信力建(中国政府や中国共産党に政策上の提言を行う政治協商会議委員)が南京攻略戦での日本軍と満州国軍について「英雄的で勇敢な軍隊が、友軍とともに南京を解放した」と表現した。これに対して南京大虐殺紀念館の朱成山館長が公開謝罪を求め、他にも多くの人が批判・非難を表明した[291][292]

2014年に週刊新潮が、本多勝一の著書『中国の日本軍』に上記笠原と同様の写真の誤用を指摘すると、史料はすべて中国側のものにもとづくもので、ただ中国側の史料に問題点があることは週刊金曜日99年11月5日号で指摘した通りであるとし、誤用を認めた[293]

ユネスコ記憶遺産登録に関して[編集]

中国が南京事件に関する文書と慰安婦関連資料のユネスコ記憶遺産への登録申請をユネスコへ行ったことに対し、日本政府は登録までに繰返し中国政府に申請を取り下げるよう抗議を行っていた[294]

2015年10月9日にユネスコは「Nanjing Massacre (南京虐殺)」に関する文書をユネスコ記憶遺産に登録することを決めた[295]

登録資料[編集]

中国が申請し、登録された資料は、犠牲者数を30万人以上とした南京軍事法廷の判決書の他、日本軍が撮影した写真、アメリカ人牧師が撮影したフィルム、生存者とされる者の証言や外国人の日記など11点であった[296]

  • (1)金陵女子文理学院宿舎管理員・程瑞芳の日記
  • (2)米国人ジョン・マギー牧師の16ミリフィルム
  • (3)南京市民の羅瑾が保存した日本軍撮影の民間人虐殺や女性へのいたずら、強姦の写真16枚
  • (4)呉旋が南京臨時政府参議院宛てに送った日本軍の暴行写真
  • (5)南京軍事法廷における谷寿夫への判決文
  • (6)南京軍事法廷での米国人マイナー・シール・ベイツの証言
  • (7)南京大虐殺の生存者陸李秀英の証言
  • (8)南京臨時政府調査委員会の調査表
  • (9)南京軍事法廷が調査した犯罪の証拠
  • (10)南京大虐殺の案件に対する市民の上申書
  • (11)外国人日記「南京占領-目撃者の記述」

程瑞芳の日記について、阿羅健一藤岡信勝はこの日記に描写された事件は強姦8件、略奪6件、拉致1件、殴打1件のみで殺人事件の記録が記載されておらず「大虐殺」の証拠としては不適当であると述べている[297]。また1938年1月4日にニューヨークタイムスは「中国軍の大佐と6人の将校が金陵女子大学に隠れ、略奪したり、少女を強姦して日本兵がやったように見せかけていた」と報道していること、日記に記された12月20日の強姦事件は停電中の夜間に行われており犯人が何人であったかをどうやって見分けたのか分からないし、同日に金陵女学院にいたミニー・ヴォートリンの日記[298]には事件について記載がない、などと批判している[297]

藤岡は、女性であった程瑞芳の日記が筆頭にあげられたのはアンネの日記(2009年登録)を参考にしたためであろうと述べている[297]

日本側の反応[編集]

日本政府は中国の申請はユネスコ記憶遺産の政治利用であると抗議した[296]。登録発表後、日本政府は「資料は中国側の一方的な主張に基づいており、真正性や完全性に問題があることは明らかだ。」として抗議した。日本外務省は「中立公平であるべき国際機関として問題であり、極めて遺憾」「政治利用されることがないよう制度改革を求めていく」との外務報道官談話を発表した。また、日本政府は登録された際には世界第二位の拠出率(アメリカは支払いを停止しているため日本が実質一位)のユネスコの分担金を見直すことを示唆していたが、登録を受けて分担金拠出の凍結の検討に入った。日本の自由民主党や民主党や維新の党など与野党も登録を批判した[299][300][301]

毎日新聞はユネスコ世界遺産無形文化遺産は、登録審議が公開されるが、記憶遺産は審議も勧告内容も非公開であるため透明化が求められていると報じた[296]

このほか藤岡信勝は登録を決定した現事務局長イリナ・ボコヴァ抗日戦争勝利70周年記念式典にも参加した親中派であり、公正性にも疑問があるとした[297]

論争に対する評価[編集]

南京事件論争に対して、各方面の識者から批判がなされている。

  • 心理学者中山治は、「互いに誹謗中傷、揚げ足の取り合いをし、ドロ試合を繰り広げている。事実をしっかり確認するどころの騒ぎではなくなっているのである。こうなったら残念ながら収拾が付かない。」と論評している[302]
  • 政治学者藤原帰一は、論争は「生産的な形を取ることはなかった。論争当事者が自分の判断については疑いを持たず、相手の判断を基本的に信用しないため、自分の偏見を棚に上げて、相手の偏見を暴露するという形でしか、この議論は進みようがなかったからである。(中略)新たな認識を生むというよりは、偏見の補強しか招いていない」と論評している[303]
  • SF作家山本弘は、この論争は学術論争ではなくイデオロギー論争であり、左寄りの論者(30万人虐殺肯定派)は、中国人の犠牲者数を多くしたいために、「南京」「虐殺」の範囲を広くしようとし、右寄りの論者(30万人虐殺批判派)は、中国人の犠牲者数を少なくしたい(なかったことにしたい)ために「南京」「虐殺」の範囲を狭くしている。論争の当事者達は歴史の真実を知りたいのではなく、自分たちの信条を正当化したいだけである、と論評している[304]

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 秦郁彦 2007, p. 184
  2. ^ 秦郁彦 (2007), まぼろし派と大虐殺の幅 185頁
  3. ^ 秦郁彦 (2007), p.259-263
  4. ^ 秦郁彦 (2007), p.308-313
  5. ^ 笠原 (1997)、219-226頁
  6. ^ 秦郁彦 (2007), p.212
  7. ^ 笠原 (1997)、218頁
  8. ^ 秦郁彦 (2007), p.209-211
  9. ^ 笠原 (1997)、219-226頁
  10. ^ 秦郁彦 (2007), p.212-215
  11. ^ 笠原 (1997)、226-228頁
  12. ^ 「本当はこうだった南京事件」板倉由明 日本図書刊行会 (1999) p199-200
  13. ^ 笠原 (1997)、226-228頁
  14. ^ 秦郁彦 (2007), p.299-302
  15. ^ 「南京事件と日本人―戦争の記憶をめぐるナショナリズムとグローバリズム」笠原十九司 柏書房 (2002)192-3頁 このページの「当時の国際社会の認知や報道についての議論」の虐殺否定説②では、無理のある一次資料の取り扱いと、事実の一方的否定の可能性
  16. ^ 波多野澄雄; 庄司潤一郎 (2010年1月31日). “<近現代史> 第2部 第2章 日中戦争―日本軍の侵略と中国の抗戦 (PDF)”. 第1期「日中歴史共同研究」報告書. p. 271(PDFファイルの通し番号). 2013年9月28日閲覧。
  17. ^ 「日中戦争 南京大残虐事件資料集Ⅱ」青木書店(1985)212-247頁
  18. ^ 「南京大残虐事件資料集Ⅱ」222-224頁、笠原 (1997)、227頁
  19. ^ 波多野澄雄; 庄司潤一郎 (2010年1月31日). “<近現代史> 第2部 第2章 日中戦争―日本軍の侵略と中国の抗戦 (PDF)”. 第1期「日中歴史共同研究」報告書. p. 271(PDFファイルの通し番号). 2013年9月28日閲覧。
  20. ^ 国軍歴史文物館の常設展説明より。「凡是被認為有抗日嫌疑者,立遭殺害。此一大規模劫掠、姦淫、屠殺行動,計死傷中國軍民竟高達30餘萬人。」と記述している
  21. ^ 孫宅巍 「南京防衛軍と唐生智」[要ページ番号]
  22. ^ 洞富雄、藤原彰、本多勝一編 1987, p. 142
  23. ^ 『サンケイ新聞』昭和51年6月23日朝刊、サンケイ新聞社『蒋介石秘録12 日中全面戦争』サンケイ出版、70頁。「こうした戦闘員・非戦闘員、老幼男女を問わない大量虐殺は2カ月に及んだ。犠牲者は三十万人とも四十万人ともいわれ、いまだにその実数がつかみえないほどである。」
  24. ^ 五十嵐武士北岡伸一編『[論争]東京裁判とは何だったのか』築地書館 1997年 p.224。
  25. ^ “歴史研究で日本側見解報道させず 中国当局が指示”. 共同通信社. 47NEWS. (2010年2月3日). http://www.47news.jp/CN/201002/CN2010020301000794.html 2013年5月26日閲覧。 
  26. ^ a b 笠原十九司 1997, pp. 218-228
  27. ^ 民国档案 2004.3、133頁
  28. ^ 洞富雄、藤原彰、本多勝一編 1992, pp. 214-328 笠原十九司「南京防衛戦と中国軍」
  29. ^ 洞富雄、藤原彰、本多勝一編 1988, pp. 77-117、笠原十九司「南京防衛戦と中国軍」[要ページ番号]、同「南京防衛軍の崩壊から虐殺まで」[要ページ番号]
  30. ^ 「南京の真実」講談社文庫,2000 [要ページ番号]
  31. ^ 洞富雄、藤原彰、本多勝一編 1987, p. 28
  32. ^ 秦郁彦 2007, p. 317
  33. ^ 「現代史の光と影」P26‐27
  34. ^ 秦郁彦 1986, p. 214
  35. ^ 秦郁彦 2007, p. 317
  36. ^ 北村稔 2001, p. 43 国民党国際宣伝処処長曽虚白自伝「金を使ってティンパーリー本人とティンパーリー経由でスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として二冊の本を書いてもらい、印刷して発行することを決定した」
  37. ^ 中京学院大学研究紀要「中華民国史料(1946年)からみた「南京事件」 中華民国調査資料国立中央研究院社会科学研究所「中国対日戦時損失之合計」
  38. ^ 民国档案 2004.3、133頁
  39. ^ 「本当はこうだった南京事件」199-200頁
  40. ^ 『南京戦史』(偕行社)の編集に携わった
  41. ^ 板倉由明 1999 [要ページ番号]
  42. ^ 「本当はこうだった南京事件」199-200頁
  43. ^ 北村稔 2001 [要ページ番号]
  44. ^ 櫻井よしこ外国特派員団に南京事件否定論」、『週刊新潮』2007年4月19日号、新潮社2013年6月18日閲覧。
  45. ^ 秦郁彦 (2007), p.299-302
  46. ^ 「南京事件と日本人―戦争の記憶をめぐるナショナリズムとグローバリズム」笠原十九司 柏書房 (2002)192-3頁
  47. ^ セオドア・ホワイト『歴史の探究 個人的冒険の回想』堀たお子訳、サイマル出版会, 76頁[要追加記述]。原著:In Search of History: A Personal Adventure, Harper & Row (1978), Warner Books (1990))
  48. ^ 「まぼろし派 中間派 大虐殺派 三派合同大アンケート」、『諸君!』2001年2月号、P164。
  49. ^ 質問状提出経緯, 公開質問状本文
  50. ^ 温家宝への公開質問を中国英字紙が報道
  51. ^ 国会議事録
  52. ^ http://ameblo.jp/nankinkokumin/
  53. ^ a b c d 佐藤和男「南京事件と戦時国際法」、『正論』2001年3月号、産業経済新聞社、 317頁。
  54. ^ 日本会議国際広報委員会、大原康男、竹本忠雄 2000 [要ページ番号]
  55. ^ 小室直樹渡部昇一 『封印の昭和史―戦後50年自虐の終焉』 徳間書店1995年8月ISBN 978-4198603403 [要ページ番号]
  56. ^ 別冊正論26 70ページ 正論2001.3の加筆修正
  57. ^ 原爆判決-東京地方裁判所昭和38年12月7日判決中理由二(五)及び(七)参照
  58. ^ 『南京安全区トウ案』 第1号文書(Z1)いわゆる「ラーベの感謝状」
  59. ^ 日本会議国際広報委員会、大原康男、竹本忠雄 2000 [要ページ番号]
  60. ^ 小室直樹渡部昇一 『封印の昭和史―戦後50年自虐の終焉』 徳間書店1995年8月ISBN 978-4198603403 [要ページ番号]
  61. ^ 秦郁彦 (2007), p.209-211
  62. ^ 「南京大残虐事件資料集 第2巻」 103-104頁など
  63. ^ 秦郁彦 (2007), p.132-4 兵士に間違えられた拉致・殺害
  64. ^ 「南京大残虐事件資料集Ⅱ」222-224頁、笠原 (1997)、227頁
  65. ^ 「ドイツ外交官の見た南京事件」177頁、笠原 (1997)、145-151頁
  66. ^ 笠原 (1997)、92-106頁
  67. ^ 「南京大残虐事件資料集 第2巻 英文資料編」137-8頁
  68. ^ 笠原 (1997) 220頁
  69. ^ 「南京大残虐事件資料集 第2巻 英文資料編」137-8頁
  70. ^ 人口のこと治安の問題で安全区に戻る住民のこと「日中戦争 南京大残虐事件資料集Ⅱ」青木書店(1985)スマイス調査 219-224頁、治安のこと(農村地域の治安の悪さと安全区に戻る住民)「ヴォートリン日記」142-143頁 162頁
  71. ^ 秦郁彦 (2007), 84頁
  72. ^ 「南京大残虐事件資料集 第2巻」 103-104頁など
  73. ^ 秦郁彦 (2007), p.132-4
  74. ^ 笠原 (1997)、84-106頁
  75. ^ 「最後の殿様 徳川義親自伝」徳川義親、講談社、1973年。笠原 (1997)、138頁、ラーベ『南京の真実』(講談社, 1997年)213頁
  76. ^ 「南京大残虐事件資料集 第2巻」
  77. ^ 「南京の真実」ジョン・ラーベ 講談社文庫2000年
  78. ^ 『南京大残虐事件資料集 第1巻』
  79. ^ 「南京事件の日々 ミニー・ヴォートリンの日記」 ミニー・ヴォートリン 大月書店 1999年
  80. ^ 南京事件調査研究会 編訳 『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』所収
  81. ^ 南京事件調査研究会 編訳 『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』所収
  82. ^ George A. and Geraldine T. Fitch, My Eighty Years in China (1967)
  83. ^ 「ドイツ外交官の見た南京事件」 大月書店 2001年
  84. ^ 「南京事件の日々 ミニー・ヴォートリンの日記」 ミニー・ヴォートリン 大月書店 1999年、「ドイツ外交官の見た南京事件」 大月書店 2001年
  85. ^ 「南京難民区の百日 虐殺を見た外国人」 笠原十九司 岩波現代文庫 岩波書店
  86. ^ 「カメラと人生―白井茂回顧録 」白井茂(1983年) ユニ叢書 137-138頁
  87. ^ 「カメラと人生―白井茂回顧録 」白井茂(1983年) ユニ叢書 137-138頁
  88. ^ 「南京大残虐事件資料集Ⅱ」ベイツのコメント 212-213頁
  89. ^ 「南京難民区の真実」 ジョン・ラーベ 70頁、『南京大残虐事件資料集Ⅱ』212-3頁(スマイス報告)
  90. ^ 偕行社『南京戦史資料集』 233頁 「飯沼守日記」1月4日
  91. ^ 板倉由明氏『東中野論文「ラーベ日記の徹底検証」を批判する』より「正論」平成10年6月号所収
  92. ^ 秦 (2007) p.121
  93. ^ 中国第二歴史档案館所蔵
  94. ^ "In Nanking With Ropes for Walls", in page 5 "The First Pictures of the Panay Sinking", Carroll Daily Herald, Carrol, Iowa, Thursday, December 30, 1937
  95. ^ 中国帰還者連絡会『季刊 中帰連』21号 2002・夏,69-72頁、75頁
  96. ^ 『季刊 中帰連』21号 2002・夏,
  97. ^ 笠原十九司吉田裕編『現代歴史学と南京事件』柏書房,249頁
  98. ^ 笠原十九司『南京事件論争史—日本人は史実をどう認識してきたか』平凡社新書,2007年,259頁
  99. ^ 笠原,260頁
  100. ^ 笠原,264頁
  101. ^ 『南京事件論争史—日本人は史実をどう認識してきたか』笠原十九司(2007年)259頁、264頁
  102. ^ 『南京事件論争史—日本人は史実をどう認識してきたか』笠原十九司(2007年)259頁、264頁
  103. ^ [「上海時代(下)」松本重治 中公新書249-251頁、251-253頁
  104. ^ 例 ラーベ著「南京の真実(ラーベ日記)」312頁 帰国後の講演の部分で、中国人に日本軍が来たら治安が落ち着くと言っていたこと 80頁 駐日ドイツ大使館からのドイツ駐華大使宛の電報「日本は都市をはじめ、国民政府、生命、財産、外国人及び無抵抗の中国人民をできる限り寛大に扱う」
  105. ^ [南京安全地帯の記録(Documents of the Nanking Safety Zone)」その他の一次史料をデータベース化し分析した上で、「この『南京安全地帯の記録』という文書は当時のいわば公式記録であり、そこに記載された日本軍兵士の悪行とされるものは、之が全てといってよく、当時の南京城内の状況から見て安全地帯国際委員会に報告されない之以外の事件はないものと思われる.しかもこの記録の内容を分析すれば、これらすべてを、日本軍兵士の所行とされる根拠はなく、むしろ日本軍兵士の所行とされるべきものは、少ないというのが、我々の結論である。しかもこの文書の事件の伝えるところをそのまま認容しても、それは決して後年の大虐殺説の伝えるごとき非難は間違っていることを証明するのである。」冨澤繁信『原典による南京事件の解明』
  106. ^ 「南京大残虐事件資料集 第2巻」 103-104頁
  107. ^ 「一億人の昭和史 日本の戦史 日中戦争1」毎日新聞社 261頁
  108. ^ 「南京難民区の百日 虐殺を見た外国人」 笠原十九司 岩波現代文庫 岩波書店78-82頁
  109. ^ 『南京安全区トウ案』第1号文書(Z1)1937年12月14日[1]
  110. ^ 「南京戦史 資料集I」 334頁 524頁
  111. ^ 「近代日本に於る参審の伝統」石田清史(苫小牧駒澤大学紀要、第14号2005.11)P.61、P.63 [2] (PDF)
  112. ^ 信夫淳平「戦時国際法提要」上巻 第三項 私服狙撃者(便衣隊) 400頁
  113. ^ 秦 (2007)、p274―p275。東中野 「「南京虐殺」の徹底検証」1998年 p.193-195
  114. ^ 笠原十九司 2007, p. 250
  115. ^ 別冊正論26 73ページ 正論2001.3の加筆修正
  116. ^ 秦郁彦 (2007), p. 132-136 192
  117. ^ 『「南京事件」の探求』、2001年 p.101
  118. ^ 『「日中歴史共同研究」を振り返る』北岡伸一、236頁
  119. ^ 『南京戦史資料集I』 より。以下本文(一部関連以外省略) 「極秘 中方軍令第一号 中支那方面軍軍律左記の通定む 昭和十二年十二月一日 中支那方面軍司令官 松井石根 中支那方面軍軍律 第一条 本軍律は帝国軍作戦地域内に在る帝国臣民以外の人民に之を適用す 第二条 左記に掲ぐる行為を為したる者は軍罰に処す   一、帝国軍に対する反逆行為   二、間諜行為   三、前二号の外帝国軍の安寧を害し又は其の軍事行動を妨害する行為 第三条 前条の行為の教唆若は幇助又は予備、陰謀若は未遂も又之を罰す 但し情状に因り罰を減軽又は免除することを得 第四条 前二条の行為を為し未だ発覚せざる前自首したる者は其の罰を減軽又は免除す」 「極秘 中方軍令第二号 中支那方面軍軍罰令左記の通定む 昭和十二年十二月一日 中支那方面軍司令官 松井石根 中支那方面軍軍罰令 第一条 本令は中支那方面軍々律を犯したる者に之を適用す 第二条 軍罰の種類左の如し   一、死   二、監禁   三、追放   四、過料   五、没取 軍罰の軽重は前項記載の順序による (第三条~第九条略) 第十条 二箇以上の犯行あるときは其の軍罰を併科し又は一の重き軍罰のみを科することを得」 「極秘 中方軍令第三号 中支那方面軍軍律審判規則左記の通定む 昭和十二年十二月一日 中支那方面軍司令官 松井石根 中支那方面軍軍律審判規則 第一条 軍律会議は軍律を犯したる者に対し其の犯行に付之を審判す 第二条 軍律会議は上海派遣軍及第十軍に之を設く 第三条 軍律会議は之を設置したる軍の作戦地域内に在り又は其の地域内に於いて軍律を犯したる者に対する事件を管轄す    (中略) 第四条 軍律会議は軍司令官を以て長官とす 第五条 軍律会議は審判官三名を以て之を構成す     審判官は陸軍の将校二名及法務官一名を以て充て長官之を命ず 第六条 中華民国人以外の外国人を審判に付せんとするときは方面軍司令官の認可を受くべし 第七条 軍律会議は審判官、検察官及録事列席して之を開く 第八条 軍律会議に於て死を宣告せんとするときは長官の認可を受くべし」
  120. ^ 「近代日本に於る参審の伝統」石田清史(苫小牧駒澤大学紀要、第14号2005.11)P.61、P.63 [3] (PDF)
  121. ^ 正論 2001.03 p317
  122. ^ 佐藤和男「日本軍の関係部隊には緊迫した「軍事的必要」が存在した場合のあったことが知られる。『オッペンハイム 国際法論』第二巻が、多数の敵兵を捕えたために自軍の安全が危殆に瀕する場合には、捕えた敵兵に対し助命を認めなくてもよいと断言した一九二一年は、第一次世界大戦の後、一九二九年捕虜条約の前であって、その当時の戦時国際法の状況は、一九三七年の日支間に適用されるべき戦時 国際法の状況から決して甚だしく遠いものではないことを想起すべきであろう。支那側の数々の違法行為(通州事件を含む)に対する復仇の可能性、和平開城の勧告を拒絶して、結果的に自国の多数の良民や兵士を悲惨な状態に陥れた支那政府首脳部の責任、右の勧告を拒絶されながら、防守都市南京に対する無差別砲撃の権利の行使を自制した日本軍の態度、など関連して検討すべき法的問題点はなお少なくない (正論 2001年3月317頁)。」
  123. ^ 然るに便衣隊は交戦者たる資格なきものにして害敵手段を行ふのであるから、明かに交戦法規違反である。その現行犯者は突如危害を我に加ふる賊に擬し、正当防衛として直ちに之を殺害し、又は捕へて之を戦時重罪犯に問ふこと固より妨げない。ただ然しながら、彼等は暗中狙撃を事とし、事終るや闇から闇を伝って逃去る者であるから、その現行犯を捕ふることが甚だ六ヶしく、会々捕へて見た者は犯人よりも嫌疑者であるといふ場合が多い。嫌疑者でも現に銃器弾薬類を携帯して居れば、嫌疑濃厚として之を引致拘禁するに理はあるが、漠然たる嫌疑位で之を行ひ、甚しきは確たる証拠なきに重罪に処するなどは、形勢危殆に直面し激情昂奮の際たるに於て多少は已むなしとして斟酌すべきも、理に於ては穏当でないこと論を俟たない。信夫淳平『上海戦と国際法』丸善(P126)
  124. ^ 信夫淳平「戦時国際法提要」上巻 第三目 乞降兵の殺傷及び不助命の宣言 566頁
  125. ^ 放送 日本テレビ制作 2016年10月4日 翌日時間午前1時10分から55分 日本テレビ 再放送10月11日(BS日本テレビ) http://www.ntv.co.jp/document/back/201510.html
  126. ^ 秦 (2007) p.210
  127. ^ 秦郁彦 2007, p. 197
  128. ^ 防衛研究所 「平成19年度戦争史研究国際フォーラム報告書」の研究報告「日本軍の捕虜取扱いの背景と方針」(立川京一)より 76頁
  129. ^ Convention relative to the Treatment of Prisoners of War. Geneva, 27 July 1929.
  130. ^ Convention relative to the Treatment of Prisoners of War. Geneva, 27 July 1929.
  131. ^ 佐藤和男「日本軍の関係部隊には緊迫した「軍事的必要」が存在した場合のあったことが知られる。『オッペンハイム 国際法論』第二巻が、多数の敵兵を捕えたために自軍の安全が危殆に瀕する場合には、捕えた敵兵に対し助命を認めなくてもよいと断言した一九二一年は、第一次世界大戦の後、一九二九年捕虜条約の前であって、その当時の戦時国際法の状況は、一九三七年の日支間に適用されるべき戦時 国際法の状況から決して甚だしく遠いものではないことを想起すべきであろう。支那側の数々の違法行為(通州事件を含む)に対する復仇の可能性、和平開城の勧告を拒絶して、結果的に自国の多数の良民や兵士を悲惨な状態に陥れた支那政府首脳部の責任、右の勧告を拒絶されながら、防守都市南京に対する無差別砲撃の権利の行使を自制した日本軍の態度、など関連して検討すべき法的問題点はなお少なくない (正論 2001年3月317頁)。」
  132. ^ 別冊正論26 70ページ 正論2001.3の加筆修正
  133. ^ 「南京戦史 資料集II」12頁
  134. ^ 『「日中歴史共同研究」を振り返る』北岡伸一、236頁
  135. ^ (レジュメ)「いわゆる「南京事件」」原剛(大阪教育大学 社会教育学研究第15号2009.1本文 (PDF) [要ページ番号]紹介(山田正行) (PDF)
  136. ^ 「一五年戦争史研究と戦争責任問題」吉田裕(一橋論叢1987.2.1)[4] (PDF) [要ページ番号]
  137. ^ 海軍省軍務局長・軍令部第一部長が陸軍中央部と協議のうえ第三艦隊参謀長宛に発した通牒(1937年10月15日付軍務一機密第40号)「我権内に入りたる支那兵の取扱に関しては対外関係を考慮し不法苛酷の口実を与へざる様特に留意し【少なくとも俘虜として収容するものについては国際法規に照らし】我公明正大なる態度を内外に示すこと肝要なるに付き現地の事情之を許す限り概ね左記に依り処理せらるる様致度」のうち、【】部分をもって「現地で」「俘虜にしないかぎり」殺害しても良いとのニュアンスが読み取れた、としている。「一五年戦争史研究と戦争責任問題」吉田裕(一橋論叢1987.2.1)[5] (PDF) 脚注45.P.214 (P.20)
  138. ^ 内海愛子『日本軍のPOWを扱った機関とその資料』
  139. ^ 立川京一『日本の捕虜取扱いの背景と方針』 p76
  140. ^ 板倉由明 1999, p. 11
  141. ^ 洞富雄、藤原彰、本多勝一編 1992, pp. 88-91 藤原彰「南京攻略戦の展開」
  142. ^ 笠原十九司「南京事件における民間人虐殺」(所収=『南京事件70周年 国際シンポジウムの記録』(記録集編集委員会編、日本評論社、2009年、ISBN 978-4-535-51669-4)18-20頁)。
  143. ^ 笠原十九司「数字いじり不毛な論争は虐殺の実態解明を遠ざける」(所収=『南京大虐殺否定論 13のウソ』(南京事件調査研究会編、柏書房、1999年、ISBN 4-7601-1784-9)92-93頁)。
  144. ^ 本多勝一『南京大虐殺と日本の現在』(金曜日、2007年、ISBN 978-4-906605-31-6)69-70頁
  145. ^ 「ドイツ外交官が見た南京事件」 石田勇治等 大月書店 (2001) 136-139頁
  146. ^ 「南京の実相―国際連盟は「南京2万人虐殺」すら認めなかった―」
  147. ^ 「国民党 秘密文書を読み解く」133頁
  148. ^ 「暴を以て暴に報ゆる勿れ」蒋介石 白揚社 1947年13-15頁
  149. ^ 「南京事件資料集 1アメリカ関係資料編」215-6頁
  150. ^ 「南京大虐殺否定論13のウソ」66頁より もともとは、共産党の『群衆』第1巻第4期(民国)27年(1938年のこと)1月1日出版
  151. ^ 別冊正論26 80頁
  152. ^ 戸井田議員は、桜チャンネルにて自民議員の調査結果が出たときに、西川議員とともにyoutubeのTVに登場し、そこでは、はっきり述べていた(もうそのyoutubeはない)
  153. ^ 「ひと目でわかる「日中戦争」時代の武士道精神 著者: 水間政憲」の206頁では、西川京子議員(当時)が、ニューヨークタイムズもロンドンタイムズも虐殺など全く報道していないと、2013年4月の衆議院予算委員会で述べた、と記述
  154. ^ 記事アーカイブあり。日本語訳「南京事件資料集 1アメリカ関係資料編」より 417-422頁。秦 (2007)、1-7頁にも訳文等あり。
  155. ^ 記事アーカイブあり。日本語訳「南京事件資料集 1アメリカ関係資料編」より503-505頁
  156. ^ 英文記事資料あり The Nanjing Atrocities Reported in the U. S. Newspapers, 1937-38
  157. ^ 別冊正論26 80頁
  158. ^  「南京事件資料集1 アメリカ関係資料編」南京事件調査研究会編訳 青木書店 1992 559-561頁。笠原十九司が通訳を交えてインタビューした。
  159. ^ 西川秀和 フランクリン・ローズヴェルト大統領の「隔離」演説
  160. ^ 記事アーカイブあり。日本語訳「南京事件資料集 1アメリカ関係資料編」より 464-468頁
  161. ^ 池田慎太郎『日米同盟の政治史――アリソン駐日大使と「1955年体制」の成立』(国際書院, 2004年)
  162. ^ 東中野修道 (1998) 282頁
  163. ^ 「南京事件資料集 1アメリカ関係資料編」233-236頁
  164. ^ 「南京戦史資料集1」184頁
  165. ^  「南京事件資料集1 アメリカ関係資料編」南京事件調査研究会編訳 青木書店 1992 558-559頁。笠原十九司が通訳を交えてインタビューした。
  166. ^  「南京事件資料集1 アメリカ関係資料編」南京事件調査研究会編訳 青木書店 1992 559-561頁。笠原十九司が通訳を交えてインタビューした。
  167. ^ 東中野修道 1998 [要ページ番号]
  168. ^ 渡部昇一『渡部昇一の昭和史 正 改訂版』Wac、2008年10月30日、ISBN 978-4-89831-592-7、第300頁
  169. ^ 東中野 (1998)[要ページ番号]
  170. ^ 東中野 (1998)[要ページ番号]
  171. ^ 放送 日本テレビ制作 2016年10月4日 翌日時間午前1時10分から55分 日本テレビ 再放送10月11日(BS日本テレビ) http://www.ntv.co.jp/document/back/201510.html
  172. ^ 103頁「1000箇所を越える誤認・誤記」(阿羅健一)『南京事件研究の最前線』東中野修道 2005年
  173. ^ 板倉由明 1999, p. 488
  174. ^ 板倉由明 1999, p. 430
  175. ^ 秦郁彦 2007, p. 155
  176. ^ 朝日新聞昭和58年8月5日、昭和59年6月23日夕刊
  177. ^ 板倉由明 1999
  178. ^ 板倉由明 1999, p. 362一橋出版『世界史B』(平成5年検定)301頁「『食料は現地にて徴発し、自活すべし』という命令を受けていた」。曽根一夫『私記南京虐殺』57頁「『糧秣ハ現地ニテ徴発、自活スベシ』という徴発命令を下した。・・・住民から食う物を奪って食えということである」
  179. ^ 板倉由明 1999, p. 353 「カギ括弧で括られた文章は引用文だから、・・・原典・原文が存在するはず」と原本提示を求めたが、笠原・出版社側は無視。
  180. ^ 板倉由明 1999, p. 365 『諸君!』「世界史教科書に出現した曽根一夫の亡霊」。7箇月後、出版側は「命令」が曽根本からの引用であることを認め、その部分を改めた。「あったに違いない個々人の不行跡が、あたかも軍命令、最終的には国家意志、によって行われたかのよう」な笠原の記述は、使用本から削除された。
  181. ^ 板倉由明 1999, p. 262
  182. ^ 板倉由明 1999, p. 254
  183. ^ 板倉由明 1999, p. 260 「他師団の記録などでも・・・20日を過ぎると水運で糧秣が運ばれ・・・供給が緩和されていく」
  184. ^ 板倉由明 1999, p. 275 曽根は糧秣受領に下関へ行ったと言うが、「下関が兵站基地になったのは・・・野砲三の南京出発以後である」等々を指摘する。
  185. ^ 板倉由明 1999, p. 277 紫金山付近の「残酷な話も兵科を歩兵とし、部隊の駐留地を南京東北方(実際には野砲三は光華門南方の山西村付近に19日まで宿営)に設定したウソの上に構成されている」。戦友はいずれも強く否定。「自分は南京には行っていないとN氏は語っている」
  186. ^ 板倉由明 1999, p. 258 『原本は二年前に処分し』たという日記は、すべて新カナ遣いで書かれている。続編「出版の際作ったものと推定するのが自然であろう」
  187. ^ 板倉由明 1999, p. 243 『諸君!』1984年10月号の「松井大将は泣いたか?」秦郁彦
  188. ^ 秦郁彦 2007, p. 217
  189. ^ 秦郁彦 2007, p. 69
  190. ^ 秦郁彦 2007, p. 139
  191. ^ 秦郁彦 2007, p. 202
  192. ^ 秦郁彦 2007, p. 217
  193. ^ 板倉由明 1999, p. 235 「間違ってもらっては困るが、筆者が秦氏に要求しているのは、単なるレイプ場面の削除ではなく、曽根一夫手記全部の削除なのである」
  194. ^ a b c d 南京事件で「虚偽」の残虐行為を証言した元日本兵のビデオ 米高校が教材に使用」産経新聞2015.6.20.
  195. ^ 秦郁彦 2007, p. 306
  196. ^ 板倉由明 1999, p. 363一橋出版『世界史B』(平成5年検定)「『宿営にあたって・・・農民を殺して寝た。・・・襲撃してくるかもしれないから、殺すのだった。・・・』と日本の一兵士は日記に書きのこしている」
  197. ^ 「赤旗連載・東日記の詐話に泣く元兵士」『自由』平成5年6月号、「拝啓、一橋出版社殿、高校教科書の記述が間違っていますよ」『ゼンボウ』平成6年1月号 「疑わしい資料を使う一橋出版『世界史B』」産経新聞1993・12・20 
  198. ^ 板倉由明『本当はこうだった南京事件』、429頁
  199. ^ 秦郁彦『南京事件』中公新書、166頁。
  200. ^ 板倉由明 1999, p. 364 これは12月6日夜の出来事で、板倉は第四中隊陣中日誌により、堅固な陣地を占領したのであり、3個中隊以上(数百人規模)が宿営したから、農民の襲撃を恐れる理由がなかったことを検証している
  201. ^ 毎日新聞1990年12月14日夕刊
  202. ^ 板倉由明 1999, p. 427
  203. ^ 板倉由明 1999, p. 429 碇泊場司令部勤務の梶谷健郎軍曹が当時綴った日記には、12月25日「常熱より太田少佐外来る」とあり、供述書に言う16日から18日の死体処理は不可能である。安達少佐も入城式(17日)、慰霊祭(18日)に参加しており、多数の死体処理を行える状況ではない。26日より2日間、処理した数はせいぜい一千体くらい。女子供の死体は無かった。
  204. ^ 板倉由明 1999, p. 407
  205. ^ 板倉由明 1999, p. 442
  206. ^ 109頁 中原道子『昭和史の消せない真実』岩波書店「日本軍自身も・・・かなりの数の死体を処理したことを、撫順戦犯収容所の裁判(太田寿男供述)で認めている」。
  207. ^ 板倉由明 1999, p. 491
  208. ^ 板倉由明 1999, p. 477
  209. ^ 板倉由明 1999, p. 492
  210. ^ 板倉由明 1999, p. 476
  211. ^ 板倉由明 1999
  212. ^ 板倉由明 1999
  213. ^ 木暮山人参議院議員の紹介による1994年10月27日 参議院文教委員会(第131回国会 文教委員会 第2号)”. 参議院 (1994年10月27日). 2016年1月29日閲覧。)。
  214. ^ 南京戦史編集委員会編『南京戦史資料集2』偕行社、1993年、339-341頁。
  215. ^ 洞富雄、藤原彰、本多勝一編 1992, pp. 128-149 本多勝一・小野賢二「幕府山の捕虜集団虐殺」
  216. ^ 小野賢二「虐殺か解放か----山田支隊捕虜約二万の行方」(所収 『南京大虐殺否定論 13のウソ』南京事件調査研究会編、柏書房、ISBN 4-7601-1784-9、138-156頁)。
  217. ^ 小野賢二・藤原彰・本多勝一『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』
  218. ^ 『若松聯隊回想録』306頁
  219. ^ 『長江の流れと共に 上海満鉄回想録』67頁
  220. ^ 『南京一九四五年』山中徳雄 38頁
  221. ^ 『SAPIO』2001年8月8日号 27-28頁
  222. ^ 東中野修道『「南京虐殺」の徹底検証』展転社、P247-250
  223. ^ 『南京大残虐事件資料集 第1巻』
  224. ^ 「南京の真実」ジョン・ラーベ 講談社文庫2000年
  225. ^ 「南京事件の日々 ミニー・ヴォートリンの日記」 ミニー・ヴォートリン 大月書店 1999年
  226. ^ 南京事件調査研究会 編訳 『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』所収
  227. ^ 南京事件調査研究会 編訳 『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』所収
  228. ^ George A. and Geraldine T. Fitch, My Eighty Years in China (1967)
  229. ^ 南京事件資料集[1]アメリカ関係資料編』p258-259
  230. ^ 南京事件資料集[1]アメリカ関係資料編』p219 p260-261 265-266
  231. ^ 南京戦史編集委員会編 『南京戦史資料集』 偕行社、1989年、219-220頁。
  232. ^ 藤原彰 『新版 南京大虐殺』 岩波書店<岩波ブックレット>、1988年、ISBN 4-00-003435-9、28-29頁。
  233. ^ 笠原十九司 1997 [要ページ番号]
  234. ^ 秦郁彦 1986 [要ページ番号]
  235. ^ a b c d 吉田裕 『新装版 天皇の軍隊と南京事件』104-106頁。
  236. ^ 東中野修道 1998, pp. 115-123
  237. ^ (殺害せよ)の解釈 「南京戦史」旧版 220‐221頁、「南京戦史」341頁。 (壕の大量死体)『偕行』1984年12月号 8頁
  238. ^ 『偕行』1985年7月号 9頁
  239. ^ 南京戦史編集委員会『南京戦史』増補改訂版、平成五年十二月八日、偕行社、317頁
  240. ^ 「南京の真実」ジョン・ラーベ 講談社文庫2000年
  241. ^ 「南京事件の日々 ミニー・ヴォートリンの日記」 ミニー・ヴォートリン 大月書店 1999年
  242. ^ 南京事件調査研究会 編訳 『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』所収
  243. ^ 南京事件調査研究会 編訳 『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』所収
  244. ^ George A. and Geraldine T. Fitch, My Eighty Years in China (1967)
  245. ^ 松尾一郎 南京事件で使用される・ニセ写真
  246. ^ 松尾一郎 大虐殺派のウソ写真と証言
  247. ^ 南京事件「証拠写真」を検証する 東中野 
  248. ^ 南京事件証拠写真を検証する15頁
  249. ^ 南京大虐殺記念館、信憑性乏しい写真3枚を撤去 - MSN産経ニュース(2008年12月17日)
  250. ^ 南京大虐殺記念館が産経新聞に反発「写真撤去はない」- サーチナ(2008年12月20日)
  251. ^ a b c 産経新聞1999年3月1日 (東京版は2月28日付夕刊)。秦郁彦「『南京虐殺』―証拠写真を鑑定する」『諸君!』1998年4月号
  252. ^ 岩波書店『図書』1998年4月号、岩波書店、pp. 26-27.
  253. ^ 日本機関紙出版センター、1987年
  254. ^ 週刊金曜日』99年11月5日号
  255. ^ 「伝説の記者「本多勝一」が"誤用"を認めた『南京事件』捏造写真」、『週刊新潮』2014年 9/25号
  256. ^ 田辺敏雄による「朝日報道 都城23連隊と南京虐殺」、松尾一郎が運営する電脳日本の歴史研究会のサイトにある「朝日新聞」の犯罪を参照。
  257. ^ 東中野『南京事件「証拠写真」を検証する』[要ページ番号]
  258. ^ 笠原『南京事件論争史—日本人は史実をどう認識してきたか』[要ページ番号])。
  259. ^ 『広田弘毅―「悲劇の宰相」の実像』服部龍二、中央公論新社〈中公新書〉2008年、p.184-185 p260。「破滅への道―私の昭和史、上村伸一、鹿島研究所出版会、1966年 81頁。「外交官の一生」、石射猪太郎、中公文庫 332‐333頁
  260. ^ 「カメラと人生―白井茂回顧録 」白井茂(1983年) ユニ叢書 137-138頁
  261. ^ 秦、前掲書、p26
  262. ^ 秦、前掲書、p263―p267
  263. ^ 笠原十九司 2007, p. 103
  264. ^ 「昭和の動乱 上巻」 昭和27年3月30日再版発行 重光葵著 中央公論社発行 p.175
  265. ^ 笠原十九司 2007, pp. 107-109
  266. ^ 秦、前掲書、p52、p184、p270
  267. ^ 石井和夫(日中友好元軍人の会)「「南京大虐殺」を考える」、『中国研究月報』第469号、中国研究所、1987年3月、 p46-49、 ISSN 0910-4348
  268. ^ 朱世巍《东线1941-1945:第一个冬天(Eastern Front 1941-1945 Vol4: The First Winter)》P68
  269. ^ 1949-1976《人民日报》非主流关键词
  270. ^ 南京事件調査研究会およびそのメンバーは「史実派」と呼称。
  271. ^ 秦、前掲書、p52、p272。
  272. ^ 「証言による南京戦史 (最終回) その総括的考察」『偕行』昭和60年3月号、18頁。
  273. ^ 板倉由明「松井石根大将『陣中日記』改竄の怪」(『歴史と人物』 1985年冬号所収)
  274. ^ 秦、前掲書、p286―p288。
  275. ^ 笠原は「虐殺少数派」と、秦自身は「中間派」と呼称。
  276. ^ 秦『南京事件』、p53(増補版の頁番号)、初出1986年
  277. ^ 秦郁彦 2007, p. 184
  278. ^ 秦、前掲書、p53、p275―p279。
  279. ^ 笠原十九司 2007, p. 213
  280. ^ 笠原十九司 2007, p. 182
  281. ^ 遠藤誉 「第6章 愛国主義教育が反日に変わるまで」『中国動漫新人類』 日経BP2008年、初版、p301-378。ISBN 978-4-8222-4627-3
  282. ^ 秦、前掲書、p291―p295。
  283. ^ 笠原十九司 2007, p. 227
  284. ^ 秦、前掲書、p274―p275。
  285. ^ 笠原十九司 2007, p. 250
  286. ^ 笠原十九司 2007, p. 271
  287. ^ 秦郁彦「『南京虐殺』ー証拠写真を鑑定する」『諸君!』1998年4月号
  288. ^ 岩波書店『図書』1998年4月号、岩波書店、pp. 26-27.
  289. ^ 東京新聞 2007.11.2、毎日新聞 2008.5.22、産経新聞 2009.2.5
  290. ^ 東中野修道 『南京「事件」研究の最前線:日本「南京」学会年報平成20年版「最終完結版」』 東中野修道、展転社、東京、2008年5月、11-42頁。ISBN 9784886563217
  291. ^ 朱成山谈“解放南京”言论:维护历史远没有过去 中国新聞社 (中華人民共和国) 2012年7月5日
  292. ^ 「日本は南京を解放」…教育家のつぶやきに猛反発=中国 Searchina 2012/07/06
  293. ^ 「伝説の記者「本多勝一」が"誤用"を認めた『南京事件』捏造写真」、『週刊新潮』2014年 9/25号
  294. ^ “日本の制止実らず=中国申請の「南京」認定-ユネスコ記憶遺産” (日本語). 時事通信. (2015年10月10日). http://www.jiji.com/jc/zc?k=201510/2015101000065 2015年12月19日閲覧。 
  295. ^ UNESCO » Communication and Information » Memory of the World » Register » Full list of Registered Heritage » Documents of Nanjing Massacre(英語)
  296. ^ a b c 記憶遺産に「南京大虐殺」「東京裁判」引用際立つ」毎日新聞2015.10.11朝刊
  297. ^ a b c d 藤岡信勝「登録資料・中国版「アンネの日記」自体が「大虐殺」不在の証拠だ」正論2015年12月号。産経新聞2015年12月14日転載
  298. ^ 『南京事件の日々』大月書店,p69-70
  299. ^ http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20151010-00000032-nnn-pol
  300. ^ [6]産経新聞2015年10月14日
  301. ^ 朝日新聞名古屋本社版2015年10月11日付朝刊3面総合3第13版
  302. ^ 中山治『日本人はなぜ多重人格なのか』、洋泉社、1999年、ISBN 978-4896913712、p142。
  303. ^ 藤原帰一『戦争を記憶する――広島・ホロコーストと現在』、講談社、2001年、ISBN 978-4061495401、p32。
  304. ^ 自身のホームページにて目からウロコの南京大虐殺論争

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

日本語で書かれている外部リンク[編集]

①外務省見解および日中歴史共同研究

外務省見解

日中歴史共同研究

 全体説明*[7]

 日本側の研究成果(近現代史第二部第二章 通しで265頁より日中戦争、通しで270-2頁(当該章では6-8頁)に南京事件)*[8]

 中国側の研究成果(近現代史第二部第二章 通しで311頁より日中戦争 通しで315-8頁(当該章では5-8頁)に南京事件)*[9]


②南京事件の虐殺「否定説」支持の意見です。他にも新しい歴史教科書をつくる会日本「南京」学会日本会議国家基本問題研究所の主要メンバーの皆さんはHPで同様な意見を行っています。


③南京事件は「ある程度の規模は存在した(日本外務省見解や日中歴史共同研究(日本側)に近い)」という意見です。虐殺「否定説」(東中野修道などの意見)への実証的批判も含まれていますが、30万人虐殺はいずれも支持していません。全体的に思想に偏らず実証にと志向する方もいます(あくまでHP作者の意見です)。

日本語以外の言語で書かれている外部リンク[編集]