南京事件論争

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南京事件論争(なんきんじけんろんそう)とは、日中戦争支那事変)中の1937年(昭和12年)12月に遂行された南京攻略戦において発生したとされる南京事件における虐殺の存否や規模などを論点とした論争である。論争は日中関係を背景に政治的な影響を受け続けた[1]。以下、主な論点について概説する。

犠牲者数について[編集]

犠牲者数の論議[編集]

南京事件は、中国の首都で発生した多くの軍人や市民のかかわった、欧米の宣教師や学者も含めた目撃者のある事件だが、犠牲者(死亡)者の数については30万人説からゼロまで幅がある[2]。このような幅が存在する理由は、まず、1947年の南京軍事法廷にて中国側(国民政府)が記載した「30万人以上」がきっかけになり、今日まで学術根拠なく一人歩きしていることがある[3]。中国の国民政府軍の兵士の動員数や、当時の南京の人口も不明確であることも原因である[4][5]。一方で、南京安全区国際委員会など南京安全区在住の外国人の記録は不完全ながらも一定の信頼ができる[6][7]。また、日本側の旧日本軍の親睦組織偕行社の『南京戦史』(1993)は、日本軍の戦闘終了後の中国兵処分についてを記録しており、その中の公式文書での約1万2千人の殺害やその他の文書での計1万前後の殺害も信頼性のある資料である(一覧表は南京事件の被害者(中国兵))。

日本の代表的研究者(秦郁彦笠原十九司板倉由明など)は、まず、中国軍人の兵員数の推測値を基に、普通の戦死者や逃げた人数を除いた、日本軍に捕まって殺害された中国兵の中で戦時国際法に照らして違法で殺された人数を日本側の公式・非公式記録も参考にして算定し[8][9]、そして民間人の死者の中で日本軍に不法に殺された数をスマイス調査等を参考にしつつ算定している[10][11][12]

ただ、ここで、一般人の殺害の場合は、どの地域までとするかで、研究者によって算定が異なっている。特にスマイス調査は近隣の農村部を含むが、より広い農村部の被害者の可能性は日本側の記録にも残るが数値は明確でなく、また、被害者のうち遺体を長江に流された者も非常に多いとみられるが、もし含めるなら推測しかないと笠原は主張している[13]

スマイス調査

南京安全区国際委員会秘書で金陵大学社会学部教授のルイス・S・C・スマイスは、南京占領後の1938年3月から4月にかけて、南京市部と農村部の戦争被害調査を実施し[14]、南京城区の一般市民の不法殺害は2400人、男性で日本軍に拉致されて殺された市民[要追加記述]が4200人と算出した。城内と城壁周辺の埋葬資料調査からの推測で市部でおそらく12000人の民間人が殺害されたと予測。近郊区の農村地域[注釈 1]における被害者数は26870人と算出した[15]

日中歴史共同研究での日本側研究者の説[編集]

第1次安倍内閣のときに発足が決まった日中歴史共同研究波多野庄司)では、これまでの代表的研究者(秦、笠原、板倉など)の研究成果から、極東国際軍事裁判判決における犠牲者数20万人を上限として(松井司令官に対する判決文では 10 万人以上)、4万人、2万人など様々な推計と被害者数をまとめている[16]。犠牲者数に諸説がある背景として、「虐殺」(不法殺害)の定義、対象とする地域・期間、埋葬記録、人口統計など資料に対する検証の相違が存在していると指摘した[16]

2010年1月に日中歴史共同研究の報告書が公表された際、中国メディアは中国共産党宣伝部の指示により、20万人を上限とする日本側研究者の見解を報道しなかった[17]

三十万人以上[編集]

主に中国側論者の見解であるが、これらの数字には、いずれも科学的根拠が一切なく、日本側の学者からは支持されていない[18][16][3]

1947 年の南京戦犯裁判軍事法廷で30 万人以上とされ、中国の見解はこの判決に依拠している[16]。代表的な論者は、孫宅巍江蘇省社会科学院研究員)、高興祖南京大学教授)、アイリス・チャン(ジャーナリスト)などがおり、中国共産党政府、南京大虐殺紀念館、また中華民国国軍歴史文物館[19]も同様の見解をもっている。『蒋介石秘録』には30万〜40万と記された[20]

また、孫宅巍によれば、30万説には南京城外の六県その他の地域の犠牲者数を入れていないので、今後これらも考慮して研究すると述べた[21]

十数万人以上[編集]

笠原十九司は、中国兵の犠牲者8万人と、一般人犠牲者(南京城市:1万2千人、南京周辺農村部:2万7千人)を合計し、10万人以上もしくは20万人に近いかそれ以上と推定している(ただし、他の説と異なり南京周辺農村部の犠牲者を含んでいる)[22]

笠原は、中国軍総数を約15万人と推計し(一方、中国軍側集計11万人[23])、約5万人が国民政府軍に帰還、1万人が戦闘中に死亡、1万人が撤退中に逃亡、残り8万人が日本軍による殺害としている[24][25]。民間人の犠牲者数の推定は極めて困難としつつも、「ジョン・ラーベ『ヒトラーへの上申書』中国側推定10万人、残留外国人推定5-6万人。[26]」、「埋葬団体の埋葬記録 埋葬総数18万8674体(虐殺に当たらない死体、埋め直しによる重複がある一方、長江に流された多数の遺体があると指摘)。」、「スマイス調査市部(城区)殺害3250人、拉致後殺害された可能性が高い者4200人、農村部(近郊4県半)被殺害者数2万6870人[22]。」をもとに推計している。

この説に近い研究者として南京事件調査研究会のメンバーである洞富雄 (元早稲田大学教授)、藤原彰一橋大学名誉教授)、吉田裕(一橋大学教授)、井上久士駿河台大学教授)、本多勝一(ジャーナリスト)、高崎隆治(戦争研究家)、小野賢二(化学労働者)、渡辺春巳(弁護士)[27]などが挙げられる。

「4万人上限」説[編集]

秦郁彦は、中国兵の犠牲者3万人、一般人の虐殺犠牲者1万人(南京城市のみ)で、4万人を上限とした[28]

秦は台湾公式戦史、上海派遣軍参謀長の飯沼守少将日記を採用して、南京守備軍の兵力を十万、うち五万が戦死、四万が捕虜になり、三万が捕虜になったあと殺害された(生存捕虜は一万)と推定し、上海派遣軍郵便長の佐々木元勝の12月15日日記の「俘虜はおよそ四万二千と私は聞かされている」にほぼ符合するとしている[29]

秦は一般人をスマイス調査(修正)による死者二万三千、捕らわれてから殺害された捕虜を前述のとおり三万をとした。しかし不法殺害としての割引は、一般人に対してのみ適用(2分の1か3分の1)すべきとし、三万+一万二千(八千)=三万八千〜四万二千という数字なら、中国側も理解するのでは無いか、考えた[30]と主張した。その後、民間人の不法殺害八千〜一万二千の中間値をとって一万とし、総数を四万とした。「事情変更をもたらすような新資料は出現せず、今後もなさそうだと見極めがついたので、あらためて四万の概数は最高限であること、実数はそれをかなり下回るであろうことを付言しておきたい」[31]と、それまでの自説を下方修正した。スマイス調査の実態についての北村稔の調査結果が影響したという説もある[32]

久野輝夫(元中京学院大学准教授)は被害者数を37820人としている[33]

なお、中国軍の一次文献では、中国軍総数を約11-12万人と集計し、半数が国民政府軍に帰還、約4-6万人が戦死と捕虜(行方不明を含む)とされている[34]

数千〜2万[編集]

南京事件研究家板倉由明は、中国兵の犠牲者8千人と一般人の虐殺犠牲者5千人(南京城市と周辺農村部の一部(江寧県のみ))を合計し、1万-2万人[35]とする。

板倉自身は「虐殺数30万人のみを否定する南京事件派」を標榜している[36]。板倉の研究によると、中国軍総数を5万、そのうち戦死者数を1万5,000人、捕らわれて殺害された者を1万6,000人、生存捕虜を5,000人、脱出成功者を1万4,000人と推計した。その上で兵士の虐殺数を8,000人-1,1000人と推計し、市民に対する虐殺は、城内と江寧県を合わせた死者総数1万5,000人とし、このうち虐殺に該当するものを5,000-8,000人と推計した。結局、兵士と市民の虐殺数の合計は1万3,000人となるが、これに幅を持たせて1〜2万人と推計する[35]

この説に近い代表的な研究者は、畝本正己(『南京戦史』偕行社編集委員)、原剛防衛研究所調査員)などの他、中村粲獨協大学教授)が挙げられる。

他には北村稔立命館大学)は、南京軍事法廷および東京裁判において南京事件を確定した「戦犯裁判」の判決書を歴史学の手法で検証するという立場で分析。従前から知られていた2万弱の中国軍捕虜の殺害を新たに発掘した資料で確認している。一方で、判決書にみえる、南京攻略戦から占領初期にかけて一般市民に対する数十万単位の「大虐殺」が行われたという「認識」については、中国や連合国による各種の戦時宣伝の分析を通じ、1937年以降、徐々に形成されていったものとしている[37]。彼は、その後、2007年4月2日の日本外国特派員協会における講演で、「一般市民を対象とした虐殺はなかったとの結論に達する」と述べた[38]

「虐殺」否定説[編集]

虐殺否定派は、日本軍は戦時国際法に違反した殺害をしておらず、安全区の外国人の記録も公正さに疑問あり、などととして、30万人の市民の虐殺はなかったと主張している。主な主張者は、新しい歴史教科書をつくる会日本「南京」学会・南京事件の真実を検証する会のほか、田中正明 (元拓殖大学講師)、東中野修道亜細亜大学教授)、冨澤繁信日本「南京」学会理事)、阿羅健一(近現代史研究家)、勝岡寛次明星大学戦後教育史研究センター)、渡部昇一上智大学名誉教授)、中川八洋筑波大学名誉教授)、杉山徹宗(明海大学名誉教授)、早坂隆(ノンフィクション作家)など。

主張の内容

  • 中国兵殺害は、戦時国際法上、殺しても合法な便衣兵ゲリラ兵)であり、投降兵等の殺害も戦闘行為の延長であった。
  • 戦闘終了前後に、多くの難民の避難した南京安全区に対しては日本軍は残虐行為をほとんど行っていないし、残虐行為の多くの記録の出所である安全区在住の欧米人やその話をもとにしたジャーナリストの記録の信頼性には疑問がある。例えば、安全区の欧米人のマイナー・シール・ベイツ中華民国政府の顧問であるという資料が存在する。国民党の戦略は例え虚偽を用いてでも「支那の悲惨」と「日本軍の残虐」を世界中に訴えてアメリカを味方につけ、支那事変に巻き込んだ日本を叩き潰すためであり、マイナー・シール・ベイツはこの国民党の戦略に沿い日本軍の残虐行為という政治的謀略宣伝を世界に発信したのではないかとセオドア・ホワイトらの回想に依拠して主張[39]。またハロルド・J・ティンパーリの編著の『戦争とは何か』(1938年)にて「日本軍による南京での市民虐殺」が大々的に取り上げられ、アメリカ人に日本軍の非道を訴えその後の日米戦争の一因となったが、実際ハロルド・J・ティンパーリは上海にいて南京には居なかった。「戦争とは何か」の記述も多くが伝聞に基づくものであり、鈴木明は、ハロルド・J・ティンパーリが中国国民党顧問の秘密宣伝員であった事を明かしている[40]

2007年4月9日、「南京事件の真実を検証する会」は温家宝首相に対し、公開質問状を提出した[41][注釈 2]。質問状は以下の点につき温首相に考えを聞き、日中友好のためにも検証を進めたいと述べた[41]

  • 毛沢東は生涯ただの一度も南京虐殺に言及しなかった。毛が30万市民虐殺に触れないのは極めて不自然で不可解であるが、どう考えるか。
  • 国民党の中央宣伝部国際宣伝処は1937年12月1日から1938年10月24日まで漢口で300回の記者会見を行った[44]が、一度も南京の虐殺について言及されたことがないが、どう考えるか。
  • 国民政府が監修し1939年上海で出版された南京安全区国際委員会記録[45]では、南京の人口は日本軍占領直前20万、占領1ヵ月後の1月には人口25万と記録されていたが、この記録と「30万の市民虐殺」はありえないが、どう考えるか。
  • また同記録には、日本軍の非行として訴えられたものが詳細に列記されているが、殺人は合計26件、目撃された事件は1件のみで、その1件は合法殺害と注記されているが、この記録と「30万の市民虐殺」は矛盾するが、どう考えるか。
  • 虐殺を証明する写真がただの1点もなく、発表されているものについてはいずれもその問題点が指摘されているが、虐殺を証明する写真を提示してほしい。

秦郁彦は、こうした否定派は、従来無批判に認められていた中国側資料の一部に南京事件と無関係なものがあることを見出すなどの成果をあげたと評価している[46]。一方で、笠原十九司は、反中国姿勢が行き過ぎて、学術的には無理のある一次資料批判や事実の一方的否定の可能性を批判している[47]

戦時国際法上合法説[編集]

日本軍による殺害は、戦時国際法上は合法であった、よって虐殺はなかったと主張する説。

法学者佐藤和男[48]大原康男竹本忠雄[49]小室直樹渡部昇一[50]らによって主張されている。

当時、日中両国間の関係に適用された戦時国際法ハーグ陸戦条約であったが、軍事目標主義(ハーグ25条)[51]によれば、南京城内は安全区も含め防守地域であり、この地域に無差別に攻撃をしても合法であった(一般市民の犠牲は戦死に準じた扱い)が、日本軍は安全区に無差別攻撃を仕掛けなかった[52][誰?]

佐藤和男によれば、安全区に侵入した中国軍の便衣兵の摘出は、憲兵によりおこなわれたとされ(予備審問)、これに基づいて裁判(軍律審判)がなされたとするし、捕虜の取扱についても、軍事的必要性や復仇の可能性もある[48]。南京事件の原因は、第二次上海事変を起こした蒋介石や、日本軍の降伏勧告を無視した唐生智、安全区に侵入した中国便衣兵、侵入を許した安全区委員会にある[48]。また、混戦時においては、軍事作戦遂行のため、捕虜を拒否することも許される場合があるという国際法学者ラサ・オッペンハイムの学説にもとづく。このほか、松井石根南京城攻略要領ハーグ陸戦条約の交戦規定の一部(害敵手段の選用)の「規定ヲ努メテ尊重ス」との陸軍次官発支那駐屯軍参謀長宛の通知「交戰法規ノ適用ニ關スル件」を例として、「きわめて厳しい軍事情勢の下にありながら、戦闘部隊が交戦法規の遵守に非常に慎重な考慮を払い、激戦中にも能う限りの努力をそのために払った事実が明らかにされ、筆者などむしろ深い感動を覚えざるを得ないのである。」と評価している[48]。なお、佐藤和男がそのように評価した、1937年の8月5日「陸軍次官発支那駐屯軍参謀長宛の通知」での「交戰法規ノ適用ニ關スル件」では、ハーグ陸戦条約の精神に準拠しとし交戦規定の一部(害敵手段の選用)は努めて尊重と言いつつも、別の箇所で、ハーグ陸戦条約を厳密に遵守しなくてよいこと、捕虜という名称もなるべく使わないようすることを、現地軍に命じていた[53]


人口推移[編集]

南京の人口は南京戦以前は100万人以上とされる[54]が、8月に日本軍の空襲が始まってからは脱出する市民が数多く、スマイス調査によれば日本の攻撃・占領(12月8-13日)の直前の11月には約50万人に半減した[55]。そして、日本軍の攻撃から(逃げる場所のない)中国人市民を南京市の安全区に避難させようとした欧米人の南京安全区国際委員会が市内人口は「日本占領直後は約20万」に至ると予測し、難民救済を行った[56]

12月13日の日本占領後、日本側が住民登録を行い、約16万人(子供や老人の一部が入っていない)が登録し、南京安全区国際委員会は子供・老人等を含めると人口は約25万人と算定した[57]スマイス調査は、占領時の12月12〜13日の南京の人口は約20-25万人とした[58][54]。また三か月後の1938年3月の人口は22万1150人で、これは未調査分を含めた人口全体の80〜90%とした[54][59]

2007年、南京事件の真実を検証する会(会長:加瀬英明、事務局長:藤岡信勝)は、国民政府が監修し1939年上海で出版された南京安全区国際委員会の記録 Documents of the Nanking Safety Zone[注釈 3]、南京の人口は日本軍占領直前20万であるが、占領1ヵ月後の1月には人口25万に増加と記録されていたが、5万人も増えたというこの記録からして「30万の市民虐殺」はありえないと主張した[41][注釈 4]

一方、笠原十九司は、一般市民の人口20万人の増減の考察に対して、南京事件の犠牲者で一番多かったのは中国軍人であり、負傷兵・捕虜・投降兵・敗残兵が戦時国際法に反した日本側の殺害の対象となったことを、「数字いじりの不毛な論争は虐殺の実態を遠ざける」の論説の中で強調した(同氏は30万人殺害も中国側の虚構数字とする)[61][疑問点 ]

ジョン・ラーベは安全区での人口増があったとしても、市内の安全区の外からの移動ではないかと推察している[62]

虐殺の対象[編集]

一般市民に関して[編集]

日本軍による南京事件の民間人の死者数についてスマイス調査では6600人〜1万2000人と記録されている。秦郁彦は、民間人の犠牲者数が過大にならなかった理由としては、南京市陥落前から欧米の宣教師らが組織した南京安全区国際委員会によって南京市内に安全区[注釈 5]が設定され、多くの被災民が避難できたことにあると述べる[64]。「ラーベの感謝状」[注釈 6]にもあるように、南京安全区(別称 難民区)に対しては、日本軍は砲撃を仕掛けなかったとされ、占領後も日本軍は組織的な住民虐殺を行っていないが、ただし、安全区内でも個々の虐殺の記録はあり、決して過少ではない[66][67]

しかし笠原十九司によれば、南京周辺において日本軍が組織的でときに村単位の住民虐殺を行った記録は南京城外の農村地域において南京への進軍中のもので[68]、この農村での虐殺については日中共同研究において中国側も具体的に指摘しており、スマイス調査でも農村地域の犠牲者は2万6千人以上と記録されており、南京城内の被害者数を上回る。

徳川義親ジョン・ラーベの記録などでは、南京城内の殺害の実数は大規模でなく、城外では兵卒とともに殺害されて遺体が長江に流されたと記録がある[69]

東中野修道らは、中国軍敗残兵の暴行が日本兵の仕業と誤った可能性や、中国側の漢奸狩りや「堅壁清野作戦」という焼き払い作戦のように中国側も残虐行為を行ったことを主張している。なお、多数の敗残兵が便衣に着替えて安全区(難民区)に逃れたことは孫宅巍臼井勝美なども認めている[16][70]

中国軍が陥落前に南京市内やその周辺の建物を焼いたことは当時のニューヨークタイムズにも報道された[71]。中国軍の南京市の焼き払いは、南部と南東部の城壁周辺の一部と城の西方面にある建物が中心であった。しかし、城内の南京安全区外の中心街の放火(太平路周辺など)をはじめとした市内広範囲は日本軍の放火であるとニューヨークタイムズは報道し[72]ジョン・ラーベやスマイスら欧米人の記録にも書いてある[73]。上海派遣軍参謀長飯沼守も日記でソ連大使館の放火は日本軍による疑いがあるとした[74]

南京における日本軍の乱暴狼藉は中国側の撹乱工作隊の仕業だとも1938年1月4日にニューヨークタイムズは報道し、また不徹底な放火と報道された[72]。ベイツも日本軍の犯行だけではなく、中国人による犯行もあったと記録している[75]

しかし、板倉由明によれば、東中野修道らの中国敗残兵工作説は、中国軍兵士と疑われる人物の安全区内での逮捕事件を日本側が「中国兵も悪いのだ」と宣伝した当時の記事を誇張しているだけで、工作隊を捕らえたのがどの部隊かも明らかでなく、第16師団関係者、憲兵隊関係者の日記や証言や新聞にも全く見当たらないと批判している[76]

便衣兵に関して[編集]

兵士が民間人を装って戦闘行為を行う便衣兵であるとして中国兵が殺害された事例があり、例えば12月14日-16日の安全区において、日本軍が、元中国兵を約6500-6700名ほど摘発し、処刑した[77]。便衣兵としての戦闘行動は、当時の戦時国際法ではハーグ陸戦条約第23条第2項で禁止されている。また、便衣兵であるかないかの基準は、同条約1条で交戦者(戦闘員)は軍服着用を規定されており、同条約第3条には戦闘員であることを示さないで戦闘行為を行おうとしている者は便衣兵の対象となり捕虜待遇を受ける資格がないとされ、軍律軍律会議を経て、また敵対行為(戦時反逆)をすれば軍律で定めれば即決処分も可能である[78]。石田清史は「戦争法規を犯して敵対行為を働く者は単なる戦時重罪犯、戦時刑法犯であるから国際法の保護を受けない」という[78]

ただし、戦前の国際法学者信夫淳平は「交戦者たるの資格なきものにして害敵手段を行ふのであるから」との定義があり、(軍服着用などの交戦者資格の有無のみならず)、害敵手段(戦闘行為やテロ行為)を行うものを便衣兵としている[79]。同じく、戦前の戦時国際法の研究者篠田治策も、当時『北支事変と陸戦法規』において、抗戦の意図はなく専ら逃亡目的で平服を着用していて敵対行動をとらない兵士は、便衣兵とは見なしていない、と記している[80]

一方、東中野修道は、(軍服着用などの)交戦者資格を満たしていない場合は(そのまま)非合法戦闘員(便衣兵)となり、戦時国際法に照らして処刑しても合法であり、虐殺ではないと主張した[81]。東中野のこの国際法理解については、吉田裕との間で論争が行われた[82]

同じく、日本軍による殺害は戦時国際法上は合法であったと考える国際法学者佐藤和男も、一般に武器を捨てても(機会があれば自軍に合流しようとして)逃走する敵兵は、逃走したと認められないので、攻撃できるとする[83]。佐藤は「兵民分離が厳正に行われた末に、変装した支那兵と確認されれば、死刑に処せられることもやむを得ない。多人数が軍律審判の実施を不可能とし(中略)また市街地における一般住民の眼前での処刑も避ける必要があり、他所での執行が求められる。したがって、問題にされている潜伏敗残兵の摘発・処刑は、違法な虐殺行為ではない」とする[84]

他方、秦郁彦は、「便衣兵捕虜と異なり、陸戦法規の保護を適用されず、状況によっては即時処刑されてもやむをえない」が、「一般市民と区分する手続きを経ないで処刑してしまってはいいわけができない」としており[85]、南京占領後、便衣兵摘発に日本軍は手こずり、疑わしい一般人を処刑したとされる記録がある[86]。兵民分離は厳正でなく荒っぽく行われており、水谷上等兵の証言では「目につく殆どの若者は狩り出される」「市民と認められる者はすぐ帰」すが、他は銃殺、「哀れな犠牲者が多少含まれているとしても、致し方のないこと」とある[87]

北村稔も「手続きなき処刑の正当性」には疑問を示している。[88]

日中歴史共同研究北岡伸一は、「便衣隊についても、本来は兵士は軍服を着たまま降伏すべきであるが、軍服を脱いで民衆に紛れようとしたから殺してもよいというのは、とんでもない論理の飛躍」と主張している[89]

なお、軍律軍律会議については、当時の軍隊は、占領地で戦時の敵対行為などについての司法・処罰を独自で定められる軍律軍律会議を設置することが認められることがハーグ陸戦条約第三款42条以下で定められていた。そして、日本軍も南京占領前の12月1日に中支那方面軍軍律、軍罰令、軍律審判規則を定めており、その中支那方面軍軍律の第4条では、自首については刑の軽減が考慮されると規定があり、同軍律審判規則の第1条では軍律会議にて「軍律を犯したる者に対し其の犯行に付之を審判する」、その他条文で軍律会議の審判官の構成など、第8条では「軍律会議に於て死を宣告せんとするときは長官の認可を受くべし」などと定められている(この「注釈」に中支那方面軍軍律の全文と軍罰令・軍律審判規則(一部略)の本文があり)[90] [注釈 7]

投降兵・捕虜の扱いに関して[編集]

南京戦では、日本軍による中国人捕虜の組織的殺害が発生したが、山田支隊の行ったとされる1万人単位の大掛かりな捕虜の殺害は稀な例であり、数十人や数百人単位の虐殺が数多く発生し、合計で約3万人の捕虜・投降兵などが殺害されたと、秦郁彦は説明する[91]

当時の捕虜の取り扱いに係る戦時国際法として日中間でともに受け入れていたものはハーグ陸戦条約(1907年改定後)であり、日本・中華民国がともに条約として批准(中華民国:1917年5月10日、日本:1911年12月13日)[92]していた。同条約の第4条には「俘虜は人道をもって取り扱うこと」となっており、同条約の第23条第3項では「兵器を捨て又は自衛の手段尽きて降を乞へる敵を殺傷すること」が禁止されている。なお、同じく捕虜などの保護を定めた条約でありハーグ陸戦条約に定めた捕虜の取り扱いを補完する役割を持つ、赤十字国際委員会の提唱がきっかけとなて成立した[93]俘虜の待遇に関する条約ジュネーブ条約)は、中華民国は1929年7月27日に署名、1935年11月19日に批准していた[94]が、日本は署名のみで批准していなかった[95][96]

なお、戦時国際法に対して日本陸軍は、1937年8月5日の通牒「交戰法規ノ適用ニ關スル件」で、ハーグ陸戦条約の一部(害敵手段の選用)は努めて尊重と言いつつ、同条約の「具体的事項ヲ悉ク適用シテ行動スルコトハ適當ナラス」及び「俘虜等ノ名稱ノ使用」を「努メテ避ケ」る、と通知したが、つまり「捕虜の待遇を含め国際法を守らなくてもよい」・「捕虜という名称をできるだけ使わない」という判断を明示せずに現場に判断を押し付けたかのように表現した[97][98]。捕虜収容所などの管理機構も作らなかった[99][注釈 8]戦陣訓はまだ公布されていなかったが、日本軍では捕虜をタブー視しており、秦は「捕虜になることを禁じられた日本兵が、敵国の捕虜に寛大な気持ちで接せられるはずはな」いとする[101]。また日本は大量の捕虜がでたときの指針に欠け、上海戦では捕虜処刑が暗黙の方針になっていたが、首都の南京攻略では明確な方針があるべきだったと秦郁彦は述べる[102]

一方で、日本軍による殺害は戦時国際法上は合法であったと考える佐藤和男は、作戦遂行の妨げになる場合の投降拒否は合法という意見で、軍事作戦遂行のため、捕虜を拒否することも許される場合があるという(国際法学者ラサ・オッペンハイム)の考えに沿った説を唱える。佐藤は、「日本軍の関係部隊には緊迫した「軍事的必要」が存在した場合のあったことが知られる。『オッペンハイム 国際法論』第二巻が、多数の敵兵を捕えたために自軍の安全が危殆に瀕する場合には、捕えた敵兵に対し助命を認めなくてもよいと断言した一九二一年は、第一次世界大戦の後、一九二九年捕虜条約(注:俘虜の待遇に関する条約ジュネーブ条約)のこと)の前であって、その当時の戦時国際法の状況は、一九三七年の日支間に適用されるべき戦時国際法の状況から決して甚だしく遠いものではないことを想起すべきであろう。支那側の数々の違法行為(通州事件を含む)に対する復仇の可能性、和平開城の勧告を拒絶して、結果的に自国の多数の良民や兵士を悲惨な状態に陥れた支那政府首脳部の責任、右の勧告を拒絶されながら、防守都市南京に対する無差別砲撃の権利の行使を自制した日本軍の態度、など関連して検討すべき法的問題点はなお少なくない」と述べている[103]。16師団経理部の小原少尉の日記によれば、310人の捕虜のうち、200人を突き殺し、うち1名は女性で女性器に木片を突っ込む(通州事件での日本人殺害で行われた方法)と記し、戦友の遺骨を胸に捧げて殺害していた日本兵がいたと記している[104]。ただし、佐藤は、俘虜の待遇に関する条約ジュネーブ条約)で捕虜への復仇が禁止されていることを記載[105]している。

しかし、当時の国際法学者の信夫淳平は、当時の上海戦の状況について、便衣隊は戦時国際法違反だが、「確たる証拠なきに重罪に処する」は「理に於ては穏当でない」とし[106]、また18世紀の欧州で食糧不足を理由にした捕虜虐殺は「今日の交戦法則の許さざる所」で、「俘虜にして之を安全に収容し置く能はざる場合は之を解放すべきである。敵の兵力を増大することの不利は人道の掟則を破るの不利に比すればヨリ小である」とホールの学説を紹介している[107]

北岡伸一は「捕虜に対しては人道的な対応をするのが国際法の義務であって、軽微な不服従程度で殺してよいなどということはありえない。」[108]と主張している。 原剛は、「当時の国際法や条約に照らしても不法殺害」と主張[109]吉田裕は「仮に不法殺害に該当しないとしても非難・糾弾されるに値する」し[110]、「日本軍は投降捕虜の安全について明確な軍令を出してはいないが、殺害を事実上黙認していたかのように読める命令を発していた」と主張している[111]

期間と場所[編集]

事件の期間[編集]

東京裁判では「日本軍の南京占領(1937年12月13日)から6週間」という判決を出しており南京大虐殺紀念館や日中両国の研究者もこれを事件の期間とするのが通例である。

笠原十九司は、南京市のみならず、周辺部の農村部である南京行政区への日本軍進入後の事件も被害の対象にしているので、異説としても少し早い時期も含めた「1937年12月4日 - 1938年3月28日の4ヶ月」説を唱える[要出典]

地理的範囲[編集]

この論争での地理的概念は広い順序で示すと次の通りとなる。

  • 地理的概念として地区を限定しないもの
  • 南京行政区 :南京市と近郊6県
  • 南京市 :城区と郷区
  • 城区 :南京城と城外人口密集地である下関・水西門外・中華門外・通済門外
  • 南京城 :城壁を境にした内部
  • 安全区 :南京城内の中心から北西部にかけた一地区(面積3.86km²)

東京裁判では、検察側最終論告で「南京市とその周辺」、判決文で「南京から二百中国里(約66マイル)のすべての部落は、大体同じような状態にあった」としている。事件発生後に行われた被害調査(スマイス報告)では、市部(城区)と南京行政区が調査対象とされた。

板倉由明は「一般には南京の周辺地域まで」とする[112]

藤原彰は、この定義に対し、日本軍が進撃した広大な地域で残虐行為が繰り返し行われており、もっと広い地域を定義すべきである、虐殺数を少なくするために地域や時間を限定している、と批判した[113]

笠原十九司は、大本営が南京攻略戦を下命した12月4日における日本軍の侵攻地点、中国側の南京防衛線における南京戦区の規定より、地理的範囲を南京行政区とする[114]。これは、集団虐殺(とされる行為)が長江沿い、紫金山山麓、水西門外などで集中していること、投降兵あるいはゲリラ容疑の者が城内より城外へ連行され殺害された(とされている)こと、日本軍の包囲殲滅戦によって近郊農村にいた100万人以上の市民の中の一部が多数巻き添えとなっている(とされる)ことなどによるとする[115]

本多勝一は、第10軍と上海派遣軍が南京へ向けて進撃をはじめた時から残虐行為が始まっており、残虐行為の質は上海から南京まで変わらず、南京付近では人口が増えたために被害者数が増大したし、杭州湾・上海近郊から南京までの南京攻略戦の過程すべてを地理的範囲と定義する[116]

当時の国際社会の認知についての議論[編集]

国際連盟の決議[編集]

国際連盟第100回理事会議事録[117]では、「中国への道義的支援」等についての、その前年10月に行った国際連盟総会での、日本の中国侵略への「非難決議」を再度確認している。10月に日本の軍事行動が不戦条約等の国際法違反であることへの非難決議がすでになされており、それを確認つまり再度非難したのであり、南京事件も含めた日本の侵略行動が非難決議された。笠原十九司によれば、中国側は、11月以降の日中戦争全般についての深刻な事態を「南京事件も一部として」説明し、日本の中国への主権侵害が中国の存亡にかかわる深刻な状況にあること(日本が南京に傀儡政権を作った、中国に不利な関税策を一方的に設置したなど)にも力点を置いて説明している[118]

当時の中国政府の認知[編集]

虐殺否定派は、当時の中国国民党が行っていた300回の記者会見においても一度も南京事件は言及されたことがないとする(戸井田徹[119]東中野修道[120])。

しかし、中国国民党蒋介石は1938年7月7日漢口での「日本国民に告ぐ」において、日本軍の略奪、暴行、残酷な殺人を非難している[121]蒋介石夫人宋美齢も、南京の殺戮を1938年1月にアメリカの友人宛ての手紙に書いている[122]。また、国民党に近い新聞「大公報」では南京事件を残虐行為としてとりあげている[123]

当時の国際報道についての議論[編集]

日本の前途と歴史教育を考える議員の会によれば、南京事件の発生後の約2ヶ月の新聞記事を調査したところ、その間は、12月の場合は市民が大虐殺されたとか、1月以降も強姦や殺人事件があったという記事はなく、むしろ、アメリカの船パネイ号事件の日本軍による沈没事件[124]や、1938年1月26日に発生した在南京アメリカ領事ジョン・ムーア・アリソンを日本軍人が殴打した事件(アリソン殴打事件[注釈 9])が主であり、アリソン殴打事件よりも記事の重要度が低いなら、例えば強姦や殺人は南京には当然なかったとみなせる[129]西川京子議員は、ニューヨークタイムズもロンドンタイムズも虐殺など全く報道していないと、2013年4月の衆議院予算委員会で述べた[130]

しかし、シカゴ・デイリー・ニューズの12月17日版でも民間人殺害が報道され[131]ニューヨーク・タイムズ(12月18日)では「・・少なくとも戦争状態が終わるまで、日本側の規律は厳格であろうという気はしていた。ところが、日本軍の占領が始まってから二日で、この見込みは一変した。大規模な略奪、婦人への暴行、民間人の殺害、住民を自宅から放逐、捕虜の大量処刑、青年男子の強制連行などは、南京を恐怖の都市と化した」「民間人の殺害が拡大された。水曜日、市内を広範囲に見て回った外国人は、いずれの通りにも民間人の死体を目にした。犠牲者には老人、婦人、子供なども入っていた」「民間人の死傷者の数も、千人を数えるほどに多くなっている。唯一開いている病院はアメリカ系の大学病院であるが、設備は、負傷者の一部を取り扱うのにさえ、不十分である。」と報道している[132]

イギリスのタイムズ(12月20日)の記事でも、「日本軍は安全区に入り、戸外で捕らえた中国人を、理由もなくその場で銃殺した」ことが書かれているし[133]、そのほか、ロイター通信社も、事件初期の殺人、傷害、強姦、略奪などの犯罪行為が日本軍によって行われたと報道した[134]

アメリカの新聞は、南京事件よりも、パネイ号事件(アメリカの船の日本軍による沈没事件[124])を確かに大きくとりあげたが、まずパネイ号事件は、当時アメリカと日本との間では重大問題となっており、日本海軍・外務省も巻き込んで解決されたが、日米開戦もあわやという事件[135]であった。そして、パネイ号事件は、アメリカ人も同時期のアジアの一部でおきた南京での虐殺事件の新聞報道よりも、アメリカの船を意図的に攻撃したのでは、との世論の高い関心を呼ぶこととなり大きく連続してアメリカでは報道された[136]。同じく、南京事件よりもアメリカで報道されたとされるアリソン殴打事件(在南京アメリカ領事ジョン・ムーア・アリソンを日本軍人が殴打した事件)は、米本土で日本に対する世論の憤慨を巻き起こし、ワシントンでは日本特産シルクのボイコットを求めるデモも発生し、外務省側の陳謝でようやく沈静化した事件であった[137]

なお、現地欧米人記者は南京占領後すぐ上海方面へ避難したので、ごく初期の事件以外は自社の記者では直接確認できなかった[138]。当時ニューヨーク・タイムズ記者だったティルマン・ダーディン特派員は、南京から逃げるときは長江を船を使って下り、上海に向かった[138]。またダーディン記者は上海戦が始まってからおよそ二、三週間後(日本軍が南京に向かい上海から進軍する約3か月前)に南京に向かい、南京に在住した[138]。「戦闘に遭わずに南京に行くため」、上海からは南の道をつかって行った[138]1989年文藝春秋誌上では「日本軍は上海周辺など他の戦闘ではその種の虐殺などまるでしていなかった」「上海付近では日本軍の戦いを何度もみたけれども、民間人をやたらに殺すということはなかった。」「(上海から南京へ向かう途中に日本軍が捕虜や民間人を殺害していたことは)ありませんでした。」と答えている[139]

「南京戦史」(偕行社)編纂者で南京戦当時独立軽装甲車第二中隊小隊長の畝元正己は、日本に敵意を持つ英米独の宣教師や新聞記者らは、日本軍の行動を針小棒大に伝聞、憶測まで伝えたとする[54]

虐殺否定派の東中野は、南京陥落後の12月13〜15日は日本軍は掃討戦中であり、安全区国際委員会に届けられた殺人事件もそれが全てではないにせよ目撃者のないものが5件のみでスティールら外国人記者が見たという証言の信憑性を疑い、また日本の外交官宛の「虐殺の外電」についても同様に「伝聞が情報源であり日本政府(もしくは軍部)は誤情報を報告されたのではない」としている[140]。また、東中野は当時『ニューヨーク・タイムズ』に掲載された「南京虐殺の証拠写真」とされる写真も虚偽写真の可能性があると指摘している[141]。たとえば日本兵の内地への手紙についても正確性や信憑性に疑問が呈されている(例えば、虐殺行為を手紙で内地へで伝えたとしても検閲で落とされるため)[142]

渡部昇一は、『ニューヨーク・タイムズ』やアメリカの地方紙の「大虐殺」の記事を、便衣隊あるいはそれと間違われた市民の処刑を見て誤解したと推定する[143]

証言[編集]

日本人証言者[編集]

虐殺があったとする証言[編集]

当時、実際に従軍した元日本軍人の方々の証言が多数存在する。

  • 外交官日高信六郎は東京裁判でも証言し、それ以外にも証言を残している[144]
  • 陸軍のOB会偕行社が1984年より集めた「証言による南京戦史」及び「南京戦史」の中に数多く掲載されている。
  • 元海軍の奥宮正武『私の見た南京事件』PHP研究所 (1997)にも事件の証言が掲載。

以下、批判や疑義の出された証言。

証言者 時期 発表媒体 証言内容 備考 評価・批判
田所耕三 1971年頃 『アサヒ芸能』昭和46年1月28日号 下関にいて陥落後10日間にわたって、城の内外で耳鼻をそいだり残虐行為を繰り返し、女を略奪して兵に分けたりした 洞富雄アイリス・チャンザ・レイプ・オブ・南京)が引用。 水戸の兵士なら第102連隊で下関までは行っていないはず。また数日後には南京から転進している。阿羅健一が田所に面会すると「(ルポライターが)南京での残忍な話に執心するので、しばらくして南京での作り話をしてやると、ルポライターは目の色を変えてそれらを書き留めだした。その態度を見て、わたしはいっそう膨らまして話をした。ルポライターはさらにのってきた。それがあの証言で、私自身は城内に入ってもいなければ、下関にも行っていない。あの話はまったくのウソなのだ」[145]
赤星義雄 1979年 『揚子江が哭いている』創価学会青年部反戦出版委員会 歩兵13連隊の二等兵。14日下関の揚子江岸で「広い川幅いっぱいに、数え切れないほどの死体が浮遊し」「5万人以上」「ほとんどが民間人の死体」が流れていた。 板倉由明は、流速は時速数キロとみて数時間たてば南京から見られなくなる。水は濁っており一部しか水面上に出ていない水死体を遠望して軍民別、年齢などが解かるわけがない。下関は中国軍によって焼き払われ住民は避難していたと思われる、城門は9日に閉鎖され住民は出入りできない状態だった。揚子江上にいた米、英、日の艦船、連絡線乗組員、便乗の新聞記者、碇泊場司令部の日記にはこのような記録がない、等の疑問点を挙げた[146]
高城守一 1979年頃 『揚子江が哭いている』創価学会青年部反戦出版委員会 輜重6連隊小隊長。南京に2日いた。14日下関の兵站まで物資を取りに行った。下関には数隻の輸送船、護衛艦も見えた。揚子江に「民間人と思われる累々たる死体が浮かび」「十名前後のクーリーが射殺されるのを目撃した」「おびただしい糧秣が揚陸されていた」 軍艦の突入が13日15時40分で、「軍艦以外の貨物船などが南京まで運航するのは、機雷除去が進んだ18日以降であり、14日というのはおかしい[147]。なお碇泊場司令部勤務の梶谷日記は日付と業務を記してある。
中川誠一郎(仮名) 1979年頃 『揚子江が哭いている』創価学会青年部反戦出版委員会 野砲六連隊。中華門攻撃に加わり陥落後、「南京城を素通りして、ただちに蕪湖へと向かった」。途中の下関で、延々と黒焦げの何百台という自動車と何百人にのぼる住民の死体を見た。「『この肉もうまいぞ』と出された肉を何人かの兵が食べた」。それは中国兵の大腿部の肉だったと後で聞かされた。 秦郁彦はこの証言者の「老農夫をなぐり殺したシーンも見た」「二百人近い敗残兵・・・“捕虜をつれて戦ができるか”と一喝され、数日後に皆殺しにしたと聞かされた」回想を、下関釈放捕虜の行く末だった可能性が高いとして採用した[148]。中華門は南京城の南端で、蕪湖は南京の南南西90キロ辺りにある。下関は南京の北西端城外だから、素通りしたら下関は通らない。応召し(兵歴記載無し)砲の取扱い訓練も経ずに6日後には分隊長となり、蕪湖では野砲を離れ宣撫班の班長になったと軍歴は不自然である。
中山重雄 1983年頃 朝日新聞昭和58年8月5日、昭和59年6月23日夕刊 雨花台で大虐殺を実見した。 朝日新聞は中山を「南京大虐殺」を目撃したとして講演活動する中山を戦争の語り部と持ち上げ、新聞・テレビ紹介、記録映画も製作されると報道した[149] 板倉由明の再三の問合せに答えず。語った内容を検証すると、“雨花台で実見した大虐殺”は、「中山氏が所属していた戦車第一大隊は中山門正面で戦闘をしており」「場所的にも時間的にも目撃不可能であった。また、城内で目撃したと語っている死屍累々の光景は、日本軍兵士の誰も、いや、ほぼ同時に入城して、後に日本軍の虐殺を書いた朝日・今井正剛記者や東京日々新聞・鈴木二郎記者すら見ていない光景であった[150]
曽根一夫 1984年頃 手記で、分隊長として面子から捕虜の斬首をした、分隊の先頭を決死の渡河をした、分隊員を率い掠奪、(分隊員の後で)輪姦、殺人をした、等々と記す。 笠原十九司が執筆した教科書『世界史B』(平成5年検定)は曽根の文章に似た文を引き、“掠奪”は軍の命令だった[151]とした。板倉による原本提示要求を笠原も出版社も無視した[152]。しかし、板倉は文部省に改定を要求し、『諸君!』に論考を発表するなど各方面へ働きかけて、出版側は「命令」が曽根本からの引用であることを認め、内容も修正された[153] 板倉由明の反証では、連隊は夏野鎮まで行軍。「曽根氏はこの徴発隊に参加していない」「行軍中御者は馬と共にあり・・・曽根氏が徴発に行って、非行の体験や実見をするはずが無い」、出たことも無い徴発での虐殺や掠奪を行うことは不可能である[154]。戦友会から隊史、戦闘詳報、陣中日誌などの他の資料との考証から、曽根が歩兵分隊長でなく、野戦12中隊第一分隊の前馬、一等兵の新兵で、御者であったことが判明する[155]。ほか至南京途中の虐殺原因を半月ずらした糧秣欠乏に求めた点[156]、架空の下関大虐殺[157]、戦友の残虐談・部落襲撃もその戦友は否定しており[158]、日記も創作であった[159]。一方、秦郁彦は「ほぼ要望に答えてくれる絶好の証言記録」として評価し[160]」、他の「伝聞記[161]」でなく曽根手記から捕虜殺害例[162]、紫金山付近の住民殺害[163]、クーニャン狩り[164]、残虐行為の心的要因[165]に引用した。板倉由明は秦に曽根手記の全削除を要求した[166]
東史郎 1987年頃 日記を日本共産党の新聞赤旗に連載。自著『わが南京プラトーン―一召集兵の体験した南京大虐殺』(青木書店、1987)『東史郎日記』 熊本出版文化会館、2001年刊行。 1月23日、南京転出のため立寄った下関と思しき波止場で、なぎさに敵兵の死体が山となって転がっており、毎日トラックで敗残兵で積んできた奴を河の中へ突き落とし射ち殺すのだと、その兵士から聞いた。
隠れている女の子を見つけると100%犯した。1人ではなく5人で犯した。その後は殺し、火をつけて燃やした。罪悪感はなかった[167]
上官の元陸軍第16師団歩兵第20連隊伍長が「中国人を郵便袋の中に入れ、ガソリンをかけて火をつけ、手榴弾を袋のひもに結びつけて沼の中にほうり込んだ」と証言した[167]
元上官から名誉棄損で提訴された。上官がやったという郵便袋による殺害は物理的に不可能であり、日記も数年後に書いたものと最高裁で判定した[167]
東は訪中するたびに英雄として各地で熱烈歓迎を受けた[168]
2015年、カリフォルニア州の公立高校の世界史の授業で東証言は教材として使用されていることがわかった[167]
笠原十九司は東史郎手記から、兵士の安眠のために部落農民を殺すのだった、と教科書『世界史B』に引用した[169]上杉千年はその不適を説いた[170]。板倉によれば、停泊場司令部は12月28日までに港湾の死体処理を終わらせた[171]。敗残兵の掃蕩も第二次便衣狩りが1月5日に完了している[172]。検証なき引用[173]は、内容の真偽をめぐる裁判が係争中でもあり、差し替えられた。
太田寿男 1990年頃 毎日新聞1990年12月14日夕刊 撫順戦犯管理所で長期拘置中(17年後の1954年)に書いた供述書は、日本軍が下関を中心に15万の死体を処理したと綴る。 事実なら、中国側「15万5千余」と合わせ「南京大屠殺30万」が証明されることになり、『侵華日軍南京大屠殺史稿』他に要旨を載せたと毎日新聞は報じた[174] “犯罪事実”を自白・認罪し自己批判した程度によって罪の軽重すなわち刑期が決まる、撫順戦犯管理所で長期拘置中(17年後の1954年)に書いた供述書であると板倉は指摘[175]。板倉によれば、竹田昌弘記者には取材過程で、畝本正己から記事、日記[176]を示して虚偽であることを明確に説明してあった。調べると識者論評も曲解という。「この明白な犯罪は、毎日新聞社に乗り込んでやっと認めさせたが[177]」、謝罪は行わず。日記にアリバイがあること、長期拘置中の供述であること、一次資料による検証等から判断し」、供述は「客観的に信憑性ゼロ」と板倉は結論した[178]。産経新聞は部下の日記を下に信憑性を否定した。一方、早稲田大学教授中原道子は太田の供述を“歴史の真実”とする[179]。板倉はその著作7論点11ヵ所に真実である証明を求めた[180]が、「日中両国の専門家の研究をふまえ」とのみ岩波側から回答があった[181]。中原は板倉の証明要求を「前向きで建設的な姿勢はいささかも読み取ることができ[182]」ないと言い、自らは「戦争を知らない世代に歴史の真実を伝える[183]」のが基本姿勢として板倉を一蹴した。
船橋照吉 1991年頃 石原発言を許さない京都集会実行委員会(心に刻む会、カトリック福音センター京都、京都府教職員組合、真宗大谷派反靖国、浄土真宗本願寺派反靖国、日本社会党京都府本部、部落解放同盟。代表駒井昭雄。)」が出版した冊子に東史郎証言と共に掲載。 板倉由明の質問に「基本的事項があやふやで、肝心の点は『忘れた』と言い、また、歩兵九連隊の実戦記録とはなはだしく異なることを指摘すると、結局、「自分は輜重特務兵であった」と「真実を告げ、9月2日に京都で立ち会いのO氏を交えた会談で、日記の偽造を白状した」「舟橋氏は、公演や日記の公表は、東史郎下里正樹(赤旗記者、「隠された連隊史』著者)、吉田保(京都機関紙印刷センター代表)など各氏に説き伏せられてイヤイヤやったものだ、とか、旅費は持つから中国へ行こう、と誘われた」とも板倉に語った[184]。輜重特務兵なら、最前線でトーチカ攻撃をしたり、捕虜の機関銃での虐殺などは架空の話だったことになる[185]
松岡環編纂の証言集 2002年 南京大虐殺60ヵ年全国連絡会共同代表の松岡環による「南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて-元兵士一〇二人の証言」(社会評論社)が刊行。 テレビ朝日「ニュース・ステーション2002年8月15日にて松岡環著に関連して取材した内容が放送された。松岡は武田倫和監督の映画『南京 引き裂かれた記憶』映画を制作公開。 証言がすべて匿名や仮名であり第三者の検証ができないことや、証言の不自然なことなどを東中野修道阿羅健一らの否定派は指摘した[186]。また本多勝一小野賢二ら肯定派も、これほど間違いの多い本も珍しいなどと批判した[187]

虐殺がなかったとする証言[編集]

  • 歩兵第20連隊(福知山連隊)大隊長森王琢は「私の大隊は南京城の東正門の中山門を攻撃した。激戦したが、13日の午前3時10分、砲撃で城壁を崩し、その勢いではい上がり、軍旗を立てました。私はその時は城外の丘の上におり、城内には師団長と共に十五日に入場した。宿営地について陸軍省の先輩に会い、その日の午後、二人で戦場の視察に出かけた。山陵、紫金山など見て歩いた。翌年の1月19日に命令で転進したが、それまでは南京とその周辺の警備に当たつていた。したがって南京の大虐殺が行われたという時期、あったかないか、私は確信をもってお話しできるただ一人の人間だと思っています。例えば火事があったという人、なかったという人がいる。あったという場合には焼け跡を示すことが出来るが、なかった場合というのは、明かしは立てにくい。それと同じで、南京で虐殺があった、婦人が乱暴された、家が焼かれたと盛んに言われているが、それがほとんどウソであることを申し上げる」と証言している[188]
  • 古沢智(第6師団歩兵第13連隊伍長)[189]
  • 永田尚武(第6師団 第13連隊 第3大隊 砲兵小隊)
  • 齋藤敏胤(第9師団 第18旅団司令部)
  • 喜多留治(第9師団歩兵第7連隊)
  • 近藤平太夫(第9師団歩兵第36連隊伍長)
  • 納谷勝(第9師団 歩兵第7連隊 第11中隊) 
  • 野中祥三郎
  • 稲垣清(第16師団輜重兵16連隊第6中隊) 
  • 市川治平(第16師団第33連隊第2大隊第5中隊第1小隊長)
  • 当時南京の日本大使館で外交官補だった福田篤泰は「20万、30万の虐殺はおろか千単位の虐殺も絶対にない。(略)衆人環視の中である。そんなことなどしたら、それこそ大問題だ。絶対にウソである。宣伝謀略である」と述べた[190]
  • 歩兵第65連隊両角業作部隊)の栗原利一は12月17日幕府山事件での捕虜殺害について証言を残しているが、「これは虐殺ではなく戦闘として行ったもの」で、「殺したなかに一般人は一人もいない。当時日本軍の戦果は私たちの13,500を含めて7万といわれていたが、現在中国で言うような30万、40万という大虐殺などとても考えられない。」と述べた[191]

山田支隊の捕虜処断の証言(戦時国際法上に合法か)[編集]

俗に幕府山事件とも言われる、捕虜処断の証言について、戦時国際法上に合法かにかかわる相対する証言を記する。 第13師団第65連隊を主力した山田支隊(長・山田栴二少将)は、1937年12月13日〜15日にかけて、烏龍山砲台、幕府山砲台その他掃討地域で14777名以上の捕虜を捕獲し、幕府山にあった国民党軍の兵舎に収容した。1937年12月17日付『東京朝日新聞』朝刊には、「持余す捕虜大漁、廿二棟鮨詰め、食糧難が苦労の種」という見出しで記事が掲載されている。山田少将は軍上層部へ処置を問い合わせたところ、殺害するように命令を受けた。この多数の捕虜の処置について、殺害数や殺害理由が、戦時国際法上で合法か?について議論される。

自衛発砲説
自衛発砲説とは、当時、第65連隊長だった両角業作大佐手記証言に基づいた見解で、虐殺は少数で、戦時国際法上、合法と主張する。
両角手記によれば、捕らえた捕虜は15300余名であったが、非戦闘員を抽出し解放した結果、8000人程度を幕府山南側の十数棟の建物に収容した。給養のため炊事をした際に火災となり、混乱によって半数が逃亡した。
軍上層部より山田少将へ捕虜を殺害するように督促がなされ、山田少将は両角大佐へ捕虜を処分するよう命令する。両角大佐はこの命令に反し、夜陰に乗じて捕虜を長江対岸へ逃がすことを部下に命じた。長江渡河の最初の船が対岸へ進んだところ、対岸より機関銃による攻撃を受けた。渡河を待っていた残りの捕虜は、この攻撃の音を自分たちを江上で殺害するものと錯覚し、暴動となった為、やむ得ず銃火をもって制止し、その結果、僅少の死者を出し、他は逃亡した。[192]
小野賢二説
小野賢二は、歩兵第65連隊の元将兵に対する聞き取り調査の結果、証言数約200本、陣中日記等24冊、証言ビデオ10本およびその他資料を入手し、これらの資料を基に、自衛発砲説には一次資料による裏づけが無いと批判、以下のような調査結果を発表する。
山田支隊が捕らえた捕虜は、12月13日〜14日にかけて烏龍山・幕府山各砲台付近で14777名、その後の掃討戦における捕虜を合わせると総数17000〜18000名になった。この捕虜を幕府山南側の22棟の兵舎に収容する。
12月16日、昼頃に収容所が火災となるが捕虜の逃亡はなかった。この夜、軍命令により長江岸の魚雷営で2000〜3000人が虐殺され、長江へ流される。
12月17日夕〜18日朝、残りの捕虜を長江岸の大湾子で虐殺した。同日は、魚雷営でも捕虜虐殺が行われた可能性がある。山田支隊は、18日〜19日にかけて死体の処理を行った。
小野は、山田支隊による一連の捕虜虐殺を、長勇参謀一人による独断や、山田少将による独断ではなく、軍命令によって計画的・組織的に実行されたものであり、この命令を受けた山田支隊は、準備も行動も一貫して捕虜殺害を行ったことが証言や陣中日記などで実証されているとし、自衛発砲説が成立しない(戦時国際法上は違法)と断じた。
この小野説は、南京事件調査研究会などにおいて支持されている[193][194]。ただし、小野賢二が発掘した日記群は重要でない2名を除いて残り全てが仮名であることは踏まえておかなければならない[195]

中国人の証言[編集]

  • 李秀英 - 松村俊夫は、李について「証言のたびに内容がクルクル変わるのは、実体験でない証拠だろう」と著書に書き、名誉毀損に当たるとして民事裁判を1999年9月に起こされた。東京地裁は判決で「(松村には、李が)嘘を言ったと信じる相当の理由はなかった」と述べ、松村に150万円の支払いを命じた。2005年1月に最高裁上告棄却となり原告の勝訴が確定した。
  • 夏淑琴 -家族11人が殺害された新路口事件の生存者。しかし、東中野修道は事件発生時間のくい違い、本人の年齢に関する情報があいまいなこと等から、偽の証言と主張し[196]、さらに事件の被害者と夏淑琴 は別人と決めつけた[197]。夏は中国と日本で東中野に対して名誉毀損訴訟を起こした。日本での判決は、東中野の解釈について「およそ妥当なものとは言い難く、学問研究の成果というに値しない」とし、最高裁で確定した。

欧米人の証言[編集]

  • ジョン・マギー - 南京安全区国際委員会委員。東京裁判で証言したが、その評価を巡って論争がある。マギーの撮影したフィルム(マギー・フィルム)[198]は2015年10月ユネスコ記憶遺産登録。
  • マイナー・シール・ベイツ- 南京安全区国際委員会委員。証言記録は2015年10月ユネスコ記憶遺産登録。
  • ジョン・ラーベ- 南京安全区国際委員会委員長。日記(日本語訳「南京の真実」)[199]
  • ミニー・ヴォートリン- 南京安全区国際委員会の女性委員であり金陵女子大学内に女性をかくまうなど救援し、日記を残した[200]
  • ロバート・O・ウィルソン- 南京安全区国際委員会委員であり金陵大学付属病院(鼓楼病院)の医師。本人の手紙[201]
  • ジョージ・アシュモア・フィッチ - 南京安全区国際委員会のメンバー。本人の著書「中国での八十年」[202]
  • ジェームズ・H・マッカラム- 南京安全区国際委員会委員。宣教師であり金陵大学付属病院(鼓楼病院)の事務管理総括(医師ではない)[203][204]。マッカラムの1937年12月29日の日記の以下の文章は、日本軍の虐殺否定の証拠として東京裁判[205]に提出された[206]。1937年12月29日「(安全区に入ってきた日本軍は)礼儀正しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。若干のたいへん愉快な日本兵がいました。私は時々日本兵が若干の支那人を助けたり、また遊ぶために、支那人の赤子を抱き上げているのを目撃しました」。なお同日日記に「私たちのことを丁重に扱ってくれる、たいへん気持のよい日本人もいることはいるが、他はおしなべて随分と残酷で、なぐったり、ぶったりするのを見ると恐ろしくなる」とも記載[207]。マッカラムの日記には他にも日本側の食料提供などを好意的に書いた部分もあるが、12月30日、1月7日の日記には「きょう病院に運ばれてきた男性は内臓を貫通されて腸が四フィートもとび出ていた。幸い彼は九死に一生を得た。ボブ・ウィルソン(引用注:ロバート・O・ウィルソン医師のこと)がほぼ半日かけて傷を縫合した。夕食前に日本兵二人が来て、一二歳の少女を黄色のタクシーで連れ去った。」「プライスの庭で、六ヵ月ぐらいの赤ん坊が泣いていた。かたわらで日本兵が母親を強姦している。兵士は赤ん坊の口と鼻を押さえて窒息させてしまった。」という記載もある[208]

欧米人の記録の中立性についての議論[編集]

東中野修道は、当時のアメリカの一部の新聞の写真のキャプション[209]に書いてあることのみを根拠に、マイナー・シール・ベイツは中国国民政府顧問であるとする。ベイツは東京日日新聞昭和12年12月26日では「秩序ある日本軍の入城で南京に平和が早くも訪れたのは何よりです」という矛盾ある行動をとっているとされた。なお、同12月17日号第11面ではベイツは「日支親善のため活躍を続けてゐる親日家」と報道されている。また、南京事件の直前9月まで南京に居て、他のジャーナリストの情報などを元に南京事件を著作「戦争とは何か」に書いたマンチェスター・ガーディアン紙のハロルド・J・ティンパーリは『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』(1941年)[210]の記述によって、国民政府の依頼を受けて記者活動を行ったとされており、公平な報道ではない捏造が疑われると主張する。

一方、渡辺久志の研究では、ティンパーリが国民党中央宣伝部顧問に就任したのは南京事件後の1939年であることがわかっており、井上久士は「曽虚白の自伝」による中国側の依頼で本を書いたのは誤りとしている[211][212][213]。笠原十九司は、ティンパーリの「戦争とは何か」は、事件を伝える主要な部分は南京在住者の手記で構成されていることが確認されているので、著作を捏造とすることは論理的に不可能であるし、もし国民政府の意図に沿った取材を彼が行ったとしても、それより前に「戦争とは何か」を著作しているので捏造ではないとする[213]

ほか、ティンパーリやベイツと親しかった新聞記者松本重治の記録では両名とも日本への好感を持っていたが、日本軍の行動によって好感が失望に変わったと記されている[214]。またドイツ大使館やジョン・ラーベも日本軍入城後は秩序が安定すると信じていた[215]

冨澤繁信は、国民党監修南京安全区国際委員会の記録集『Documents of the Nanking Safety Zone南京安全地帯の記録)』の内容を分析すれば、これらすべてを日本軍兵士の所行とされる根拠はなく、むしろ日本軍兵士の所行とされるべきものは少ないと結論し、しかもこの内容を認容しても後年の大虐殺説の間違いを証明すると主張している[216]

南京陥落の翌日に現地にいった外交官福田篤泰は、「残虐行為の現場は見ていないが、私はあれだけ言われる以上、残念ながら相当あったと思う。しかし私の体験からすれば、本に書いてあるものはずいぶん誇張されている」と述べ、T・J・ティンパレー『中国における日本軍の残虐行為』(1938年)の原資料には、フィッチ神父が現場検証もせずに中国人の訴えを記録したものもあるという[217]。また中国軍の抵抗は激しく、急な進撃で日本軍は食糧が不足し、これが略奪の一因とした。 安全地区の難民に便衣兵が交じっていたことも事実であるとする[217]

日記史料[編集]

陣中日誌・戦闘詳報[編集]

戦後の南京事件の論争があった1980年代に陸軍のOB会偕行社が編纂にした「証言による南京戦史」は、後に「南京戦史」・「南京戦史資料集I」「南京戦史資料集II」として1993年にまとめられた。その「南京戦史資料集I」には、飯沼守上海派遣軍参謀長、「南京戦史資料集II」には、上村利道日記(上海派遣軍参謀副長)が含まれており、そのほかの軍人の日記や、部隊の戦闘詳報が掲載されている。また、個別の出版では、下士官だった村田 和志郎の「日中戦争日記」(1986年出版)などが出されている。

陣中日誌
記録者 所属 内容 備考
松井石根 中支那方面軍指令官・大将
中島今朝吾 第16師団長 1937年12月13日「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシタルモ千、5千、1万ノ群衆トナレバ之ガ武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ唯彼等ガ全ク戦意ヲ失イゾロゾロツイテ来ルカラ安全ナルモノノ之ガ一旦騒擾セバ始末ニ困ルノデ部隊ヲトラックニテ増派シテ監視ト誘導ニ任ジ
13日夕ハトラックノ大活動ヲ要シタリ乍併戦勝直後ノコトナレバ中々実行ハ敏速ニハ出来ズ 斯ル処置ハ当初ヨリ予想ダニセザリシ処ナレバ参謀部ハ大多忙ヲ極メタリ
後ニ至リテ知ル処ニ拠リテ佐々木部隊丈ニテ処理セシモノ約1万5千、太平門ニ於ケル守備ノ一中隊長ガ処理セシモノ約1300其仙鶴門附近ニ集結シタルモノ約7,8千人アリ尚続々投降シ来ル
此7.8千人、之ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ中々見当ラズ一案トシテハ100,200二分割シタル後適当ノカ処ニ誘キテ処理スル予定ナリ[218]
この記述の「大体捕虜ハセヌ方針」を軍による捕虜殺害命令とする見方がある(藤原彰[219]笠原十九司[220]秦郁彦[221]吉田裕[222])。吉田裕は裏付けとして第38連隊児玉義雄証言、第16師団歩兵33連隊、第114師団第66連隊第一大隊戦闘詳報を挙げている。一方、中島日記の記述を裏付ける命令書と物証は発見されていない。

東中野修道はこれを捕虜殺害の意味でないと意見する。当初から殺害する方針であったとすれば明記するはずであり、捕虜にせずに釈放するのだと考え、上海派遣軍参謀・大西一大尉「これは銃器を取り上げ、釈放せい、ということです」という証言も挙げる[223]。日本軍は捕虜収容所を作り捕虜を収容し汪兆銘政権下の兵士となった者もいて、戦闘中の捕虜を解放した事例もある。

ただし、もし「捕虜ハセヌ方針」が「殺害せよ」でなく、“釈放せよ”だと、以下の理由で不自然である。そのあとの文章、つまり「此7.8千人、之ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ」、つまりなぜ捕虜を釈放したあとに、「7、8千人の人間をかたずけるための大きな地面の穴(大ナル壕)が必要か」との表現上の矛盾があるので、「捕虜ハセヌ方針」は、「捕虜を殺害して処分しろ」との意味であると解釈したほうが自然である。「南京戦史」にも「殺害せよ」の意味との当時の軍人の解釈や、大きな壕に捕虜を大量に埋めたという証言がある[224]。東中野氏の、この反論に対する説得力のある再反論はなく、「釈放せよ」の意味と述べた大西大尉は、陸軍OBの偕行社の「南京戦史」の編集部からも、その言動の真意を批判されたことがある[225]

児玉義雄 第16師団第38連隊の副官 師団命令として中国兵の降伏を拒否し、殺害するよう伝えられた[222]
佐々木到一 第16師団の歩兵第30旅団長 掃討戦記を残す。 『佐々木到一少将私記』(『南京戦史資料集』偕行社)
山田栴二 歩兵第104旅団長、山田支隊支隊長 『南京戦史資料集』偕行社
遠藤高明 第13師団山田支隊第65連隊第8中隊少尉
黒須忠信 第13師団山田支隊山砲兵第19連隊第3大隊上等兵
牧原信夫 歩兵第26連隊・上等兵 笠原十九司『南京事件』で引用
堀越文雄 第13連隊山田支隊歩兵第65連隊 中国人女、子供を銃殺。 笠原十九司『南京事件』で引用
大寺隆 第13連隊山田支隊歩兵第65連隊第7中隊 12月18日、昨夜までの揚子江捕虜殺害は2万。 笠原十九司『南京事件』で引用
増田六助 第16師団歩兵20連隊伍長 難民区掃討。 『南京戦史資料集』偕行社。笠原十九司『南京事件』で引用
戦闘詳報
名称 所属 内容 評価
南京附近戦闘詳報 第16師団歩兵33連隊 捕虜処断3096名[222] 処断=殺害とする解釈と、通常は刑を決めるの意味との説がある
戦闘詳報 第114師団第66連隊第一大隊 「旅団命令ニヨリ捕虜ハ全部殺スベシ」[222] この戦闘詳報は原本が存在しない。『南京戦史』では「隣接部隊等の戦況の進捗状況とチグハグの部分や、軍事的慣例と異なる記述などがあり了承しがたいものがある」、「全文を通じその表現は極めて異様である」と評価されている[226]

欧米人の日記[編集]

写真史料[編集]

南京事件の写真資料(マギー牧師の写真、国国民党が編纂した『日寇暴行実録』(1938年)、日本人のカメラマン撮影など)は、数多く存在しているが、その信憑性を検証しないままに扱われていた。だが、後述するように1984年の朝日新聞1984年8月4日大阪版夕刊(翌朝全国掲載)「南京大虐殺の証拠写真」の生首写真が間違いであったなど、信憑性のない写真が一部混在していた。

南京事件関連の写真を検証してきた松尾一郎 やその研究に参加した東中野修道等は、アイリス・チャンの著作などの南京事件関係の書籍に掲載数多くの「証拠写真」を捏造写真として指摘している[232][233][234]。故意(捏造)であるかは、別として今まで指摘された間違い写真の例は、(故意かは別として)他の関係ない写真が混じっている、南京事件の後の1938年の日本軍の軍装(つまり南京以外の場所のもの)、編集者の誤記など、様々である。

その上で、東中野修道”南京大虐殺の証拠写真はすべて捏造である”と主張している[235]。ただし、東中野修道の写真分析と全て捏造という主張には、行き過ぎがあるとの主張(考証・指摘の間違いもあり、例えば女性の陰部に異物を入れる残虐行為は中国人しか行わないので偽写真とみなす(実は日本兵も行っていた)、そもそも外国人でも殺人事件そのものは撮影がほぼ不可能なことを考慮していないなど)が存在する。

2008年、南京市にある南京大虐殺記念館が南京事件と無関係であると指摘された写真3枚を撤去したとに一部で報道された[236]。しかし、中国側は撤去を否定した[237]

アサヒグラフと『日寇暴行実録』の写真[編集]

「我が兵に援けられて野良仕事より部落へかへる日の丸部落の女子供の群れ」1937年10月14日熊崎玉樹撮影 『アサヒグラフ』1937年11月10日号。
中国国民政府(蒋介石政権)によって1938年の『日寇暴行実録』で日本軍に拉致された中国人女性と解説され転載された。

写真週刊誌『アサヒグラフ』1937(昭和12)年11月10日号に、江蘇省宝山県盛家橋部落の中国人農民の写真に「我が兵(日本軍)に援けられて野良仕事より部落へかへる日の丸部落の女子供の群れ」とキャプションがつけられ掲載された[238]

この写真は翌1938年に中国国民政府軍事委員会政治部『日寇暴行実録』に「日本兵に拉致される中国人女性と説明され無断転載された[238]

この『日寇暴行実録』の写真は、本多勝一が1972年の著書『中国の日本軍』(創樹社)や、1997年11月発行の笠原十九司『南京事件』III章の扉に「日本兵に拉致される江南地方の中国人女性たち」のキャプションで掲載された。

1998年、秦郁彦がこの写真の原版は『アサヒグラフ』昭和12年11月10日号に掲載された「我が兵士(日本軍)に援けられて野良仕事より部落へかへる日の丸部落の女子供の群れ」という写真であることが指摘された[238]。笠原は、中国国民政府軍事委員会政治部が事実と異なるキャプションを付したことに気付かず使用したことにつき、秦郁彦に謝意を表し、撮影者の故熊崎玉樹カメラマン、朝日新聞、読者に詫びた[239]。これを受け岩波書店も謝罪文を掲載して出品を一時停止し、笠原と相談の上で『村瀬守保写真集 私の従軍中国戦線』[240]の日本兵に強姦されたという老婆の写真に差し替えた。

2014年に週刊新潮が、本多勝一が著書『中国の日本軍』に「婦女子を狩り集めて連れて行く日本兵。強姦や輪姦は7歳の幼女から70歳の老婆まで及んだ」とのキャプションとともに掲載していた(上記笠原と同様の)写真の誤用を指摘すると、本多は「『中国の日本軍』の写真説明は、同書の凡例にも明記してあるとおり、<すべて中国側の調査・証言にもとづく>ものです。ただ中国側に問題点があることは、俺が司会を務めた座談会 [241]で、吉田裕さんが次のように指摘しているとおりだと思います。<中国側の対応で問題があるのは写真の使い方ですね。いつ、だれが、どこで撮ったかという根拠を確認しないままに、政治的なキャンペーンの中で勝手に写真を使っている。日本の市民運動側もそれを無批判に受け入れてしまうような一面があって、それを反動派につけこまれている>。『アサヒグラフ』に別のキャプションで掲載されているとの指摘は、俺の記憶では初めてです。確かに誤用のようです」と、文書で回答を寄せた[242]

朝日新聞の「南京大虐殺の証拠写真」[編集]

朝日新聞1984年8月4日大阪版夕刊(翌朝全国掲載)が「南京大虐殺の証拠写真」として生首写真を掲載した。

しかし、この生首写真は、中国軍が馬賊の首を切り落とした写真であることが判明し、記事中で虐殺に関わったとされた歩兵23連隊戦友会「都城二十三連隊会」が朝日新聞に抗議して訴訟になった(1986年1月に和解)[243]

村瀬守保写真集[編集]

また『村瀬守保写真集 私の従軍中国戦線』は東中野修道からその信憑性について疑義が出された[244]が、笠原は反論している[245]

映像史料[編集]

論争史[編集]

南京事件は、東京裁判において日本に大きな衝撃を与えた[247]が、それ以降、日中戦争を取り上げた研究などでは触れられるものの、世間で注目をあびる問題ではなかった[248]。専門的な研究は洞富雄『近代戦史の謎』(人物往来社 1967年)、五島広作毎日新聞記者)と下野一霍の共著『南京作戦の真相』(東京情報社 1966年)がある程度であった(『南京作戦の真相』は、南京大虐殺の存在自体を疑う否定論としては最も早い時期に単行本として出版されたものであったが、当時この本が注目されることはなかった)。家永三郎『太平洋戦争』(岩波書店 1968年)は、軍人・記者の回想録や洞の著書を引用しながら、南京大虐殺として比較的詳細に記述している[249]。 また、重光葵は、その著書『昭和の動乱』の中で、「南京に入城した中島師団の暴挙が主となって、南京における日本軍の乱行(南京の強姦)として、世界に宣伝せされた国際問題がその際起こって、日本の名誉は地に墜ちた。」と書いている[250]

1971年から1982年まで[編集]

再び注目を集めるきっかけとなったのは、日中国交樹立直前の1971年(昭和46年)8月末より朝日新聞紙上に掲載された本多勝一記者の『中国の旅』という連載記事である。南京を含む中国各地での日本軍の残虐行為が精細に描写された記事で、南京事件についての一般的日本人の認識はこれ以降大きく広まり、また日本人による南京事件目撃証言がさまざまな雑誌や本に掲載されるようになった[251]。論争は、この記事で当時「百人斬り競争」が大々的に報道されていたことが取り上げられた時、山本七平鈴木明の“百人斬りは虚構である”という主張から始まった。鈴木明の『「南京大虐殺」のまぼろし』(文藝春秋 1973年)は事件の事実自体は全面否定しない立場からの論考であったが、否定説の象徴とみなされるようになり、この書名に影響されて否定説・否定派を「まぼろし説」「まぼろし派」とも呼ぶようになった[252]。1975年頃の論争は「肯定派」「否定派」「あったとしても大虐殺というほどではないとする人々」の間で激しく展開された[253]。なお、70年代末生まれの中国の作家朱世巍の著書『东线』によると、当時の中国の教科書は虐殺を記述しておらず、彼の教師が一小学生の彼に大虐殺のことを教えたという[254]。また、1960年から1982年まで人民日報には南京大虐殺を論じた記事は一つもなかった[255]

1982年から1990年まで[編集]

三度目に大きく取り上げられるようになったのは、1982年(昭和57年)の教科書誤報事件をきっかけとして、日本の教科書における事件の記述が政治問題化したときである。日本政府は首相の訪中により政治決着させることを選んだが、日本国内の反発を招き、否定派が支持を拡大した。また、この際に近現代史に関する日本の教科書記述については近隣諸国に配慮しなければならないという近隣諸国条項が設けられた。否定派の中心となったのは松井石根大将の秘書も務めたこともある、評論家・田中正明だった。また、家永三郎が起こした教科書検定をめぐる訴訟(家永教科書裁判)では南京大虐殺の記述を削除したことについて争われた。それを受ける格好で、洞・本多を始めジャーナリストや歴史研究者が集まって1984年(昭和59年)3月に南京事件調査研究会を発足。これにより「大虐殺派」[256]が形成された[257]

一方、陸軍将校の親睦団体である偕行社は、「一般に定説になりつつある20万、30万という数字を破砕する」ため南京問題を取り上げることを決め、機関紙『偕行』の1983年10月号と11月号で関連情報の提供や協力を呼びかけた。1984年4月号から1985年2月号まで畝本正巳による「証言による南京戦史」が11回に渡り連載される過程で、不法行為を示す多くの証言が集まり、1985年3月号の「証言による南京戦史 (最終回) その総括的考察」において、編集部を代表して加登川幸太郎が「重ねて言う、一万三千人はもちろん、少なくとも三千人とは途方もなく大きな数である。日本軍がシロではないだろうと覚悟しつつも、この戦史の修史作業を始めてきたわれわれだが、この膨大な数字を前にしては暗然たらざるを得ない。戦場の実相がいかようであれ、戦場心理がどうであろうが、この大量処理には弁明の言葉がない、旧日本軍の縁につながる者として、中国人民に深く詫びるしかない。まことに相すまぬ。むごいことであった。」と記した[258]。また、1985年(昭和60年)に、板倉由明が 田中の著書『松井石根大将の陣中日記』の内容を陣中日誌の原本と比較した結果、田中が松井石根大将の陣中日誌を編纂する際に600箇所以上の変更ないし改竄を行い、自ら加筆した部分をもって南京事件がなかったことの根拠とする注釈を付記していたことを発見した。板倉は大虐殺には懐疑的な立場であったが「改竄は明らかに意図的なものであり弁解の余地はない」として田中を強く非難した。田中はのちに自著の後書きでこの件に触れ、加筆の大部分は誤字や仮名遣いの変更であったと弁明し、意図的な改竄を否定した[259][260]

この頃、板倉や秦郁彦[261]が論争に参入し、偕行社はこれに近い立場をとった[要出典]。秦はそれまでの論争のありかたに危惧を抱いていると述べ、このままでは歴史的真実の究明はどこかに押しやられ、偏見や立場論が先走った泥仕合になってしまうおそれがあるとし[262]、「南京事件は東京裁判いらい、日中関係の変転を背景に、歴史学の対象としてよりも政治的イシューとして扱われてる不幸な運命を担ってきた」と主張した[263]。偕行社が収集した証言、史料は1989年(平成元年)に『南京戦史』として刊行され、その中で少なくとも約1万6000名に上る捕虜などの殺害があったことを認めた[264]。そのため、大虐殺派の笠原十九司は、「あったか」「なかったか」というレベルでの論争は、この時点で学問的にはほぼ決着がついたと主張している[265]

1990年代以降[編集]

1990年代には第一次史料の発掘・収集がすすめられて、ジョン・ラーベの日記の邦訳『南京の真実』などをはじめとする多くの資料集が編集・発行され、それらの資料に基づいた論文や歴史書が次々に公刊された[266]。また、アメリカ合衆国では反共派の在米華僑が日本の戦争犯罪を非難しはじめた。当初、中国政府は立場の違いからこの運動に関わりを持たなかったため、事件は政治色の薄い人道問題とみなされるようになり、その流れでアイリス・チャンの『ザ・レイプ・オブ・南京』が登場し話題を呼んだ[267]。論争は国際的なものになっていき、その一方で大虐殺派と中国政府の公式見解に対立が見られるようになった[268]

1990年代後半になると、新しい歴史教科書を作る会が結成され、その中から否定派として東中野修道などが登場した[269]。東中野は、捕虜や投降兵などの殺害が行われたことは認めたうえで、それは戦時国際法に照らして合法であり便衣兵狩りを虐殺とみなすべきではないと主張し[270]、東中野の国際法理解は誤りとする大虐殺派の吉田裕との間で戦時国際法についての論争が行われた[271]。大虐殺派には、「南京への道・史実を守る会」のようにインターネット論争を通じて、否定派を批判する研究者も現れた[272]

1998年、前年11月発行の笠原十九司『南京事件』III章の扉に「日本兵に拉致される江南地方の中国人女性たち」のキャプションで掲載された写真(1938年の中国国民政府軍事委員会政治部『日寇暴行実録』に掲載)が、実際には『アサヒグラフ』昭和12年11月10日号に掲載された「我が兵士(日本軍)に援けられて野良仕事より部落へかへる日の丸部落の女子供の群れ」という写真であることが秦郁彦により指摘された[273]。笠原は、中国国民政府軍事委員会政治部が事実と異なるキャプションを付したことに気付かず使用したことにつき、読者に詫びた[274]。これを受け岩波書店も謝罪し村瀬守保の写真に差し替えた。

東中野修道は、1998年の著書の中の新路口事件の記述をめぐり、南京事件の生き残りとされる中国の夏淑琴から「ニセ被害者呼ばわりされて、名誉を傷つけられた」として、著書の出版社と共に名誉毀損で提訴された。審理は中国と日本の裁判所で独立して行われた。日本においては、最高裁まで争われ、2009年の判決で夏淑琴への東中野側の名誉棄損を認め、東中野側の敗訴となった[275]

東中野と吉田裕の論争で決着がついたかに見えた戦時国際法論争であったが、2001年に佐藤和男が雑誌『正論』平成13年3月号にて「南京事件と戦時国際法」を発表し、戦時国際法上合法説を展開した。

東中野は、30万という大量虐殺説はほとんどの歴史家・専門の歴史研究者の間では受け入れられる傾向はないと主張し、2008年に日本「南京」学会は12年にわたり「南京事件」(「南京虐殺」)に関する1次資料を調査研究した結果、「南京虐殺」はなかったと主張した[276]。ただし、この研究の一次資料の扱いには問題があり、このページの「虐殺「否定」説」などに反論がある。

2012年6月24日民間教育機関信孚教育集団を設立した信力建(広州市白雲区政治協商会議委員)が南京戦での日本軍と満州国軍について「英雄的で勇敢な軍隊が、友軍とともに南京を解放した[277]」とミニブログ微博で表現した。これに対して南京大虐殺紀念館の朱成山館長が公開謝罪を求め、他にも多くの人が批判・非難を表明した[278][279]

2014年に週刊新潮が、本多勝一の著書『中国の日本軍』に上記笠原と同様の写真の誤用を指摘すると、史料はすべて中国側のものにもとづくもので、ただ中国側の史料に問題点があることは週刊金曜日99年11月5日号で指摘した通りであるとし、誤用を認めた[280]

ユネスコ記憶遺産登録に関して[編集]

中国が南京事件に関する文書と慰安婦関連資料のユネスコ記憶遺産への登録申請をユネスコへ行ったことに対し、日本政府は登録までに繰返し中国政府に申請を取り下げるよう抗議を行っていた[281]

2015年10月9日にユネスコは「Nanjing Massacre (南京虐殺)」に関する文書をユネスコ記憶遺産に登録することを決めた[282]

登録資料[編集]

中国が申請し、登録された資料は、犠牲者数を30万人以上とした南京軍事法廷の判決書の他、日本軍が撮影した写真、アメリカ人牧師が撮影したフィルム、生存者とされる者の証言や外国人の日記など11点であった[283]

  • (1)金陵女子文理学院宿舎管理員・程瑞芳の日記
  • (2)米国人ジョン・マギー牧師の16ミリフィルム
  • (3)南京市民の羅瑾が保存した日本軍撮影の民間人虐殺や女性へのいたずら、強姦の写真16枚
  • (4)呉旋が南京臨時政府参議院宛てに送った日本軍の暴行写真
  • (5)南京軍事法廷における谷寿夫への判決文
  • (6)南京軍事法廷での米国人マイナー・シール・ベイツの証言
  • (7)南京大虐殺の生存者陸李秀英の証言
  • (8)南京臨時政府調査委員会の調査表
  • (9)南京軍事法廷が調査した犯罪の証拠
  • (10)南京大虐殺の案件に対する市民の上申書
  • (11)外国人日記「南京占領-目撃者の記述」

程瑞芳の日記について、阿羅健一藤岡信勝はこの日記に描写された事件は強姦8件、略奪6件、拉致1件、殴打1件のみで殺人事件の記録が記載されておらず「大虐殺」の証拠としては不適当であると述べている[284]。また1938年1月4日にニューヨークタイムスが「中国軍の大佐と6人の将校が金陵女子大学に隠れ、略奪したり、少女を強姦して日本兵がやったように見せかけていた」と報道していると、同日に金陵女学院にいたミニー・ヴォートリンの日記[285]には事件について記載がない、などと批判している[284]

藤岡は、女性であった程瑞芳の日記が筆頭にあげられたのはアンネの日記(2009年登録)を参考にしたためであろうと述べている[284]

日本側の反応[編集]

日本政府は中国の申請はユネスコ記憶遺産の政治利用であると抗議した[283]。登録発表後、日本政府は「資料は中国側の一方的な主張に基づいており、真正性や完全性に問題があることは明らかだ。」として抗議した。日本外務省は「中立公平であるべき国際機関として問題であり、極めて遺憾」「政治利用されることがないよう制度改革を求めていく」との外務報道官談話を発表した。また、日本政府は登録された際には世界第二位の拠出率(アメリカは支払いを停止しているため日本が実質一位)のユネスコの分担金を見直すことを示唆していたが、登録を受けて分担金拠出の凍結の検討に入った。日本の自由民主党や民主党や維新の党など与野党も登録を批判した[286][287][288]

毎日新聞はユネスコ世界遺産無形文化遺産は、登録審議が公開されるが、記憶遺産は審議も勧告内容も非公開であるため透明化が求められていると報じた[283]

このほか藤岡信勝は登録を決定した現事務局長イリナ・ボコヴァ抗日戦争勝利70周年記念式典にも参加した親中派であり、公正性にも疑問があるとした[284]

論争に対する評価[編集]

南京事件論争に対して、各方面の識者から批判がなされている。

  • 心理学者中山治は、「互いに誹謗中傷、揚げ足の取り合いをし、ドロ試合を繰り広げている。事実をしっかり確認するどころの騒ぎではなくなっているのである。こうなったら残念ながら収拾が付かない。」と論評している[289]
  • 政治学者藤原帰一は、論争は「生産的な形を取ることはなかった。論争当事者が自分の判断については疑いを持たず、相手の判断を基本的に信用しないため、自分の偏見を棚に上げて、相手の偏見を暴露するという形でしか、この議論は進みようがなかったからである。(中略)新たな認識を生むというよりは、偏見の補強しか招いていない」と論評している[290]
  • SF作家山本弘は、「捕虜や民間人30万人の殺戮」はなかったが、日本軍は捕虜や便衣兵(ゲリラ)など数万人の虐殺を行ない、間違えられ民間人も含まれていて国際法違反としたうえで、この論争はイデオロギー論争であり、左寄りの論者(30万人虐殺肯定派)は、中国人の犠牲者数を多くしたいために、「南京」「虐殺」の範囲を広くしようとし、右寄りの論者(30万人虐殺批判派)は、中国人の犠牲者数を少なくしたい(なかったことにしたい)ために「南京」「虐殺」の範囲を狭くしている。論争の当事者達は歴史の真実を知りたいのではなく、自分たちの信条を正当化したいだけである、と論評している[291]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 南京行政区を構成する地域(江浦県と六合県は揚子江の北側にあり、その南側には江寧県(南京はその中に位置している)・句容県・溧水県・高淳県。そのうち高淳県と六合県の半分は調査せず。これら調査した四県半(江浦県、江寧県、句容県、溧水県、六合県の半分)の県城をのぞいた農村。
  2. ^ 内容は中国英字紙サウスチャイナ・モーニング・ポストが報道し[42]、日本の国会でも松原仁衆議院議員によって取り上げられた[43]
  3. ^ 南京事件の真実を検証する会の2007年公開質問によれば、「国民政府国際問題研究所監修、Documents of the Nanking Safety Zone,1939年出版,上海」[41]冨澤繁信『原典による南京事件の解明』では「『南京安全区攩案』徐淑希, Documents of the Nanking Safety Zone. Kelly & Walsh, 1939. 重慶 国際問題研究所の援助により編纂」とある。バージニア大学TOKYO WAR CRIMES TRIAL DIGITAL COLLECTIONには原本がオンラインで公開されており、「Documents of the Nanking Safety Zone. Edited by Shuhsi Hsu, PhD, sometime adviser to the Ministry of Foreign Affairs. Prepared under the Auspices of the Council of International Affairs, Chungking." Printed by Kelly Walsh, Limited, Shanghai-Hong Kong-Singapore. 1939."」と説明してある。
  4. ^ 2015年に作家の百田尚樹も同趣旨の発言をしている[60]
  5. ^ 南京安全区とは、南京攻略戦前の11月、アメリカ人宣教師(ジョン・マギーマイナー・シール・ベイツや女性宣教師ミニー・ヴォートリンなど)を中心とする15名ほどによって、戦災に巻き込まれて南京城市から避難できない市民などを救済するために組織された南京安全区国際委員会(別称:南京難民区国際委員会)が、南京城市内にアメリカ大使館に協力を依頼して、設定した地域である。ジョン・ラーベが委員会の委員長となり、南京陥落前に南京安全区への市民の避難を呼びかけた。この安全区は被災民によって南京陥落直後は約20万人(諸説あり)との推測値があり、南京城市内の南京安全区外には住民が少ない状況となった[63]
  6. ^ 「ラーべの感謝状」とは、1937年12月14日に南京安全区国際委員会ジョン・ラーベより日本軍に提出された文書「南京安全区トウ案」第1号文書(Z1)のことである[65]。この文書の冒頭に「貴軍の砲兵部隊が安全区に攻撃を加えなかったことにたいして感謝申し上げるとともに、安全区内に居住する中国人一般市民の保護につき今後の計画をたてるために貴下と接触をもちたいのであります。」とある。
  7. ^ 「極秘 中方軍令第一号 中支那方面軍軍律左記の通定む 昭和十二年十二月一日 中支那方面軍司令官 松井石根 中支那方面軍軍律 第一条 本軍律は帝国軍作戦地域内に在る帝国臣民以外の人民に之を適用す 第二条 左記に掲ぐる行為を為したる者は軍罰に処す   一、帝国軍に対する反逆行為   二、間諜行為   三、前二号の外帝国軍の安寧を害し又は其の軍事行動を妨害する行為 第三条 前条の行為の教唆若は幇助又は予備、陰謀若は未遂も又之を罰す 但し情状に因り罰を減軽又は免除することを得 第四条 前二条の行為を為し未だ発覚せざる前自首したる者は其の罰を減軽又は免除す」 「極秘 中方軍令第二号 中支那方面軍軍罰令左記の通定む 昭和十二年十二月一日 中支那方面軍司令官 松井石根 中支那方面軍軍罰令 第一条 本令は中支那方面軍々律を犯したる者に之を適用す 第二条 軍罰の種類左の如し   一、死   二、監禁   三、追放   四、過料   五、没取 軍罰の軽重は前項記載の順序による (第三条〜第九条略) 第十条 二箇以上の犯行あるときは其の軍罰を併科し又は一の重き軍罰のみを科することを得」 「極秘 中方軍令第三号 中支那方面軍軍律審判規則左記の通定む 昭和十二年十二月一日 中支那方面軍司令官 松井石根 中支那方面軍軍律審判規則 第一条 軍律会議は軍律を犯したる者に対し其の犯行に付之を審判す 第二条 軍律会議は上海派遣軍及第十軍に之を設く 第三条 軍律会議は之を設置したる軍の作戦地域内に在り又は其の地域内に於いて軍律を犯したる者に対する事件を管轄す    (中略) 第四条 軍律会議は軍司令官を以て長官とす 第五条 軍律会議は審判官三名を以て之を構成す     審判官は陸軍の将校二名及法務官一名を以て充て長官之を命ず 第六条 中華民国人以外の外国人を審判に付せんとするときは方面軍司令官の認可を受くべし 第七条 軍律会議は審判官、検察官及録事列席して之を開く 第八条 軍律会議に於て死を宣告せんとするときは長官の認可を受くべし」
  8. ^ 武藤章(参謀本部)によれば、1938年に「中国人ノ捕ヘラレタル者ハ俘虜トシテ取扱ハレナイトイフ事ガ決定」されており、つまり、陸軍は戦争ではない支那事変では捕虜そのものを捕らないという方針を採用、したがって、正式の捕虜収容所も設けなかった[100]。ただし1941年には俘虜情報局俘虜収容所が設置された[95]
  9. ^ アリソンは日本の海軍機関学校の英語教員の経験があり、後に駐日アメリカ合衆国大使サンフランシスコ講和条約草案作成を行い、アイゼンハワーの対日政策にも影響を与えた[125]。アリソンの記録では、まず(1)武装した日本兵たちが安全区の金陵大学農学院作業所に深夜に侵入し、中国人女性1人を連れ去り強姦して返した、(2)女性の強姦された場所は、もともとアメリカ人のカソリック司祭が住んでいた家屋であり日本兵が占拠していた、(3)強姦事件は日本大使館に報告され、1月26日の午後、日本人の憲兵等を伴ってアリソンともうひとりアメリカ人がその日本兵占拠の家を被害者の女性とともに事件の調査のために訪問し、(4)日本人憲兵と女性のみならずアリソンたちもその家に入ろうとしたら、日本兵に押し戻されて侮辱され、殴打された、(5)アリソン達アメリカ人は日本側に乱暴や侮辱的なことをしなかった[126]。これに対して日本軍の公式見解では、「アリソン米国領事がある事件調査のため、日本軍中隊長の制止を振り切って家屋内に侵入しようとした」「アリソン氏が日本軍に恰も検察官的不遜の態度を以て、その領事たるの職分を超越し、事毎に日本軍の非を鳴らすが如き態度に出た」とし、東中野修道はこの日本軍の見解が正しいとした[127]。この他、飯沼守日記では、その家では天野中隊長と日本兵十数名が住み、何人もの女性を拉致しては皆で強姦していたとある[128]

出典[編集]

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  2. ^ 秦郁彦 (2007), まぼろし派と大虐殺の幅 185頁
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  13. ^ 笠原 (1997)、226-228頁
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  107. ^ 信夫淳平「戦時国際法提要」上巻 第三目 乞降兵の殺傷及び不助命の宣言 566頁
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  152. ^ 板倉由明 1999, p. 353 「カギ括弧で括られた文章は引用文だから、・・・原典・原文が存在するはず」と原本提示を求めたが、笠原・出版社側は無視。
  153. ^ 板倉由明 1999, p. 365 『諸君!』「世界史教科書に出現した曽根一夫の亡霊」。7箇月後、出版側は「命令」が曽根本からの引用であることを認め、その部分を改めた。「あったに違いない個々人の不行跡が、あたかも軍命令、最終的には国家意志、によって行われたかのよう」な笠原の記述は、使用本から削除された。
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  156. ^ 板倉由明 1999, p. 260 「他師団の記録などでも・・・20日を過ぎると水運で糧秣が運ばれ・・・供給が緩和されていく」
  157. ^ 板倉由明 1999, p. 275 曽根は糧秣受領に下関へ行ったと言うが、「下関が兵站基地になったのは・・・野砲三の南京出発以後である」等々を指摘する。
  158. ^ 板倉由明 1999, p. 277 紫金山付近の「残酷な話も兵科を歩兵とし、部隊の駐留地を南京東北方(実際には野砲三は光華門南方の山西村付近に19日まで宿営)に設定したウソの上に構成されている」。戦友はいずれも強く否定。「自分は南京には行っていないとN氏は語っている」
  159. ^ 板倉由明 1999, p. 258 『原本は二年前に処分し』たという日記は、すべて新カナ遣いで書かれている。続編「出版の際作ったものと推定するのが自然であろう」
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参考文献[編集]

関連項目[編集]

関連作品

外部リンク[編集]

日本政府
日本語以外
南京事件の虐殺否定説