南京事件論争

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南京事件論争(ナンキン[1]じけんろんそう)とは、日中戦争支那事変)中の1937年(昭和12年)12月に遂行された南京攻略戦において発生したとされる南京事件における虐殺の存否や規模などを論点とした論争である。論争は日中関係を背景に政治的な影響を受け続けた[2]

目次

論争史[編集]

戦後の東京裁判で南京事件は日本人に衝撃を与えた[3]が、以降は事件への関心は薄れた[4]1971年朝日新聞本多勝一が『中国の旅』を連載すると、「百人斬り競争」を虚構とする山本七平鈴木明との間で論争となった[5]1982年には文部省が「侵略」を「進出」に書き換えさせたという教科書誤報事件で、戦後は事件に触れることがほとんどなかった[6]中国から抗議を受け[7]、日本政府は検定教科書への近隣諸国条項で沈静化を図るなか、田中正明が虚構説を発表し、否定派を代表した[8]1989年偕行社編『南京戦史』は「不法殺害とはいえぬが」「捕虜、敗残兵、便衣兵のうち中国人兵士約1万6千、民間人死者15,760人と推定した[9]

否定派は1995年の終戦50年不戦決議阻止運動とも連携し[10]、新しい論客東中野修道佐藤和男[11]らが捕虜殺害を国際法上合法と主張し、吉田裕と論争になった[12]

海外では中国系アメリカ人の反日団体がラーベ日記の復刻や、作家のアイリス・チャンを支援し、論争が国際化したが、J.フォーゲルらからチャンの本には間違いが多いと酷評された[13]。英語圏では、政治的利害を排した「中間派」の研究が増えている[14]

中国政府は、日本の大虐殺派が犠牲者数「20万以下」と切り下げたのに対して、距離をとるようになり、新たに松岡環らを支援するようになった[15][16]

近年の日本での論争は、大虐殺派が元気がないのに対して、世代交代に成功した「まぼろし派(否定派)」には大変な勢いがあると秦郁彦は評価する[17]。一方で、「虚構説」の破綻で学問的に決着がついたと肯定派の笠原十九司は主張している[18]

このほか、東史郎の「郵便袋裁判」(東側が敗訴)、百人斬り裁判(原告敗訴)、東中野修道の「夏淑琴による名誉棄損裁判」(東中野側が敗訴)などの裁判もある。

各派の主な論者とその特徴[編集]

「南京事件」、「南京大虐殺」について論じる諸氏は、自他を様々に分類する諸説を提示している。

  • 秦郁彦は、大虐殺派(本多勝一、洞富雄、南京事件調査研究会)、中間派(秦、板倉)、マボロシ派(鈴木明、田中正明)と分類[19]。マボロシ派は中国では「虚構派」と呼ばれる[19]。秦は2007年時点では.マボロシ派と中間派の影響力が伸びて、大虐殺派は低落しつつある、と述べている[19]。軍事史家原剛も大虐殺派、中間派、まぼろし派(虐殺否定説)に分類[20]
  • 笠原十九司は本人を含めて大虐殺派を史実派とする[21]
  • 野村耕一は、虐殺派(笠原十九司、吉田裕)、中間派(櫻井よしこ、 原剛)、まぼろし派(鈴木明、田中正明) に分類[22]
  • 星山隆は、虐殺肯定派(笠原十九司)、中間派(北村稔)、虐殺否定派(東中野修道)に分類[23]
大虐殺派・虐殺肯定派
まぼろし派・虐殺否定派
中間派
  • 板倉由明[19]
  • 北村稔[23]。虐殺派の笠原十九司は北村を否定派とする[34]。):日本軍による組織的大虐殺そのものについては否定しつつ、個別の殺害事案については、資料的根拠の確認できるものについて認定する。 北村は、南京裁判にて検察側が提示した「20万人の虐殺」について、「中華民国による戦時宣伝の虚構」と位置付け、この戦時宣伝の成立過程を解明したり、「10数万人の遺体を埋葬処理した」と称する崇善堂の実務能力を解明(この団体の人数・装備では自称通りの日程で自称する数の遺体を処理することは不可能)する一方で、幕府山捕虜殺害事件(被害者数約1万8千)については新資料(親日政権が発行した中国語新聞[要追加記述])を発掘するとともに、当時の日本軍による非行と位置付けている[35]。2007年北村は便衣兵や捕虜の殺害は認定した上で、一般市民を対象とした「虐殺」はなかったと述べた[36]
  • 櫻井よしこ[22](ただし「まぼろし派・虐殺否定派」が主賛同者である映画『南京の真実』(南京事件を歴史的事実に基づかない政治的創作とした)の賛同者に名を連ねている[37])。
  • 中村粲
  • 秦郁彦[19]
  • 原剛[22] - 中国政府の「大虐殺説」は人口や当時の兵力、また崇善堂記録や魯甦証言の信憑性から成り立たないとするが、虐殺否定説の戦時プロパガンダ論では事件がなかったことを立証したことにはならないとする[20]。また日本側の捕虜や中国人への蔑視だけでなく、中国側の民衆保護対策の欠如も事件の要因とする[20]
  • 偕行社『南京戦史』[38]
  • 山本昌弘[39]
  • D.アスキュー[40]
  • ボブ・T.ワカバヤシ[40]
  • ジョシュア・フォーゲル[40]
  • T.ブルック[40]

主要な論点[編集]

犠牲者数[編集]

事件の犠牲者数については30万人説からゼロまで諸説あり[41]、その背景として、「虐殺」の定義、地域・期間、埋葬記録、人口統計など資料検証の相違がある[42]

  • 30万人以上 - 1947年国民政府による南京軍事法廷判決書[43]。中国共産党政府の見解はこれに依拠している[42]。なお、この説には南京城外の犠牲者数は入っていない[44]。30万人説は資料的根拠が乏しく、日本側の学者からは支持されていない[45][42][43]
  • 20万人 - 極東国際軍事裁判判決[42]。松井司令官に対する判決文では 10 万人以上[42]
  • 11万9000人以上 - 南京郊外を含む説としては、中国兵犠牲8万、民間人犠牲3万9千(南京城内:1万2千人、農村部:2万7千人)、計11万9千人以上という笠原十九司がいる[46]
  • 4万人 - 秦郁彦は、中国兵犠牲3万、一般人犠牲者1万人(南京城市のみ)で、4万人を上限とした[47][注釈 1]。ほか久野輝夫は37,820人とする[49]。中国文献では、中国軍約11-12万人のうち約4-6万人が南京で戦死と捕虜(行方不明を含む)とされる[50]
  • 1〜2万 - 板倉由明は、中国兵の犠牲8千人と一般人の犠牲者5千人(南京城市と周辺農村部の一部(江寧県のみ))を合計し、1万-2万人とする[51]。当時の戦闘詳報などの公式記録には約1万前後の敗残兵(捕虜)の殺害記録もある[52]
  • ゼロ - 「大虐殺」否定説・戦時国際法上合法説では、30万人の市民の「大虐殺(大屠殺)」はなかったと主張。佐藤和男の戦時国際法上合法説では、便衣兵ゲリラ兵)や投降兵の殺害も戦闘行為の延長であり、戦時国際法上合法とする[53]。ほか、南京安全区の欧米人記録やその話をもとにしたジャーナリストの記録の信頼性への疑問、国民党は事件の翌年の300回の記者会見で言及しなかった[54]、国民政府の記録[55]での人口記録の矛盾、また日本軍の非行として訴えられた殺人は計26件、目撃された事件は合法殺害1件のみ[56]、「大虐殺」を証明する写真がないと主張[56]

人口推移[編集]

南京の人口は、日中戦争以前は100万人以上とされるが、上海事変以来の爆撃や、南京攻撃が近づいて中国政府首脳が重慶に移転したり、富豪などの疎開によって、南京戦当時の人口はかなり減少していた[57]スマイス調査によれば、南京攻撃の直前の11月には約50万人に半減していた[58]

欧米人の南京安全区国際委員会は、市内人口は「日本占領直後は約20万」に至ると予測し、難民救済を行った[59]

12月13日の日本占領後、日本側が住民登録を行い、約16万人(子供や老人の一部が入っていない)が登録し、南京安全区国際委員会は子供・老人等を含めると人口は約25万人と算定した[60]スマイス調査は、占領時の12月12〜13日の南京の人口は約20-25万人とした[61][57]。また三か月後の1938年3月の人口は22万1150人で、これは未調査分を含めた人口全体の80〜90%とした(つまり全人口は約24万―26万人)[57][62]。つまり三か月の間の人口増加が考えられるが、これに関して、南京安全区国際委員会ジョン・ラーベは、占領後の安全区での人口増があったのは、安全区の外からの人口の流入による増加ではないか、と推察している[63]

実際に約20万人ぐらい存在したのか?と疑問を持つ説がある。1984年、偕行社の戦史編集委員の畝元正己は、1937年12月17日の南京安全区国際委員会発第6号文書『難民区の特殊地位の解釈』には「(12月13日)あらゆる市民は殆ど完全に難民区内に蝟集し」ていると記されており、また12月13日に入城した日本将兵の証言では、安全区(難民区)以外の城南、城西、城東、城北地区では殆ど住民が目撃されていないので、安全区内に大部分の市民が移動したのは事実であろう、しかし、3.52平方キロメートルの狭い安全区に20万人を収容することが可能であったかは疑問であると述べた[57]。3.52平方キロメートルに20万人いたとすると1平方キロメートルあたり56,818人の人口密度になる[57]。さらに畝元は、スマイス調査に難民収容所に27,500人、収容所に入らず安全区にいたものが68,000人(合計95,500人)と記載されていること、さらに12月17日の国際委員会文書では49,340〜51,340人と記載されていることから、20万人が安全区に収容されたとは考えにくいとした[57]

この南京市人口20万人説をもとに、藤岡信勝は、南京市の人口が20万人しかいないのに(中国側の主張する犠牲者である)30万人も殺せないので30万人説はウソと主張した[64]。ただし、同じく30万人殺害を虚構の数字と見る笠原十九司は、「南京事件の集団虐殺でもっとも多かった」のは市民20万人の数から「抜け落ち」た人数、つまり南京防衛軍の中国軍人が虐殺されたことであり、日本軍が「戦時国際法に違反」したうえでの「中国軍の負傷兵、投降兵、捕虜、敗残兵の処刑」であったと述べ、「数字いじりの不毛な論争は虐殺の実態を遠ざける」と主張した[65]。また、笠原は、20万人前後とは南京城の市内のみの人口であり、南京行政区の農村部を含めると南京戦のときも40-50万の難民も含めた一般人の数が存在し、日本軍がこの農村部で組織的住民虐殺を行い[66]スマイス調査でも南京行政区の農村部の犠牲者は2万6千人以上と南京城内の数(同調査では6千6百人〜1万2千人)を上回ることも主張する[67][注釈 2]

なお、その後、2007年、南京事件の真実を検証する会[注釈 3]は、国民政府が監修し1939年に出版された南京安全区国際委員会の記録『 Documents of the Nanking Safety Zone』(国民政府外務部顧問徐淑希編集)によれば、当時の南京の人口は日本軍占領直前20万であるが、占領1ヵ月後の1月には人口25万に増加と記録されていたが、5万人も増えたと記録されており、「30万の市民虐殺」はありえないとの主張をした[注釈 4][注釈 5]

虐殺の対象[編集]

一般市民に関して[編集]

日本軍による南京事件の民間人の死者数についてスマイス調査では6千6百人〜1万2千人と記録されている。秦郁彦は、民間人の犠牲者数が過大にならなかった理由としては、南京市陥落前から欧米の宣教師らが組織した南京安全区国際委員会によって南京市内に安全区[注釈 6]が設定され、多くの被災民が避難できたことにあると述べる[70]。「ラーベの感謝状」[注釈 7]にもあるように、南京安全区(別称 難民区)に対しては、日本軍は砲撃を仕掛けなかったとされ、占領後も日本軍は組織的な住民虐殺を行っていないが、ただし、安全区内でも個々の虐殺の記録はあり、決して過少ではない[72][73]

また、笠原十九司によれば、南京周辺において日本軍が組織的でときに村単位の住民虐殺、南京城外の農村地域において南京への進軍中に行ったとの記録がのこる[74]。この農村での虐殺については日中共同研究において中国側も具体的に指摘しており、スマイス調査でも農村地域の犠牲者は2万6千人以上と記録されており、南京城内の被害者数を上回る[67][注釈 2]

なお、南京城内の殺害の実数は大規模でないが、南京城外では避難中のかなりの市民(数は不明)が兵卒とともに巻き込まれて殺害されて遺体が長江に流されたとの記録(徳川義親ジョン・ラーベの残した記述など)が存在する[75]

ところで、中国軍敗残兵の暴行が日本兵の仕業と誤った可能性や、中国側の漢奸狩りや「堅壁清野作戦」という焼き払い作戦のように中国側も残虐行為を行ったことを東中野修道らは主張している。多数の敗残兵が便衣に着替えて安全区(難民区)に逃れたことは孫宅巍臼井勝美なども認めている[42][76]。そして、南京における日本軍の乱暴狼藉と思わる中には、中国側の撹乱工作隊の仕業とされる事件があったと1938年1月4日にニューヨーク・タイムズも報道している[77]。また、ベイツも日本軍の犯行だけではなく、中国人による犯行もあったと記録している[78]

しかし、板倉由明によれば、日本兵の仕業と見せかけた中国軍敗残兵の暴行であったとする、東中野修道らの中国敗残兵工作説は、中国軍兵士と疑われる人物の安全区内での逮捕事件を日本側が「中国兵も悪いのだ」と宣伝した当時の記事を誇張しているだけで、工作隊を捕らえたのがどの部隊かも明らかでなく、第16師団関係者、憲兵隊関係者の日記や証言や新聞にも全く見当たらないと批判している[79]

なお、中国軍が陥落前に南京市内やその周辺の建物を焼いたことは当時のニューヨーク・タイムズにも報道されて[80]おり、中国軍の南京市の焼き払いは、南部と南東部の城壁周辺の一部と城の西方面にある建物が中心であった。しかし、城内の南京安全区外の中心街の放火(太平路周辺など)をはじめとした市内広範囲は、日本軍の放火であるともニューヨークタイムズは報道し[77]ジョン・ラーベやスマイスら欧米人の記録にも書いてある[81]。上海派遣軍参謀長飯沼守も日記でソ連大使館の放火は日本軍による疑いがあるとした[82]

便衣兵と戦時国際法[編集]

兵士が民間人を装って戦闘行為を行う便衣兵であるとして中国兵が殺害された事例があり、例えば12月14日-16日の安全区において、日本軍が、元中国兵を約6500-6700名ほど摘発し、処刑した[83]

便衣兵、つまり兵士が民間人を装って行う戦闘行動は、当時の戦時国際法ではハーグ陸戦条約第23条第2項で禁止されている。そして、便衣兵であるかないかの基準には、同条約1条で交戦者(戦闘員)は軍服着用が規定されており、同条約第3条には戦闘員であることを示さないで戦闘行為を行おうとしている者は便衣兵の対象となり捕虜待遇を受ける資格がないとされている。石田清史は「戦争法規を犯して敵対行為を働く者は単なる戦時重罪犯、戦時刑法犯であるから国際法の保護を受けない」という[84]

便衣兵の対象となった場合、軍律(占領軍が制定した占領地の住民に対する規則)や軍律審判(軍律に係る裁判)を経て処罰、また敵対行為(戦時反逆)をすれば軍律で定めれば即決処分も可能であると、されていた[84]。それに関して、日本軍は南京占領前の1937年12月1日に「中方軍令第一、第二、第三号」で、中支那方面軍軍律、軍罰令、軍律審判規則を以下のとおりに定めていた[85]

中支那方面軍軍律

第一条 本軍律は帝国軍作戦地域内に在る帝国臣民以外の人民に之を適用す
第二条 左記に掲ぐる行為を為したる者は軍罰に処す
  一、帝国軍に対する反逆行為
  二、間諜行為
  三、前二号の外帝国軍の安寧を害し又は其の軍事行動を妨害する行為
第三条 前条の行為の教唆若は幇助又は予備、陰謀若は未遂も又之を罰す 但し情状に因り罰を減軽又は免除することを得
第四条 前二条の行為を為し未だ発覚せざる前自首したる者は其の罰を減軽又は免除す

— 中方軍令第一号 昭和十二年十二月一日
中支那方面軍軍罰令

第一条 本令は中支那方面軍々律を犯したる者に之を適用す
第二条 軍罰の種類左の如し
  一、死
  二、監禁
  三、追放
  四、過料
  五、没取

— 中方軍令第二号、昭和十二年十二月一日
中支那方面軍軍律審判規則

第一条 軍律会議は軍律を犯したる者に対し其の犯行に付之を審判す
第二条 軍律会議は上海派遣軍及第十軍に之を設く
第三条 軍律会議は之を設置したる軍の作戦地域内に在り又は其の地域内に於いて軍律を犯したる者に対する事件を管轄す(中略)
第四条 軍律会議は軍司令官を以て長官とす
第五条 軍律会議は審判官三名を以て之を構成す 審判官は陸軍の将校二名及法務官一名を以て充て長官之を命ず
第六条 中華民国人以外の外国人を審判に付せんとするときは方面軍司令官の認可を受くべし
第七条 軍律会議は審判官、検察官及録事列席して之を開く
第八条 軍律会議に於て死を宣告せんとするときは長官の認可を受くべし

— 中方軍令第三号,昭和十二年十二月一日

なお、便衣兵とは誰をさすか?の定義についてであるが、”軍服着用などの交戦者資格の有無のみならず”「害敵手段(戦闘行為やテロ行為)を行うもの」を便衣兵とみなす、と戦前の国際法学者信夫淳平は説明する。つまり、便衣兵の定義について、「交戦者たるの資格なきものにして害敵手段を行ふのであるから」とした。[86]。同じく、戦前の戦時国際法の研究者篠田治策も、当時『北支事変と陸戦法規』において、抗戦の意図はなく専ら逃亡目的で平服を着用していて敵対行動をとらない兵士は、便衣兵とは見なしていない、と記している[87]。また当時の国際法学者立作太郎は昭和19年に民間人の敵対行為は原則禁止されるし、戦時犯罪として「概ね死刑に処し得べきものなる」し、正規軍人が民間人に偽装した場合は交戦者としての特権を失う[88]と判定している[89]

(乙) 軍人以外のもの(非交戦者)に依りて行はるる敵対行為

軍人以外の者(即ち私人)にして敵軍に対して敵対行為を行う場合に於いては、其行為は、正確に言えば国際法規違反の行為に非ざるも、現時の国際法上、戦争における敵対行為は、原則として一国の正規兵力に依り、敵国の正規の兵力に対して行はるべきものにして、私人は敵国の直接の敵対行為に依る加害を受けざると同時に、自己も亦敵国軍に対して直接の敵対行為を行ふを得ざる以って、敵対行為を行うて捕へらるれば、敵軍は、自己の安全の必要上より、之を戦時犯罪人として処罰し得べきことを認められるのである。

— 立作太郎『戦時国際法論』昭和19年

一方で、便衣兵とは誰をさすか?の定義についての別の意見がある。東中野修道は、(軍服着用などの)交戦者資格を満たしていない場合は(そのまま)非合法戦闘員(便衣兵)となり、戦時国際法に照らして処刑しても合法であり、虐殺ではないと主張した[90]。国際法学者佐藤和男も、一般に武器を捨てても(機会があれば自軍に合流しようとして)逃走する敵兵は、逃走したと認められないので、攻撃できると述べている[91]

しかし、東中野のこの国際法理解については反論があり、吉田裕は反論し、論争が行われた[92]

さて、便衣兵であるかを識別(兵民分離)することに関しては、佐藤和男の意見として、「兵民分離が厳正に行われた末に、変装した支那兵と確認されれば、死刑に処せられることもやむを得ない。多人数が軍律審判の実施を不可能とし(中略)また市街地における一般住民の眼前での処刑も避ける必要があり、他所での執行が求められる。したがって、問題にされている潜伏敗残兵の摘発・処刑は、違法な虐殺行為ではない」とも述べている[53]

しかし、便衣兵であるかの識別(兵民分離)について、別の意見として、当時の国際法学者の信夫淳平は、1932年第一次上海事変の経験から、便衣隊は戦時国際法違反であるものの、「確たる証拠なきに重罪に処する」は「理に於ては穏当でない」と見なす[注釈 8]。同様な意見として、秦郁彦は、「便衣兵捕虜と異なり、陸戦法規の保護を適用されず、状況によっては即時処刑されてもやむをえない」が、「一般市民と区分する手続きを経ないで処刑してしまってはいいわけができない」としており[94]、南京占領後、便衣兵摘発に日本軍は手こずり、疑わしい一般人を処刑したとされる記録がある[95]

南京事件の日本側記録では、中国側敗残兵追及の際の兵民分離は必ずしも一律に厳正でなく、ときに荒っぽく行われており、水谷上等兵の証言では「目につく殆どの若者は狩り出される」「市民と認められる者はすぐ帰」すが、他は銃殺、「哀れな犠牲者が多少含まれているとしても、致し方のないこと」とある[96]北村稔も「手続きなき処刑の正当性」には疑問を示している[97]。また、北岡伸一も、「便衣隊についても、本来は兵士は軍服を着たまま降伏すべきであるが、軍服を脱いで民衆に紛れようとしたから殺してもよいというのは、とんでもない論理の飛躍」と主張している[98]

投降兵・捕虜の扱いと戦時国際法[編集]

南京戦では、日本軍による中国人捕虜の組織的殺害が発生したが、山田支隊の行ったとされる1万人単位の大掛かりな捕虜の殺害は稀な例であり、数十人や数百人単位の虐殺が数多く発生し、合計で約3万人の捕虜・投降兵などが殺害されたと、秦郁彦は説明する[99]

当時の捕虜の取り扱いに係る戦時国際法として日中間でともに受け入れていたものはハーグ陸戦条約(1907年改定後)であり、日本・中華民国がともに条約として批准(中華民国:1917年5月10日、日本:1911年12月13日)[100]していた。同条約の第4条には「俘虜は人道をもって取り扱うこと」となっており、同条約の第23条第3項では「兵器を捨て又は自衛の手段尽きて降を乞へる敵を殺傷すること」が禁止されている。なお、同じく捕虜などの保護を定めた条約でありハーグ陸戦条約に定めた捕虜の取り扱いを補完する役割を持つ、赤十字国際委員会の提唱がきっかけとなて成立した[101]俘虜の待遇に関する条約ジュネーブ条約)は、中華民国は1929年7月27日に署名、1935年11月19日に批准していた[102]が、日本は署名のみで批准していなかった[103][104]

さて、日中戦争初期の1937年8月に、日中が批准している戦時国際法(ハーグ陸戦条約)の扱いについて日本陸軍上層部から以下の様な通知が現地の中国への派遣軍に送られていた。つまり、日本陸軍次官から北支那駐屯軍参謀長宛の1937年8月5日の通牒「交戰法規ノ適用ニ關スル件」(陸支密第198号)では、「陸戦の法規慣例に関する条約その他交戦法規に関する諸条約中、害敵手段の選用等に関し、これが規定を努めて尊重すべき」とあり、また「日支全面戦を相手に先んじて決心せりと見らるるがごとき言動(例えば、戦利品、俘虜等の名称の使用、あるいは軍自ら交戦法規をそのまま適用せりと公称すること)は努めてこれを避け」と指示している[105][106]。秦郁彦はこれは国際法を遵守しなくともよいとも読めるが、解釈の責任は受け取る方に任せて逃げたともとれるとした[107]

なお、このときの日本陸軍は捕虜管理のための機構を設置しなかった[108]武藤章(参謀本部)によれば、1938年に「中国人ノ捕ヘラレタル者ハ俘虜トシテ取扱ハレナイトイフ事ガ決定」されており、つまり、陸軍は戦争ではない支那事変では捕虜そのものを捕らないという方針を採用、したがって、正式の捕虜収容所も設けなかった[109]。ただし1941年には俘虜情報局俘虜収容所が設置された[103]戦陣訓はまだ公布されていなかったが、日本軍では捕虜をタブー視しており、秦は「捕虜になることを禁じられた日本兵が、敵国の捕虜に寛大な気持ちで接せられるはずはな」いとする[110]。また日本は大量の捕虜がでたときの指針に欠け、上海戦では捕虜処刑が暗黙の方針になっていたが、首都の南京攻略では明確な方針があるべきだったと秦郁彦は述べる[111]

一方で、作戦遂行の妨げになる場合、敵兵の降伏・投降を拒否することは戦時国際法上合法という意見を、国際法学者の佐藤和男は唱える。佐藤は、軍事作戦遂行のために捕虜を拒否することも許される場合があるという国際法学者ラサ・オッペンハイムの考えに沿って述べている。佐藤は「日本軍の関係部隊には緊迫した「軍事的必要」が存在した場合のあったことが知られる。『オッペンハイム 国際法論』第二巻が、多数の敵兵を捕えたために自軍の安全が危殆に瀕する場合には、捕えた敵兵に対し助命を認めなくてもよいと断言した一九二一年は、第一次世界大戦の後、一九二九年捕虜条約(注:俘虜の待遇に関する条約ジュネーブ条約)のこと)の前であって、その当時の戦時国際法の状況は、一九三七年の日支間に適用されるべき戦時国際法の状況から決して甚だしく遠いものではないことを想起すべきであろう。支那側の数々の違法行為(通州事件を含む)に対する復仇の可能性、和平開城の勧告を拒絶して、結果的に自国の多数の良民や兵士を悲惨な状態に陥れた支那政府首脳部の責任、右の勧告を拒絶されながら、防守都市南京に対する無差別砲撃の権利の行使を自制した日本軍の態度、など関連して検討すべき法的問題点はなお少なくない」と述べている[53](ただし、そのように主張した佐藤和男は、自著の中で、俘虜の待遇に関する条約ジュネーブ条約)によって捕虜への復仇が禁止されていたことも、記述している[112])。なお、南京に派遣された16師団経理部の小原少尉の日記によれば、310人の捕虜のうち、200人を突き殺し、うち1名は女性で女性器に木片を突っ込む(通州事件での日本人殺害で行われた方法)と記し、戦友の遺骨を胸に捧げて殺害していた日本兵がいたと記した[113]

しかし、それに対して、当時の国際法学者の信夫淳平は、捕虜の人道的扱いについて、例えば18世紀の欧州では捕虜に食わせる食糧不足を理由にした捕虜処分(虐殺)があったものの、これは”現在の戦時国際法では許されない”(「今日の交戦法則の許さざる所」)と述べて、同時に、”捕虜にして安全に収容することができないときは解放すべきである。捕虜を解放したら敵の兵力が増えるので不利というが、人道法の掟を破ることによる不利益に比べれば、不利といっても小さいものである”(「俘虜にして之を安全に収容し置く能はざる場合は之を解放すべきである。敵の兵力を増大することの不利は人道の掟則を破るの不利に比すればヨリ小である」)という、ウイリアム・エドワード・ホール英語版[注釈 9]の学説を紹介している[114]

また、北岡伸一は「捕虜に対しては人道的な対応をするのが国際法の義務であって、軽微な不服従程度で殺してよいなどということはありえない。」[115]と主張している。

原剛は、当時の国際法や条約に照らしても軍法会議や軍律会議によって処断すべきであったと主張[116][20]

吉田裕は「仮に不法殺害に該当しないとしても非難・糾弾されるに値する」し[117]、また吉田は海軍省軍務局長・軍令部第一部長が陸軍と協議のうえ第三艦隊参謀長宛に発した通牒(1937年10月15日付軍務一機密第40号)「我権内に入りたる支那兵の取扱に関しては対外関係を考慮し不法苛酷の口実を与へざる様特に留意し少なくとも俘虜として収容するものについては国際法規に照らし我公明正大なる態度を内外に示すこと肝要なるに付き現地の事情之を許す限り概ね左記に依り処理せらるる様致度」とあり、「現地で」「俘虜にしないかぎり」殺害しても良いとのニュアンスが読み取れるので、日本軍は明確な軍令を出してはいないが、殺害を事実上黙認していたかのように読める命令を発していたと主張してい[118]

幕府山事件(山田支隊の捕虜処断)[編集]

第13師団第65連隊を主力した山田支隊(長・山田栴二少将)は、1937年12月13日〜15日にかけて、烏龍山砲台、幕府山砲台その他掃討地域で14777名以上の捕虜を捕獲し、幕府山にあった国民党軍の兵舎に収容した。1937年12月17日付『東京朝日新聞』朝刊には、「持余す捕虜大漁、廿二棟鮨詰め、食糧難が苦労の種」という見出しで記事が掲載されている。山田少将は軍上層部へ処置を問い合わせたところ、殺害するように命令を受けた。この多数の捕虜の処置について、殺害数や殺害理由が、戦時国際法上で合法かについて議論される。幕府山事件とも言われる。

自衛発砲説
自衛発砲説とは、当時、第65連隊長だった両角業作大佐手記証言に基づいた見解で、虐殺は少数で、戦時国際法上、合法と主張する。
両角手記によれば、捕らえた捕虜は15300余名であったが、非戦闘員を抽出し解放した結果、8000人程度を幕府山南側の十数棟の建物に収容した。給養のため炊事をした際に火災となり、混乱によって半数が逃亡した。
軍上層部より山田少将へ捕虜を殺害するように督促がなされ、山田少将は両角大佐へ捕虜を処分するよう命令する。両角大佐はこの命令に反し、夜陰に乗じて捕虜を長江対岸へ逃がすことを部下に命じた。長江渡河の最初の船が対岸へ進んだところ、対岸より機関銃による攻撃を受けた。渡河を待っていた残りの捕虜は、この攻撃の音を自分たちを江上で殺害するものと錯覚し、暴動となった為、やむ得ず銃火をもって制止し、その結果、僅少の死者を出し、他は逃亡した。[119]
小野賢二説
小野賢二は、歩兵第65連隊の元将兵に対する聞き取り調査の結果、証言数約200本、陣中日記等24冊、証言ビデオ10本およびその他資料を入手し、これらの資料を基に、自衛発砲説には一次資料による裏づけが無いと批判、以下のような調査結果を発表する。
山田支隊が捕らえた捕虜は、12月13日〜14日にかけて烏龍山・幕府山各砲台付近で14777名、その後の掃討戦における捕虜を合わせると総数17000〜18000名になった。この捕虜を幕府山南側の22棟の兵舎に収容する。
12月16日、昼頃に収容所が火災となるが捕虜の逃亡はなかった。この夜、軍命令により長江岸の魚雷営で2000〜3000人が虐殺され、長江へ流される。
12月17日夕〜18日朝、残りの捕虜を長江岸の大湾子で虐殺した。同日は、魚雷営でも捕虜虐殺が行われた可能性がある。山田支隊は、18日〜19日にかけて死体の処理を行った。
小野は、山田支隊による一連の捕虜虐殺を、長勇参謀一人による独断や、山田少将による独断ではなく、軍命令によって計画的・組織的に実行されたものであり、この命令を受けた山田支隊は、準備も行動も一貫して捕虜殺害を行ったことが証言や陣中日記などで実証されているとし、自衛発砲説が成立しない(戦時国際法上は違法)と断じた。
この小野説は、南京事件調査研究会などにおいて支持されている[120][121]。ただし、小野賢二が発掘した日記群は重要でない2名を除いて残り全てが仮名であることは踏まえておかなければならない[122]

期間と場所[編集]

事件の期間[編集]

東京裁判では「日本軍の南京占領(1937年12月13日)から6週間」という判決を出しており南京大虐殺紀念館や日中両国の研究者もこれを事件の期間とするのが通例である。

笠原十九司は、南京市のみならず、周辺部の農村部である南京行政区への日本軍進入後の事件も被害の対象にしているので、異説としても少し早い時期も含めた「1937年12月4日 - 1938年3月28日の4ヶ月」説を唱える[要出典]

地理的範囲[編集]

この論争での地理的概念は広い順序で示すと次の通りとなる。

  • 地理的概念として地区を限定しないもの
  • 南京行政区 :南京市と近郊6県
  • 南京市 :城区と郷区
  • 城区 :南京城と城外人口密集地である下関・水西門外・中華門外・通済門外
  • 南京城 :城壁を境にした内部
  • 安全区 :南京城内の中心から北西部にかけた一地区(面積3.86km2

東京裁判では、検察側最終論告で「南京市とその周辺」、判決文で「南京から二百中国里(約66マイル)のすべての部落は、大体同じような状態にあった」としている。事件発生後に行われた被害調査(スマイス報告)では、市部(城区)と南京行政区が調査対象とされた。

板倉由明は「一般には南京の周辺地域まで」とする[123]

藤原彰は、この定義に対し、日本軍が進撃した広大な地域で残虐行為が繰り返し行われており、もっと広い地域を定義すべきである、虐殺数を少なくするために地域や時間を限定している、と批判した[124]

笠原十九司は、大本営が南京攻略戦を下命した12月4日における日本軍の侵攻地点、中国側の南京防衛線における南京戦区の規定より、地理的範囲を南京行政区とする[125]。これは、集団虐殺(とされる行為)が長江沿い、紫金山山麓、水西門外などで集中していること、投降兵あるいはゲリラ容疑の者が城内より城外へ連行され殺害された(とされている)こと、日本軍の包囲殲滅戦によって近郊農村にいた100万人以上の市民の中の一部が多数巻き添えとなっている(とされる)ことなどによるとする[126]

本多勝一は、第10軍と上海派遣軍が南京へ向けて進撃をはじめた時から残虐行為が始まっており、残虐行為の質は上海から南京まで変わらず、南京付近では人口が増えたために被害者数が増大したし、杭州湾・上海近郊から南京までの南京攻略戦の過程すべてを地理的範囲と定義する[127]

当時の国際社会の認知についての議論[編集]

国際連盟の決議[編集]

1938年2月(南京事件発生の約2か月後)に開催された国際連盟第100回理事会[注釈 10]において、日中戦争による中国の苦境を理解した国際連盟第100回理事会は、日本の中国侵略に対して、「前回の理事会以降も、中国での紛争が継続し、さらに激化している事実を遺憾の意とともに銘記し、中国国民政府が中国の政治的経済的再建に注いだ努力と成果にかんがみて、いっそうの事態の悪化を憂慮し」、日本の軍事行動が不戦条約等の国際法違反であるとした前年10月の国際連盟総会での非難決議を確認する形で再度非難の決議をした。非難決議案が公表されて理事会で決議されるまでの間に、中国側代表の顧維鈞は演説を行い、(前年10月の国際連盟総会後の)11月以降の日中戦争全般についての深刻な事態を「南京事件」も一部として説明し、日本の中国への主権侵害が中国の存亡にかかわる深刻な状況にあること(日本が南京に傀儡政権を作ったこと、中国経済を破壊するような不利な関税策を一方的に設置したなど)に力点を置いて演説した[128]

この国際連盟第100回決議を根拠に、「国際連盟は「南京2万人虐殺」すら認めなかった」という意見が存在する。日本の前途と歴史教育を考える議員の会戸井田徹衆議院議員(2008年当時)[注釈 11]は、著書で、中国側代表が南京事件(死者2万人などの当時中国の把握した被害内容)も含めて国際連盟の第100回理事会において演説した。ただし、この中国側代表顧維鈞の演説は、後述のプロパガンダ説にあるように内容の一部に事実の誇張やプロパガンダの意図があったとされている。さて、そのときの演説に含まれていた南京事件の説明は(他の個別の軍事被害の説明も含めて)、国際連盟の非難決議案に含まれなかったことに注目した(ただし同理事会の決議案が固まった後に中国側の演説が行われたので、正確には「追加されなかった」)。そして、戸井田議員は、非難決議案に南京事件が含まれていないので、「国際連盟は「南京2万人虐殺」すら認めなかった」と主張した。しかも、当時は2万人と中国が述べたので後の30万人説はウソ、日本への制裁[注釈 12]を中国は希望したが国際連盟が実施しなかったことも強調した[132]戸井田徹は、1937年9月に日本軍の中国の都市への空爆(渡洋爆撃など)への具体的非難[注釈 13]が国際連盟総会で決議されたことを例としてあげ、にも関わらず南京事件は個別決議の対象に扱われないのは「国際連盟は無視した」と推察した[137]

これに対して、笠原十九司は、国際連盟が「南京事件を無視した(なかったとみなした)」とするのは以下の様に誤った判断とする。南京事件の第100回の国際連盟の理事会における中国側代表顧維鈞の演説の全体的な趣旨は、ちょうどその時期に国際連盟もナチスドイツの台頭などの欧州大戦の危機に関心が向く中、何とか国際社会の中国支援を引き出そうとしており、「南京事件」よりもそのときの「中国滅亡の危機を阻止」することが最重要であった。よって、その中国の対応にそった国際連盟の非難決議であり、個々の軍事行為でなく全体的危機への非難を行った。そのような背景を考えると、南京事件が議決の文言にあるなしでもって国際連盟が「南京事件を無視した(なかったとみなした)」とはとうてい言えない、むしろこの議決は日本の軍事行動全体を非難していると、反論した[137]

当時の中国政府の認知[編集]

虐殺否定派は、当時の中国国民党が1937年12月から約11か月の間、300回の記者会見という記録があるが、東中野修道が調査した国民党の秘密文書の中には、「南京事件の記者会見があった」という証拠は、その秘密文書の中では探せなかった。よって、南京事件は記者会見の中にさえ言及されなかったのでは、(つまり南京事件の実態が疑わしい)と主張した(戸井田徹[138]東中野修道[139])。

しかし、中国国民党蒋介石は1938年7月7日漢口での「日本国民に告ぐ」において、日本軍の略奪、暴行、残酷な殺人を非難している[140]蒋介石夫人宋美齢も、南京の殺戮を1938年1月にアメリカの友人宛ての手紙に書いている[141]。また、国民党に近い新聞「大公報」では南京事件を残虐行為としてとりあげている[142]

確かに、国民党の新聞では、外国報道の翻訳でのみしか南京事件を報じず、国民党の新聞中央日報新華日報はアメリカの上海新聞Shanghai Evening Post and Mercury(大美晩報),The China Weekly Review(John W. Powell主幹)での事件報道記事の翻訳のみを掲載し、事件を報じなかった[143]。この理由として、当時、中国側の新聞は戦意高揚のために戦勝記事を繰り返しており、南京事件を報じなかったのは、南京戦での敗北を報じたくなかったためという説がある[143]

当時の国際報道についての議論[編集]

1937年12月15日、A・T・スティール記者はシカゴ・デイリー・ニューズで”NANKING MASSACRE STORY”(南京大虐殺物語)を世界で初めて報道した[144][145]。また12月17日「特派員の描く中国戦の恐怖 ―南京における虐殺と略奪の支配」、12月18日「南京のアメリカ人の勇敢さを語る」と報道した[145]1938年2月4日記事では、南京の中国人虐殺をウサギ狩り(ジャックラビット狩り)に比して「ハンターのなす警戒線が無力なウサギに向かってせばめられ、囲いに追い立てられ、そこで殴り殺されるか、撃ち殺されるかするのだった。南京での光景はまったく同じで、そこでは人間が餌食なのだ。 逃げ場を失った人々はウサギのように無力で、戦意を失っていた。その多くは武器をすでに放棄していた。(略)日本軍は兵士と便衣兵を捕らえるため市内をくまなく捜索した。何百人もが難民キャンプから引き出され、処刑された。(略)日本軍にとってはこれが戦争なのかもしれないが、私には単なる殺戮のように見える」と報じた[146][145]

ティルマン・ダーディン特派員は12月17日に上海アメリカ船オアフ号から記事を発信し、12月18日にニューヨーク・タイムズに掲載された。この記事では「・・少なくとも戦争状態が終わるまで、日本側の規律は厳格であろうという気はしていた。ところが、日本軍の占領が始まってから二日で、この見込みは一変した。大規模な略奪、婦人への暴行、民間人の殺害、住民を自宅から放逐、捕虜の大量処刑、青年男子の強制連行などは、南京を恐怖の都市と化した」「民間人の殺害が拡大された。水曜日、市内を広範囲に見て回った外国人は、いずれの通りにも民間人の死体を目にした。犠牲者には老人、婦人、子供なども入っていた」「民間人の死傷者の数も、千人を数えるほどに多くなっている。唯一開いている病院はアメリカ系の大学病院であるが、設備は、負傷者の一部を取り扱うのにさえ、不十分である。」と報道している[147]

また、イギリスのロンドンタイムズ(12月20日)でも報道されており、「日本軍は安全区に入り、戸外で捕らえた中国人を、理由もなくその場で銃殺した」ことが書かれているし[148]、そのほか、ロイター通信社も、事件初期の殺人、傷害、強姦、略奪などの犯罪行為が日本軍によって行われたと報道した[149]

なお、アメリカの新聞が南京事件よりもパネイ号事件(アメリカの船の日本軍による沈没事件[150])を確かに大きくとりあげたが、まずパネイ号事件は、当時アメリカと日本との間では重大問題となっており、日本海軍・外務省も巻き込んで解決されたが、日米開戦もあわやという事件[151]であった。そして、パネイ号事件は、アメリカ人も同時期のアジアの一部でおきた南京での虐殺事件の新聞報道よりも、アメリカの船を意図的に攻撃したのでは、との世論の高い関心を呼ぶこととなり大きく連続してアメリカでは報道された[152]。同じく、南京事件よりもアメリカで報道されたとされるアリソン殴打事件(在南京アメリカ領事ジョン・ムーア・アリソンを日本軍人が殴打した事件)は、米本土で日本に対する世論の憤慨を巻き起こし、ワシントンでは日本特産シルクのボイコットを求めるデモも発生し、外務省側の陳謝でようやく沈静化した事件であった[153]

なお、現地欧米人記者は南京占領後すぐ上海方面へ避難したので、ごく初期の事件以外は自社の記者では直接確認できなかった[154]。例えば、当時ニューヨーク・タイムズ記者だったティルマン・ダーディン特派員は、南京から逃げるときは長江を船を使って下り、上海に向かった[154]。またダーディン記者は上海戦が始まってからおよそ二、三週間後(日本軍が南京に向かい上海から進軍する約3か月前)に南京に向かい、南京に在住した[154]。「戦闘に遭わずに南京に行くため」、上海からは南の道をつかって行った[154]1989年文藝春秋誌上では「日本軍は上海周辺など他の戦闘ではその種の虐殺などまるでしていなかった」「上海付近では日本軍の戦いを何度もみたけれども、民間人をやたらに殺すということはなかった。」「(上海から南京へ向かう途中に日本軍が捕虜や民間人を殺害していたことは)ありませんでした。」と答えている[155]

「南京戦史」(偕行社)編纂者で南京戦当時独立軽装甲車第二中隊小隊長の畝元正己は、日本に敵意を持つ英米独の宣教師や新聞記者らは、日本軍の行動を針小棒大に伝聞、憶測まで伝えたとする[57]

虐殺否定派の東中野は、南京陥落後の12月13〜15日は日本軍は掃討戦中であり、安全区国際委員会に届けられた殺人事件もそれが全てではないにせよ目撃者のないものが5件のみでスティールら外国人記者が見たという証言の信憑性を疑い、また日本の外交官宛の「虐殺の外電」についても同様に「伝聞が情報源であり日本政府(もしくは軍部)は誤情報を報告されたのではない」としている[156]。また、東中野は当時『ニューヨーク・タイムズ』に掲載された「南京虐殺の証拠写真」とされる写真も虚偽写真の可能性があると主張している[157]。たとえば日本兵の内地への手紙についても正確性や信憑性に疑問が呈されている(例えば、虐殺行為を手紙で内地へで伝えたとしても検閲で落とされるため)[158]

渡部昇一は、『ニューヨーク・タイムズ』やアメリカの地方紙の「大虐殺」の記事を、便衣隊あるいはそれと間違われた市民の処刑を見て誤解したと推定する[159]

日本の前途と歴史教育を考える議員の会によれば、南京事件の発生後の約2ヶ月の新聞記事を調査したところ、その間は、12月の場合は市民が大虐殺されたとか、1月以降も強姦や殺人事件があったという記事はなく、むしろ、アメリカの船パネイ号事件の日本軍による沈没事件[150]や、1938年1月26日に発生した在南京アメリカ領事ジョン・ムーア・アリソンを日本軍人が殴打した事件(アリソン殴打事件[注釈 14])が主であり、(アリソンへの)殴打事件よりも記事の重要度が低いなら、それ以上のこと、例えば強姦や殺人は南京には当然なかったと主張した[164]。以上の事実から、同会の西川京子衆議院議員(2008年当時)は、ニューヨーク・タイムズロンドンタイムズも虐殺など全く報道していないと、2013年4月の衆議院予算委員会で述べた[165]。しかし、前述の通り実際は欧米の新聞は南京事件を報道しており、またパネイ号事件やアリソン殴打事件が当時のアメリカで南京事件よりも報道された経緯も前述したとおりの事情であって、決して南京事件がなかったからではない。

プロパガンダ説[編集]

当時事件を報道した著作や映画が戦時プロパガンダであるとする説がある。

中国におけるプロパガンダ[編集]

田中秀雄は、敵対する国家間では相手を打倒するためにあらゆる手段がとられ、戦争のほかに謀略プロパガンダも用いられ、またプロパガンダは国民を結集する方法でもあるとし、南京事件以前の中国の歴史でも多数のプロパガンダがあると論じた[166]。敵側の残虐性を宣伝し攻撃する先例として、軍の攻撃で80万人の犠牲者を生んだ揚州大虐殺側から記録した『揚州十日記』が、1911年中国革命以前には「滅満興漢」のスローガンとともにバイブルとなったことや、1937年12月の南京事件以前の1937年10月25日に中国共産党の毛沢東はイギリスの記者バートラムに対して日本軍が「虐殺、掠奪、強姦、放火」をしていると述べている例、また、1927年の北伐で蒋介石の国民党軍が張作霖張宗昌軍を攻撃するために撒いたビラ[167]には「虐殺、掠奪、強姦、放火」と表記してあった例などを挙げて、南京事件との関連を指摘している[166]。さらに、田中は、中国人にとっては「宣伝が武器よりも優先」し、「プロパガンダが世界に認められたとき、初めて抗日戦争は彼らにとって勝利となる」と述べている[166]

国民政府(蒋介石政権)におけるプロパガンダ[編集]

南京陥落前の1937年11月、国民党は蒋介石の直属機関として中央宣伝部および国際宣伝処を設け、本部を重慶に、さらに上海、香港、ニューヨーク、ワシントン、ロンドンに支部を置いた[168]。国際宣伝処の対敵宣伝科は1937年12月1日にプロパガンダ活動を開始し、対敵宣伝本としてティンパーリの著作を発刊した[168][169]

また、1938年2月2日、ジュネーブでの国際連盟理事会で中国代表の顧維鈞は、日本軍による掠奪、強姦、市民の虐殺、捕虜の大量処刑を報道したティルマン・ダーディン特派員の1938年年1月20日ロンドン・タイムズ記事を引用し、「虐殺された中国人市民の数は2万人と見積もられ、一方で若い女性を含む何千人もの女性が辱めを受けた」と演説で述べた[170]。田辺敏雄は、ダーディンの記事では2万人の「捕虜」とあったのが、顧維鈞演説では2万人の「市民」が虐殺されたとすり替わっていると指摘している[170]。また、顧維鈞は1933年2月のリットン調査団を審議する国際連盟理事会で田中上奏文を引用して平頂山事件に触れて日本を非難しており、虐殺事件を用いて非難するところは南京事件の場合と類似していると田辺は指摘する[170]。「田中上奏文」は日本が世界征服するためには中国、満州、蒙古を征服しなければならないという内容の文書で、現在は偽造文書であることが分かっているが、当時は中国をはじめアメリカのプロパガンダ映画『バトル・オブ・チャイナ』でも日本の侵略計画として説明されたり、戦後の東京裁判でも重要文書と見なされるなどした[170][注釈 15]

共産主義勢力によるプロパガンダ[編集]

田中秀雄は、当時の国際情勢として「世界的に左派リベラルと共産主義が結びついていた「人民戦線」の時代で、"中国を侵略する日本"という図式は確固なものとしてあり、欧米の世論は日本非難に傾きがちだった」と指摘しており、安全区委員や記者は国民党や共産党とつながっていたと主張している[166]

実際、日本側は当時、安全区国際委員会を「半公式の中国政府機関」と看做していた[172]

日本人工作員[編集]

後述するティンパリー『戦争とは何か?』は1938年(昭和13年)に日本訳(『外国人の見た日本軍の暴行』)が出版され、鹿地亘青山和夫の共産主義者の序文がついていることから、この二名の日本人工作員が関わっていると田中秀雄は指摘している[166]

鹿地亘(本名、瀬口貢)(1952年)

鹿地亘は中国の国民党地区で反戦運動を行っており、日本兵捕虜を組織した[173][174]。また、国民党も日本兵捕虜から情報を収集するだけでなく、中国側の寛大さを示す国際宣伝に利用することも行っていた[174]。さらに、収容所では「中国側へのオベッカから恭順をよそおう者」だけが「反戦分子」として優遇された[174]。鹿地亘は郭沫若の協力もあり、1938年12月には反戦同盟を組織[174]。1939年12月には、中国の抗日戦争は「日本人民の自由解放」と一致するとの声明を発表し、1940年5月には延安支部が建設され、八路軍や新四軍地区の日本人捕虜兵士による反戦運動にも影響を及ぼした[174]

青山和夫重慶政府国際宣伝処の対日工作顧問で(本名は黒田善治)、コミンテルンの指令で対日工作に活躍した[175][176][177]。なお、戦後、重慶から帰国した青山和男は1946年4月3日朝日新聞で 「尾崎秀実君から(日米戦がはじまるぞ)と予告を私たちに伝えてきた。 そのため、連合国のいっさいの準備ができた。尾崎がしらせたのはソ連と中国であったが、私は英国と米国へ”戦争の準備はいいか”と はっきり駄目を押したところ、両国とも”大丈夫”と答えた。」 と真珠湾攻撃前の情報工作について述べている[178]倉前盛通は、この青山証言から連合国側は事前に真珠湾攻撃を知っていたと主張している[179]。なお、尾崎秀実は1930年に上海で、アメリカ共産党員の鬼頭銀一やアメリカ人記者アグネス・スメドレーを介してコミンテルン情報局員・ソ連共産党員リヒャルト・ゾルゲと知り合い諜報活動を行い、1944年に処刑された[180]

コミンテルンとアメリカ共産党による中国支援と対日プロパガンダ[編集]

満州事変に対抗してコミンテルンは、1932年2月に「あらゆる資本主義国の港から日本に向けて積み出される武器と軍需物資の輸送に反対しなければならない」とし、中国の抗日戦争を支持するよう各国の共産党に指示した[181][182]アメリカ共産党は「アメリカ中国人民友の会[183]」を設立し、会長にマックスウェル・スチュアート(『The Nation』編集員)、は機関誌『チャイナ・トゥデイ』編集長にフィリップ・ジャフェ(Philip Jaffe)が就任し、F.V.フィールド([184]アメリカIPR事務局)、T.A.ビッソン([185]在中国宣教師)らが委員となった[182]。1933年にはルーズヴェルト大統領がソ連と国交を樹立し[182]、アメリカ共産党は反戦・反ファシズムアメリカ連盟[186]を平和運動家と結成した。

1935年コミンテルン第七大会で、日本とドイツのファシズム国家と戦うために英米と提携し、反ファシズム統一戦線人民戦線が各国の共産党に指示された[182]。アメリカ共産党書記長で赤色労働組合インターナショナル中国・太平洋支部太平洋労働組合書記局長のアール・ブラウダーが指揮して、「反戦・反ファシズムアメリカ連盟」、アメリカ教員組合連盟[187]アメリカ労働総同盟・産業別組合会議,アメリカ反戦会議などの団体と「共産党色」を消して連携していった[182][188][189]

またA.スメドレーもコミンテルンから資金援助を受けて反日プロパガンダ工作を上海で行い、「南京市民20万人虐殺」説を唱えるなどしており、プラウダとも協力していた[190][182]

また1925年にYMCAが設立したシンクタンクの太平洋問題調査会(IPR)[191]の事務総長エドワード・カーター(インドYMCA)の秘書にアメリカ共産党のF.V.フィールドが就き、O.ラティモア冀朝鼎(後国民党財務大臣秘書官)、ゾルゲグループの陳翰笙、H.ノーマンが研究員となり、1933年以降は日本の侵略を非難していった[182]。太平洋問題調査会は1939年にはノーマン『日本における近代国家の成立』等を刊行し、米軍監修のプロパガンダ映画我々はなぜ戦うのか』シリーズ(『ザ・バトル・オブ・チャイナ』『汝の敵を知れ』)では製作に協力し、日本の世界征服計画について書かれた田中上奏文(現在では偽文書とされる[171])や南京大虐殺が毒々しく紹介された[182]

オーエン・ラティモアと妻・エリノア

1936年、アメリカ共産党のF.V.フィールドとジャフェ、T.A.ビッソンらは、中国共産党を支援する雑誌『アメラジア(Amerasia)』を創刊し、IPRのラティモアも委員となった[182]。T.A.ビッソンは中国で宣教師をした後、日本敗戦後はGHQで財閥解体を担当した[182]

冀朝鼎[192]。妻ハリエットはフィリップ・ジャフェのいとこだった。

1937年6月、アメリカ共産党のF.V.フィールド、ジャフェ、T.A.ビッソン、ラティモア、スメドレー、エドガー・スノーらは延安の中国共産党基地を訪問し、毛沢東と面会した[182]

1937年7月の盧溝橋事件以降、アメリカの反日運動が高まり、会員数400万人の「反戦・反ファシズムアメリカ連盟」はアメリカ平和民主主義連盟[193]と改名し、全米各都市に「中国支援評議会」を設置し、その名誉会長にはルーズヴェルト大統領の母ジェームズ・ルーズヴェルトが就任し、副会長に胡適、理事にマーシャル陸軍参謀総長夫人が就任した[182]

上海でゾルゲやスメドレーを支援していたルドルフ・ハンブルガーもソ連赤軍諜報部責任者で、その妻ルート・ウェルナーはゾルゲの助手であり、またジョン・ラーベの友人であった[182][194]。なお、ゾルゲも南京戦を目撃していたといわれる[195][182]

南京にいたジョン・マギーは撮影したフィルムをティンパーリの指示で「侵略された中国」と題して、中国YMCAのジョージ・フィッチが持ち出し、アメリカ各地でYMCA等によって上映された[182]

1938年8月にフィッチらはニューヨークで「日本の侵略に加担しないアメリカ委員会[196]」(以下、アメリカ委員会)を設立し、ジャフェ、ビッソン、M.スチュアートらアメリカ共産党員や、ハリー・B・プライス([197]燕京大学教授)、ヘレン・ケラーが発起人となり、1939年1月17日には名誉会長にヘンリー・スティムソン元国務長官が就任した[182][198][199]。なお、ハリー・プライスの弟のフランク・プライスは中国の宣教師で、また国民政府国際宣伝処の英文編集主事だった[182]。アメリカ委員会はパンフレット『日本の戦争犯罪に加担するアメリカ』『戦争犯罪』を作製し、ロビー活動を行った[182]

こうした情勢に対して若杉要ニューヨーク総領事は1938年に、アメリカでの反日プロパガンダ組織には中国政府系、アメリカ共産党系、宗教人道団体系の三種あり、このような運動を背景に、当時のアメリカ世論では蒋介石宋美齢は「デモクラシーとキリスト教の擁護者」として認知されているが、共産党系の狙いは日米関係を悪化させて支那事変を長期化させることによって日本がソ連に圧力を加えないことを目的としていると報告しており[200]、また若杉は1940年に、反日運動を指揮するコミンテルンの目的は、日本を牽制することでアジア地域の共産化を助成していことなので、日本が反米政策を取ることに警鐘を鳴らした[201][182]。しかし、近衛文麿内閣は、ゾルゲグループの尾崎秀実らの昭和研究会からの影響で、英米排除を掲げた「大東亜新秩序建設」を国是としていった[182]

米中合作プロパガンダ[編集]

早稲田大学有馬哲夫によれば、終戦後GHQCIE(民間情報教育局)がウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムによって新聞連載『太平洋戰爭史』やラジオ『眞相はかうだ』などで南京の暴行事件を報道し、日本人に「認罪」に導こうとしたとし、また現在の中華人民共和国が「南京大屠殺」を反日プロパガンダとして使う際には戦闘員の戦死、便衣兵の処刑、民間人の虐殺を故意に混同していると主張している[202][203]

戦後のGHQの宣伝政策

終戦後の連合国軍占領下の日本では全国規模での検閲が実施され、連合国への批判が禁止され、また神道指令によって神道行事が禁止され、さらに大日本武徳会が強制解散させられ、剣道柔道歌舞伎も禁止された[204][205][203][206][207][208]

アメリカ合衆国は、ハロルド・ラスウェルのプロパガンダ研究を基礎にして、プロパガンダや情報操作によって相手国をしたがわせる心理戦を重視した[203][209][210][211]。戦時中にも戦時情報局(OWI)や戦略諜報局(OSS)に心理戦部局が作られ、ハドレー・キャントリルジョージ・ギャラップ世論調査で知られる)、フランク・スタントン(後CBS)らがいた[203]。アメリカ政府は1945年11月1日にマッカーサーに対して占領政策の基本方針として以下を通達した[203]

適当な方法をもって日本人のあらゆる階層に対してその敗北の事実を明瞭にしなければならない。彼らの苦痛と敗北は、日本の不法にして無責任な侵略行為によってもたらされたものであるということ、また日本人の生活と諸制度から軍国主義が除去されたとき、初めて日本は国際社会へ参加することが許されるものであるということを彼らに対して認識させなければならない

この方針によって民間情報教育局のケン・ダイクは『太平洋戰爭史』とラジオ『眞相はかうだ』のメディアキャンペーンを行った[203]。1945年12月8日からGHQの宣伝政策で全国の新聞各紙で連載された『太平洋戰爭史』では

2万人の市民、子供 が殺戮された。4週間にわたって南京は血の街と化し、切り刻まれた肉片が散乱していた。婦人は所かまわず暴行を受け、抵抗した女性は銃剣で殺された — 朝日新聞1945年12月8日

と報道された。 また『太平洋戰爭史』をドラマ仕立てにしたNHKラジオ『眞相はかうだ』が同年12月9日から放送され、そのなかで「南京の暴行」として、

上海の中国軍から手痛い抵抗を蒙った日本軍は、その1週間後その恨みを一時に破裂させ、怒涛の如く南京市内に殺到したのであります。この南京の大虐殺こそ、近代史上稀に見る凄惨なもので、実に婦女子2万名 が惨殺されたのであります。

南京城内の各街路は数週間にわたり惨死者の流した血に彩られ、またバラバラに散乱した死体で街全体が覆われたのであります。この間血に狂った日本兵士らは非戦闘員を捕え、手当り次第に殺戮、掠奪を逞しくし、また語ることも憚る暴行を敢て致しました。(略)集団的なる掠奪、テロ行為、暴行等人道上許すべからざる行為は、市内至るところで行われました。(略)これは明らかに日本軍将校が煽動して起こしたものであり、彼等の中には自ら街頭に出て商店の掠奪を指揮したものもあったと言われています。日本軍の捕虜となった支那兵を集め、これを四、五十人づつロープで縛り、束にして惨殺したのもまた日本軍将校の命令であったのです。日本軍兵士は街頭や家庭の夫人を陵辱し、暴行を拒んだものは銃剣で突き殺し、老いたるは六十才の夫人から若きは十一才の少女まで見逃しませんでした。
そして中国赤十字社の衛生班が街路上の死体片付けに出動するや、わが将兵は、かれらの有する木製の棺桶を奪いそれを「勝利」の炬火のために使用いたしました。赤十字作業夫の多数が惨殺され、その死体は今までかれらが片付けていた死体の山に投げ上げられました。(略)
(日本)政府の御用機関たる東京放送局は次の如きデタラメな虚報を世界に向かって送ったものです。『南京においてかく多数を惨殺し、また財産を掠奪した●●の徒はこれを捕縛した上厳罰に処されました。かれらは蒋介石軍にいて平素から不満を抱いていた兵士の仕業であることが判明いたしました』と。(略)
南京の暴行、これこそ中国をして最後まで日本に抵抗を決意せしめた最初の動機となったものであります

— 「南京の暴行」連合軍総司令部民間情報教育局編『眞相はかうだ』聯合プレス社,昭和21年、pp.30-p33[212]

と放送した。

有馬哲夫はこのラジオ『眞相はかうだ』は悪質なブラック・プロパガンダ(虚偽や誇張が含まれるプロパガンダ[213])であるとした[203]。さらに有馬は、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムによって日本人に周知が徹底されたことを知った上で謝罪するのは自由であるが、それを「日本人すべてが、それも現在の日本でなく、将来の世代も、謝罪と懺悔を続けるべきであると考え、そのようにほかの人にも説くならば、それは反日プロパガンダに加担することになる」と主張している[202]

なお、朝鮮戦争で米兵が中国共産党捕虜になると共産主義者に改造されることが続出したことが報告され、中国共産党による「洗脳」の手順がエドワード・ハンターやロバート・J・リフトンらによって明らかにされていった[214]。また撫順戦犯管理所での日本兵捕虜への思想改造なども報告されており、一部の元日本軍将兵は中帰連を結成した[215]。一方、新井利男は戦犯たちは精神の自由を取り戻したとし、『週刊金曜日』認罪は「人類の解放という理想を体現した」と絶賛した[216]

旅順虐殺事件とイエロー・ジャーナリズム

また、南京虐殺と対比される事件に旅順虐殺事件がある[217][218]旅順虐殺事件日清戦争時の旅順戦の敗残兵掃討戦において発生したとされる事件で、2000名の中国市民が日本陸軍によって虐殺されたと当時NYワールド特派員クリールマンが報道し、中国の教科書ではそれ以上の犠牲が記述されているが、現在の研究ではNYワールド紙がライバル紙(ハーストのNYジャーナル)と扇情主義報道を競い合うイエロー・ジャーナリズムにおける報道であったことや、またNYヘラルド特派員ゲルヴィルが虐殺報道は捏造であると当時反論していたことやベルギー公使が虐殺は誇張であると報告していたことが判明している[注釈 16]。ただし大江志乃夫は一般市民6000名虐殺は「絶対に動かしようがない事実」と主張する[229]など、日本の研究者では虐殺は史実であるとされる[230][218]

ティンパーリ著作[編集]

オーストラリア人記者でマンチェスター・ガーディアン紙のハロルド・J・ティンパーリは、南京事件の直前9月まで南京に居て、他のジャーナリストの情報などを元に南京事件について1938年著作「戦争とは何か」を出版した[231][232]。この著作は当時イギリス、アメリカ、フランス、コペンハーゲン、中国、日本で刊行され、英米だけで12万冊出版され、日本軍の残虐行為について広く世界に知らしめることとなり、戦後の戦犯裁判では検察側の主要な証拠として採用された[168][232]。南京大虐殺記念館長の朱成山は「南京大虐殺をいち早く世界に広めた本」と評価している[232]

ティンパーリ著作の内容は、コミンテルンの支援で日本から帰国した郭沫若が中国語版の序文を書き[232]、また日本版は鹿地亘青山和夫らが序文を書いた(詳細は#日本人工作員を参照)[166]

匿名で書かれた第1章「南京の生き地獄」、第2章「掠奪、虐殺、強姦」、第3章「甘き欺瞞と血醒き暴行」、第4章「悪魔の所為」までは、マイナー・シール・ベイツジョージ・アシュモア・フィッチが執筆した[168][233]。ベイツは金陵大学歴史学教授兼安全区国際委員会委員で、国民党顧問であった[234][168][232]。フィッチはYMCA支部長で、国民党軍輜重部隊顧問だった[235]。ティンパリーは当時上海におり、南京で見聞した内容ではなかった[232]

付録には南京安全区国際委員会による「南京暴行報告」 と書簡文」(国民党外交部顧問徐淑希編『南京安全区档案』にも収録)、および「南京の『殺人競争』」として日本の百人斬り競争記事が収録された[168]。なお当時国民党外交部長官は王寵恵であった。ティンパーリは「南京暴行報告」 について日本軍占領当初安全区内2ヶ月の報告を「完全に取り揃えている」と評価し、以下のような暴行案件が掲載された[168]

  • No. 1:12月15日、道路掃除夫6名が鼓楼で日本兵によって銃殺、1名重傷。
  • No. 12:12月14日夜、日本兵11名が銅銀巷の家に闖入し、女性4名を輪姦。
  • No. 15:12月15日、日本兵が漢口路の家で嫁を強姦し、3名の女を拉致した。2人の夫は銃殺。
  • No. 20:12月16日夜、日本兵7名が窓から難民区へ侵入し、その場で婦女を強姦。
  • No. 24:日本兵は紅卍字会の鉄鍋1個を掠奪し、鍋の中の米粥を地上に投げた。
  • No. 146:12月23日午後3時、日本兵2名が漢口路小学校収容所で女子職員を強姦。夕方、日本兵数名が女子を輪姦。7時頃、日本兵3名が少女2名を強姦。

この報告で殺人事件は50人程度であった[168]。しかし、ベイツは1万2千人の中国人非戦闘員の殺害を東京裁判で証言しており、この相違は説明がつかないと田辺敏雄は指摘している[168]

しかし鈴木明北村稔東中野修道によって『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』、国民政府国際宣伝処長の曽虚白自伝などの中国側の資料が発見され[236]、これらの資料よりティンパーリは蒋介石国民党政府中央宣伝部顧問に就任しており、国民政府の依頼を受けてイギリスやアメリカで戦時プロパガンダを行っていたことが判明し、著作の公平性が疑われると主張した[237][238][239][240][168]

『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』(台北国民党党史館蔵)には「本処(国際宣伝処)が編集印刷した対敵宣伝書籍」として、ティンパーリの著作の中国語版名『外人目睹中之日軍暴行』が挙げられている[232]

国民政府国際宣伝処長の曽虚白は以下のように著書で証言している[168]

ティンパーリーは都合のよいことに、我々が上海で抗日国際宣伝を展開していた時に、上海の「抗戦委員会」に参加した3人の重要人物のうちの1人であった。・・・そして彼に香港から飛行機で漢口(国民政府)に来てもらい、直接に会って全てを相談した。我々は秘密裏に長時間の協議を行い、国際宣伝処の初期の海外宣伝網計画を決定した。我々は目下の国際宣伝においては中国人は絶対に顔をだすべきではなく、我々の抗戦の真相と政策を理解する国際友人を捜して我々の代弁者になってもらわねばならないと決定した。ティンパーリーは理想的人選であった。かくして我々は手始めに、金を使ってティンパーリー本人とティンパーリー経由でスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として2冊の本を書いてもらい、印刷して発行することを決定した 。(略)このあとティンパーリィはそのとおりにやり、(略)2つの書物は売れ行きのよい書物となり宣伝の目的を達した。 — 『曾虚白自伝』聯経出版社、1988年[238][168]

「2つの書物」とはティンパーリの本と、スマイス調査のことであった[注釈 17][168]。また、ティンパーリはベイツへの書簡で「この本はショッキングな本とならなければなりません。もっと学術的取り扱いをすることによって、ある種のバランス感覚もできるでしょうが、ここでは劇的な効果をあげるためにもそれを犠牲にしなければならない」とセンセーショナルに書くと述べていた[168]。田辺敏雄は、南京在住の米欧人が日本軍に対して悪感情を持ち、中国人に肩入れするのもごく自然のことであっただろうが、それらの記録は中立の立場とはいえないものだったとしている[168]。一方、渡辺久志は、曽虚白の証言には問題があり、またティンパーリが国民党中央宣伝部顧問に就任したのも1939年であったといい、井上久士は「曽虚白自伝」による中国側の依頼でティンパーリが書いたのは誤りとしている[241][242][243]。笠原十九司は、曽虚白の証言は信憑性がなく採用できないとし、また、ティンパーリの本では主要な部分は南京在住者の手記で構成されているので、著作を捏造とすることは論理的に不可能であるし、もし国民政府の意図に沿った取材を彼が行ったとしても、それより前に「戦争とは何か」を著作しているので捏造ではないとする[243]。なお、ティンパーリやベイツと親しかった新聞記者松本重治の記録では両名とも日本への好感を持っていたが、日本軍の行動によって好感が失望に変わったと記されている[244]

このほか、南京陥落の翌日に現地にいった外交官福田篤泰は、「残虐行為の現場は見ていないが、私はあれだけ言われる以上、残念ながら相当あったと思う。しかし私の体験からすれば、本に書いてあるものはずいぶん誇張されている」と述べ、T・J・ティンパレー『中国における日本軍の残虐行為』(1938年)の原資料には、フィッチ神父が現場検証もせずに中国人の訴えを記録したものもあるという[245]。また中国軍の抵抗は激しく、急な進撃で日本軍は食糧が不足し、これが略奪の一因とした。 安全地区の難民に便衣兵が交じっていたことも事実であるとする[245][注釈 18]。また、ティンパリー著作では日本の飛行機が「日機」と表記されるなど中国語寄りの表記があることから、日本留学経験のある中国人が執筆に協力しているのではないかと田中秀雄は指摘している[166]

国民党中央宣伝部副部長の董顕光。英文月刊紙『戦時中国』を刊行した。

他方、アメリカ海軍情報将校、南京・漢口アメリカ大使館海軍武官アメリカ海軍長官特使として蒋介石と親しかったジェームズ・M・マクヒューの史料[246]によれば、ティンパリーは南京陥落以前の1937年11月に蒋介石夫妻の私的顧問でオーストラリア人記者ウィリアム・ヘンリー・ドナルドから宣伝工作に参加するよう勧誘された[232]。ドナルドはファーイースタンレビュー紙編集員であったが、オーナーと日本の衝突によって1915年より反日の立場となり、日本を声高に非難してきた[247]。ドナルドは張学良の顧問の後に蒋介石夫妻の私的顧問となっていた[247]。ドナルドは、国民党シドニー支部で勤め、国民党19路軍でプロパガンダを担当していたウィリアム・ジョセフ・リュウと親しかった[248]。リュウは1931年に田中上奏文によって日本の世界征服計画によって中国と満州が被害者となっていると主張した著書 China and the Trouble in Manchuria:what it means to China, Japan, Russia and the world(『中国と満州問題:中国、日本、ロシア、世界にとっての意味』)を出版するなど有力な反日プロパガンダ運動家だった[248][249]。ドナルドの紹介で国民党のプロパガンダ工作員として勧誘されたティンパリーは、国民政府元財政部長宋子文と月額1000ドル(現在の貨幣価値で約175万円[250])の報酬で合意し、1938年に「戦争とは何か」を刊行した[232]。従って、前述した渡辺久志や笠原十九司はティンパリーが国民党顧問になったのは「戦争とは何か」刊行後の1939年であったため、国民党のプロパガンダとティンパリー著作とは無関係であるとする主張に対して[241][243]、すでに1937年にティンパリーは「戦争とは何か」を発表前に国民党のプロパガンダ工作員となっていたことがマクヒュードキュメントや董顕光の証言で明らかになってきた[232]。中央宣伝部副部長の董顕光はティンパリーについて「彼は中国の勝利が民主主義世界にとって重要だとの信念を持って、私のスタッフになった」と回顧している[232]。ティンパリーはその後、国民党国際宣伝処のイギリス・アメリカ支部の開設に尽力し、1938年7月に国際宣伝処顧問に正式に就任し、同年9月にマンチェスター・ガーディアンを辞職し、国民党の宣伝工作に従事した[251]が、董顕光によればティンパリーは専用クルーザーや自動車を要求するなど高慢になり、1941年後半には国民党国際宣伝処を辞任した[232]

エドガー・スノーの著作[編集]

中国共産党に取材した『中国の赤い星』で高評を得ていたエドガー・スノーは、南京戦当時には上海にいたが1941年の著作『アジアの戦争』[注釈 19]

南京虐殺の血なまぐさい物語は、今ではかなり世界に聞こえている。南京国際救済委員会の委員が私に示した算定によると、日本軍は南京だけで少なくとも4万2千人を虐殺した。しかもこの大部分は婦人子供だったのである。また、上海・南京間の進撃中に、30万人の人民が日本軍に殺されたと見積られているが、これは中国軍の受けた死傷者とほぼ同数であった。いやしくも女である限り、10歳から70歳までの者はすべて強姦された。難民は泥酔した兵士にしばしば銃剣で刺し殺された。母親は赤ん坊の頚が切られるのを見た上で強姦を受けねばならぬことがしばしばであった。 — エドガー・スノー『アジアの戦争』(1941)

と書いた[252]

田辺敏雄によれば、国際救済委員会の前身は南京安全区国際委員会で、スノーはベイツやティンパーリの著作を参考にしていたが、「非戦闘員1万2千人殺害」でなく、「女、子供4万2千人虐殺」 にすり替わっており、「聞き伝えというのは当てにならないという好例で、そこに個人的感情、政治的立場が入りこめば、悪意を込めた方向に際限もなく変形していく」、また本多勝一ら大虐殺派の30万人虐殺説はスノーの「上海・南京間の30万人虐殺」説の影響を受けている可能性があると主張している[252]

映画[編集]

アメリカ陸軍省が監修したプロパガンダ映画『ザ・バトル・オブ・チャイナ』中の「南京大虐殺」シーンは、女性を連行する軍人の肩章勲章が日本軍のものではない、腰に弾帯を巻いているが日本軍の拳銃は回転式ではないので必要がない、南京事件は12月なのに半袖姿がある、生き埋めにされる婦人の上に「三民主義」と書かれた紙片が載せられるなど、日本軍が南京で行った連行殺害の映像ではなく、中国軍が別の時期に行ったものではないかと大原康男竹本忠雄は主張している[253]

捕虜殺害命令説[編集]

アイリス・チャンは『ザ・レイプ・オブ・南京』で、デビッド・バーガミニの著書『天皇の陰謀』(1971)[254]に基づいて、昭和天皇朝香宮鳩彦中将に日本軍指揮を命じ、その後朝香宮中将またはその参謀が「捕虜はすべて殺害せよ」との命令を発したと論じた[255][256]。しかし、アメリカン大学名誉教授のリチャード・フィンはアメリカの歴史家はバーガミニが使った情報源に懐疑的で、天皇や朝香宮中将による命令について信頼に足る証拠はないと批判した[257][256]。歴史家のバーバラ・タックマンはバーガミニの『天皇の陰謀』は「ほぼ完全に、著者の推論と悪意ある解釈を好む性向の産物」と非難した[255][256]


中島今朝吾日記を捕虜殺害命令とする説と論争については#陣中日誌を参照。

南京ホロコースト説[編集]

1984年8月4日朝日新聞夕刊は、南京大虐殺を「広島、長崎の原爆やアウシュビッツと並ぶ無差別大量殺人」と報道した[258][259][260]

アイリス・チャンは著書「ザ・レイプ・オブ・南京」の副題に「忘れられたホロコースト」と付け、南京の犠牲者は26万から35万にのぼり、東京大空襲広島・長崎の原爆投下の犠牲者(犠牲者推計約23万8900人[261])よりも多く[255][256]、南京事件を犠牲者は580万とも推計される[262]ナチスドイツによるユダヤ人虐殺(ホロコースト)と同一視した[256]。またチャンの著作が刊行された1997年11月30日ニューズウィークはチャンの著作と内容が重複する編集部書名記事「南京のレイプを白日の下に晒してみよう(EXPOSING THE RAPE OF NANKING)」を報道した[263]

しかしリチャード・フィンはチャンの数字は誇張であり、当時南京にいたラーベは犠牲者を5万〜6万人、現地入りしたダーディン特派員は数千人と記録していると批判した[256]ハーバード大学エズラ・ヴォーゲルもラーベの記録はチャンの数よりはるかに少ないと指摘している[264][256]スタンフォード大学のデビッド・M・ケネディは「南京で起こった事件はホロコーストに見られる組織的な殺戮と同一視されるべきであると結論を下す理由を、チャンは読者に与えていない」と評した[255]。『ニュー・リパブリック』誌のジェイコブ・ハイルブランは「ホロコーストはナチによる組織的、計画的、かつ政府組織をあげてのユダヤ民族の絶滅を目指す殺人行為だった。だが、南京破壊は戦争犯罪であり、中国人絶滅の試みなどではない。日本政府が事前に残虐行為を命令した証拠はなく、前線の軍隊が暴走した結果だろう。その意味では、南京でのような事件は歴史上、他にも多数、起きたといえる。センセーショナルな宣伝文句に間違った比較を使うことには納得できない」「事件はあくまで軍隊の一部による戦争犯罪であり、日本以外の国の軍隊も同じようなことはしてきたのだ」とコメントし、さらに中国政府は大躍進政策文化大革命での何百万の大量虐殺に直面することを避け続けていると批判した[265][256]

2000年には中国ホロコースト博物館がサンフランシスコで開館した[266]大阪教育大学の馬暁華によれば、中国系アメリカ人にとって日本の戦争犯罪は「中国人ホロコースト」であり、ユダヤ人へのホロコーストよりも恐ろしく、破壊的打撃であるという[267]

また、アメリカの学校ではユダヤ人ホロコーストは授業で扱われるのに、中国人へのホロコーストは扱われていなかったので、在米華僑団体はサンフランシスコの公立学校での歴史の授業で第二次大戦での中国の被害について扱うようキャンペーンを行い、取り入れることに成功した[267]

2015年、習近平共産党総書記は、南京大虐殺、ナチスによるユダヤ人虐殺、日本への原爆投下は、第二次世界大戦史における三大惨事であると主張した[268]

戦後の戦犯裁判の検証[編集]

南京裁判[編集]

阿羅健一は、南京事件は翌1938年まで続いていたと南京裁判判決はしているが、谷寿夫中将の第6師団が入城内したのは数百メートルまでで、数日すると主力は蕪湖方面に転進し、谷中将も入城式のため一週間ほど南京にとどまっただけである。また裁判では日本の弁護士もつけることが許されなかった。谷中将は、南京事件を知ったのは戦後GHQの「太平洋戰爭史」によってであると述べており、判決の事実認定に疑問であるとした[269]

東京裁判[編集]

田中正明は、戦後の戦犯裁判ではじめて中国は死体埋葬一覧表などの資料を急造し、被害者と称する人物の誇大宣伝や「屍体は累々として山をなし、流血は二条の河となって膝に没する程なり」といった文学的作文まで証言・証拠として提出したが、東京裁判では日本軍に関するかぎり偽証罪がなく、「大虐殺」の目撃者がいない[270]何應欽将軍の報告や戦闘詳報にも共産軍の記録にも「20〜30万大虐殺」の記録がないと論じた[270]。南京安全区記録によると日本軍による被殺害は49人、スマイス調査では2400人[270]。南京安全区国際委員会記録によれば当時の南京人口は15~20万、中国兵4~5万[270]。また占領4日目頃から治安回復し、避難民も続々帰ってきた[270]。したがって、治安回復した都市で「大虐殺」は不可能であるとした[270][271]

文献記録と口述資料、写真・映像[編集]

広田弘毅外相の電報[編集]

中国側は1994年にアメリカ公文書館によって解禁された資料のなかに1938年1月17日付の外務省から在ワシントン日本大使館宛に南京視察後の広田弘毅外相が発信した暗号電報が発見され、そこには「日本軍部隊はフン族アッティラ王を思い出させるように振る舞った。三十万人以上の中国市民が殺害され、多くは冷酷な死を遂げた」との内容が記録されており、以降中国は虐殺の証拠として「広田電」を宣伝している[255]アイリス・チャンも、この広田電報が30万虐殺の動かしがたい証拠であると主張した[256]。またスタンフォード大学のデビッド・M・ケネディはチャンの本を批判しながら、虐殺の証拠とした[255]

しかし、広田外相は当時日本国内におり、南京視察は行っていない[255][272]。また、ジョージ・ワシントン大学のダキン・ヤンはこの電報は広田弘毅ではなく、記者ティンパリーが書いたニュースであると指摘している[273][256]。諸君!編集部はこの電報とされる文書はティンパーリー記事を現地の日本当局が検閲・押収したもので、「アッチラ大王」や「フン族」などの言及からも日本人らしからぬ発想であると指摘している[255]

証言[編集]

当時南京戦に参加した日本軍将兵や従軍記者、外交官などの証言があり、「虐殺」があった、「捕虜」「便衣兵」の処刑を目撃したという証言がある[274]。一方で、当時「虐殺」は見ていない・聞いていないとする証言も多数ある[275]。また再調査によって証言が虚偽であったことが判明しているものもある[276]。日本人以外では戦後の南京裁判や東京裁判で証人となった安全区にいた外国人の証言や中国人の証言がある。

日記史料[編集]

陣中日誌[編集]

陸軍のOB会偕行社が編纂した「南京戦史」・「南京戦史資料集I」「南京戦史資料集II」には多数の軍人の陣中日誌、日記、部隊の戦闘詳報が掲載されており、松井石根大将、飯沼守上海派遣軍参謀長(資料集I)、上村利道上海派遣軍参謀副長(資料集II)、山田栴二(歩兵第104旅団長・山田支隊支隊長)の日記等が収録されている。個別の出版では、下士官だった村田 和志郎の「日中戦争日記」(1986年出版)などが出されている。

1937年12月13日「本日正午高山剣士来着す 捕虜七名あり 直に試斬を為さしむ 時 恰も小生の刀も亦此時彼をして試斬せしめ頚二つを見込(事)斬りたり[277]」「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシタルモ千、5千、1万ノ群衆トナレバ之ガ武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ唯彼等ガ全ク戦意ヲ失イゾロゾロツイテ来ルカラ安全ナルモノノ之ガ一旦騒擾セバ始末ニ困ルノデ部隊ヲトラックニテ増派シテ監視ト誘導ニ任ジ 13日夕ハトラックノ大活動ヲ要シタリ乍併戦勝直後ノコトナレバ中々実行ハ敏速ニハ出来ズ 斯ル処置ハ当初ヨリ予想ダニセザリシ処ナレバ参謀部ハ大多忙ヲ極メタリ 後ニ至リテ知ル処ニ拠リテ佐々木部隊丈ニテ処理セシモノ約1万5千、太平門ニ於ケル守備ノ一中隊長ガ処理セシモノ約1300其仙鶴門附近ニ集結シタルモノ約7,8千人アリ尚続々投降シ来ル 此7.8千人、之ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ中々見当ラズ一案トシテハ100,200二分割シタル後適当ノカ処ニ誘キテ処理スル予定ナリ[278]
この記述の「大体捕虜ハセヌ方針」を軍による捕虜殺害命令とする見方がある(藤原彰[279]笠原十九司[280]秦郁彦[281]吉田裕[282])。吉田裕は裏付けとして第38連隊児玉義雄証言、第16師団歩兵33連隊、第114師団第66連隊第一大隊戦闘詳報を挙げている。一方、中島日記の記述を裏付ける命令書と物証は発見されていない。東中野修道はこれを捕虜殺害の意味でないと意見する。当初から殺害する方針であったとすれば明記するはずであり、捕虜にせずに釈放するのだと考え、上海派遣軍参謀・大西一大尉「これは銃器を取り上げ、釈放せい、ということです」という証言も挙げる[283]。日本軍は捕虜収容所を作り捕虜を収容し汪兆銘政権下の兵士となった者もいて、戦闘中の捕虜を解放した事例もある[283]。ただし、もし「捕虜ハセヌ方針」が「殺害せよ」でなく、“釈放せよ”だと、以下の理由で不自然である。そのあとの文章、つまり「此7.8千人、之ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ」、つまりなぜ捕虜を釈放したあとに、「7、8千人の人間をかたずけるための大きな地面の穴(大ナル壕)が必要か」との表現上の矛盾があるので、「捕虜ハセヌ方針」は、「捕虜を殺害して処分しろ」との意味であると解釈したほうが自然である。「南京戦史」にも「殺害せよ」の意味との当時の軍人の解釈や、大きな壕に捕虜を大量に埋めたという証言がある[284]。東中野のこの反論に対する再反論はなく、「釈放せよ」の意味と述べた大西大尉は、陸軍OBの偕行社の「南京戦史」の編集部からも、その言動の真意を批判されたことがある[285]
  • 小原立一 (第16師団経理部予備主計少尉 )日記1937年12月14日「最前線の兵七名で凡そ三一〇名の正規軍を捕虜にしてきたので見に行った。色々な奴がいる。武器を取りあげ服装検査、その間に逃亡を計った奴三名は直ちに銃殺、間もなく一人ずつ一丁ばかり離れた所へ引き出し兵隊二百人ばかりで全部突き殺す・・・・中に女一名あり、殺して陰部に木片を突っこむ」(秦郁彦が引用[286]
  • 井家又一 (歩兵第七連隊第二中隊上等兵) 日記12月22日「百六十余名を連れて南京外人街を叱りつつ、古林寺付近の要地帯に掩蓋銃座が至る所に見る。(中略)一軒家にぶちこめた。家屋から五人連をつれてきては突くのである。(中略)戦にやぶれた兵の行先は日本軍人に殺されたのだ。針金で腕をしめる、首をつなぎ、棒でたたきたたきつれ行くのである。 (中略)水の中に飛び込んであぶあぶしている奴、中に逃げる為に屋根裏にしがみついてかくれている奴もいる。 いくら呼べど下りてこぬ為ガソリンで家具を焼く。火達磨となって二・三人がとんで出て来たのを突殺す[287]」。
  • 児玉義雄 (第16師団第38連隊の副官) 師団命令として中国兵の降伏を拒否し、殺害するよう伝えられた[282]
  • 佐々木到一(第16師団の歩兵第30旅団長) 掃討戦記『佐々木到一少将私記』[288]を残す。「城外近郊にあって不逞行為をつづけつつある敗残兵も逐次捕縛。下関において処分せらるもの数千に達す。」
  • 遠藤高明(第13師団山田支隊第65連隊第8中隊少尉)
  • 黒須忠信 (第13師団山田支隊山砲兵第19連隊第3大隊上等兵)
  • 牧原信夫(歩兵第26連隊・上等兵) 笠原十九司『南京事件』で引用
  • 堀越文雄 (第13連隊山田支隊歩兵第65連隊) 中国人女、子供を銃殺。笠原十九司『南京事件』で引用
  • 大寺隆 (第13連隊山田支隊歩兵第65連隊第7中隊) 12月18日、昨夜までの揚子江捕虜殺害は2万。笠原十九司『南京事件』で引用
  • 増田六助 (第16師団歩兵20連隊伍長)難民区掃討。『南京戦史資料集』偕行社。笠原十九司『南京事件』で引用

欧米人の日記・記録[編集]

一方で、在南京ドイツ大使館のシャルフェンベルク事務長は、
 ラーベ氏は委員会代表として、並外れた貢献を果たしたが、私のみるところ、アメリカ人にうまく手なずけられ、アメリカ人の利害、そして信徒獲得に懸命の伝道団に肩入れしすぎている。 (略)第一、暴行事件といっても、すべて中国人から一方的に話を聞いているだけではないか。
と批判していた[291][170]
  • ミニー・ヴォートリン- 南京安全区国際委員会の女性委員であり金陵女子大学内に女性をかくまうなど救援し、日記を残した[292]
  • ロバート・O・ウィルソン- 南京安全区国際委員会委員であり金陵大学付属病院(鼓楼病院)の医師。本人の手紙[293]
  • ジョージ・アシュモア・フィッチ - 南京安全区国際委員会のメンバー。本人の著書「中国での八十年」[294]
  • ジェームズ・H・マッカラム- 南京安全区国際委員会委員。宣教師であり金陵大学付属病院(鼓楼病院)の事務管理総括(医師ではない)[295][296]。マッカラムの1937年12月29日の日記の以下の文章は、日本軍の虐殺否定の証拠として東京裁判[297]に提出された[298]。1937年12月29日「(安全区に入ってきた日本軍は)礼儀正しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。若干のたいへん愉快な日本兵がいました。私は時々日本兵が若干の支那人を助けたり、また遊ぶために、支那人の赤子を抱き上げているのを目撃しました」。なお同日日記に「私たちのことを丁重に扱ってくれる、たいへん気持のよい日本人もいることはいるが、他はおしなべて随分と残酷で、なぐったり、ぶったりするのを見ると恐ろしくなる」とも記載[299]。マッカラムの日記には他にも日本側の食料提供などを好意的に書いた部分もあるが、12月30日、1月7日の日記には「きょう病院に運ばれてきた男性は内臓を貫通されて腸が四フィートもとび出ていた。幸い彼は九死に一生を得た。ボブ・ウィルソン(引用注:ロバート・O・ウィルソン医師のこと)がほぼ半日かけて傷を縫合した。夕食前に日本兵二人が来て、一二歳の少女を黄色のタクシーで連れ去った。」「プライスの庭で、六ヵ月ぐらいの赤ん坊が泣いていた。かたわらで日本兵が母親を強姦している。兵士は赤ん坊の口と鼻を押さえて窒息させてしまった。」という記載もある[300]
  • 国民党監修南京安全区国際委員会の記録集『Documents of the Nanking Safety Zone南京安全地帯の記録)』- 冨澤繁信はこの記録すべてを日本軍兵士の所行とされる根拠はなく、むしろ日本軍兵士の所行とされるべきものは少ないと結論し、しかもこの記録内容を認容しても後年の大虐殺説の間違いを証明すると主張している[301]

中国人の日記[編集]

2015年ユネスコ記憶遺産に登録された程瑞芳の日記について、阿羅健一藤岡信勝はこの日記では強姦8件、略奪6件、拉致1件、殴打1件のみで殺人事件の記録もなく、また目撃証言もないので、「大虐殺」の証拠としては不適当であると述べている[302][269]。また藤岡や阿羅は1938年1月4日にニューヨークタイムスが「中国軍の大佐と6人の将校が金陵女子大学に隠れ、略奪したり、少女を強姦して日本兵がやったように見せかけていた」と報道していると、同日に金陵女学院にいたミニー・ヴォートリンの日記[303]には事件について記載がない、などと批判している[302][269]阿羅健一は「二十万の虐殺があったとしたなら、収容人数の比率からいって金陵女子文理学院では一万人ほどの殺害があってよいはず」だし、「程が挙げた強姦にしても日本軍によるものかどうか。強姦と同数起きたとされた掠奪は食料の鶏やお金といったもので」、「むしろ南京が通常の戦場であることの証拠である」と指摘した[269]。藤岡は、女性であった程瑞芳の日記が筆頭にあげられたのはアンネの日記(2009年登録)を参考にしたためであろうと述べている[302]

公式記録(戦闘詳報)[編集]

戦闘詳報
名称 所属 内容 評価
南京附近戦闘詳報 第16師団歩兵33連隊 捕虜処断3096名[282] 処断=殺害とする解釈と、通常は刑を決めるの意味との説がある
戦闘詳報 第114師団第66連隊第一大隊 「旅団命令ニヨリ捕虜ハ全部殺スベシ」[282] この戦闘詳報は原本が存在しない。『南京戦史』では「隣接部隊等の戦況の進捗状況とチグハグの部分や、軍事的慣例と異なる記述などがあり了承しがたいものがある」、「全文を通じその表現は極めて異様である」と評価されている[304]

書簡史料[編集]

2000年に死後発表された従軍作家火野葦平の手紙には、以下のように記載されている[305]

(1937年12月15日)つないで来た支那の兵隊を、みんなは、はがゆさうに、貴様たちのために戦友がやられた、こんちくしよう、はがいい、とか何とか云ひながら、蹴つたり、ぶつたりする、 誰かが、いきなり銃剣で、つき通した、八人ほど見る間についた。 支那兵は非常にあきらめのよいのには、おどろきます。たたかれても、うんともうん(ママ)とも云ひません。つかれても、何にも叫び声も立てずにたほれます。中隊長が来てくれといふので、そこの藁家に入り、恰度、昼だつたので、飯を食べ、表に出てみると、既に三十二名全部、殺されて、水のたまつた散兵濠の中に落ちこんでゐました。 山崎少尉も、一人切つたとかで、首がとんでゐました。散兵濠の水はまつ赤になつて、ずつと向ふまで、つづいてゐました。僕が、濠の横に行くと、一人の年とつた支那兵が、死にきれずに居ましたが、僕を見て、打つてくれと、眼で胸をさしましたので、僕は、一発、胸を打つと、まもなく死にました。 すると、もう一人、ひきつりながら、赤い水の上に半身を出して動いてゐるのが居るので、一発、背中から打つと、それも、水の中に埋まつて死にました。泣きわめいてゐた少年兵もたほれてゐます

写真史料[編集]

南京事件の写真資料(マギー牧師の写真、国国民党が編纂した『日寇暴行実録』(1938年)、日本人のカメラマン撮影など)は、数多く存在しているが、その信憑性を検証しないままに扱われていた。だが、後述するように1984年の朝日新聞1984年8月4日大阪版夕刊(翌朝全国掲載)「南京大虐殺の証拠写真」の生首写真が間違いであったなど、信憑性のない写真が一部混在していた。

南京事件関連の写真を検証してきた松尾一郎 やその研究に参加した東中野修道等は、アイリス・チャンの著作などの南京事件関係の書籍に掲載数多くの「証拠写真」を捏造写真として指摘している[306][307][308]。故意(捏造)であるかは、別として今まで指摘された間違い写真の例は、(故意かは別として)他の関係ない写真が混じっている、南京事件の後の1938年の日本軍の軍装(つまり南京以外の場所のもの)、編集者の誤記など、様々である。

その上で、東中野修道”南京大虐殺の証拠写真はすべて捏造である”と主張している[309]。ただし、東中野修道の写真分析と全て捏造という主張には、行き過ぎがあり、考証・指摘の間違いもある。例えば女性の陰部に異物を入れる残虐行為は中国人しか行わないので偽写真とみなしたが、実は日本兵も同じことを行っていた記録はあり[310]、そもそも外国人でも殺人事件そのものは撮影がほぼ不可能なことを考慮していない、などの疑問点が存在する。

2008年、南京市にある南京大虐殺記念館が南京事件と無関係であると指摘された写真3枚を撤去したとに一部で報道された[311]。しかし、中国側は撤去を否定した[312]

アサヒグラフと『日寇暴行実録』の写真[編集]

「我が兵に援けられて野良仕事より部落へかへる日の丸部落の女子供の群れ」1937年10月14日熊崎玉樹撮影 『アサヒグラフ』1937年11月10日号。
中国国民政府(蒋介石政権)によって1938年の『日寇暴行実録』で日本軍に拉致された中国人女性と解説され転載された。

写真週刊誌『アサヒグラフ』1937(昭和12)年11月10日号に、江蘇省宝山県盛家橋部落の中国人農民の写真に「我が兵(日本軍)に援けられて野良仕事より部落へかへる日の丸部落の女子供の群れ」とキャプションがつけられ掲載された[313]

この写真は翌1938年に中国国民政府軍事委員会政治部『日寇暴行実録』に「日本兵に拉致される中国人女性と説明され無断転載された[313]

この『日寇暴行実録』の写真は、本多勝一が1972年の著書『中国の日本軍』(創樹社)や、1997年11月発行の笠原十九司『南京事件』III章の扉に「日本兵に拉致される江南地方の中国人女性たち」のキャプションで掲載された。

1998年、秦郁彦がこの写真の原版は『アサヒグラフ』昭和12年11月10日号に掲載された「我が兵士(日本軍)に援けられて野良仕事より部落へかへる日の丸部落の女子供の群れ」という写真であることが指摘された[313]。笠原は、中国国民政府軍事委員会政治部が事実と異なるキャプションを付したことに気付かず使用したことにつき、秦郁彦に謝意を表し、撮影者の故熊崎玉樹カメラマン、朝日新聞、読者に詫びた[314]。これを受け岩波書店も謝罪文を掲載して出品を一時停止し、笠原と相談の上で『村瀬守保写真集 私の従軍中国戦線』[315]の日本兵に強姦されたという老婆の写真に差し替えた。

2014年に週刊新潮が、本多勝一が著書『中国の日本軍』に「婦女子を狩り集めて連れて行く日本兵。強姦や輪姦は7歳の幼女から70歳の老婆まで及んだ」とのキャプションとともに掲載していた(上記笠原と同様の)写真の誤用を指摘すると、本多は「『中国の日本軍』の写真説明は、同書の凡例にも明記してあるとおり、<すべて中国側の調査・証言にもとづく>ものです。ただ中国側に問題点があることは、俺が司会を務めた座談会 [316]で、吉田裕さんが次のように指摘しているとおりだと思います。<中国側の対応で問題があるのは写真の使い方ですね。いつ、だれが、どこで撮ったかという根拠を確認しないままに、政治的なキャンペーンの中で勝手に写真を使っている。日本の市民運動側もそれを無批判に受け入れてしまうような一面があって、それを反動派につけこまれている>。『アサヒグラフ』に別のキャプションで掲載されているとの指摘は、俺の記憶では初めてです。確かに誤用のようです」と、文書で回答を寄せた[317]

朝日新聞の「南京大虐殺の証拠写真」[編集]

朝日新聞1984年8月4日大阪版夕刊(翌朝全国掲載)が「南京大虐殺の証拠写真」として生首写真を掲載した。

しかし、この生首写真は、中国軍が馬賊の首を切り落とした写真であることが判明し、記事中で虐殺に関わったとされた歩兵23連隊戦友会「都城二十三連隊会」が朝日新聞に抗議して訴訟になった(1986年1月に和解)[318]

村瀬守保写真集[編集]

の従軍中国戦線』は東中野修道からその信憑性について疑義が出された[319]が、笠原は反論している[320]

映像史料[編集]

ユネスコ記憶遺産登録に関して[編集]

中国が南京事件に関する文書と慰安婦関連資料のユネスコ記憶遺産への登録申請をユネスコへ行ったことに対し、日本政府は登録までに繰返し中国政府に申請を取り下げるよう抗議を行っていた[322]2015年10月9日ユネスコは「Nanjing Massacre (南京虐殺)」に関する文書をユネスコ記憶遺産に登録することを決めた[323]

中国が申請し、登録された資料は、犠牲者数を30万人以上とした南京軍事法廷の判決書の他、日本軍が撮影した写真、アメリカ人牧師が撮影したフィルム、生存者とされる者の証言や外国人の日記など11点であった[324]

  • (1)金陵女子文理学院宿舎管理員・程瑞芳の日記
  • (2)米国人ジョン・マギー牧師の16ミリフィルム
  • (3)南京市民の羅瑾が保存した日本軍撮影の民間人虐殺や女性へのいたずら、強姦の写真16枚
  • (4)呉旋が南京臨時政府参議院宛てに送った日本軍の暴行写真
  • (5)南京軍事法廷における谷寿夫への判決文
  • (6)南京軍事法廷での米国人マイナー・シール・ベイツの証言
  • (7)南京大虐殺の生存者陸李秀英の証言
  • (8)南京臨時政府調査委員会の調査表
  • (9)南京軍事法廷が調査した犯罪の証拠
  • (10)南京大虐殺の案件に対する市民の上申書
  • (11)外国人日記「南京占領-目撃者の記述」

日本政府は中国の申請はユネスコ記憶遺産の政治利用であると抗議した[324]。登録発表後、日本政府は「資料は中国側の一方的な主張に基づいており、真正性や完全性に問題があることは明らかだ。」として抗議した。日本外務省は「中立公平であるべき国際機関として問題であり、極めて遺憾」「政治利用されることがないよう制度改革を求めていく」との外務報道官談話を発表した。また、日本政府は登録された際には世界第二位の拠出率(アメリカは支払いを停止しているため日本が実質一位)のユネスコの分担金を見直すことを示唆していたが、登録を受けて分担金拠出の凍結の検討に入った。日本の自由民主党や民主党や維新の党など与野党も登録を批判した[325][326][327]毎日新聞はユネスコ世界遺産無形文化遺産は、登録審議が公開されるが、記憶遺産は審議も勧告内容も非公開であるため透明化が求められていると報じた[324]。このほか藤岡信勝は登録を決定した現事務局長イリナ・ボコヴァ抗日戦争勝利70周年記念式典にも参加した親中派であり、公正性にも疑問があるとした[302]

関連作品に関する論争[編集]

論争に対する評価[編集]

南京事件論争に対して、各方面の識者から批判がなされている。

  • 心理学者中山治は、「互いに誹謗中傷、揚げ足の取り合いをし、ドロ試合を繰り広げている。事実をしっかり確認するどころの騒ぎではなくなっているのである。こうなったら残念ながら収拾が付かない。」と論評している[330]
  • 政治学者藤原帰一は、論争は「生産的な形を取ることはなかった。論争当事者が自分の判断については疑いを持たず、相手の判断を基本的に信用しないため、自分の偏見を棚に上げて、相手の偏見を暴露するという形でしか、この議論は進みようがなかったからである。(中略)新たな認識を生むというよりは、偏見の補強しか招いていない」と論評している[331]
  • SF作家山本弘は、「捕虜や民間人30万人の殺戮」はなかったが、日本軍は捕虜や便衣兵(ゲリラ)など数万人の虐殺を行ない、間違えられ民間人も含まれていて国際法違反としたうえで、この論争はイデオロギー論争であり、左寄りの論者(30万人虐殺肯定派)は、中国人の犠牲者数を多くしたいために、「南京」「虐殺」の範囲を広くしようとし、右寄りの論者(30万人虐殺批判派)は、中国人の犠牲者数を少なくしたい(なかったことにしたい)ために「南京」「虐殺」の範囲を狭くしている。論争の当事者達は歴史の真実を知りたいのではなく、自分たちの信条を正当化したいだけである、と論評している[332]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 秦は南京の中国軍の兵力10万、5万が戦死、4万が捕虜、3万が殺害(生存捕虜は1万)と推定。台湾公式戦史、上海派遣軍参謀長飯沼守少将日記、上海派遣軍郵便長佐々木元勝の12月15日日記の「俘虜はおよそ四万二千と私は聞かされている」に符合[48]
  2. ^ a b ただし、南京城内から離れた南京行政区の農村部の被害者は、ふつう、南京事件の被害者に加えない。
  3. ^ 会長:加瀬英明、事務局長:藤岡信勝
  4. ^ 南京事件の真実を検証する会の2007年公開質問によれば、「国民政府国際問題研究所監修、Documents of the Nanking Safety Zone,1939年出版,上海」[56]冨澤繁信『原典による南京事件の解明』では「『南京安全区攩案』徐淑希, Documents of the Nanking Safety Zone. Kelly & Walsh, 1939. 重慶 国際問題研究所の援助により編纂」とある。バージニア大学TOKYO WAR CRIMES TRIAL DIGITAL COLLECTIONには原本がオンラインで公開されており、「Documents of the Nanking Safety Zone. Edited by Shuhsi Hsu, PhD, sometime adviser to the Ministry of Foreign Affairs. Prepared under the Auspices of the Council of International Affairs, Chungking." Printed by Kelly Walsh, Limited, Shanghai-Hong Kong-Singapore. 1939."」と説明してある。
  5. ^ 2015年に作家の百田尚樹も同趣旨の発言をしている[68]
  6. ^ 南京安全区とは、南京攻略戦前の11月、アメリカ人宣教師(ジョン・マギーマイナー・シール・ベイツや女性宣教師ミニー・ヴォートリンなど)を中心とする15名ほどによって、戦災に巻き込まれて南京城市から避難できない市民などを救済するために組織された南京安全区国際委員会(別称:南京難民区国際委員会)が、南京城市内にアメリカ大使館に協力を依頼して、設定した地域である。ジョン・ラーベが委員会の委員長となり、南京陥落前に南京安全区への市民の避難を呼びかけた。この安全区は被災民によって南京陥落直後は約20万人(諸説あり)との推測値があり、南京城市内の南京安全区外には住民が少ない状況となった[69]
  7. ^ 「ラーべの感謝状」とは、1937年12月14日に南京安全区国際委員会ジョン・ラーベより日本軍に提出された文書「南京安全区トウ案」第1号文書(Z1)のことである[71]。この文書の冒頭に「貴軍の砲兵部隊が安全区に攻撃を加えなかったことにたいして感謝申し上げるとともに、安全区内に居住する中国人一般市民の保護につき今後の計画をたてるために貴下と接触をもちたいのであります。」とある。
  8. ^ 「便衣隊は交戦者たる資格なきものにして害敵手段を行ふのであるから、明かに交戦法規違反である。その現行犯者は突如危害を我に加ふる賊に擬し、正当防衛として直ちに之を殺害し、又は捕へて之を戦時重罪犯に問ふこと固より妨げない。ただ然しながら、彼等は暗中狙撃を事とし、事終るや闇から闇を伝って逃去る者であるから、その現行犯を捕ふることが甚だ六ヶしく、会々捕へて見た者は犯人よりも嫌疑者であるといふ場合が多い。嫌疑者でも現に銃器弾薬類を携帯して居れば、嫌疑濃厚として之を引致拘禁するに理はあるが、漠然たる嫌疑位で之を行ひ、甚しきは確たる証拠なきに重罪に処するなどは、形勢危殆に直面し激情昂奮の際たるに於て多少は已むなしとして斟酌すべきも、理に於ては穏当でないこと論を俟たない。」[93]
  9. ^ William Edward Hall(1835-94)英国の法律家で旅行家。国際法では中立に関わる研究で知られる。『国際法論』(1880年)の日本語訳あり。
  10. ^ 国際連盟の理事会の第100回議事録は、国際連盟が刊行した公開資料であり「League of Nations, Official Journal 19, No. 2 (1938)」の中に決議文とともに中国側演説や各国の議事内容が詳細に掲載されていた。「ドイツ外交官の見た南京事件」(大月書店)でも2001年にも掲載。</ref>
  11. ^ 日本の前途と歴史教育を考える議員の会の「南京問題小委員会」は、当時の一次資料を元に南京事件を調査した。戸井田は、国立公文図書館のアジア歴史資料センターより、「国際連盟理事会第100回の議事録」を入手して同資料を新たに発見した1次資料として扱った。同資料は日本外務省にも保管してあり、戸井田が資料の縮小写真を提供させた[129]。ただ、同資料は国際連盟が刊行していた公開資料であり「League of Nations, Official Journal 19, No. 2 (1938)」に含まれており、すでに2001年の既刊『ドイツ外交官の見た南京事件』にも日本訳が掲載されていた。
  12. ^ 中国側は、国際連盟規約第16条の「経済制裁」を英仏ソとの会談で日本に対して行うことを提案したものの英仏の反対で実施されず[130]。ただし、この国際連盟規約第16条は、それまではイタリアのエチオピア侵略において発動されたのみであった。ちなみに、1938年9月の国際連盟理事会において、中国の再度の要求によって、加盟国が個別に国際連盟規約第16条の「経済制裁」を日本に対して実施できることを決議した[131]
  13. ^ 当時、戦争に新たに加わった無差別攻撃が空爆であり、スペイン内戦のゲルニカ爆撃が最初であった[133]。1937年の8月からの日本軍機による南京、広東、杭州などへの空爆は、無差別爆撃とみなされ、国際連盟は非難決議を同年9月に採択した[134]。その後、日本軍は国民政府の新たな首都の重慶に対して無差別の都市空爆を継続した。そして、1938年9月30日には国際連盟による日本への加盟国の個別実施による経済制裁可能の決定を行ったとき、同じ9月30日に国際連盟総会が「戦時における空爆からの文民の保護」を以下のとおり決議した。1, 一般住民を故意に攻撃することは違法である 2, 空爆の標的は合法的な軍事目標で、しかも空中から確認できるものでなければならない。3, 正統なる軍事的事物に対する攻撃は、その付近の平和的人民が過失によって爆撃を受けないように行わなければならず、化学ないし細菌戦術は国際法に違反する[135][136]
  14. ^ アリソンは日本の海軍機関学校の英語教員の経験があり、後に駐日アメリカ合衆国大使サンフランシスコ講和条約草案作成を行い、アイゼンハワーの対日政策にも影響を与えた[160]。アリソンの記録では、まず(1)武装した日本兵たちが安全区の金陵大学農学院作業所に深夜に侵入し、中国人女性1人を連れ去り強姦して返した、(2)女性の強姦された場所は、もともとアメリカ人のカソリック司祭が住んでいた家屋であり日本兵が占拠していた、(3)強姦事件は日本大使館に報告され、1月26日の午後、日本人の憲兵等を伴ってアリソンともうひとりアメリカ人がその日本兵占拠の家を被害者の女性とともに事件の調査のために訪問し、(4)日本人憲兵と女性のみならずアリソンたちもその家に入ろうとしたら、日本兵に押し戻されて侮辱され、殴打された、(5)アリソン達アメリカ人は日本側に乱暴や侮辱的なことをしなかった[161]。これに対して日本軍の公式見解では、「アリソン米国領事がある事件調査のため、日本軍中隊長の制止を振り切って家屋内に侵入しようとした」「アリソン氏が日本軍に恰も検察官的不遜の態度を以て、その領事たるの職分を超越し、事毎に日本軍の非を鳴らすが如き態度に出た」とし、東中野修道はこの日本軍の見解が正しいとした[162]。この他、飯沼守日記では、その家では天野中隊長と日本兵十数名が住み、何人もの女性を拉致しては皆で強姦していたとある[163]
  15. ^ 田中上奏文の作成経緯については王 家楨ソ連、日本軍人の談話など諸説がある[171]
  16. ^ 旅順虐殺事件についてニューヨークワールド紙特派員ジェイムズ・クリールマンが、2000名の中国人の男、女、子供の人肉が切り刻まれ、道路に散らばり、ほとんどの住民は虐殺され尽くされた、とセンセーショナルに報道したが[219][220][221][222]、近年のジャーナリズム史研究では、記事を掲載したニューヨークワールド紙はピューリツァーによって経営されており、ライバルのハーストのニューヨーク・ジャーナル(ニューヨーク・モーニング・ジャーナル)紙と競い合って扇情主義報道を行ってイエロー・ジャーナリズムと呼ばれていたことが明らかになっており[223][224][225][221]、またクリールマン特派員は毒々しい旅順虐殺報道で扇情主義(センセーショナリズム)報道の手法を取得し、4年後の1898年米西戦争でも発揮されたといわれる[221][222]。一方、ニューヨークヘラルド特派員のアメデ・バイロ・ド・ゲルヴィルは、クリールマンの報道するような虐殺は発生していないと報道し[226]、虐殺は捏造であると論じた[227][222]。またベルギー公使アルべ-ル・ダネタンも、虐殺報道は誇張されており、住民は避難しており殺害されたのは軍服を脱いだ中国兵(便衣兵)であり、婦女子は殺されていないとするフランス武官ラブリ子爵の証言を報告している[228]秦郁彦や一之瀬俊也は旅順事件を南京事件と比較している[217][218]
  17. ^ ティンパーリの本が『日軍暴行記実』 (『外人目賭之内日軍暴行』)で、スマイス調査は『南京戦禍写真』であったと田辺はいう。
  18. ^ 新聞報道によれば、当時の日本の報道官は「1,500人の中国兵が難民区に保護を求め、そこで武器が発見された」と語っている。"Japan Seizes Control Of International Relief Body" The Deseret News, January 21, 1938. 同旨The New York Times, January 22, 1938.
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出典[編集]

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  330. ^ 中山治『日本人はなぜ多重人格なのか』、洋泉社、1999年、ISBN 978-4896913712、p142。
  331. ^ 藤原帰一『戦争を記憶する――広島・ホロコーストと現在』、講談社、2001年、ISBN 978-4061495401、p32。
  332. ^ 目からウロコの南京大虐殺論争山本弘

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

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