龍田丸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
龍田丸
Tatuta maru 1.jpg
基本情報
建造所 三菱造船長崎造船所
姉妹船 浅間丸秩父丸(鎌倉丸)
経歴
起工 1927年(昭和2年)12月3日
進水 1929年(昭和4年)4月12日
竣工 1930年(昭和5年)3月15日
就航 1930年(昭和5年)4月25日
最後 1943年(昭和18年)2月8日
要目
総トン数 16,955 トン
載貨重量 8,170 トン
全長 178.0 m
垂線間長 170.68 m
型幅 21.98 m
型深さ 12.98 m
喫水 8.71 m
主機 2サイクル単動空気噴射式ディーゼル機関 三菱スルザー8ST68/100 4基4軸[1][2]
最大出力 20,663馬力
定格出力 4,000馬力×4
最大速力 21.232ノット
航海速力 19.0ノット
旅客定員

計 839名

  • 一等 239名
  • 二等 96名
  • 三等 504名
乗組員 330名
テンプレートを表示
日英交換後、横浜に向け航海中の龍田丸。米潜水艦キングフィッシュが撮影。1942年10月14日

龍田丸(たつたまる)は、日本郵船が保有していた貨客船

龍田丸は隔週で運行されていた北米航路用の船であった。主な寄港地は香港上海神戸横浜ホノルルロサンゼルスおよびサンフランシスコであった。

本船は浅間丸秩父丸と姉妹船で、いずれの船も神社名にちなんだ命名であった。

船歴[編集]

第一次世界大戦後経営危機に陥っていた東洋汽船から、1926年(大正15年)サンフランシスコ航路を継承した日本郵船は同航路の旧型就航船刷新のため、浅間丸級大型定期客船3隻を建造した。龍田丸はその第3船で、第1船の浅間丸と龍田丸は三菱造船長崎造船所で建造された。造船所建造番号は浅間丸がS.450、龍田丸がS.451であった。なお第2船の秩父丸横浜船渠で建造された。龍田丸は1929年(昭和4年)4月12日に進水し、1930年(昭和5年)3月15日に竣工、同年4月25日に横浜からサンフランシスコに向けて処女航海をおこなった。

総トン数16,955トン、全長178mで最大幅は22mで、航海速力は19ノットであった。当時三菱長崎造船所はスイススルザー社と技術提携しており、スルザー型ディーゼル機関搭載、総出力16,000馬力の条件で、8ST90型エンジン2基2軸と、それより小型の8ST68/100型エンジン4基4軸とが比較検討されたが、主機室天井高さが最大2層分低くできる後者が採用された[3]。なお浅間丸ではスルザー社製エンジンを輸入搭載したが、龍田丸では三菱長崎造船所製エンジンが搭載された[1][4]

日米関係悪化[編集]

1941年(昭和16年)7月23日サンフランシスコ沖に到着したが、同日アメリカ政府に伝達された日本軍南部仏印進駐と、それに対する7月26日のアメリカ政府による在米日本資産の凍結通告に関連して、両国政府間交渉による、船体、積荷の没収回避の保証取り付けまで入港を遅らさざるを得ず、7月30日ようやく入港となった。船客下船と揚げ荷を済ませ、日本人引揚客を乗せ8月4日出港し、8月18日横浜に帰着した[5]。龍田丸より1便後の7月18日横浜出港の浅間丸はサンフランシスコへは到達できずに横浜へ戻っている。

8月4日に日本政府は北米線の全船に帰港命令を出した。この関係で本船は十分な準備をおこなわずに出港したため、アメリカから横浜に向かう船内で食中毒が起き、125人が発症し9人が死亡する惨事となった。同船の乗客だった二階堂進(戦後、自民党副総裁)が中毒者の看護に奔走した。当時、作家の宮本百合子がこのニュースについて「龍田丸の中毒事件」というエッセイを「家庭新聞」(8月21日号)に発表している[6]

10月15日、608名の主としてアメリカ人引揚客を乗せ横浜出港し10月23日ホノルル入港、翌24日出港し10月30日サンフランシスコ入港、860名の日本人引揚客を乗せ直ちに出港し、11月14日横浜帰着。この航海では海軍将校3名を船員と偽って乗せ、真珠湾の地形偵察が行われた[7]

12月2日、南米の観光団、英米の外交官、在日商館員、日系人の母国観光団などほぼ満席の船客を乗せ、横浜からロサンゼルスを経由してパナマのバルボアへ向けて出港したが、大圏コースの北太平洋上で日付変更線を越えた2度目の12月7日、日米開戦の報を受けて引き返し、12月15日に横浜に帰港した。この航海は12月8日の真珠湾攻撃をカムフラージュするための航海であった[8]

太平洋戦争[編集]

1942年(昭和17年)1月より海軍に徴用され、南洋諸島ボルネオフィリピン方面の兵員輸送に従事した。

日英外交官交換船運航のため一時海軍徴用が解かれ、1942年(昭和17年)7月30日、454名の船客を乗せ横浜を出港、途中寄港の上海で324名、サイゴンで146名、シンガポールで4名を乗せ、計928名で当時中立国であったポルトガル領東アフリカの交換地ロレンソ・マルケスに8月27日到着した。ここで日本人外交官、民間人877名、タイ人42名の計919名を乗せ9月2日出港、途中シンガポールで日本人571名とタイ人42名下船し、外務省関係者6名が乗船し、9月27日横浜帰着[9]

1943年(昭和18年)2月8日21時45分、龍田丸は兵員輸送任務でトラック島に向け航行中[10]御蔵島東方約70km(北緯34度00分 東経140度00分 / 北緯34.000度 東経140.000度 / 34.000; 140.000)の地点で米軍の潜水艦ターポンの雷撃を受けて沈没した。夜間に加え現場の海域は強風下であったが、ターポンはレーダーで龍田丸を探知して魚雷を発射した[11]。日本側では攻撃を全く察知しておらず、爆発を確認した護衛の駆逐艦山雲が反転して捜索に当たったが、荒天という状況もあって乗組員198名・乗船員1283名全員が死亡した。

脚注[編集]

  1. ^ a b 創業百年の長崎造船所p676 三菱造船株式会社1957
  2. ^ 藤田秀雄他 日本の艦艇・商船の内燃機関技術史(第2次世界大戦まで)-商船用内燃機関編(その5)-日本舶用機関学会誌31巻4号p223 1996
  3. ^ 稲垣長止郎他 浅間丸龍田丸機関部計画及び成績に就て 造船協会会報46号p56-80 1930
  4. ^ 藤田秀雄他 日本の艦艇・商船の内燃機関技術史(第2次世界大戦まで)-商船用内燃機関編(その5)-日本舶用機関学会誌31巻4号p222、223 1996
  5. ^ 郵船OB氷川丸研究会 竹野弘之 氷川丸とその時代p189、190 海文堂出版2008
  6. ^ 龍田丸の中毒事件 青空文庫所収
  7. ^ 郵船OB氷川丸研究会 竹野弘之 氷川丸とその時代p192-195 海文堂出版2008
  8. ^ 郵船OB氷川丸研究会 竹野弘之 氷川丸とその時代p196-198 海文堂出版2008
  9. ^ 郵船OB氷川丸研究会 竹野弘之 氷川丸とその時代p266-270 海文堂出版2008
  10. ^ 『日本郵船戦時船史 上』230ページ
  11. ^ NHK取材班『ドキュメント太平洋戦争1 大日本帝国のアキレス腱』角川書店、1993年

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 船舶技術協会『船の科学』1981年2月号 第34巻第2号
  • 海人社『世界の艦船』2002年1月号 No.591
  • 海人社『世界の艦船 別冊 日本の客船[1] 1868-1945』1991年 ISBN 4-905551-38-2
  • 日本郵船株式会社『七つの海で一世紀 日本郵船創業100周年記念船舶写真集』1985年

外部リンク[編集]