ウォレアイ環礁

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ヤップ州の地図。地図の右下の144度線に近い位置にウォレアイ環礁がある
ウォレアアイ環礁の写真
ウォレアアイ環礁の地図

ウォレアイ環礁(ウォレアイかんしょう、Woleai Atoll、北緯7度22分 東経143度54分 / 北緯7.367度 東経143.900度 / 7.367; 143.900)はカロリン諸島ミクロネシア連邦ヤップ州にある22の小島の一群[1]オレアイ環礁[2]メレヨン環礁とも呼ばれる。東西8km、南北5kmの域内に点在し、各島海抜は1mから3mである[3]。日本軍の呼称はメレヨン島[1]。太平洋戦争序盤から中旬までは日本軍の小規模な基地が置かれていたが、絶対国防圏強化のため1944年(昭和19年)頃より兵力を増強する。だがサイパン島玉砕以後は補給が途絶え、兵員は飢餓に苦しんだ[1][4]。結果的に、日本軍守備隊は飢餓により事実上全滅しており(守備隊約7000名中、約5000名戦病死)、戦わずして玉砕した悲劇の島と言われている[4][5]。 現在の人口はおよそ800名。

歴史[編集]

ウォレアイでは1913年にジョン・マクミラン・ブラウンによって、現地人によって書かれた固有の文字が発見された。

太平洋戦争[編集]

第二次世界大戦中はメレヨン島と呼ばれて日本軍の基地となり、小規模の監視所が設置されていた[6]絶対国防圏の防御力強化、およびマリアナ諸島での戦いに備え[7]1944年(昭和19年)2月29日、第68警備隊・第49防空隊・第4施設部が「新興丸」でメレヨン島に到着、飛行場建設を開始する[6]。3月1日附で第68警備隊・第49防空対は海軍第44警備隊(司令宮田嘉信海軍中佐)に改編される[6]。当時の残留島民120名は南西端のフラリス島に集められ、隔離されていた[8]。連絡には大発動艇を使用し、日本軍にとって貴重な食料を供給することもあった[9][10]

4月7日、メレヨン守備隊は輸送船3隻(松江丸、木津川丸、新玉丸)に分乗し、護衛艦の駆逐艦3隻(水無月夕月、他1隻)と共にサイパン島を出港する[6][11]。だが米潜水艦(シーホース)の雷撃で「新玉丸」沈没、「木津川丸」大破の損害を出して、一旦グアム島へ避退[6][12]。改めてメレヨン島へ向かい、4月12日に到着[13][14]。南洋五支隊(川原健太郎大佐)が合流した。しかし、直後から米軍の激しい爆撃と艦砲射撃に晒されて、折角作った飛行場も殆ど使われず(将兵の転勤等に利用)、食料の殆ど全てを揚陸直後に喪失してしまい、以後の日本軍は終戦まで極度の飢餓に苦しんだ。6月1日附で、南洋五支隊長は川原健太郎大佐(サイパンへ転勤)から北村勝三少将に交代[6][15]。南洋五支隊も独立混成第五十旅団に改称された[15]

輸送船による上陸と補給は、1944年(昭和19年)4月12日の「松江丸」(南洋五支隊上陸、前述)[16]、4月14日の「山陽丸」(海軍第216設営隊978名、第58碇泊場司令部メレヨン支部6名上陸)[17][6]、5月6日の「祥山丸」入港[6]、5月14日の機帆船5隻入港(バタビヤ丸、神島丸等。海軍第59防空隊259名、第44警備隊増援隊上陸)[18][6]、6月4日の「第一日章丸」入港(患者療養班40名上陸)[19][15]、6月4日から6日の機帆船廻航班(神力丸以下10隻。帰路、全滅)[6]、7月15日の病院船「氷川丸」入港にとどまった[20][21]。なお、メレヨン島寄港時に氷川丸は機雷に触れ、小破している[22]

7月中旬にサイパン島の日本軍守備隊が玉砕してサイパン島の戦いは終結、米軍はメレヨン島の日本軍守備隊を放置した[23]。第31軍司令部の機能喪失により、メレヨン守備隊は在トラック第52師団長の指揮下に入った[6]。 以後の補給は単独航行の潜水艦に頼らざるを得なくなり、1944年(昭和19年)10月28日[24]伊号第363潜水艦(糧食75トン・重油5トン揚陸、内地行き便乗者7名収容)[25]、1945年(昭和20年)1月25日[26][27]伊号第371潜水艦[25]、同年2月16日[28][29]伊号第366潜水艦(糧食・燃料補給。工員42名収容、3月3日呉着)[25]、5月7日の伊369(後述)[30][31]にとどまった。 輸送任務に従事する潜水艦も安全とはいえなかった。 内南洋方面離島18ヶ所(自給可能7、成果不十分ながら自活中4、自給極めて困難5、自給策立たず2)には約14万2566名の将兵が展開しており(昭和20年4月14日軍令部調)、昭和20年初頭以降はトラック泊地(約4万4000名)、メレヨン島(約4,500名)、ウェーク島(約4,300名)、南鳥島(約3,200名)の他、補給を行なえなかった[32]。 中部太平洋方面の輸送任務で伊号第365潜水艦(昭和19年11月28日沈没)[33]伊号第362潜水艦(昭和20年1月18日沈没)[34]伊号第371潜水艦[35]が失われた。 特に伊362はメレヨン輸送のため昭和20年1月1日横須賀を出撃、1月18日(メレヨン島到着予定日の3日前)に米軍駆逐艦に撃沈されてメレヨン島に到着できなかった[25][34]。伊371は1月25日にメレヨン島着後、トラック泊地へ回航[25]。1月31日に同地を出発して横須賀に向かったあと、行方不明となった[25][35]。 また沖縄戦本土決戦が視野に入ると輸送用潜水艦も次々に人間魚雷回天の母艦に転用され、中部太平洋諸島の輸送作戦に従事していた第七潜水戦隊は3月20日附で解隊[36]。同日編成の第16潜水隊(伊号第369潜水艦伊号第372潜水艦、波101、波102、波104)で細々と輸送が続けられた[36]

上述のように、補給量は限定的であった。メレヨン島は、島全体が標高の殆どない珊瑚礁であるため農耕には向かず(2m掘ると水が湧き出す)、火薬を用いたによる成果も部隊全体に行き渡る量はなく[37]、食糧生産もはかどらなかった[38]。小魚、ネズミ、ヤドカリトカゲヤシガニは貴重な蛋白源であったという[39][40]。潜水艦による4度の補給はあったものの(前述)、深刻な飢餓が発生し、終戦までに多数の餓死病死者を出している[41]自殺して戦病死扱いになった兵も少なくない[42]。農作物窃盗による処刑や制裁、同士討ちによる死者もあった[43]。 米軍も本島を放置しており、たまにB-24リベーレーター爆撃機の爆撃があるのみで、日本軍の高角砲は体力不足から1発を発射するのがやっとであった[44]

1945年(昭和20年)3月11日夜、ウルシー環礁への特攻作戦丹作戦」で特攻隊(銀河)を誘導した第五航空艦隊(司令長官宇垣纏海軍中将)所属の二式飛行艇1機が着水、修理も燃料補給も出来ず水没処理された[45][46]。宮田海軍守備隊司令は小森宮少尉他11名の搭乗員に対し、内地との連絡が遮断されて1年が過ぎ、暗号も更新されていないと伝えた[47]。基地の兵は「毎日10名が餓死する生き地獄の島」とも紹介している[48]。また北村陸軍少将が搭乗員に賜った黒塗りの箱にはサツマイモが入っていたが、これは同島最大級の褒章であった[49]。飛行艇搭乗員は5月7日(戦史叢書では5月10日)[50]伊号第369潜水艦に救助され、設営隊員50名と共に島を離れた[51][52]。当時のメレヨン島守備隊将校は、梓隊を含めた特別攻撃隊について陣中日誌(1945年3月13日分)に、以下のように記述している。

特攻隊員モ「メレヨン」ノ現況ヲ見テ定メシ驚キタルナラン。腹一杯御馳走ヲ食ベ、二十万円ノ御棺ノ中ニ納マリ、敵空母ヲ冥土ノ手土産ニシ得ル特攻隊員ハまことニ幸福者ナリ。赫々タル大戦果ノ陰ニハ「メレヨン」島将兵ノ如ク、食フニ食無ク、飢エテ黙々トシテ死ニ行ク所謂いわゆる「縁下ノ力持チ」、「無名ノ捨石」、「無縁仏」アルヲ忘ルベカラズ。しかシテ吾人ハ此ノ名モ無キ「縁下ノ捨石」ヲ以テ自カラ任ジ、満足シ、無上ノ光栄トセザルベカラズ。 — 桑江良達、陸軍大尉、メレヨン島 生と死の記録 260-261ページ

復員[編集]

終戦後の昭和20年9月17日、アメリカ軍と病院船「高砂丸」がメレヨン島に到着、武装解除が行われる[53][54][55]。9月20日、「高砂丸」は全生存者を収容して出港する[56][57]。9月25日夕刻別府市(九州大分県)に到着、26日に全員が下船[6][58]。海軍約840名・陸軍786名が復員し、10月17日に残務処理が完了した[6]。 防衛庁戦史室の調査によれば、配備将兵6426名(陸軍3205名、海軍3221名)中、死没者4800名(陸軍2419名、海軍2381名)、生還者1626名(陸軍786名、海軍840名)となっている[59]。厚生省援護局資料によれば、陸軍総員3404名・戦没2533名・転属237名・サイパン後送62名・復員572名・別府入院患者207名[59]。海軍第44警備隊資料では、海軍総員3290名・戦病死2253名・戦死175名・内地後送63名・復員799名[59]

戦後[編集]

1946年(昭和21年)、文部大臣安倍能成は雑誌『世界』2月号において「メレヨン島の悲劇」という記事を発表、メレヨン島生存者の手紙を引用しつつ「同島将校は食糧を独占してほぼ全員復員した」と述べる[38]。現職文部大臣の執筆であるため、反響は極めて大きく復員局法務調査部が調査を開始した[38]。調査の結果、戦況から違反者(食糧統制を乱す行為)に対する処罰はやむを得ず、将校に責任を問う根拠もなく、違法性なしという結論に至った[7]。 同年7月18日、メレヨン島海軍側指揮官宮田嘉信海軍大佐は自決[6]。 安倍大臣は時事新報(昭和21年7月20日附)に『メレヨンの悲劇について』を寄稿、幹部の「兵は唯己一人のみを考へればよかったが、将校には部下があり、任務があって良心的将校は絶えず部下のこと、任務等が念頭を離れなかったことを訴えたい」という主張を引用し、「そういふこともあらう。」と述べている[7]。 最高指揮官北村勝三陸軍少将は遺族への訪問を一年がかりで終え、1947年(昭和22年)8月15日に自決した[60]

終戦後、メレヨン島守備隊関係者は六次にわたるメレヨン島訪問を実施[61]草鹿任一海軍中将を団長とした第二次南方方面遺骨収集派遣団がメレヨン島を訪れた際[62]。島民は水深8mに沈んだ二式大艇を特攻機と説明したが、これは3月12日に水没処理された機体であり、搭乗員は潜水艦で帰還している[63]1966年(昭和41年)5月29日(慰霊碑文面4月10日附)、全国メレヨン会員一同によって福山市(備後護国神社)に慰霊碑が建設された[64][65]1974年(昭和49年)には札幌市、1982年(昭和57年)にはメレヨン島に慰霊碑が建立された[66]

脚注[編集]

  1. ^ a b c #生と死の記録345-347頁『日米両軍に見捨てられたメレヨン島■』
  2. ^ 昭和5、南洋群島島勢調査書コマ79〔第五圖 オレアイ列島〕
  3. ^ #ある軍医日記(メレヨン島紹介文)
  4. ^ a b #飢餓の島1頁『梗概』
  5. ^ #ある軍医日記285頁『編集後記』
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n #飢餓の島(メレヨン守備隊年表)
  7. ^ a b c #生と死の記録347-349頁『軍紀と自活との戦い■』
  8. ^ #生と死の記録(メレヨン諸島兵要地誌図)
  9. ^ #飢餓の島155-158頁『島民給与』
  10. ^ #飢餓の島167-170頁『島民とともに生きて』
  11. ^ #生と死の記録151頁『四月七日』
  12. ^ #飢餓の島47-50頁『平穏だった航海』
  13. ^ #飢餓の島50-52頁『任地、メレヨン島へ』
  14. ^ #生と死の記録(松江丸より撮影されたメレヨン島写真。護衛の若竹とあるは誤記〈同艦は3月30日に沈没〉)
  15. ^ a b c #飢餓の島93-94頁『機帆船が物資輸送』
  16. ^ #飢餓の島3頁『4・12朝メレヨン島に到着』
  17. ^ #飢餓の島3頁『4・14山陽丸入港、船舶隊上陸』
  18. ^ #飢餓の島4頁『5.14伊藤参謀着任 輸送船団(機械船5隻)入港』
  19. ^ #飢餓の島4頁『6.4輸送船第一日章丸入港』
  20. ^ #飢餓の島5頁『7.15病院船川丸入港』
  21. ^ 氷川丸とその時代243頁(氷川丸第19次航海、7月1日横須賀発、パラオ~トラック~メレヨン~ダバオ~8月1日横須賀着)
  22. ^ 氷川丸とその時代244頁『メレヨン島ルオット水道での触雷』
  23. ^ #飢餓の島109-113頁『サイパン島の陥落』
  24. ^ #ある軍医日記72-73頁『十月二十八日』
  25. ^ a b c d e f 戦史叢書98巻380-382頁『第七潜水部隊の輸送作戦』
  26. ^ #ある軍医日記124-125頁『一月二十五日/一月二十六日』
  27. ^ #生と死の記録242頁『一月二十五日』
  28. ^ #ある軍医日記137-138頁『二月十六日』
  29. ^ #生と死の記録249-250頁『二月十六日』
  30. ^ #飢餓の島5頁『5.7潜水艦入港(食糧補給)』
  31. ^ #生と死の記録287頁『五月七日/五月八日』
  32. ^ 戦史叢書98巻435頁『内南洋方面離島状況調査要旨(二〇.四.一四調)軍令部』
  33. ^ 戦史叢書98巻486頁『伊365』
  34. ^ a b 戦史叢書98巻487頁『伊362』
  35. ^ a b 戦史叢書98巻487頁『伊371』
  36. ^ a b 戦史叢書98巻434-435頁『輸送潜水艦の作戦/編制の推移』
  37. ^ #二式大艇空戦記309頁
  38. ^ a b c #生と死の記録344-345頁
  39. ^ #二式大艇空戦記303頁
  40. ^ #飢餓の島118-121頁『ねずみを食って煙草を吸う』
  41. ^ #飢餓の島『メレヨン島上陸以来給養定糧及死亡状況表(独混50旅)』
  42. ^ #二式大艇空戦記308頁
  43. ^ #飢餓の島122-124頁『帰還、輸送船入港?』
  44. ^ #二式大艇空戦記306頁
  45. ^ #ある軍医日記150-151頁『三月十一日/三月十二日』
  46. ^ #飢餓の島179-180頁『特攻誘導機不時着』
  47. ^ #二式大艇空戦記285頁
  48. ^ #二式大艇空戦記291頁
  49. ^ #二式大艇空戦記297頁
  50. ^ 戦史叢書98巻436頁『伊三百六十九、伊三百七十二潜』
  51. ^ #二式大艇空戦記326頁
  52. ^ #ある軍医日記184-186頁『五月七日』
  53. ^ #ある軍医日記275-276頁『九月十七日』
  54. ^ #飢餓の島5頁『9.17米駆逐艦入港 メレヨン島武装解除 病院船高砂丸入港』
  55. ^ #飢餓の島216-219頁『終戦』
  56. ^ #ある軍医日記277頁『九月二十日』
  57. ^ #飢餓の島5頁『9.20メレヨン島出発(帰還の途につく)』
  58. ^ #ある軍医日記282-283頁『九月二十六日』
  59. ^ a b c #飢餓の島(メレヨン部隊戦死没者及生還者状況表)
  60. ^ #飢餓の島『少将の償い(一)(二)(三)(四)』
  61. ^ #飢餓の島『メレヨン訪島記録表』
  62. ^ #二式大艇空戦記294頁
  63. ^ #二式大艇空戦記295頁
  64. ^ #生と死の記録349-350頁(「鎮魂」の碑成る■)
  65. ^ #飢餓の島(福山護国神社慰霊碑写真)
  66. ^ #飢餓の島『メレヨン島守備部隊年表序文』

参考文献[編集]

  • 朝日新聞社編 『メレヨン島 生と死の記録』 朝日新聞社、1966年8月。
  • 大浦庸生 『飢餓の島メレヨンからの生還』 新風書房、1993年3月。ISBN 4-88269-211-2
  • 中野嘉一 『メレヨン島・ある軍医の日記』 宝文舘出版、1995年8月。ISBN 4-8320-1451-X
  • 長嶺五郎 『二式大艇空戦記 海軍八〇一空搭乗員の死闘』 光人社NF文庫、1998年11月。ISBN 978-4-7698-2215-4
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 潜水艦史』第98巻、朝雲新聞社、1979年6月。
  • 郵船OB氷川丸研究会 『氷川丸とその時代』 海文堂出版株式会社、2008年2月。ISBN 978-4-303-63445-2

関連項目[編集]

外部リンク[編集]