氷川丸

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氷川丸
Hikawa-maruYokohama.jpg
横浜市の山下公園で保存されている氷川丸
基本情報
船種 貨客船
船籍 日本の旗 日本
運用者 日本郵船
建造所 横浜船渠
経歴
進水 1929年9月30日
竣工 1930年4月25日
就航 1930年5月13日
除籍 1960年12月21日
現況 山下公園に係留
要目
総トン数 11,622トン[1]
載貨重量 10,436トン
全長 163.3m
垂線間長 155.45m[1]
型幅 20.12m[1]
喫水 9.2m
主機関 B&W社製 ダブルアクティング4ストローク8気筒ディーゼルエンジン2機2軸
出力 11,000hp (5,500hp×2)
最大速力 18.21ノット[1]
航海速力 15.0ノット
旅客定員 一等船客: 76名
二等船客: 69名
三等船客: 186名
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現係留地の夜景
病院船時代の氷川丸

氷川丸(ひかわまる)は、日本郵船1930年昭和5年)に竣工させた日本の12,000t貨客船。北太平洋航路で長らく運航された。2016年時点では、横浜市博物館船として公開されている。国の重要文化財(歴史資料)に指定されている[2][3]

概要[編集]

「氷川丸」は、横浜船渠(現三菱重工業横浜製作所)で建造された1万トン級貨客船であり、太平洋戦争では病院船として運用された。戦後は1960年(昭和35年)まで北太平洋航路で運航を続けた。

運航終了後は横浜市の山下公園前(横浜港)に係留されている。戦前より唯一現存する日本の貨客船であり、船内のインテリアなども含めて貴重な産業遺産であるため、2003年平成15年)には横浜市の有形文化財の指定を受け、2016年8月に国の重要文化財(歴史資料)に指定された。

船名[編集]

本船(氷川丸)の船名は、大宮氷川神社に由来する[4]ブリッジ神棚には氷川神社の祭神が勧請され、保存船となった後も氷川神社を祀っている[4]。姉妹船には2隻(日枝丸平安丸)があり、「日枝丸」は東京千代田区日枝神社を、「平安丸」は平安神宮を祀った[4]。なお本級3隻は頭文字『』で統一されている[4]

船歴[編集]

建造経緯[編集]

日本郵船は昭和初期、北太平洋で展開されたアメリカカナダとの貨客船就航(路線)競争の一環として、明治末期から大正初期に建造された天洋丸級をはじめとする老朽船に代わる、新型貨客船を必要としていた。

北米サンフランシスコ航路を強化するため、日本郵船は浅間丸型貨客船3隻(浅間丸《1929年9月15日》、龍田丸《1930年3月15日竣工》、秩父丸《1930年3月10日竣工。後に改名し鎌倉丸》)を発注した[5]。 続いて日本郵船は1927年(昭和2年)には欧州航路2隻、南米航路1隻、北米シアトル航路用3隻を建造することになり、「秩父丸」を建造中の横浜船渠は北米シアトル航路用2隻を受注した[5]。これが本船(氷川丸)と「日枝丸」である[5]。「平安丸」は大阪鉄工所に発注された[4]

本船の横浜船渠建造番号は「S177」[1]。 太平洋(外洋)での航海に堪えるため、外板の厚さは15mm、船窓も丸窓を採用した[6]。 船級はロイド船級協会最高クラスを取得している[6]

主機関は、「秩父丸」と同様にデンマークのバーマイスター&ウェイン(B&W社。現在はドイツのMAN社と合併)製複動式ディーゼル機関2基搭載2軸推進とした[6]。主発電機にはB&W社設計のライセンスによる池貝鉄工所製450馬力4サイクル ディーゼル機関駆動の直流225V 出力325kW 3台を搭載し[7]、ウインドラスやウインチ、各種ポンプ類の動力に直流電動機を用いて騒音振動を軽減した[8]

竣工時の一等客室は76名(貴賓用特別室を含む)、二等69名、3等138名、合計283名[9]。翌年には三等客室を48人増やして計331名となった[9]。船内各部の装飾は、諸外国・日本国内の建築家やインテリア・デザイナー間でコンペティションを行った結果[10]、フランスのマーク・シモン社が担当することになった[9]

1933年からの発効が既に決定されていた海上人命安全のための国際条約SOLAS)の基準を先取りした水密区画構造を採用、アール・デコArt Déco)様式のインテリア、オーシャンライナーという船型、そして日本郵船の擁する一流シェフによる料理などのサービス提供など、構造、サービスとも当時の先端をいく良質な船として建造された。

「氷川丸」は1928年(昭和3年)11月9日に起工、1929年(昭和4年)9月30日に進水、1930年(昭和5年)4月25日に竣工した[6]

就役[編集]

1930年(昭和5年)5月9日、「氷川丸」は横浜港から神戸へ出港[11]。13日に神戸港出港後、14日四日市、15日清水、16日横浜と航海[11]。5月17日、シアトルへの処女航海に向かった[11]。5月27日、シアトル着[11]排日移民法の締結などアメリカにおける反日感情は強くなっていたが、シアトルでは3万人近い見学者が「氷川丸」を訪れた[11]。6月29日に横浜に帰国、神戸を経由して7月6日に門司に入港した[11]。門司港でも岸壁を整備したばかりであり、「氷川丸」は接岸第1船となった[11]

その後、氷川丸のサービスの良さが評判を呼び、著名人を含む多くの賓客で賑わった。1932年の11次航海ではチャールズ・チャップリンが乗船、1937年の47次航海ではイギリス国王ジョージ6世戴冠式から帰国の途にあった秩父宮夫妻が乗船、1939年の59次航海では宝塚少女歌劇団(現・宝塚歌劇団)の訪米芸術使節団一行がアメリカ公演を終了した後の帰国時に乗船するなど、氷川丸は華々しい活躍を続けた。アメリカ側の発着地であるシアトル市民にとっても、1930年代、日本から定期的にやってくる「ハイカワマル」は馴染み深い存在になっていたという。

1941年(昭和16年)8月、シアトル航路の閉鎖が決定[12]。同年10月、「氷川丸」は日本政府に交換船として徴用され、在日アメリカ・カナダ人を送り届け、在米・在加日本人を乗せて帰国した[12]

特設病院船[編集]

続いて日本海軍徴用され、病院船として使用される[12]。同年12月に横須賀海軍工廠で病院船に改造された[12]国際法により病院船であることを示すため、船体は白色に塗装、緑色の帯を引き、赤十字が描かれ、夜間はイルミネーションのような電飾を実施した[12]。「白鳥」という愛称があった[12]

本船は、1943年(昭和18年)10月3日、インドネシアのスラバヤ港外で機雷の爆発による損傷を艦尾に受けた[13]1944年(昭和19年)7月15日、カロリン諸島メレヨン島付近で磁気機雷2発が爆発、若干の損害を受けた[13]1945年(昭和20年)2月14日、ベトナムのサンジャックからシンガポールへの航海中、船尾附近に触雷、浸水被害を受けるが自力航行は可能だった[13]

姉妹船「日枝丸」(特設潜水母艦、のち特設運送船)と「平安丸」(特設潜水母艦)が戦没する中[14]、本船は終戦の日舞鶴海軍工廠で迎えた[13][注 1]

太平洋戦争以後[編集]

敗戦後、「氷川丸」は帰国者の引き揚げ任務に従事した[15]。続いて国内航路に就役し、輸送任務に従事[15]1953年(昭和28年)、11年ぶりにシアトル航路に復帰した[15]。最終航海は、1960年(昭和35年)8月27日に横浜からシアトルへ出港[15]。10月1日に横浜に戻ると、10月3日に神戸に到着[15]。神戸から横浜に回航され、太平洋横断238回をもって航海を終えた[15]。のべ25,000人余りの乗客を運んだという[15]

解体予定もあったが、市や市民の保存を望む声によって同年12月に「宿泊施設を兼ねた観光船」に転用される[16]。この際、船尾の貨物施設やプロペラシャフトの撤去など、横浜船渠第一号船渠(現在日本丸メモリアルパーク)で大規模な補修が実施された[16][17]1961年(昭和36年)5月、山下公園に係留される[16]。以後の所有は氷川丸マリンタワー株式会社(以下、「氷川丸マリンタワー」と記す)になり、ユースホステル見学施設として運営された。後に船体がエメラルド・グリーンに塗り替えられた。 船内では船上結婚式ビアガーデンライブ、サロン・コンサート、パーティ、年越しカウントダウンなどの催事・イベントが実施された[16]。この間、船体はブルーに塗り替えられていた時期を経て1980年代後半に日本郵船時代の黒い塗装に再度塗り直されている[16]

2003年(平成15年)、「氷川丸」は横浜市指定有形文化財に指定された[18]。 しかし、入場者数の減少のため、氷川丸マリンタワーは2006年(平成18年)10月13日、同年12月25日で氷川丸の運営を終了。船体を日本郵船に譲渡することを発表した[18]。その後、予定通りに運営を終了し、氷川丸マリンタワーは2006年12月31日付で解散した。

2007年(平成19年)8月より船体の部分的な修繕・内装の修復を行っていたが、日本郵船より一般公開を再開する旨が発表される。2008年(平成20年)4月25日、「氷川丸」竣工から78年目にあわせ、「日本郵船氷川丸」の名称で一般公開を開始した[19][20]

毎日正午になると時報代わりに汽笛を鳴らす、この他前述のカウントダウンでは新年を迎える際に氷川丸の汽笛を鳴らすのが慣例になっている。船体の大規模な修繕は1961年より実施されておらず老朽化が進行している[21]

歴史[編集]

  • 1930年昭和5年)4月25日 横浜船渠株式会社(現・三菱重工業横浜製作所)にて竣工。
  • 1930年(昭和5年)5月13日 - 5月27日 処女航海 神戸 - シアトル [注 2]
    • 初代船長の秋吉七郎は「軍艦氷川」と評されるほどの厳格な船内規律を徹底させ、以後氷川丸の伝統となるサービスの基礎を築いた。
  • 1930年(昭和5年) ロンドン軍縮会議批准書を輸送。
  • 1932年(昭和7年) 第11次航海の往路にハリウッド俳優のチャールズ・チャップリンが兄、シドニー・チャップリンと乗船。
  • 1937年(昭和12年) イギリス王室ジョージ6世の戴冠式からの帰国時、秩父宮夫妻が乗船。カナダ・ビクトリア港 - 横浜。
  • 1938年(昭和13年) 東京オリンピック誘致のため、カイロIOC会議に出席した嘉納治五郎が帰国時、シアトルより乗船。肺炎により船内で亡くなる。
  • 1939年(昭和14年)6月20日 第59次航海の復路に宝塚少女歌劇団(現・宝塚歌劇団)の訪米芸術使節団一行がアメリカ公演からの帰朝時にシアトルから乗船。シアトル - バンクーバー - 横浜 - 神戸。
  • 1941年(昭和16年)8月 国際情勢によりシアトル航路閉鎖。
  • 1941年(昭和16年) 日本政府に交換船として徴用され、在日アメリカ・カナダ人を送り届け、在米・在加日本人を乗せて帰国。
  • 1941年(昭和16年)11月 日本海軍に徴用され、病院船として南太平洋海域にて活動。戦時中の様子は1943年(昭和18年)に制作された戦記映画『海軍病院船』(日本映画社制作・53分)で確認可能。
  • 1945年(昭和20年) 第二次世界大戦終了後、復員輸送に従事。
  • 1947年(昭和22年) 北海道航路に就航 横浜 - 室蘭 - 大阪
  • 1949年(昭和24年) 不定期で外国航路に就航。
  • 1950年(昭和25年) 不定期で米国航路に貨物船として就航。
  • 1952年(昭和27年) 欧州定期航路に貨客船として就航。
  • 1953年(昭和28年)7月 横浜 - シアトル航路に定期貨客船として復帰。
  • 1953年(昭和28年) - 1960年(昭和35年) フルブライト交換留学生が利用[注 3]
  • 1959年(昭和34年) 宝塚歌劇団がカナダ・アメリカ公演の渡航に利用。
  • 1960年(昭和35年) 運航終了。日本郵船もシアトル航路から撤退。
  • 1961年(昭和36年) 横浜港開港100周年記念事業として山下公園前に係留、ユースホステルとなる。
  • 1978年(昭和53年) 横浜大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)応援団に銅鑼が寄贈される[注 4]
  • 2000年平成12年)6月15日 係留中の船体から重油が流出。海面約700平方メートルにわたり広がった。
  • 2003年(平成15年)11月 横浜市指定有形文化財の指定を受ける。
  • 2006年(平成18年)10月13日 運営してきた氷川丸マリンタワー株式会社が、営業を同年12月25日で終了すると発表。
  • 2006年(平成18年)12月25日 営業終了、日本郵船へ管理が移管される。
  • 2008年(平成20年)4月25日 リニューアル工事を行った後に一般への公開を再開。
  • 2010年(平成22年)11月12日 - 11月14日 APEC首脳会議開催に伴うテロ対策のため、営業停止。
  • 2012年(平成24年)5月 - リニューアルオープンから入場者100万人に到達[20]
  • 2016年(平成28年)8月17日 同日付けの官報告示により国の重要文化財に指定。指定名称は以下のとおり[22]
  • 氷川丸 1艘 昭和五年、横浜船渠株式会社製 
  • 附 一、航海日誌・諸記録類8点 一、図面類455点

現係留地[編集]

現係留地への交通[編集]

周辺の名所[編集]

関連する作品[編集]

映像作品[編集]

模型[編集]

第二次世界大戦開戦まで、日本郵船バンクーバー代理店には籾山艦船模型製作所製の1/48氷川丸大型模型があった。この模型は、カナダ政府による対日資産凍結により没収され、競売により落札したアメリカ人が所有していたが、遺族がウィスコンチン州海事博物館に寄贈して展示されていた。1995年に存在が明らかになり、日本郵船による返還交渉の末、2013年11月に返還されることが決まり、2014年1月14日に日本郵船歴史博物館に到着。2月18日から一般公開されている[23]

この種の民間船としては数少ないプラモデル化された船である。長谷川製作所(ハセガワ)から、1/700ウォーターラインシリーズ(喫水線より上の船体のみ再現したもの)および1/350スケールのフルハルモデル(喫水線以下の船体も再現されている船舶模型の様式)タイプのプラモデルキットとして、現役貨客船時代と徴用病院船時代の2種類ずつ発売されている。

PV・ジャケット[編集]

ギャラリー[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 当時病院船氷川丸に従事していた船員からの証言によると、太平洋戦争中、病院船として運用されていながら、航行中に米軍潜水艦に追尾され5日ほど監視されていたという。 当時、氷川丸船内には軍用航空燃料が積まれており、万一敵潜水艦から臨検を要請されて航空燃料搭載が発覚すれば病院船としての保護扱いを喪失して拿捕、撃沈される危険性があった。更に、病院船を軍事輸送船として運用することは国際法への違反であり、もしこれが明らかになれば日本の国際的立場がさらに悪化することが十分に有り得た。そのため、船内にはこの事例に対する対策として自沈装置が設けられており、 臨検を受けざるを得なくなった場合に自沈することを指示されていたという。追尾はされながら幸いにも臨検されることはなく、氷川丸は難を逃れた。
  2. ^ 途中四日市清水横浜ビクトリアに寄港した。
  3. ^ 1960年夏、フルブライト留学生としてプリンストン大学へ向かう下村脩が乗船した。(2008年12月30日 朝日新聞)
  4. ^ 名物応援団長だった池杉昭次郎がこれを使った応援を行い、彼が亡くなった1995年(平成7年)まで使用した。この銅鑼は氷川丸に返還された後、1998年(平成10年)に横浜ベイスターズがプロ野球日本選手権シリーズに優勝した際の記念行事として氷川丸船内で一般公開されている。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e #三菱、20話14頁『「氷川丸」の主要目』
  2. ^ 平成28年8月17日文部科学省告示第116号
  3. ^ 文化審議会答申 国宝・重要文化財の指定について(文化庁サイト)
  4. ^ a b c d e #三菱、20話16頁『船名の由来は埼玉県神社』
  5. ^ a b c #三菱、20話14頁『「秩父丸」に続き、2隻の客船を受注』
  6. ^ a b c d #三菱、20話14-16頁『地味でずんぐりの船型』
  7. ^ 徳永勇 シリーズ日本の艦艇商船の電気技術史24 第2章 商船の電気艤装・電気機器 船の科学39巻9号p71 1986
  8. ^ 郵船OB氷川丸研究会 竹野弘之 氷川丸とその時代p54 海文堂出版2008
  9. ^ a b c #三菱、20話16頁『フランス風のモダンな室内』
  10. ^ #三菱、20話17-18頁『室内装飾はフランスへ発注』
  11. ^ a b c d e f g #三菱、20話18頁『各地で歓迎された処女航海』
  12. ^ a b c d e f #三菱、20話18頁『特設病院船となる』
  13. ^ a b c d #三菱、20話18-19頁『"奇跡の幸運船"として生き残る』
  14. ^ #三菱、20話19頁『姉妹船2隻は沈没』
  15. ^ a b c d e f g #三菱、20話19頁『太平洋横断238回の大記録』
  16. ^ a b c d e #三菱、20話19-20頁『イベント船特設病院船となる』
  17. ^ #三菱、20話20頁『図7、入渠中写真』
  18. ^ a b #三菱、20話20頁『横浜市指定有形文化財』
  19. ^ ニュースリリース:「日本郵船氷川丸」リニューアルオープン(2008年1月30日)
  20. ^ a b #三菱、20話20-21頁『今も横浜のシンボルとして』
  21. ^ 氷川丸と日本丸 老朽化進み保存に課題 カナロコ by 神奈川新聞 2015年1月27日(火)10時12分配信
  22. ^ 平成28年8月17日文部科学省告示第116号
  23. ^ 「ニュース・フラッシュ 戦前の「氷川丸」Hikawa Maru大型模型アメリカから返還」『世界の艦船』第795集(2014年4月号) 海人社

参考文献[編集]

  • 三神國隆 『海軍病院船はなぜ沈められたか 第二氷川丸の航跡』 光人社NF文庫、2005年1月(原著2001年)。ISBN 4-7698-2443-2
  • 三菱重工業株式会社横浜製作所 「第3話 貨客船「氷川丸」」『20話でつづる名船の生涯』 三菱重工業株式会社横浜製作所総務勤労課、2013年8月。

関連項目[編集]

  • オプテンノール (船) - オランダの病院船で、日本軍が拘束・接収後、「天応丸」と改名。続いて本船にちなんで「第二氷川丸」と改称。
  • 日昌丸 - 本船以外で唯一残存した大型外航貨客船。

外部リンク[編集]